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16 posts from November 2004

2004.11.30

コジラ誕生50年だったな。

テレビで今年がゴジラ誕生50年、ハリウッド殿堂入りのニュースをやっていた。ロバート・キャパが地雷に倒れた、1954年、昭和29年の年末ゴジラは銀幕デビューした。「ロバート・キャパ最期の日」にもそのことにわずかに触れている。なにしろキャパが訪れた、静岡県焼津は、3月水爆実験に巻き込まれた、第五福龍丸の母港だからだ。被曝した乗組員を撮りにキャパは、4月20日に訪れている。結局、そこで被曝者を撮ることはなかった。
その水爆実験によって目覚めたのが、ゴジラだった。僕はゴジラの第一作を見た。記憶のなかでは小学校にあがる前後、たぶん6歳、封切り直後かどうかはわからない。見た場所は、市川市の隣まち、本八幡駅前だったと思う。5歳ということはないだろう、記憶が鮮明だからだ。
当時市川にも映画館があったが、本八幡のほうが映画館がいくつかあったし、よく行った。もしかしたら、錦糸町、江東楽天地、後の東京楽天地、今はなんていうのかしらないが、一大映画館街だった。よく新聞記者だった父親に連れられて行ってもらった。あるとき映画の前座として、こまどり姉妹(時代だなあ、知っているのだろうか)の実演ショーをやっていたのを覚えている。そのとき見た映画は覚えていない。ゴジラを見たのは、錦糸町か、本八幡かははっきり覚えていないが、怖かったことを良く覚えている。何しろ映画を見てからうなされたように、ゴジラの記憶、そしてあのなんともいえない咆哮が夜になるよみがえった。
僕は大人になってもういちどゴジラを、ビデオでみたが、多くの場面を記憶していることに驚いた。なにしろ、当時は映画は一回だけみるものだ。大人だったら気に入った映画を何度かみることはあっても、6歳の子供は、一回だけで映画のすみずみまでを記憶してしまう。それは、ゴジラばかりか、ピーターパンや、子供のときみた映画を、僕は大人になり再び見たとき、思い出す、数々のシーンを、しっかり記憶していた、子供の頃の記憶力におどろかされる。最近は、特にビデオは一度見た映画を再びみても、最後の最後に、あれ、この映画見たことがあるな、なんて思うこともたびたびある。
さて、ゴジラの大一作、すっかりゴジラにおびえた僕は、ゴジラが数寄屋橋のガードを破壊して国会に向かうことが、唯一、安心材料だった。というのも、我が家はとうじ、千葉県の市川市にあったので、本当に東京に住んでいなくてよかったと思った。ゴジラは絶対に市川に向かっては来ないと確信していたからだ。
ゴジラは、後にアンギラスという怪獣と戦う。
当時の映画で記憶しているのは「紅孔雀」「モスラ」、「地球防衛軍」、「スーパージャイアント」「宇宙人東京に現る」だ。そのぐらいまでが、僕が日本映画に夢中になっていたころだ。
その後は、映画よりテレビに夢中になった。初めてテレビをみたのが、小学校1年生、近くの床屋で「スーパーマン対キングコング」をやっていた。その後はアメリカのホームドラマにどっぷりつかる。「パパは何でも知っている」「パパ大好き」「ラッシー」「名犬リンチンチン」「ララミー牧場」「スーパーマン」「デズニーランド(決してディズニーランドではない)」「ルート66」他に何があったろう、数限りないアメリカのホームドラマ。僕はすっかりアメリカ文化に洗脳されていた。
