April 11, 2007

ロバート・キャパ最期の土地、近況

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photo by Robert Capa 1954年5月25日  「ロバートキャパ最期の日」より転載 
この写真は、キャパが最後に撮った写真だ。カメラはNIKON S 35mm コダクロームⅠ キャパはこの写真を撮った直後、前方の土手を駆け上がったあたりで地雷を踏んだ。この写真はよく見ると不思議な写真だ。それはアングルだ。地平線から判断して、人間の目の位置ではないことがわかる。何かの上に乗って撮っている。僕は、「ロバート・キャパ最期の日」では、キャパが戦車の上から撮っていると推察している。

Capalastshot1
photo by Robert Capa 1954年5月  「ロバートキャパ最期の日」より転載
キャパが撮った、最後のモノクロとカラー写真の比較  カラー写真が最後にキャパが撮った写真だ。兵士の動きを精査すると、モノクロを撮った10数秒後にカラーを撮っている。モノクロはコンタックスⅡ、レンズは50mmだ。

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2004年5月25日 Photo by Alao Yokogi キャパが最後に撮った場所とほぼ同じ位置からの撮影。
このあたりで唯一ここだけが、水田のままだった。このときすでに、ここが工場予定地だと、キエンスオン町の町長は言っていた。

Ohnuma
2005年12月 基礎工事が始まった Photo by Ohnuma

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2006年9月10日 そして韓国の靴工場になってしまった。 photo by Hawaian

●ベトナムハノイに住む、中村さんが、ロバート・キャパが最後の写真を撮った土地、直後地雷を踏んで死んだ土地の最新フォト(2007年3月)を送ってくれた。

キャパの最後の土地について
●1954年(昭和29年9ロバート・キャパは日本を訪れた後、ライフ誌の要請でベトナムに飛んだ。そして1954年5月25日、ハノイ南東70キロ、紅河デルタの町、ナムディンからタイビンに向かう、堤防で地雷を踏んで死んだ。
僕は、1998年、「サイゴンの昼下がり」を書くため、キャパの公式伝記である、リチャードウイーランの伝記を読みながら、キャパの最期の土地をとずれた。ところが、伝記に書いてある場所にいっても、いくら探し回ってもそんな場所は見つからなかった。しかたがなく、きちんと調べてからもう一度訪れようと、決意した。
そして、キャパが死んでから50年目の春に、ふたたび訪れた。
そのときには克明に下調べをして望んだ。それでもなかなか見つからなかったが、ようやく見つけた。
その後、ハノイのベトナム写真家協会や、多くの友人とともに、50年目である2004年5月25日、現地で慰霊祭もやった。
考えてみれば、その土地は、その周辺のその場所だけが、50年間あたかも、僕を待っていたかのように、水田のままに残っていた。
その場所の発見のプロセスは、拙著「ロバート・キャパ最期の日」に書いた。さらに宿命を感じたのは、それから一年半で、その場所は、韓国の靴工場になってしまった。キャパの死後50年間もそのままだった土地が、あたかも、僕の取材を待っていたかのようでもあった。今は、下の写真のように、キャパが最後に撮った位置からは写真は撮れない。僕は本当にラッキーだったと思う。
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2007年3月13日 photo Masami Nakamura
キャパが最後に撮った場所から、右に10数メートルの位置からの、撮影。もうこのカーブの曲がり具合しか写らない。
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photo by Masami Nakamura 2007 3 13
僕の撮影した、2004年に撮った写真に写っている、青々とした水田のさきにある建物を、道路横からの撮影。

以下アーカイバルブログから
★ロバート・キャパ最期の日 INDEX

●1954年ロバート・キャパは、仏領インドシナ、ハノイ南東(現ベトナム)、紅河デルタの街ナムディンから、紅河を越えた、タイビンで地雷を踏んで死んだ。
正確にはタイビンの街からさらに東にある、タンネ村(現在のキエン・スオン町)の入り口、道路が左に曲がったあたりの土手で吹き飛ばされた。
リチャード・ウイーランが書いた、ロバート・キャパの伝記(沢木耕太郎訳)にはキャパの死の場所が克明に記されている。その場所について土台となったのは、その日の掃討作戦にキャパの同行取材したライフ誌の記者ジョン・メクリンの記事からの引用だ。
僕は1998年、リチャードウイーランの伝記を読みながら、時代こそ違うが、一ノ瀬泰造、澤田教一と同じようにインドシナ半島で死んだ、ロバート・キャパの最期の土地に興味があった。だからキャパ最期の地に行き、花を手向けようぐらいの気楽な気持だった。
ところが伝記にあるドアイタン、タンネという場所の名をナムディンやタイビンの人たちは全く知らなかった。ネライをつけた場所の周辺をタクシーで走り回ったが、まるで狐につままれたように当てが無い。しかたがなくキャパが最期に撮った写真、それはモノクロとカラー写真なのだが、その写真の風景に似た場所を探し回った。そのときは、似たような場所を撮影したが、確信はなかった。再度、きっちりした調べをして
キャパが死んだ1954年から50年たった2004年までには、見つけようと思った。

