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December 2004

December 18, 2004

サイゴン、ドンコイ通り

continentalhotelIMG_7950
夜の、ベトナム、ホーチミン市、サイゴン、ドンコイ通り。かつてキャパの時代のカティナ通りだ。今のベトナムは夜ともなると、オートバイで町を意味もなくぐるぐるまわるのが、老若男女の習慣だ。なにしろ昼間の暑さから比べたら夜になると涼しくなる。バイクでクルージングするだけで気持いい。夜更けるとTシャツだと寒いぐらいだ。キャパの時代バイクはこんなに多くなかったろう。サイゴンではシエスタ(昼ね)の習慣が色濃く残っていたろう。今では日中といえでも、昼寝をしているはごくわずかに見える。オフィスは冷房が入り、昼寝の必要もないのだろう。ベトナムの乗り物といえば、シクロ、輪タクだ。自転車の前に座席があるのでながめがいい。残念ながら、ホーチミン市内では規制されずいぶんと少なくなった。地方都市にゆくとかなり走っているが、だんだん消えて行く運命だろう。
シクロは、ハノイと、ホーチミンでは形が違う。サイゴンのシクロのほうがスタイリッシュだ。いつから形がわかれたのかと思ったら、キャパの写真には、すでにハノイとサイゴンの違いが写っていた。そのことも一つの理由となって僕は、キャパがサイゴンにたちよったということがわかったのだ。でも、まさか50年まえのシクロが、現在のシクロと同じ形だということに少し驚いた。

December 08, 2004

「ロバート・キャパ最期の日」

「ロバート・キャパ最期の日」の内容。
ここにロバート・キャパが最後に撮った写真と、50年後の現在の写真が載ってます。

ロバート・キャパは、写真が下手か!

2004年10月20日 DaybyDayより
週刊朝日の今週号10月29日号に、飯沢耕太郎氏が「ロバート・キャパ最期の日」の書評をしていた。
飯沢耕太郎は写真評論家だ。もちろん以前から知り合いである。彼が、2ページにわたって評しているので興味があった。写真業界の人間が、それも評論家がどういう感想をもつのかこの本のどこの部分に焦点をあてるのか。
多くの点で、写真家をよく知っている飯沢は、的確だった。最期の幻のラストショットの部分、そこは僕の想像だけれど、その僕の確信を理解している。以下飯沢からの引用―――だが、僕にとって何よりも面白かったのは、「ラストショット」を読み解いてゆく横木の視点が、いかにも写真家のそれだということだった。キャパはその写真を戦車の上から撮影したあと、よりよいアングルを求めて土手を駆け上がり、地雷い触れる。その場所こそ、彼がその日撮ろうとしていた、ベストショットを約束してくれるはずの運命のポイントだったのだ。写真家の横木の経験がそれを確信させる。一枚の写真には情報がぎっしりと詰まっている。ただ、解読するコードをもたない限り、それはただの暗号に過ぎない。写真家たちは、彼らにしかわからないそんなコードを共有しているのだろう―――
飯沢は書いた。そのとおりだと思う。たしかに最後の部分は僕の想像である。しかしキャパのコンタクトプリントを1こま1こま見ながら、カメラマンとして想像した、かなり的確な再現だと思っている。カメラのアングル、縦位置、横位置、は、すべてカメラマンが自覚的に決定することだからだ。
ただ僕は、飯沢が冒頭で、―――ロバート・キャパは決してうまい写真家ではない。たとえば先日95歳という長寿を全うしてして亡くなった彼の盟友、アンリ・カルティエ=ブレッソンと比べれば、キャパが写真家として才能に恵まれていたわけではないことがよくわかる。カルティエ=ブレッソンのあの細部まで厳密な構図、絶妙なシャッターチャンスの写真をみれば、キャパの写真はどうにも締りがない―――。と書いてあることには承服できない。ブレッソンのうまさは、美術的なうまさだ。彼は美術の影響が強い。ブレッソンは絵かきになりたかった。ブレッソンには、四角いフレームのなかに構図がある。キャパにはない。それは確かだ。ただキャパに構図がないわけではない。キャパの構図は
カメラのファインダーのなかではなく、肉眼で見える、被写体の配置だ。世界の現実の関係性、その配置にしか興味がない。
僕は、キャパはその場所を探し出す天才だ。その嗅覚は、直感は、いってみればサッカーの天才ストライカーがなぜかいつもよい位置取りをしているのに似ていると思う。キャパはミッドフィルダーではない。どうみてもテクニシャンに見えない。しかしなぜかいつもよい場所にいる。
キャパは写真を美術とは考えていなかった。写真は写真でしかない。現実に目の前に存在するものを記録するだけだ。意味はこちら側ではなく、被写体にあるのだ。だからピカソを撮った写真は、ピカソにあたかも、コントロールされているように撮っている。キャパがへたくそではないと思うのは、その嗅覚だ。写真のうまいへたを、僕の時代だったら、スタジオワーク、カラーのコントロール、ライティングなどなど上手に使えればよかった。しかし今の時代それが何になるだろうか。僕は、キャパのそういうものを排除した(キャパは知らなかったし、興味がなかったのだろう)撮り方に、すごさを感じる。対象との距離感、接し方、美術ではない写真。キャパの写真は写真でしかない。

