50年まえのキャパの写真に、ドンコイ通り(カティナ通り)で撮影した写真があった。ここではキャパの写真を紹介できないが、したのモノクロ写真にそっくりだ。道路の左にシクロがこちらに向かって進み、道路の真ん中で、現在の写真、バイクが走っているあたりに(この写真は午後3時過ぎ)すげ傘をかぶった人夫が道路工事の穴から上半身を出している。光は右の方角から差込み、午前中の撮影だ。遠くにコンチネンタルホテルみえ、右側は大判のポスターが貼られている。今のカラベルホテルのあたりだ。キャパはそのあたりで何枚か撮影している。今もビルは新しくなっているが、エアフランスのオフィスがそのあたりにある。
マジェスティクホテルに、宿帳のようなものは残っていなかった。ただいくたびか改修工事をしているので、いつごろのことだったのかそのうち調べるつもりだ。キャパが撮影した404号室は、ヨーロッパ式の数え方で、日本式に言えば5階だ。現在のマジェスティクホテルは、5階のバーには、屋根があるが、以前はオープン状態だった。昔の写真や、絵を見ると、できた当時のマジェスティクホテルは、アールヌーボーの影響がある。細部に曲線を使い、ただ修復されるたびに、装飾がシンプルになっているようだ。
1925年建設された、サイゴン(現在のホーチミン市)の歴史的なホテル、マジェスティクホテルは、例えば日本人で言えば開高拳や、写真家の沢田教一など多くのジャーナリストや作家が宿泊し、屋上のバーに集った有名なホテルだ。
僕が初めてベトナムを訪れた1994年は改修中で泊まることができなかったが、翌年1995年には念願かなって宿泊した。館内で何度も撮影をしているが、年々、サイゴン川の大型船の往来や(特に深夜)、バイクや車の騒音で、何日も連泊すると、うるさくて眠れない状態が続き、最近は宿泊することがなくなっていた。
ところが、この有名なマジェスティクホテルに、ロバート・キャパも泊まっていたという事実を僕は突き止めた。
1954年4月、キャパは毎日新聞社、カメラ毎日創刊の招待イベントとして日本に滞在していた。日本各地を撮影するといったかなり自由な、そして歓待された旅だった。それは約6週間の充実した撮影旅行の予定だった。
ところが、旅の半ばの4月28日、アメリカのグラフ雑誌ライフより、同じ東洋の戦場、フランス植民地だったベトナムの取材を急遽依頼された。キャパは悩む。しかし結局インドシナ、ベトナムに5月1日旅立つことになる。
キャパはまずバンコクに向かう。この辺のくわしいことは、「ロバート・キャパ最期の日」を読んでもらうとして、僕はそれまでの定説だった、キャパの伝記に書かれている、東京からバンコクに向かい、そこでベトナム入国のビザを取るために1週間以上もバンコクで足止めをくらったと書いてあることにつねづね疑問を感じていた。バンコクから直接ハノイに、ディエンビエンフー陥落の翌日、5月9日にハノイに到着したと書かれているのだ。
たしかにキャパは、バンコクのオリエンタルホテルから母ユリアに手紙を書いている。そこから9日、ハノイに到着して、マグナムに連絡するまでの約10日間、いったいキャパは何をしていたのだろうかという疑問だった。ベトナム北部デルタ地帯や、ディエンビエンフーは戦闘状態だとしても、タイのバンコクからフランス内独立国カンボジア、そしてサイゴンまでならば陸路だって移動可能だ。それなのに一週間以上も、バンコクにキャパが滞在した根拠はなんなのだろうか。日本の滞在中のイベント満載のハードのスケジュールに疲れて、バンコクでのんびりとビザが発行されるのを待っていたとでもいうのだろうか。この一週間を僕はずっと幻のバンコク滞在と位置づけていた。どうかんがえたってミステリーだ。
しかしある日それが氷解した。「ロバート・キャパ最期の日」のゲラ校正をしているとき、インドシナにおける、キャパの約40本のコンタクトプリントを見る機会があったのだ。そしてそこに、一葉の特別なコンタクトプリントをみつけた。それは、絶対にハノイでは撮ることのできない景色、サイゴンを知っている人間だったら容易に発見することができる景色だ。そのコンタクトの約30コマの写真のなかに、あきらかにサイゴン川を高いビルの位置から撮影している写真があったからだ。さらにくわしくみると、ドンコイ通り(カティナ通り)から、遠くにコンチネンタルホテルが写っている写真を発見した。サイゴン川を撮るアングルには、マジェスティクホテルがある。ロバート・キャパは室内でも撮影している。床のタイルは、現在はまったく失われているが、かつてはマジェスティックの床の模様だ。
上の写真は、ロバート・キャパ撮影した、サイゴン川と同じ場所から撮影したもの。キャパは、16カットのサイゴン川の写真を撮っている。現在のスイートルーム404号室のベランダから撮ったもようだ。この部屋には、僕は何度もとまったことがあった。今までキャパが泊まった部屋(ここから写真を撮っているが、この部屋に泊まったかどうかはさだかではない)どちらにしても50年前の5月3日から8日の間の何日間、キャパがこのホテルに泊まったことだろう。いや写真を撮ったことは、紛れもない事実だ。
今は平和な風景だが、かつて岸壁には、軍事物質であふれていた。
この風景を撮る前に、ホテルの室内で4カットの写真、タイプライターを打つ記者を撮っている。床はモザイク模様の石の床だ。かつてマジェスティクの床は、石の床だった。しかし現在は修復され、木になっている。