●そしていつのまにか、数年たった2003年の年末、翌年がキャパ没50年になったとき、僕は大慌てでキャパの死の場所を再発見する算段を始めた。もちろんそれまでに、資料は集めていたので、頭のなかではかなり整理できていた。そして翌年、2004年春、僕は満を持してハノイに行った。
簡単には見つからなかったが、ようやく、キャパ最期の土地を特定した。その記録が、「ロバート・キャパ最期の日」だ。
キャパ最期の土地、キャパが最期に撮影したその場所は、市街地化してしまったその場所だけが、奇跡的に残っていた。まるで、50年間、僕が来るのをキャパは待っているかのようだった。
●この「貴重な場所で、没50年にあたる2004年5月25日、ベトナム写真家協会とキエンスオン町長も交えて、100名ぐらいがあつまり、慰霊祭をした。そのときにキエンスオンの町長にこの場所を遺し、慰霊碑を建てようと申し出た。ところが市長は、ここはすでに工場地区になっているので、残念ながら無理だと言われた。具体的な話は聞けなかったが、2005年の暮、大沼さんというカメラマンが工事中のその場所を写真を送ってくれた。韓国資本の靴工場ができるとのことだった。


●その後、2005年12月、ハノイ在住のハワイアンさんから、現在のその場所を写真を送ってもらった。その土地全体がなくなったわけではないが、もうキャパが最後に撮ったアングルで写真を撮ることはできなくなった。
そう思うと、2004年に僕が撮ったことが奇跡のように思えてきた。
最近のベトナムの変化は、50年を数年で変革しているようだ。
そういえば、1998年に訪れたときと、2004年では、国道やすべてが変わっていて驚いたものだ。ベトナムの90年代後半の発展はすさまじい。それまでの45年間のゆっくりとした時間の流れは、たった2,3年で劇的に変化していた。

以下最新Photo  Photo by Hawian  2006年9月10日撮影
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関連 キャパの土地がなくなる 2005年1月

●関連 ロバート・キャパについてのミステリー
「キャパの最後の写真は、本当にニコンSで撮ったのか、ソレトモコンタックス2だろうか。」
以下重複記事あり。

●キャパの伝記によると、1954年5月25日、ベトナムハノイ南東の町、ナムディンとタイビンの間にある、土手を登ったあたりで、午後3時ごろキャパは地雷を踏んでしまう。(実際は、ナムディンからタイビンの町をすぎ、タンネ、現在のキエンスオン、に向かう途中だ)
ここにひとつ大きな疑問がある。それは、キャパはいったい、どのカメラで最後の写真、ラストショットを撮ったかだ。
荒地を、戦車が先頭になり、兵士たちが散開しながら進んでいる。のんびりとして緊迫した戦場と思えない静かな美しいカラー写真。右手の土手は、左にゆるやかに蛇行している。
伝記によると、キャパはモノクローム、コダックダブルXをコンタックス2に、そしてカラー、コダクロームをニコンSに入れていると記されている。
しかし、同行レポートしたジョンメクリンのライフに掲載された、キャパの最期についての記事には、カメラの種類は書かれていない。単に一台は投げ出され、もう一台のカメラを握り締めていたとしか記されていない。そうすると、どちらのカメラで、最後の写真を撮ったか、どちらにカラーとモノクロフィルムを入れていたかは、あくまで後の想像でしかない。
もしかしたらリチャードウイーランの書いた伝記のソースである、コーネルキャパの思い込みかもしれない。
コンタックス2は現在どこにあるか、不明だがニコンSは、日本にある。
それはキャパの写真を大量にコレクションしている、殆どがニュープリントだと思うが、富士美術館にコーネル・キャパが寄贈したようだ。(もちろんかなり気前のよい対価が支払われた)そのへんの経緯について富士美術館は教えてくれなかったが。
僕は、キャパの本を書いているとき、そのニコンSを見せて欲しいと打診したら、状態が悪いのでと断られた。以前はテレビでもかなり多くの人に見せ、触らせているのにだ。まあ、いろいろ事情があるのだろう。
さて、本題だがキャパが残した写真を見ると、2台のカメラで撮った最後の写真は、僕の制作ノート(↑上の写真で紹介ずみ)の写真を見れば、お分かりになると思うが、画角のせまい、モノクロ写真だ。
ひろびろと写っているのがカラー写真であり、戦車や兵士の動きから判断すると、カラーのほうが後に撮られていることがわかる。
結果、モノクロは50mmの標準レンズ、カラーは35mmのワイドレンズで撮られていることもわかる。
伝記では、カラーはニコンSとあるので、モノクロがコンタックスだ。
ところがここに大きな疑問点が存在する。
それは、現在富士美術館にあるニコンSには、50mm標準レンズがついている事実だ。しかもレンズにはドラマチックに泥までついている。ということは、ニコンSは、キャパが地雷を踏んだときには、50mmレンズがついていたと思うのが本当だろう。すくなくとも、泥で汚れたレンズは、キャパの死んだベトナムの土のはずだ。
実は、問題を複雑にしているのは、ニコンSとコンタックスは、レンズマウンとが共有可能だったことだ。
いってみれば、ニコンとコンタックスのレンズは、マウントが同じなので、共用することも可能ではあった。
しかし、日本で撮られたキャパの写真を見ると、コンタックスには、コンタックスのレンズをつけて撮っている。日本での撮影では、カメラ雑誌のデータによると、キャパはニコンSに35mmレンズをつけていることが多かった。
キャパはニコンとコンタックスのレンズが共用できたとしても、基本的にはそういうことはしてなかったように思える。 ニコンに50mm標準レンズがついていたとなると、伝記に記されていたカメラは矛盾することになる。

