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September 18, 2006

ロバート・キャパ最期の土地が消えた。

★ロバート・キャパ最期の日 INDEX

●1954年ロバート・キャパは、仏領インドシナ、ハノイ南東(現ベトナム)、紅河デルタの街ナムディンから、紅河を越えた、タイビンで地雷を踏んで死んだ。
正確にはタイビンの街からさらに東にある、タンネ村(現在のキエン・スオン町)の入り口、道路が左に曲がったあたりの土手で吹き飛ばされた。
リチャード・ウイーランが書いた、ロバート・キャパの伝記(沢木耕太郎訳)にはキャパの死の場所が克明に記されている。その場所について土台となったのは、その日の掃討作戦にキャパの同行取材したライフ誌の記者ジョン・メクリンの記事からの引用だ。
僕は1998年、リチャードウイーランの伝記を読みながら、そのころはまっていたベトナムで死んだ、キャパ最期の地に行き、花を手向けようぐらいの気楽な気持ちで行った。
ところが伝記にあるドアイタン、タンネという場所の名をナムディンやタイビンの人たちは全く知らなかった。ネライをつけた場所の周辺をタクシーで走り回ったが、まるで狐につままれたように当てが無い。しかたがなくキャパが最期に撮った写真、それはモノクロとカラー写真なのだが、その写真の風景に似た場所を探し回った。
Capalastshotcolor1
photo by Robert Capa 1954年5月25日  「ロバートキャパ最期の日」より転載 

Capalastshot1
photo by Robert Capa 1954年5月25日  「ロバートキャパ最期の日」より転載
最期のモノクロとカラー写真  カラー写真が最期にキャパが撮った写真だ。この直後キャパは地雷を踏んで吹き飛ばされる。

結局、似た場所はあったが、あまりに紅河に近すぎた。そのときは、それ以上の資料もなくあきらめ、再度訪れる決意をして引き返した。キャパが死んだ1954年から50年たった2004年までには、見つけようと思っていたのだ。

そしていつのまにか、数年たった暮、翌年がキャパ没50年になったとき、僕は大慌てでキャパの死の場所を再発見する算段を始めた。もちろんそれまでに、資料は集めていた。翌年、2004年春、僕は満を持してハノイに行った。
そうしてようやく、キャパ最期の土地を特定した。その記録が、「ロバート・キャパ最期の日」だ。
キャパ最期の土地、キャパが最期に撮影したその場所は、市街地化してしまったその場所だけが、奇跡的に残っていた。まるで、50年間、僕が来るのをキャパは待っているかのようだった。
Lastplecealao
2004年5月25日 Photo by Alao Yokogi

その貴重な場所で、没50年にあたる2004年5月25日、ベトナム写真家協会とキエンスオン町長も交えて、100名ぐらいがあつまり、慰霊祭をした。そのときにキエンスオンの町長にこの場所を遺し、慰霊碑を建てようと申し出た。ところが市長は、ここはすでに工場地区になっているので、残念ながら無理だと言われた。具体的な話は聞けなかったが、2005年の暮、大沼さんというカメラマンが工事中のその場所を写真を送ってくれた。韓国資本の靴工場ができるとのことだった。
Ohnuma
2005年12月 Photo by Ohnuma

そして、数日前、ハノイ在住のハワイアンさんから、現在のその場所を写真を送ってもらった。その土地全体がなくなったわけではないが、もうキャパが最後に撮ったアングルで写真を撮ることはできなくなった。
そう思うと、2004年に僕が撮ったことが奇跡のように思えてきた。
最近のベトナムの変化は、50年を数年で変革しているようだ。
そういえば、1998年に訪れたときと、2004年にきた時、国道やすべてが変わっていて驚いたものだ。

以下最新Photo  Photo by Hawian  2006年9月10日撮影
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関連 キャパの土地がなくなる 2005年1月