1925年に完成したこのホテルは、行くたびかの大改修をほどこされている。現在の形は1995年からだ。
1954年(昭和29年)4月13日に日本を訪れた、ロバート・キャパは、さっそく4月16日には、キャンティのオーナーだった川添氏らと、熱海を訪れている。その日は、熱海に着くと雨模様で、合間に撮影をしている。その写真は、カメラ毎日創刊2号、7月号に紹介されている。そこで店のカウンターに座って化粧を直している女性と、奥になにやら料理をしているコックが写っている。タイトルは「コックと奥さん」とあり、夕方レストランでのスナップショットだとキャプションがついている。
そのとき行ったレストランは、スコットといういまでもある洋食屋だ。
キャパは夕食後、雨上がりの熱海の町をあるいた。遊郭があった糸川べりや、射的場、パチンコ屋で写真を撮る。
夜は、熱海伊豆山にあった、洋風の本格的なホテル、熱海ホテルに宿泊している。
翌朝10時、17日、土曜日、熱海ホテルから、モンブランに、外国人が朝食をたべたいとのことの連絡があった。新田道雄は、本格的なフランス料理屋をいとなんでいた。谷崎潤一郎のお気に入りの店だった。妻の君枝は、キャパのことをよく覚えていた。カメラを持った外国人と女性、それに新聞記者が店にやっていたのだ。ビールを飲み、キャパはベーコンエッグとコーヒーが何杯も飲んだ。そんなふうにコーヒーを何杯も日本人は飲まなかった。連れの女性は美しく、君枝はモデルだと思ったという。それにしても朝からビールだ。
その後、カメラ雑誌にその写真がの掲載され、熱海支局の記者に頼んで写真をもらったという。キャパのサインもそえてあった。しばらくその写真は飾ってあったが、フランス料理屋をやめ、ケーキ屋になってから、その写真はどこかに
いってしまった。それが昨年店を拡張したときに、また見つけ店に飾っている。
ご主人は、健在だが今はリタイアしている。奥さんの君枝は元気に店にたっている。
洋菓子屋 MontBlanc モンブラン 熱海市銀座4-8 0557-81-4070
1954年4月17日の朝、キャパは女性と編集者と3人で、モンブランに朝食を食べにやってきた。奥でももくもくとコーヒーを入れている新田道雄。この写真は、モンブランの店内に飾られている。店内は喫茶店にもなっている。
今年9月東京書籍より、「ロバート・キャパ最期の日」が出版された。1998年に初めて、ロバート・キャパ最期の土地を探して、キャパ没50年にあたる、今年ようやくキャパ最期の土地を探し当てた。本はできあがったが、ロバート・キャパの旅は終わったわけではない。ロバート・キャパについてはまだいろいろ書きたいこともある。また、本で詳しくかけなかったことなどのエピソードも紹介したい。
今までのロバート・キャパについては、僕のHomePageのRobertCapaのサイトに紹介してある。そこに紹介したテキストと重複する部分があるかもしれないが、ロバート・キャパについて、エピソードや意見を書いてゆく。
さて、ひとつロバート・キャパ最期の日についてのミステリーを書きたいと思う。
それは、本でも書いたが、キャパは最期の日、二台のカメラを使用していた。
レンジファインダーのカメラニコンSとコンタックス2だ。伝記によると、ニコンにはカラー、コンタックスにモノクロが入っていたことになっている。
キャパの最後に撮った写真は、モノクロとカラーがある。それは、残された写真、右側の堤防がしだいに左に曲がる荒地、そのはるか先には、戦車、そして10名以上の兵士が前進している写真だ。
兵士の動きを克明に検証すると、モノクロよりあとにカラーが撮られていることがわかる。
その写真を見ればカラーはワイドレンズで撮られていることもわかる。
モノクロは標準レンズだ。カラーはニコンに装填されているとすると、ニコンにはワイドレンズがついていたことになる。
ところが、不思議なことに、現在、東京富士美術館に納められている、ニコンSには、標準レンズ50mmf1.4が泥のついたまま存在している。
最後に撮ったカラーがニコンだとすると、キャパはニコンについていた、35mmf2.5を、歩きながら50mmレンズにつけかえたことになる。
それは特別不思議なことではない。現にキャパの最後の日のコンタクトプリントを見ると、レンズ交換をして撮っているカットがある。
ただ、伝記作家リチャードウイーランが、ニコンはカラー、モノクロはコンタックスといっている、根拠はなんだろう。
僕は、「ロバート・キャパ最期の日」では、ウイーランのいう、その説を尊重して、キャパは最後にレンズ交換したと書いた。しかし、伝記作家ウイーランは、あまり写真に詳しいとはいえない。
キャパは、インドシナで多くの写真を、そしてコンタクトプリントを残している。
僕はそれを見る機会があったが、そこには写真家キャパのさまざまなことが写っているのに、ウイーランの伝記にはそのことが反映されていない。
不思議だった。もしかしたら、実は、単純にキャパは、50mmのついたニコンをメインモノクロを装填し、コンタックスにカラーをいれ、35mmのワイドレンズだったという可能性は十分考えられる。
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