ゴジラは回を追って、漫画チックになった。さまざまな怪獣と戦い、ゴジラの息子がでてきたり、僕はかなりしらけ、子供向けの怪獣映画を見ることもなくなっていた。途中からどうみてもウルトラマンの世界だ。ただ悲しむべきかな、ウルトラマンは異星人だから許されることも多々あるが、何しろゴジラはもともと、リアルな存在だった。リアルだからこそ、リアルな街を壊して恐ろしかったのだ。ウルトラマンがものを破壊しても、すこしも怖くない。星でもなんでもこわしてくれと‥‥。まあ日本はなんでもアイドル化させてしまう。そこがビジネス上一番おいしい場所なのかもしれない。子供に受けることがとても大切になるからだ。かのピンクレディだって、最初はお色気路線だったが、人気がでると、子供向けになった。
僕が大人になったときだ。すでにフリーのカメラマンになっていた。東宝はやはりゴジラはアイドルではなく、怪獣、それも恐怖の象徴だと反省したのか大々的に宣伝をして1984年「ゴジラ」を作った。副題は忘れたが、ゴジラが久しぶりに復活したと思われた。子供向けの良いゴジラではなく、悪役として復活。大人の鑑賞にたえられるとの触れ込みの作品。ヒロインが沢口靖子だった。僕はその映画を、初期のゴジラと重ね合わせ、を少し期待してしまった。
しかしそれはさんたんたるものだった。復活したゴジラは、この情報時代に突然、東京湾に現れ、昔と同じように、晴海どおりをのしのしと歩き、こんな大事件が起きているのに、新幹線はのうのうと走り、見事ゴジラに襲撃されてしまう。ただのパロディ映画だった。しかも、それから新宿西口に現れ、なぜかゴジラを待つ群集が逃げまとい(とっくに避難しておけ)、最後には、UFOみたいな、ハイテク武器がゴジラを襲う。そしてなぜかゴジラは大島三原に山に行き、火口に落ちてしまう。
僕はこのゴジラ映画を、「ゴジラの自殺」というタイトルをつけた。
なぜなら、すっかりアイドル化したゴジラは、その映画で、かつての悪役に戻るはずだった。なにしろゴジラは「シェー」(古い)までやらされていたのだ。それが、最新の特撮のなかでよみがえり、本当のゴジラであるはずだった。ところがである。
久々に、真面目な演技ができる思ったゴジラは、唖然とした。
シナリオめちゃくちゃ、あまりに漫画チックな、きっと漫画の原作ばかりを映画化していたので、映画的なリアリティを忘れちゃったのだろう、スゲーハイテク兵器(首都防衛移動要塞である新兵器"スーパーX)の登場よりもなにも、完璧にホバリングできる、ヘリコプターではない、航空機。映画は途中からスタワーズ級のSF映画になっちまった。最低。それまで、演じていた東京の街の破壊はなんだったのか。そんなハイテク技術があるなら、一発でゴジラをしとめられるだろう‥‥。
かわいそうなゴジラ。ゴジラは張り切って、銀幕に登場したのに、あまりのなさけなさに、気落ちしてしまった。
そうして日本映画に幻滅して、三原山の火口に身を投げたのだ。
僕はそのシーンを見ていて涙がでた。本当に涙がでた。あまりにもゴジラがみじめだったからだ。
映画監督は、本当はもっとリアルな映画を作りたかったのか。それがかなわずゴジラを自殺させた。僕は本気でゴジラが大島に向かうときの、その悲しげな表情に胸を打たれた。ゴジラは死んだ。もう作らなくていいよ。日本映画にはむりなんだよと。
その後、アメリカでゴジラがリメイクされた。あの映画の予告編は怖かった。登場シーンは秀逸だ。しかしあのゴジラにはがっかりした。スピードあるゴジラは、でもゴジラではなかった。どうみてもジェラシックパークでしかない。ストーリーもつまらなかった。特に後半はつまらない。それは結局、生物は兵器に勝てないということだ。ずっと昔にみた
今はなきツインタワービルから飛び降り自殺した、キングコングと重ねあった。アメリカ映画は、その無力さは表現している。ゴジラよ、もう映画のなかでのリアリティはないのだ。
ゴジラは第一作が一番だ。あとは正直どれも屑かもしれない。それでも、アメリカの子供たちも夢中だったとは‥‥。
50年目、最後のゴジラ、予告編を見る限り、あまり興味はそそられない。
そのうちゴジラとは、松井秀樹のことでしかなくなるだろう。