●僕は、「ロバート・キャパ最期の日」で、その矛盾を晴らすために、キャパは走りながらニコンのレンズを二コールの35MMから携行していたニッコールの50mmに換えたと書いた。そうでなければ矛盾があるからだ。
それは十分可能性があることも事実だ。なぜなら最期の日に撮ったカラー写真は、ワイドで撮った写真が多いが、標準レンズで撮ったものも混在しているからだ。モノクロの入っていたコンタックスにしても、コンタクトプリントを見ると、50mmと35mmを途中で変えて撮ったりしている。だからキャパが最後のカラー写真を撮ったあと、35mmワイドレンズから50mm標準レンズに付け替えたことは十分ありえる。だからぼくは、そう書いたわけだ。
しかし、ジョン・メクリンがカメラの機種について言及していないとなると、あくまでも伝記の記述は想像でしかないのだろう。
考えて見れば、ニコンSにモノクロ、レンズは50mm標準、コンタックス2に35mmワイド、フィルムはカラーとすればかなりずっとシンプルな構図になるだろう。
キャパのインドシナで撮影したモノクロコンタクトプリントを見ると、同時にレンズ画角の違う二台のカメラで撮ったシーンがある。どうみても二台のカメラでモノクロを撮っている。
裏ずけるように、キャパの撮ったカラーフィルムを見ると、最後の2日間に限られている。ということは、それまでは、ニコンにもコンタックスにもモノクロフィルムが入っていたことになる。
きっと、弟コーネル・キャパは、キャパがずっと使ってきたコンタックスにカラーを入れて、サブに使うとはないとの思い込みがあるのではないだろうか。
キャパは日本で使い始めていたニコンSにかなりなじんでいた。
だから最後の二日間は、どちらのカメラをメインにすることも、可能だったのだろう。
だからニコンSモノクロフィルムを入れていたことは十分に考えられる。
オリジナルの35mmフィルムのフレームを詳しく検証すれば、わかるかもしれない。
伝記作家のリチャードウイーランは、あまり写真については興味がないように思える。最期に持っていたカメラ、最後に撮ったカメラなんてどちらでもよかったのかもしれない。
キャパが最後に撮った写真のアングルが、異様に高く、決して歩きながら撮ることは不可能だということも気がついていない。 僕はキャパ最期の日で、キャパの戦車の上から撮ったのだと、推量した。
写真家の撮ったものは、写真を見ることから事実をつきとめてゆくのが一番正しい。
僕は「ロバート・キャパ最期の日」を書いて思ったことだ。
しかし「キャパ最期の日」は、ただでさえ、構成が複雑になっていたので、伝記を踏襲して書いた。
シンプルに考えれば、最後のカラー写真はコンタックス2で撮られたものだと思っている。
だからフジ美術館にあるニコンSに50mm標準がつき、モノクロ入っていたと本当は思っている。
(その後この推察は翻意している)結論は、以下の文章をに。

Robet Capa Blog By Alao Yokogi

●ぼくの、ブログ、「THE EYE FORGET」 というタイトルは、インドシナで死ぬ直前、日本を滞在し、日本は「写真の天国だ」といい、日本で撮った写真を写真集にしたいと望んだといわれている。その本のタイトルが、「THE EYE FORGET」だ。残念ながら、そのころ日本ではキャパの人気はなく、出版されることはなかった。彼が伝説のカメラマンになるのは、死後、その死をいたみ、親友だった、川添浩史らの尽力によって、すでに絶版になっていた英語版「SLIHGTLY OUT OF FOUCS」を、日本で出版した。そのタイトルが「ちょっとピンぼけ」だ。その本は、現在にいたるまで、綿々と存在し、そういう意味では、ロバート・キャパは、日本で生き、伝説化された。英語圏で「SLIHGTLY OUT OF FOUCS」が、復刻されたのは、21世紀になってからだ。

●キャパ最後のカメラについて、改訂版 赤城耕一氏の本を読んでいて、ふと気がつき、やはりキャパが最後に撮ったカラー写真は、ニコンSで撮ったと確信した。ということは、僕がキャパ最期の日で、推察したとおりだったことになる。キャパは、戦車の上から、ワイドをつけたニコンで撮り、そしてキャパが本当にラストショットとして狙っていた写真を撮るため、35mmから50mm標準へとレンズ交換していることになる。

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「ロバート・キャパ最期の日」東京書籍


アーカイバルから抜粋
●1954年5月25日、キャパ最後の日、キャパが地雷を踏む直前、最後に撮った写真は、いったいどのカメラで撮ったというのだろうか。そのことが、僕のなかで、ずっとひっかかっていた重大問題だった。
キャパが最後に撮った写真はカラー写真だ。そう伝記にかかれている。
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キャパが最後に撮ったカラー写真。カメラはニコンS.レンズは35mmのワイドレンズだ。(ロバート・キャパ最期の日より転載)。この写真を写真家ならば、不思議と感じるはずだ。それはなぜか高いアングルだ。カメラのアングルは地平線を見るとよくわかる。キャパは、荒地のなか、何かの上から撮っている。キャパは戦車の上から、最後の写真、モノクロとカラーを撮っている。その直後、ドアイタンの要塞が爆発した。振り返ったキャパは、そこに理想的な、ラストショット、ルポルタージュ「にがい米」の最後を飾る写真、その光景に遭遇した。キャパは、戦車から飛び降り、ニコンSについた35mmレンズを、走りながら50mmにつけかえた・・・・・
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モノクロは、コンタックスⅡ、レンズは50mm。