●関連 ロバート・キャパについてのミステリー
「キャパの最後の写真は、本当にニコンSで撮ったのか、ソレトモコンタックス2だろうか。」


キャパの伝記によると、1954年5月25日、ベトナムハノイ南東の町、ナムディンとタイビンの間にある、土手を登ったあたりで、午後3時ごろキャパは地雷を踏んでしまう。(実際は、ナムディンからタイビンの町をすぎ、タンネ、現在のキエンスオン、に向かう途中だ)
彼の死については、同行取材をしていた、ライフの記者、ジョン・メクリンによって、場所や時間なんどがかなり詳しくレポートされている。それはキャパの死後、ライフの記事にもなっている。
そこでひとつの疑問がある。それは、キャパはいったい、どのカメラで最後の写真、ラストショットを撮ったかだ。
荒地を、戦車が先頭になり、兵士たちが散開しながら進んでいる。のんびりとして緊迫した戦場と思えない静かな美しいカラー写真。右手の土手は、左にゆるやかに蛇行している。
伝記によると、キャパはモノクローム、コダックダブルXをコンタックス2に、そしてカラー、コダクロームをニコンSに入れていると記されている。
しかし、同行レポートしたジョンメクリンのライフに掲載された、キャパの最期についての記事には、カメラの種類は書かれていない。単に一台は投げ出され、もう一台のカメラを握り締めていたとしか記されていない。そうすると、どちらのカメラで、最後の写真を撮ったか、どちらにカラーとモノクロフィルムを入れていたかは、あくまで後の想像でしかない。
もしかしたらリチャードウイーランのソースである、コーネルキャパの思い込みかもしれない。
コンタックス2は現在どこにあるか、不明だがニコンSは、日本にある。
それはキャパの写真を大量にコレクションしている、殆どがニュープリントだと思うが、富士美術館にコーネル・キャパが寄贈したようだ。(もちろんかなり気前のよい対価が支払われた)そのへんの経緯について富士美術館は教えてくれなかったが。
僕は、キャパの本を書いているとき、そのニコンSを見せて欲しいと打診したら、状態が悪いのでと断られた。以前はテレビでもかなり多くの人に見せ、触らせているのにだ。まあ、いろいろ事情があるのだろう。
さて、本題だがキャパが残した写真を見ると、2台のカメラで撮った最後の写真は、僕の制作ノートの写真を見れば、お分かりになると思うが、画角のせまい、モノクロ写真だ。上の写真を見ればわかるだろうか。
ひろびろと写っているのがカラー写真であり、戦車や兵士の動きから判断すると、カラーのほうが後に撮られていることがわかる。
結果、モノクロは50mmの標準レンズ、カラーは35mmのワイドレンズで撮られていることもわかる。
伝記では、カラーはニコンSとあるので、モノクロがコンタックスだ。
ところがここに大きな疑問点が存在する。
それは、現在富士美術館にあるニコンSには、50mm標準レンズがついている事実だ。しかもレンズにはドラマチックに泥までついている。ということは、ニコンSは、キャパが地雷を踏んだときには、50mmレンズがついていたと思うのが本当だろう。すくなくとも、泥で汚れたレンズは、キャパの死んだベトナムの土のはずだ。
実は、問題を複雑にしているのは、ニコンSとコンタックスは、レンズマウンとが共有可能だったことだ。
いってみれば、ニコンとコンタックスのレンズを入れ替えることも可能ではあった。
しかし、日本で撮られたキャパの写真を見ると、コンタックスには、コンタックスのレンズをつけて撮っている。日本での撮影では、カメラ雑誌のデータによると、キャパはニコンSに35mmレンズをつけていることが多かった。
キャパはニコンとコンタックスのレンズが共用できたとしても、基本的にはそういうことはしてなかったように思える。
 ニコンに50mm標準レンズがついていたとなると、伝記に記されていたカメラは矛盾することになる。
僕は、「ロバート・キャパ最期の日」で、その矛盾を晴らすために、キャパは走りながらニコンのレンズを二コールの35MMから携行していたニッコールの50mmに換えたと書いた。そうでなければ矛盾があるからだ。
それは十分可能性があることも事実だ。なぜなら最期の日に撮ったカラー写真は、ワイドで撮った写真が多いが、標準レンズで撮ったものも混在しているからだ。モノクロの入っていたコンタックスにしても、コンタクトプリントを見ると、50mmと35mmを途中で変えて撮ったりしている。だからキャパが最後のカラー写真を撮ったあと、35mmワイドレンズから50mm標準レンズに付け替えたことは十分ありえる。だからぼくは、そう書いたわけだ。
しかし、ジョン・メクリンがカメラの機種について言及していないとなると、あくまでも伝記の記述は想像でしかないといえる。シンプルに考えて見れば、ニコンSにモノクロ、レンズは50mm標準、コンタックス2に35mmワイド、フィルムはカラーとすればかなりずっとシンプルな構図になるだろう。
キャパのインドシナで撮影したモノクロコンタクトプリントを見ると、同時にレンズ画角の違う二台のカメラで撮ったシーンがある。どうみても二台のカメラでモノクロを撮っている。
裏ずけるように、キャパの撮ったカラーフィルムを見ると、最後の2日間に限られている。ということは、それまでは、ニコンにもコンタックスにもモノクロフィルムが入っていたことになる。
きっと、弟コーネル・キャパは、キャパがずっと使ってきたコンタックスにカラーを入れて、サブに使うとはないとの思い込みがあるのではないだろうか。
キャパは日本で使い始めていたニコンSにかなりなじんでいた。
だから最後の二日間は、どちらのカメラをメインにすることも、可能だったのだろう。
だからニコンSモノクロフィルムを入れていたことは十分に考えられる。
オリジナルの35mmフィルムのフレームを詳しく検証すれば、わかるかもしれない。
伝記作家のリチャードウイーランは、あまり写真については興味がないように思える。最期に持っていたカメラ、最後に撮ったカメラなんてどちらでもよかったのかもしれない。
キャパが最後に撮った写真のアングルが、異様に高く、決して歩きながら撮ることは不可能だということも気がついていない。 僕はキャパ最期の日で、キャパの戦車の上から撮ったのだと、推量した。
写真家の撮ったものは、写真を見ることから事実をつきとめてゆくのが一番正しい。
僕は「ロバート・キャパ最期の日」を書いて思ったことだ。
しかしキャパ最期の日は、ただでさえ、構成が複雑になっていたので、伝記を踏襲して書いた。
シンプルに考えれば、最後のカラー写真はコンタックス2で撮られたものだと思っている。
だからフジ美術館にあるニコンSに50mm標準がつき、モノクロ入っていたと本当は思っている。

横木安良夫BLOG「THE EYE FORGET」は、ここをクリックしてください。

THE EYE FORGET というタイトルは、インドシナで死ぬ直前、日本を滞在し、日本は「写真の天国だ」といい、日本で撮った写真を写真集にしたいと望んだといわれている。その本のタイトルが、「THE EYE FORGET」だ。残念ながら、そのころ日本ではキャパの人気はなく、出版されることはなかった。彼が伝説のカメラマンになるのは、死後、その死をいたみ、親友だった、川添浩史らの尽力によって、すでに絶版になっていた英語版「SLIHGTLY OUT OF FOUCS」を、日本で出版した。そのタイトルが「ちょっとピンぼけ」だ。その本は、現在にいたるまで、綿々と存在し、そういう意味では、ロバート・キャパは、日本で生き、伝説化された。英語圏で「SLIHGTLY OUT OF FOUCS」が、復刻されたのは、21世紀になってからだ。

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