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2004.11.29

サイゴン川

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ベトナム、ホーチミン市、旧サイゴンのサイゴン川。川幅数百メートルのこの川に大型の貨物船が航行する。この川幅を同じぐらいの船がすれ違う。マジェスティクホテルは、最近二重窓にしたのもこんな船が、深夜空気をとどろかす、汽笛をあげるせいもある。1995,6年ごろ、僕はマジェスティックホテルが定宿だった。しかし毎夜の騒音で根をあげ、それからというもの、ドンコイどおりにあるグランドホテルが気に入り定宿だ。今回の撮影で、やはりマジェスティクに宿泊することになったが、不思議と以前ほど騒々しくない。ドアや窓がすべて二重窓になっていた。やはり客からのクレームで問題になったのだろう。ロバート・キャパの時代はどのくらいうるさかったのだろうか。現在みたいにバイクや車が道路にあふれることはなかったろう。きっとのんびりしたものだったのではないだろうか。

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ロバート・キャパとサイゴン 1

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1925年建設された、サイゴン(現在のホーチミン市)の歴史的なホテル、マジェスティクホテルは、例えば日本人で言えば開高拳や、写真家の沢田教一など多くのジャーナリストや作家が宿泊し、屋上のバーに集った有名なホテルだ。
僕が初めてベトナムを訪れた1994年は改修中で泊まることができなかったが、翌年1995年には念願かなって宿泊した。館内で何度も撮影をしているが、年々、サイゴン川の大型船の往来や(特に深夜)、バイクや車の騒音で、何日も連泊すると、うるさくて眠れない状態が続き、最近は宿泊することがなくなっていた。
ところが、この有名なマジェスティクホテルに、ロバート・キャパも泊まっていたという事実を僕は突き止めた。
1954年4月、キャパは毎日新聞社、カメラ毎日創刊の招待イベントとして日本に滞在していた。日本各地を撮影するといったかなり自由な、そして歓待された旅だった。それは約6週間の充実した撮影旅行の予定だった。
ところが、旅の半ばの4月28日、アメリカのグラフ雑誌ライフより、同じ東洋の戦場、フランス植民地だったベトナムの取材を急遽依頼された。キャパは悩む。しかし結局インドシナ、ベトナムに5月1日旅立つことになる。
キャパはまずバンコクに向かう。この辺のくわしいことは、「ロバート・キャパ最期の日」を読んでもらうとして、僕はそれまでの定説だった、キャパの伝記に書かれている、東京からバンコクに向かい、そこでベトナム入国のビザを取るために1週間以上もバンコクで足止めをくらったと書いてあることにつねづね疑問を感じていた。バンコクから直接ハノイに、ディエンビエンフー陥落の翌日、5月9日にハノイに到着したと書かれているのだ。
たしかにキャパは、バンコクのオリエンタルホテルから母ユリアに手紙を書いている。そこから9日、ハノイに到着して、マグナムに連絡するまでの約10日間、いったいキャパは何をしていたのだろうかという疑問だった。ベトナム北部デルタ地帯や、ディエンビエンフーは戦闘状態だとしても、タイのバンコクからフランス内独立国カンボジア、そしてサイゴンまでならば陸路だって移動可能だ。それなのに一週間以上も、バンコクにキャパが滞在した根拠はなんなのだろうか。日本の滞在中のイベント満載のハードのスケジュールに疲れて、バンコクでのんびりとビザが発行されるのを待っていたとでもいうのだろうか。この一週間を僕はずっと幻のバンコク滞在と位置づけていた。どうかんがえたってミステリーだ。
しかしある日それが氷解した。「ロバート・キャパ最期の日」のゲラ校正をしているとき、インドシナにおける、キャパの約40本のコンタクトプリントを見る機会があったのだ。そしてそこに、一葉の特別なコンタクトプリントをみつけた。それは、絶対にハノイでは撮ることのできない景色、サイゴンを知っている人間だったら容易に発見することができる景色だ。そのコンタクトの約30コマの写真のなかに、あきらかにサイゴン川を高いビルの位置から撮影している写真があったからだ。さらにくわしくみると、ドンコイ通り(カティナ通り)から、遠くにコンチネンタルホテルが写っている写真を発見した。サイゴン川を撮るアングルには、マジェスティクホテルがある。ロバート・キャパは室内でも撮影している。床のタイルは、現在はまったく失われているが、かつてはマジェスティックの床の模様だ。
続きは、ロバート・キャパ最期の日、ブログ