●カラー写真はどうみても、ワイドレンズ35mmで撮られている。その直前のモノクロ写真は標準50mmで撮っている。しかし、以前にも書いたが、地雷で吹き飛ばされ、投げ出された、レンズにドロのついたニコンSには、ワイドではなく50mm標準レンズがついている。現在それは、キャパの写真を大量にコレクションした、富士美術館に、コーネルキャパがお礼として寄贈したらしい。
さて、その日、最後の写真、自伝には、ニコンSにはカラーフィルムが入っていたと書いてあり、コダクロームⅠが装填されていたわけだが、なんどでもいうが、それはどうみてもワイドレンズなのである。遺された、富士美術館にあるニコンSと50mmレンズでは矛盾してしまう。
僕は「ロバート・キャパ最期の日」のなかでは、しかたがなく、カラーフィルムを入れたニコンSで、最後の写真を35mmワイドレンズで撮ったあと、土手に上りながら、50mmにレンズ交換したのだと、書いた。
しかし書いた後で、もしかしたらニコンには、50mmF1.4がついていて、実はモノクロフィルム、ダブルエエックスが入っていたんじゃないかと、怪しんでいたし、最近まで実はそう確信していたのだ。
それが、赤城君の本を読んで、もしかしてと、おもい、キャパの最後の日のコンタクトプリントを調べることにした。
それは以前、見せてもらったコンタクトプリントのコピーがマグナム東京にあるからだ。
キャパ最後の日に、撮った写真は、モノクロベタが5まい、5本分だ。
他に、コダクロームⅠで撮られたカラー写真があるが、20カットぐらいしか公開されていない。発表されているカラー写真を含めて検証すると、実はとても興味深いことが分った。
その日、1954年5月25日、朝、コンタックスⅡには、コダクロームが入っていた。ニコンSにはダブルXモノクロだ。ニコンのフォーマットが24x34なので、コンタクトプリントを見ると明白だった。コマとコマの間が、広い。コンタックスは狭い。それは明白に違っていた。
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この写真は、コンタクトプリントを見ると、ニコンSで撮られている。レンズは35mmワイドだ。

あーなんでそんなことを気づかなかっただろう。
そう、そう、もうひとつ疑問点があるが、それはコンタックスⅡとニコンSは、レンズを共用することができるらしい。とうことだ。
しかし、キャパは50mmと35mmそれぞれ、ニコン、コンタックスともに持っていたようだ。それはキャパが写っている写真を見ると、(日本で撮られたものだが)コンタックスは、50mm、35mmとも専用のレンズが装着されている。ということは、キャパはニコン用にも、50mmと35mmを持っていることになる。
そして、最初の3本は、ニコンSにモノクロをいれ、コンタックスⅡはカラーを入れている。
ということはキャパはこのときの、メインカメラはニコンSなのだ。
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↑カウ・カンセ(未完成橋)のたもとが、深くえぐられ、道路は分断されてしまった。ここで隊列は数時間、立ち往生することになる。キャパは司令官に昼食を誘われるが、断り懸命に写真を撮っている。
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2004年4月、キャパの最期の土地の決め手となった、橋。「未完成橋」と今でも呼ばれている。1954年にキャパが撮った写真のなかに、今でも明確残っているものは、この橋だった。そのことで僕は、キャパの最期の場所を発見することができた。
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photo by Masami Nakamura 2007年3月13日

●そして、その後、ドンキトンの要塞の爆破を撮るために、ニコンにカラーを入れている。コンタックスはモノクロを入れた。なぜわざわざカラーとモノクロをニコンとコンタックス、キャパはカメラを入れ替えたのだろうか。
きっとキャパは、コンタックスⅡより、ニコンSを信頼していたのだろう。だから、最後に、ドンキトンの要塞を撮るとき、それはライフのために、カラーで撮ることをメインと考えていたのかもしれない。
これは、僕の想像で、このあたりの心理は「ロバート・キャパ最期の日」に詳しく書いたが、キャパがなぜ、地雷を踏んだかという理由でもある。それは、「幻のラストショット」を撮るために地雷を踏んでしまったという仮説。
今回、わざわざカラーとモノクロを撮るため、カメラをチェンジしていることは、かえって僕は僕の仮説を強固なものにした。やはり、キャパは、いつもと同じように、今までの天才戦争写真家であったように、おあつらい向きの、最高の「絵」が、まさに遭遇する瞬間だったのだ。その写真を撮るために、キャパは、ニコンのワイドレンズをはずし、50mm標準レンズにつけかえ、ドアイタンの要塞爆破の瞬間を撮影しようとして、地雷を踏んでしまった。

この辺は、もっとしっかりと検証しなくてはならない。
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●右上の写真、遠くに見えているのが、ドアイタンの要塞だ。この要塞を爆破する予定になっていた。キャパはこの場所を撮る前から、カラーはニコンSに変えている。コンタックスⅡは、モノクロを入れた。キャパはライフの記者、ジョン・メクリンにこの要塞の爆破の写真を撮ったら、僕のフォトストーリーは完成すると、と言った。
それなのに彼は、爆破をまたずに、先に行くという。しばらくゆくと、ふたたび臼砲で攻撃され、クルマからおりて土手にかくれた。落ち着いたところで、キャパはふたたび先にゆく。メクリンとルーカスはまだ危険だと思い土手にかくれていた。どのくらい時間がたったろう、西の方角に爆発音と黒い煙があがった。ルーカスは叫んだ。「この絵ををキャパは撮りたいっていってたのに」ルーカスは、タイミングを逃したキャパを責めるように叫んだ。
しばらくして、二人はキャパが地雷に吹き飛ばされたと知る。