December 07, 2004

Robert Capaのアングル

キャパの写真を見ていて、いつも感じることだが、そのアングルの低さだ。それはたぶんキャパの写真の多くが、ローライフレックスを使用していて、そのウエストレベルのアングルが基本だからだろう。キャパは子供を撮るときは当然として、少しでも余裕のあるときは、腰のアングルだ。ローライのような二眼レフカメラの、ウエストレベルアングルは自然でも、35mmカメラは通常、アイレベル(立った状態の目の高さ)になる。撮影中のキャパや、残された記事には、キャパがすばやく、片ひざをつくアングルになり、安定した状態で撮影することが多いと書いてある。それは、あたかも、銃を撃つときの、ニーイング、と同じだ。戦場カメラマンであるキャパは、銃を撃つそのスタイルを当然のように受け入れていたのだろうか。それとも戦場では呆然と立って、構えることは危険だから、普段から片膝で構えるのが普通なのだろうか。キャパはたいてい右ひざをついて構える。だからキャパのズボンは右のほうが膝がでていてよれている。キャパの写真がどこか、対象と同じ位置に立っているように見えるのは、キャパのアングルが低いせいだろう。同じスナップの名手ブレッソンは、自分の目の位置、アイレベルから多くの傑作を作り出していた。
カメラのアングルはそれぞれ意味がある。ように見える。35mmカメラを使えばたいてい、アイレベルだからその身長に規定される。背の高いカメラマンと低いカメラマンでは捕らえる世界が違う。車椅子のカメラマン、短躯、普通、長身、巨人。それぞれ捕らえる、世界の関係性が違っている。昔ある著名なカメラマンが、高さ10センチもあるロンドンブーツが流行し、それをはいたとき世界が変わったといった。それほどアングルとは、カメラマンの一つの思想でもあるのだ。政治家だったら見上げるように撮る。そうすると偉い人、信用に足るように写るからだ。女性を可愛く撮るには、上から撮る。女性はカメラを見上げるようになる。目は大きく開き、かわいらしく従順に写る。女性を撮るばあいファッション写真は下から撮ることが多い。女性が世界を支配するよう、フェミニズムな感じがする。子供撮ればわかりやすが、大人からの目、子供の目の位置、子供より低いアングル。そのどれもが同じ子供でも、違って捕らえることができる。
キャパが、低いアングルをいつもえらんでいるのは、きっと無意識ではないのだろう。キャパのコンタクトプリント、それも最後のモノクロの1ロールを見ると、なぜわざわざ低いアングルから撮ったのかの、わからいない写真がある。アイレベルで撮ってもかわらないと思えるのに、きっと何かしらの意図があるのだろう。いや、きっとキャパは通常は、方膝をついた、ウエストレベルのアングルが、ごく普通のアングルなのだろう。何も考えなければ、すぐに片膝ついてとるのかもしれない。

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