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ベトナムとキャパとブログ

ひさしぶりのホーチミン。この2年間、ずっと北ばかり行っていた。1995年から2000年ぐらいの劇的な変化は訪れるたびに驚いていたが、今はそれほど変わることはない。
奇妙に思えたのは、電話回線、インターネットの速度が、北よりずっと遅いことだ。北では56k、遅くても29kなのに、カラベルホテルといった五星ホテルでさえ、21kだ。以前はこんなに遅いと思わなかったが。夜になるともっと早いのだろうか。だからなかなかブログのアップロードができない。閲覧に関しては遅いけど問題がないが、アップロードがうまくゆかない。まだホームページのアップのほうが軽い。ブログが重いのかもしれない。
23日、ホーチミンに着くなり、コーディネーターのチュンさんが、台風がくるという。困ったなと思った。もう11月の末だというのに、台風とは。僕は今までなんどもベトナムを訪れているが、遭遇したことはない。
それでも、23日、24日と問題なく撮影。
25、26日はホーチミンから4時間の、ムイネー、ファンティエットに行く。ムイネーは快晴だった。どうやら台風はそれたらしい。ただあまり情報がなく、何しろ新聞には、天気図がでていないので、どこに台風があるのかさえわからなかった。
ムイネーにはじめて訪れたのは、1995年だ。まだホテルは、オーストリア人の経営するコテージがあるだけだった。ムイネーという名前は知らず、僕はファンティエットと呼んでいた。ここには白い砂の海岸と、赤いさらさらの砂の砂丘がある。ニョクマム(魚醤)の産地でもある。それがいまや一大リゾート地だ。天気もよく撮影は順調に終えた。
2泊して、カラベルに一泊して、28日の夜、11時55分に発って、29日早朝日本に到着した。

ベトナム最後の日、キャパのことを調べる。「ロバート・キャパ最期の日」に書いたように、キャパはサイゴンに来ている。伝記には東京からバンコクに一週間ばかりビザで待たされ、そこから直接ハノイに行ったと記されているが、ずっと不自然だと思っていた。
それが、キャパのコンタクトプリントを見る機会があり、そこにはサイゴンが写っていた。僕はキャパの撮った場所と同じ場所から、撮ってみようと思った。この件は、キャパのブログに紹介するつもり。

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2004.11.22

神戸の17歳

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神戸のティーンエージャー、震災の本、まだタイトルは決まっていない。
「M7.3子供たちが見たもの」

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明日からベトナム 村上恵梨

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明日の朝、6時集合、午前中のベトナム航空で、ホーチミンに行く。今回は久しぶりにベトナムで女性を撮る。ユニチカの2年連続キャンペンガール、村上恵梨だ。この2年間、ずっと北ベトナムばかり、久しぶりのホーチミンだ。とても楽しみだ。写真集とDVD、両方とも僕が撮影する。というか、DVDとスチールを一体化して撮ってみたいと思っている。まだ明日の準備が終わっていない。ブログをやっているひまなんかないのに、ついつい。気分転換。上の写真はフィッティングに、スタイリストの事務所に来た、村上嬢。