キャパはなにをしていたか。キャパは、目の目の前に広がる、ライフのための戦争ルポスタージュ「にがい米」のラストショットを撮る寸前だったのだ。それは、反共のアメリカの雑誌、ライフにどうどうと載せることができる、きわめて象徴的な写真だった。西の空にもうもうと上がる煙。まるで敗走するように、そこから逃げす、フランス軍。それはキャパにとってあらたな戦争写真家キャパの誕生だったはずだ。
しかしキャパはその「幻のラストショット」を、撮ることなく地雷を踏んで死んだ。
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下が、キャパが最後に撮ろうとした写真の想像図だ。

ロバート・キャパ最期の日BLOG

ちょっと支離滅裂に、思いつくまま書いたが、キャパについてのこの話は今度きちんとまとめたいと思う。

●GOOGLE MAP ROBERT CAPA LAST LAND PM3:15 25 MAY 1954
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January 11, 2007

キャパの最後のカメラ

キャパの死の直前のカメラは何だったのだろう。The eye forgetを見てください。

http://alao.cocolog-nifty.com/the_eye_forget/2007/01/nikonsx_1d68.html

September 18, 2006

ロバート・キャパ最期の土地が消えた。

★ロバート・キャパ最期の日 INDEX

●1954年ロバート・キャパは、仏領インドシナ、ハノイ南東(現ベトナム)、紅河デルタの街ナムディンから、紅河を越えた、タイビンで地雷を踏んで死んだ。
正確にはタイビンの街からさらに東にある、タンネ村(現在のキエン・スオン町)の入り口、道路が左に曲がったあたりの土手で吹き飛ばされた。
リチャード・ウイーランが書いた、ロバート・キャパの伝記(沢木耕太郎訳)にはキャパの死の場所が克明に記されている。その場所について土台となったのは、その日の掃討作戦にキャパの同行取材したライフ誌の記者ジョン・メクリンの記事からの引用だ。
僕は1998年、リチャードウイーランの伝記を読みながら、そのころはまっていたベトナムで死んだ、キャパ最期の地に行き、花を手向けようぐらいの気楽な気持ちで行った。
ところが伝記にあるドアイタン、タンネという場所の名をナムディンやタイビンの人たちは全く知らなかった。ネライをつけた場所の周辺をタクシーで走り回ったが、まるで狐につままれたように当てが無い。しかたがなくキャパが最期に撮った写真、それはモノクロとカラー写真なのだが、その写真の風景に似た場所を探し回った。
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photo by Robert Capa 1954年5月25日  「ロバートキャパ最期の日」より転載 

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photo by Robert Capa 1954年5月25日  「ロバートキャパ最期の日」より転載
最期のモノクロとカラー写真  カラー写真が最期にキャパが撮った写真だ。この直後キャパは地雷を踏んで吹き飛ばされる。

結局、似た場所はあったが、あまりに紅河に近すぎた。そのときは、それ以上の資料もなくあきらめ、再度訪れる決意をして引き返した。キャパが死んだ1954年から50年たった2004年までには、見つけようと思っていたのだ。

そしていつのまにか、数年たった暮、翌年がキャパ没50年になったとき、僕は大慌てでキャパの死の場所を再発見する算段を始めた。もちろんそれまでに、資料は集めていた。翌年、2004年春、僕は満を持してハノイに行った。
そうしてようやく、キャパ最期の土地を特定した。その記録が、「ロバート・キャパ最期の日」だ。
キャパ最期の土地、キャパが最期に撮影したその場所は、市街地化してしまったその場所だけが、奇跡的に残っていた。まるで、50年間、僕が来るのをキャパは待っているかのようだった。
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2004年5月25日 Photo by Alao Yokogi

その貴重な場所で、没50年にあたる2004年5月25日、ベトナム写真家協会とキエンスオン町長も交えて、100名ぐらいがあつまり、慰霊祭をした。そのときにキエンスオンの町長にこの場所を遺し、慰霊碑を建てようと申し出た。ところが市長は、ここはすでに工場地区になっているので、残念ながら無理だと言われた。具体的な話は聞けなかったが、2005年の暮、大沼さんというカメラマンが工事中のその場所を写真を送ってくれた。韓国資本の靴工場ができるとのことだった。
Ohnuma
2005年12月 Photo by Ohnuma

そして、数日前、ハノイ在住のハワイアンさんから、現在のその場所を写真を送ってもらった。その土地全体がなくなったわけではないが、もうキャパが最後に撮ったアングルで写真を撮ることはできなくなった。
そう思うと、2004年に僕が撮ったことが奇跡のように思えてきた。
最近のベトナムの変化は、50年を数年で変革しているようだ。
そういえば、1998年に訪れたときと、2004年にきた時、国道やすべてが変わっていて驚いたものだ。

以下最新Photo  Photo by Hawian  2006年9月10日撮影
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関連 キャパの土地がなくなる 2005年1月