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2004.11.21

阪神大震災 あの時、彼らはまだ7歳だった。

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来年、2005年1月17日、阪神淡路大震災から10年になる。今、かつての6,7歳の子供たち、今のティーンエイジャーの写真を撮っている。彼らは地震を体験したときは、まだ何も知らない歳だった。10年たち、彼らはかつての自分自身を客観視することができるようになった。そのインタビューと写真の本の取材だ。僕は写真のみ。
「M7.3子供たちが見たもの」

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2004.11.20

神戸、阪神大震災

今、三島にいる。明日(正確には今日だ)の朝、こだまで名古屋までゆき、それからのぞみで新神戸に行く。これは1月17日までに、阪神淡路大震災の本を出版する、その取材のためだ。来年で震災10年、僕がそのときに撮った写真と、そのときまだ小学生になったばかりの子供たちは、今はやハイティーンになっている。今の彼らというより、今思い出してみて、あのとき震災とは彼らにとってどういうものだったのかを、インタビューしてみる。僕は、かつての写真と、今のハイティーンになった彼らのポートレイトを撮るつもり。まだその本のタイトルは決まっていないけれど、しかもまったく時間のない仕事。
来年1月には、震災10年をはさんで、ライブ写真展をするつもりだ。それは僕一人ではなく、8人ぐらいの神戸のカメラマンと一緒に神戸の、特に永田周辺の人々の写真を撮り、その写真を街にはりつけ、モデルになってくれたひとたちにプリントするつもりだ。10年たった今、いったい彼らはどんな表情をしているだろうか。おりしも新潟中部地震、地震はいつでも、どこにでも起こる。
「M7.3子供たちが見たもの」

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2004.11.19

写真は真実を写すのか

合成写真から発した、写真についての考察―――写真は真実を写すか

北朝鮮の合成画像について、前回に書いたが、そこで指摘したとおり、写真は真実や事実を写しているわけではないということを書く。
写真は英語でPHOTOGRPHだ。直訳すれば、光の画だ。かつて写真を「光画」と読んでいたグループもあった。それがなぜ、写真、真を写すという言葉になったのか、勉強不足の僕は知らない。ところが写真については、日本語に「撮影」という言葉がある。これこそ、写真の本質をついている言葉だ。影を撮る。影を写す。例えばよく晴れた冬の日中、外にでて、足元を見れば、自分の影が地面に伸びている。さて、その影を見て、自分の事実が映っているなんて思うだろうか。あくまで自分の影が地面に映っているだけで、自分ではない。手を使えば、影絵で、狐にも、犬にも、鳥にもなれる。それはしょせん影なのである。写真は現実に存在するもの(そこのところは疑わない前提で)が、なんらかの光によって、照らされて反射されたものが、最終的にフィルムや印画紙に定着したものだ。例えば、地面に感度の低い大きな印画紙を広げ、自分の影をその印画紙に落とす。
そしてじっとすること数分、太陽の影以外の部分は、強く感光して色が変わる。いってみれば日光写真だ。そこには、影の部分は白く、そのまわりが変色している。それが写真の原理なのだ。その影をみて、自分が映っていると思う人はいないと思う。あくまでそれは「自分の影が定着している」にすぎない。写真の原理は影を感光させることにある。
さて、もう一つの写真の原理、カメラオブスキュラ、暗箱、ピンホールカメラがある。ピンホールカメラはご存知のように、レンズを使わず、針で開けた穴が結ぶ画像を、フィムルや印画紙に定着させたものだ。この原理を人類はかなり昔から知っていたと思う。なぜならぼくは、幼児のとき、誰にも教えてもらっていなのにすでに知っていたからだ。
かつて、戦後、我が家は安普請の県営住宅だった。6畳、4畳半、一坪の台所、半畳の便所、一坪の玄関しかない小さな木造住宅だった。土地は50坪あり、今の東京の住環境からはずっとよかった。(後に増築)。ある日の朝、日曜日だったかもしれない、家のものはまだ誰も起きていない。そとは天気がよかったのだろう。雨戸の隙間から光が漏れていた。ふと窓を見ると、僕はそのとき大発見をしていたのだ。
当時、間伐材を使っていたからだろうか、物資の少ない時代、家屋の材料である木材は節穴だらけだった。寝るとき天井を見ると、その節穴がさまざまなものに見えて、怖かった記憶がある。雨戸には無数の小さな穴があった。
その朝、真っ暗な部屋から、引き戸のすりガラスを見ると、そこに何かぼんやり写っている。それもひとつや二つではない。なかにはかなりはっきりと映っているものもあった。よく見るとそれは、さかさになった自分の家の庭ではないか。垣根のさきに、なにやら動いているものもある。それはフルカラーでとても美しいものだった。僕はその後、それを朝みるのが大好きだった。
しかしたいていは、母親のほうが早く起きてしまうので、見ることはできない。
僕は小学校2年生からカメラを持っていたが、その暗箱の原理を、写真と結びつけることはなかった。使っているカメラはブラックボックスで、同じものだとは思えなかった。だいたい写真もモノクロしかもたことがなく、その現象が写真そのものだと思ったのは、高学年になり、二軒隣の写真屋さんが持っていた、二眼レフカメラのファインダーをのぞいたとき、その像が同じものだと知ったのだ。(たぶん成長して科学的に考えられるようになっていた)。暗箱の、ピンホールの描く像の発見は、自慢ではなく、きっと太古から、人間はとっくに知っていたのだろう。条件さえあえば、どこでも再現される自然現象だからだ。僕の家にしても、生まれたときからそんなふうに天気がよければ毎日見えていたことになる。