●関連 ロバート・キャパについてのミステリー
「キャパの最後の写真は、本当にニコンSで撮ったのか、ソレトモコンタックス2だろうか。」


キャパの伝記によると、1954年5月25日、ベトナムハノイ南東の町、ナムディンとタイビンの間にある、土手を登ったあたりで、午後3時ごろキャパは地雷を踏んでしまう。(実際は、ナムディンからタイビンの町をすぎ、タンネ、現在のキエンスオン、に向かう途中だ)
彼の死については、同行取材をしていた、ライフの記者、ジョン・メクリンによって、場所や時間なんどがかなり詳しくレポートされている。それはキャパの死後、ライフの記事にもなっている。
そこでひとつの疑問がある。それは、キャパはいったい、どのカメラで最後の写真、ラストショットを撮ったかだ。
荒地を、戦車が先頭になり、兵士たちが散開しながら進んでいる。のんびりとして緊迫した戦場と思えない静かな美しいカラー写真。右手の土手は、左にゆるやかに蛇行している。
伝記によると、キャパはモノクローム、コダックダブルXをコンタックス2に、そしてカラー、コダクロームをニコンSに入れていると記されている。
しかし、同行レポートしたジョンメクリンのライフに掲載された、キャパの最期についての記事には、カメラの種類は書かれていない。単に一台は投げ出され、もう一台のカメラを握り締めていたとしか記されていない。そうすると、どちらのカメラで、最後の写真を撮ったか、どちらにカラーとモノクロフィルムを入れていたかは、あくまで後の想像でしかない。
もしかしたらリチャードウイーランのソースである、コーネルキャパの思い込みかもしれない。
コンタックス2は現在どこにあるか、不明だがニコンSは、日本にある。
それはキャパの写真を大量にコレクションしている、殆どがニュープリントだと思うが、富士美術館にコーネル・キャパが寄贈したようだ。(もちろんかなり気前のよい対価が支払われた)そのへんの経緯について富士美術館は教えてくれなかったが。
僕は、キャパの本を書いているとき、そのニコンSを見せて欲しいと打診したら、状態が悪いのでと断られた。以前はテレビでもかなり多くの人に見せ、触らせているのにだ。まあ、いろいろ事情があるのだろう。
さて、本題だがキャパが残した写真を見ると、2台のカメラで撮った最後の写真は、僕の制作ノートの写真を見れば、お分かりになると思うが、画角のせまい、モノクロ写真だ。上の写真を見ればわかるだろうか。
ひろびろと写っているのがカラー写真であり、戦車や兵士の動きから判断すると、カラーのほうが後に撮られていることがわかる。
結果、モノクロは50mmの標準レンズ、カラーは35mmのワイドレンズで撮られていることもわかる。
伝記では、カラーはニコンSとあるので、モノクロがコンタックスだ。
ところがここに大きな疑問点が存在する。
それは、現在富士美術館にあるニコンSには、50mm標準レンズがついている事実だ。しかもレンズにはドラマチックに泥までついている。ということは、ニコンSは、キャパが地雷を踏んだときには、50mmレンズがついていたと思うのが本当だろう。すくなくとも、泥で汚れたレンズは、キャパの死んだベトナムの土のはずだ。
実は、問題を複雑にしているのは、ニコンSとコンタックスは、レンズマウンとが共有可能だったことだ。
いってみれば、ニコンとコンタックスのレンズを入れ替えることも可能ではあった。
しかし、日本で撮られたキャパの写真を見ると、コンタックスには、コンタックスのレンズをつけて撮っている。日本での撮影では、カメラ雑誌のデータによると、キャパはニコンSに35mmレンズをつけていることが多かった。
キャパはニコンとコンタックスのレンズが共用できたとしても、基本的にはそういうことはしてなかったように思える。
 ニコンに50mm標準レンズがついていたとなると、伝記に記されていたカメラは矛盾することになる。
僕は、「ロバート・キャパ最期の日」で、その矛盾を晴らすために、キャパは走りながらニコンのレンズを二コールの35MMから携行していたニッコールの50mmに換えたと書いた。そうでなければ矛盾があるからだ。
それは十分可能性があることも事実だ。なぜなら最期の日に撮ったカラー写真は、ワイドで撮った写真が多いが、標準レンズで撮ったものも混在しているからだ。モノクロの入っていたコンタックスにしても、コンタクトプリントを見ると、50mmと35mmを途中で変えて撮ったりしている。だからキャパが最後のカラー写真を撮ったあと、35mmワイドレンズから50mm標準レンズに付け替えたことは十分ありえる。だからぼくは、そう書いたわけだ。
しかし、ジョン・メクリンがカメラの機種について言及していないとなると、あくまでも伝記の記述は想像でしかないといえる。シンプルに考えて見れば、ニコンSにモノクロ、レンズは50mm標準、コンタックス2に35mmワイド、フィルムはカラーとすればかなりずっとシンプルな構図になるだろう。
キャパのインドシナで撮影したモノクロコンタクトプリントを見ると、同時にレンズ画角の違う二台のカメラで撮ったシーンがある。どうみても二台のカメラでモノクロを撮っている。
裏ずけるように、キャパの撮ったカラーフィルムを見ると、最後の2日間に限られている。ということは、それまでは、ニコンにもコンタックスにもモノクロフィルムが入っていたことになる。
きっと、弟コーネル・キャパは、キャパがずっと使ってきたコンタックスにカラーを入れて、サブに使うとはないとの思い込みがあるのではないだろうか。
キャパは日本で使い始めていたニコンSにかなりなじんでいた。
だから最後の二日間は、どちらのカメラをメインにすることも、可能だったのだろう。
だからニコンSモノクロフィルムを入れていたことは十分に考えられる。
オリジナルの35mmフィルムのフレームを詳しく検証すれば、わかるかもしれない。
伝記作家のリチャードウイーランは、あまり写真については興味がないように思える。最期に持っていたカメラ、最後に撮ったカメラなんてどちらでもよかったのかもしれない。
キャパが最後に撮った写真のアングルが、異様に高く、決して歩きながら撮ることは不可能だということも気がついていない。 僕はキャパ最期の日で、キャパの戦車の上から撮ったのだと、推量した。
写真家の撮ったものは、写真を見ることから事実をつきとめてゆくのが一番正しい。
僕は「ロバート・キャパ最期の日」を書いて思ったことだ。
しかしキャパ最期の日は、ただでさえ、構成が複雑になっていたので、伝記を踏襲して書いた。
シンプルに考えれば、最後のカラー写真はコンタックス2で撮られたものだと思っている。
だからフジ美術館にあるニコンSに50mm標準がつき、モノクロ入っていたと本当は思っている。