さて、暗箱(暗室)カメラオブスキュラは、昔からあったとしても、やはり科学技術が発達した19世紀になってはじめて、写真は生まれた。感光剤の発明、発見だ。それまでの像が、感光剤を塗った、ガラスや紙に定着して初めて写真となったわけだ。しかし最初はモノクロだった。光の濃淡が定着できただけだ。その像は陰影だ。明るさ、暗さのグラデーションが定着した。
それがしだいに、鮮明にそして、カラーになり、現代の写真になった。しかし、根本は存在するもののから反射した光と影を、定着したものにすぎない。それはやはり「影」なのである。「影」は、決して現実とは違う。写真が現実を映しているわけではない、「現実の影を写している」のだといつも意識していなければならない。そうすれば、安易に、写真を信じすぎることも、信じないといった極端なこともないだろう。

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北朝鮮合成写真2

北朝鮮の合成写真について、今日も朝からワイドショー報道されている。写真と合成について再び書きたい。まだ一部報道機関は、写真は真実をうつすものだとの前提で議論しているような気がするからだ。写真の合成。修正(レタッチ)を、ほどこされていない写真は、昔から世の中にほとんど流通していない。例えば、葬式写真は切抜きが当然だ。新聞に載っている顔写真などは、同じように周りの余分な部分は、昔から修正している。いや、昔は新聞の印刷が悪かったから、原稿にレタッチを加えるのは、当然だった。今年5月に都美術館で開催された、ロバート・キャパ展では、実際ロバート・キャパが撮って、毎日新聞に掲載されたオリジナルが展示してあったが、モノクロ写真の輪郭には、どうみても絵としかおもえないほど書き込まれている写真が展示してある。そういう修正は、かつての新聞では当然だった。それより、戦時中は、軍の言われるまま、多くの写真を捏造した。数機しか空に飛んでいない飛行機をその何十倍も飛んでいるようにみせたり、船を大艦隊に見せたり、と今では客観的報道というマスコミは、かつてそうやって大衆を欺くさきぼうをかついでいたのだ。そういう反省があるとは思えないのに、まるで写真に手を加えるという、現在では日常的な行為だけをとやかく言うことはナンセンスだ。だいたい自分たちが報道している、番組自体構成された、事実の合成であることを忘れているのだろうか。
現代では、修正などしなくても、コンパクトデジカメは、肌色などは美しくあがるように調整されている。インクジェットプリンターも、肌をできるだけ綺麗にしようとしている。前回も書いたが、商業写真で修正されていない写真は一枚もない。化粧品に限らず、雑誌の表紙、人間の肌があんなに美しいわけはないでしょう。タレントのプロポーションがあんなにいいわけないでしょう。スタイルの調整なんてごく初歩のレタッチだ。
通常のレタッチと、意識的な合成に境界線はない。まあ唯一かろうじて信じられるのは、きちんと署名の入った、撮影者の特定された、写真ぐらいだろう。撮った本人が保証するということしかできない。もちろんそれでも捏造はあるのだが、だからかろうじて信じらる。撮った人間は、個人としてさらされる責任があるからだ。
めぐみさんの写真に関して、こことここが合成だと指摘することは、謎ときとして面白いけど、マスコミによる、写真は真実が写っているみたいな、言い方はしらけてしまう。
写真は、ストレートな写真でも、世界中の99.99‥‥%を排除する作業なのだ。真実はもともと0.1%も写っていればラッキーなのだ。写真家はそのわずかな真実を信じて撮っているだけなのだ。