横木安良夫BLOG「THE EYE FORGET」は、ここをクリックしてください。

THE EYE FORGET というタイトルは、インドシナで死ぬ直前、日本を滞在し、日本は「写真の天国だ」といい、日本で撮った写真を写真集にしたいと望んだといわれている。その本のタイトルが、「THE EYE FORGET」だ。残念ながら、そのころ日本ではキャパの人気はなく、出版されることはなかった。彼が伝説のカメラマンになるのは、死後、その死をいたみ、親友だった、川添浩史らの尽力によって、すでに絶版になっていた英語版「SLIHGTLY OUT OF FOUCS」を、日本で出版した。そのタイトルが「ちょっとピンぼけ」だ。その本は、現在にいたるまで、綿々と存在し、そういう意味では、ロバート・キャパは、日本で生き、伝説化された。英語圏で「SLIHGTLY OUT OF FOUCS」が、復刻されたのは、21世紀になってからだ。

January 04, 2006

ロバート・キャパ最期の土地がなくなる。

ここをクリックしてください。
http://alao.cocolog-nifty.com/the_eye_forget/2006/01/post_6fe2.html

May 19, 2005

ロバート・キャパ最期の日 関連

ロバート・キャパ最期の日 2004年9月東京書籍より発売
1954年4月 ロバート・キャパは、日本にきた。そのとき熱海に立ち寄っている。
熱海では、モンブランというフランス料理屋に朝やってきた。
キャパの伝記を読むと、5月2日に日本をたち(実際は2日)バンコクにゆく。そこで一週間以上足止めをくい、ハノイに行ったと書かれている。実は、キャパはバンコクから、すぐにサイゴン(現在のホーチミン市)に行っている。彼のインドシナのコンタクトプリントを見ると、サイゴン川と、カティナ通り(ドンコイ)が写っている。

February 16, 2005

カラーで撮られた、キャパ写真展開催中

ロバート・キャパ写真展 Capa in Colorが日本橋三越で開催中、THE EYE FORGET BLOGで紹介中

January 12, 2005

ロバート・キャパ写真展2 週刊100人そしてミステリー

「ロバート・キャパ最期の日」のHomePage
lastplacecapa2004
2004年5月25日 ロバート・キャパ没50年 この土地でロバート・キャパは地雷を踏んだ。下の写真のキャパが最後に撮った場所と同じ場所。

年末に、ワンテーマ、マガジン、週刊100人No.082、「ロバート・キャパ」が発売されていた。僕の「ロバート・キャパ最期の日」からの引用もあった。
ところで、気になったところがあり、それはキャパのラストショットについての記述で、ロバート・キャパが地雷を踏む直前のlastcolor">最後の写真、カラー写真が紹介されているが括弧のなかの注釈に(コンタックスで撮影されたモノクロ写真(がラストショット)だとする説もあると書いてある。
しかしそれはもう、1984年の展覧会で、カラーの写真を発表した時点で解決済だ。なぜなら、荒地を散会するように進む兵士の動きを、モノクロ(ダブルX)とカラー(コダクローム)とを比べると明らかに、兵士の動きから、カラーが後に撮られていることは明白だからだ。
それより僕は、キャパの最後のカラー写真が、いったいどのカメラで撮ったのかというほうがミステリーに思える。いちおう「ロバート・キャパ最期の日」では、リチャードウイーランの伝記を尊重して、モノクロはコンタックス2、カラーにニコンSとしていたが、実のところ、もしかしたらそれは間違いではないかと思っているからだ。
最後の瞬間を記事にした、キャパと同行取材したライフの記者、ジョンメクリンの記述には、キャパは地雷に吹き飛ばされたとき、左手にコンタックス2を握りしめ、ニコンSは投げ出されていたとある。死して、カメラを放さなかったというくだりは、ちょっと眉唾ぽいけれど、そんなことより、そこには、それぞれどのカメラに、何のフィルムを入れていたかは書いてない。それがリチャードウイーランの伝記には明確に、コンタックス2にモノクロ、カラーにニコンSとある。その根拠は何なのだろう。いろいろ取材すると、リチャードウイーランは写真に対してあまり造詣は深くない。そういったことに関して、検証できる立場(コーネルからも、さまざまな資料からも調査できる)でありながら、追及はしていない。
なによりもミステリーだと思うのは、現在、東京富士美術館に収蔵されている、ニコンSにはニッコール50mmF1.4がついていることだ。コンタックス2は紛失している。
キャパの最後に撮った写真、カラー写真は明らかにワイドレンズを使用している。当時のニコンとコンタックスは、レンズを共用することも可能だ。しかし、現在残っている、レンズに泥をかぶったニコンSについている50mmF1.4という事実。最後のモノクロの写真は標準レンズで撮っていることは、写真を見ればわかる。
僕は、キャパのインドシナで撮ったすべてのコンタクトプリントを見た。
すると、途中、二台のカメラで、ワイドと標準で、撮っているモノクロのコンタクトがある。一つの状況を違う画角のレンズで撮っている。ニコンとコンタックス両方にモノクロをいれいたわけだ。ごく普通にすることだ。
そしてキャパの最後の日の前日、どちらかのカメラにカラーフィルムを装填したのだろう。
死の当日は、一台にモノクロ(スーパー・ダブルX)、一台にカラー(コダクローム)を入れている。
素直に考えれば、ニコンSにモノクロ、コンタックス2にカラーを装填していたのではないだろうか。

「ロバート・キャパ写真展1」 キャパ・イン・カラーTop Pageへ戻る

January 11, 2005

ロバート・キャパ写真展2005 キャパ・イン・カラーTOP PAGE

ROBERT CAPA EXHIBITION CAPA in COLOR
「ロバート・キャパ写真展 キャパインカラー」
 2月15日(火)→2月20日(日)日本橋三越本店新館7階ギャラリー
380capaincolor
Large Size all photos Robert Capa/Magnum Photos

1935年、画期的なコダックのカラーフィルム、コダクロームが発明され、翌36年スチール用が発売された。ロバート・キャパは、その翌々年の1938年には中国取材で早速そのコダクロームフィルムを使用している。
当時の感度は、ISO(ASA)10ぐらい。しかしその性能は素晴らしかった。後に発売される、エクタクロームと違い
外式という染料で後から色をつけるものだった。耐久性に優れ、50年以上も前に撮ったカラーフィルムだというのに、いまだに美しさが保たれている。内式のカラーフィルムでもロバート・キャパは多くの写真を撮ったが、残念ながらほとんど画像が変色し、消えてしまったという。
コダクロームで撮った1938年の日中戦争の写真は、ライフに発表されたが、残念ながらポジは紛失している。
その後撮られた大量のカラー写真が、2002年にニューヨークマグナムから大量に発見された。
そのキャパの初公開のカラー写真を軸に、今回展覧会が開催される。
内容は、発見された、イギリス、チュニジア、シシリーの戦争中の写真、そしてへミングウエイ親子、死の直前の日本滞在、それに最後の土地、インドシナで撮影したカラー写真が展示される。
他に15点のキャパの代表的なモノクロ写真も展示されるという。
そのほかキャパが撮影中着ていた従軍記者用軍服(?)も展示される予定だ。
当時、カラーフィルムは広告などでは多く使用されていたが、速報性の必要な報道写真(ルポルタージュ写真)では、メディアのカラー対応の遅れなどもあって、あまり発表されていなかった。それでもロバート・キャパは積極的にカラーフィルムを使用している。

コダクローム関しての関連記事

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January 01, 2005

ロバート・キャパ写真展「キャパ・イン・カラー」

capaexcolorIMG_8068
マグナム・フォト東京支社 2005年、年賀状

2005年2月15日から20日まで、日本橋三越にてロバート・キャパの写真展「キャパ・イン・カラー」が開催される。キャパは、当時開発されたカラー写真を積極的に取り入れ撮影している。ブレッソンのようにカラー写真は撮らないということはなかった。キャパはカラー写真の可能性を知っていた。しかしキャパのカラー写真はあまり多く発表されていない。ニュース写真としては速報性がなく、まだ価値を認められなかったのかもしれないし、メディアがまだカラーに対応していなかったのかもしれない。いや、あまり現実的に写りすぎるので、モノクロより芸術性がないと思われていたという考えもある。特にキャパが死んでからは、ルポルタージュカメラマンという面だけではなく、芸術家としてもキャパを評価する上でカラー写真は「キャパのレベル」に達していないと評価されたのかもしれない。キャパの有名なカラー写真は、ベトナムで死ぬ直前に撮った、最後の写真だけだった。今回大量に発見された、未公開のカラー写真を展示するという。とても興味深い。

December 18, 2004

サイゴン、ドンコイ通り

continentalhotelIMG_7950
夜の、ベトナム、ホーチミン市、サイゴン、ドンコイ通り。かつてキャパの時代のカティナ通りだ。今のベトナムは夜ともなると、オートバイで町を意味もなくぐるぐるまわるのが、老若男女の習慣だ。なにしろ昼間の暑さから比べたら夜になると涼しくなる。バイクでクルージングするだけで気持いい。夜更けるとTシャツだと寒いぐらいだ。キャパの時代バイクはこんなに多くなかったろう。サイゴンではシエスタ(昼ね)の習慣が色濃く残っていたろう。今では日中といえでも、昼寝をしているはごくわずかに見える。オフィスは冷房が入り、昼寝の必要もないのだろう。ベトナムの乗り物といえば、シクロ、輪タクだ。自転車の前に座席があるのでながめがいい。残念ながら、ホーチミン市内では規制されずいぶんと少なくなった。地方都市にゆくとかなり走っているが、だんだん消えて行く運命だろう。
シクロは、ハノイと、ホーチミンでは形が違う。サイゴンのシクロのほうがスタイリッシュだ。いつから形がわかれたのかと思ったら、キャパの写真には、すでにハノイとサイゴンの違いが写っていた。そのことも一つの理由となって僕は、キャパがサイゴンにたちよったということがわかったのだ。でも、まさか50年まえのシクロが、現在のシクロと同じ形だということに少し驚いた。

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