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2004.11.18

北朝鮮合成写真

北朝鮮の、めぐみさんの写真が合成写真だということが話題になっている。北朝鮮はこういうことをする国家だと、マスコミは声だかに言うが、かつての日本の報道機関は、太平洋戦争中に、軍の統制下、多くの合成写真を生み出し、国民を欺いていた。そのおさきぼうを、新聞はかついでいた時代がある。実際はテレビは、報道じたいが、映画と同じように、モンタージュをするメディアだ。あんまり合成、合成というと、なんだからしらけてしまう。今の時代、写真の合成なんて、日常のことだ。広告などは、合成をしない写真のほうが、珍しいぐらいだ。北朝鮮も、見ればすぐにわかるような写真なのだから、プライバシー保護の(?)のために、不要な人は削除してあると最初から言えばよいことなのに、隠すからよけいにこじれてしまう。写真が真を写すなんて、幻想は権力者と、マスコミの人間が大衆に言っているだけで、写真は決して真実を写しているわけじゃない。

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2004.11.17

うまい写真家、へたな写真家

昨日の夜、恵比寿で、写真関係者4人で飲んだ。僕Yと、40代写真家H氏、40代写真家A氏、30代写真評論家T氏。それぞれ活躍中の面々。僕は8時ごろから参加。すでに皆出来上がっている。H氏は、飲むとますます明るく辛らつ。A氏は、多くの著作のある独身。長年つきあいのある美しいガールフレンドがいる。きちんと合うのは2度目。ちゃんと話すのは初めて。そして、子供ができてからすっかり子供好きになった写真評論家。酔って、写真のうまい下手論争。主に私YとHで議論。最近の若いカメラマンは全員、へたくそだという結論。でもうまいからいって、うまくゆくわけじゃない。へたなほうがよかったりする。でもHは下手なカメラマンは嫌いだという。キャパがうまいかへたか。ブレッソンがうまいのか。土門拳はうまくて、木村伊兵衛は、へたか。Yは、キャパはけっして写真が下手だとおもわないという。ブレッソンよりもうまいと信じている。うまいとは美術的であるのか。いや違う。A氏はキャパよりブレッソンがうまい派。でもエルスケンはうまいと思う。皆好きだという。かんかんがくがく。
さて、ここからは僕の意見。今のカメラマンは、写真を一枚で見せることにさほど興味があるように思えない。一枚の写真で勝負するには、写真はうまい必要がある。しかし、何枚かの写真、多くの写真で見せて、表現するには、うまい写真なんてないほうが伝わる。キャパとブレッソン、ブレッソンはやはりうまいのかもしれない。でも美的で何かが伝わらない。おどろき、感嘆。でもキャパの写真は伝わる。うんそうだろうか。キャパは、撮っている期間が短いのでコンタクトプリントほどではないけれど、かなり多くの写真が発表されている。たしかにへたくそな写真もある。でもそのすべてがキャパだ。ブレッソンはコンタクトプリントを見せない。遺言でもいっていたらしい。傑作の前後の写真。それは教えない。自分が選んだ写真だけが、ブレッソンの写真だ。それにひきかえ、キャパは、だいたい、最近キャパの撮ったカラー写真が発掘され発表されたが、どれもつまらない。でもそれは、かたっぱしから見せるからそうみえるだけで、選んだ写真を見せれば、へたではない写真もあるだろう。いや、キャパは撮りまくる写真家なのかもしれない。
構図を待っていない。傑作をまっていない。主義主張もない。ただ、目の前の出来事に反応しているだけだ。シャッターを押す、一こま一こまは、指の体操かもしれない。ごく軽い刺激でシャッターを切る。だからこそそこに突発的に飛び込んできたもへ、反応できる。その写真を撮るための準備なのだ。‥‥。そうおもいながら、そんなのどのカメラマンもそうではないか。いや、大型カメラを使えば、そんなことはないなどと‥‥。どこで撮るかセットしなければならない。そこにはなかなか偶然性は飛び込んでこない。
さて最近の写真の傾向は、皆荒木さんの影響下にある。写真をみると、ついことばを重ねたくなる。そこがかつての写真家と違うところだ。たくさんの写真をみせるやりかたは、映像のようでもある。写真で映像をやっているみたいだ。
そこには、一枚一枚の写真は解体される。全体で言葉にならないなにかを表現している。
さて、僕のような一枚の写真に興味のある写真家は、多くの写真をならべても、ボリュームとしては何かことばにならないことをいっているようで、実は何も語っていない。いや語ることを拒否したくなる。みたまま、なんだかわからなくていいじゃないか、とさえ思えてくる。主題はない。主題は、僕が撮っているというだけのことである。いいすぎだろうか。

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2004.11.15

七五三と襦袢

amisa200DSC_0237.jpg
写真をクリックすると、少し大きくなる。 NikonD70 Tamron28-75mmf2.8

日曜日、三島大社に行った。七五三をするためだ。実はまだ娘は5歳、といって5歳の祝いではない。
七歳の祝いだ。今年の12月で6歳、かぞえで7歳というこじつけだ。そんなに早くして意味があるのかわからないが、小学校に入らないうちに終えてしまうこともあるのだという。
僕は七五三をやって覚えがない。記憶がないだけかもしれないが、千歳飴をなめた記憶はあるし、あの袋を覚えているのでやったのかもしれない。たぶんやったとすれば5歳のときなので、もう50年近く昔のことだから忘れたのだろうか。境内は、晴れ着をきた女の子ばかりが目立っていた。男は一回しか祝わないし、服も特別変わった子はいなかったせいか、絶対的な人数がすくないからだろうか、境内は女のこばかりだった。
僕の時代、七五三は、男の子でも派手な子がいた記憶がある。近くの靴屋の息子は、全身皮でつくった、カーボーイの扮装をした。ちょっとうらやましかった。
娘は、家に帰り、窮屈な着物を脱いだが、襦袢が気に入り、脱がずに遊びまわっていた。こんな子供でも襦袢すがたはなまめかしい。

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2004.11.14

撮られる写真家、撮る写真家

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キャパの本を出してから、インタビューなどで写真を撮られることがふえた。たいていは僕よりずっと若いカメラマンでやはり、同業者を撮るのは緊張するらしい。なにか見透かされるような気がするのだろうか。ただ実は僕のほうが緊張しているので(少し)なしにしろ、写真を撮られるのは、あまり好きではないからだ。幼児のときには、カメラから逃げ回っていた。それがいつのまにか撮るという職業になっている。ところが、こうやって撮られる側になると、撮られるほうの気持がよくわかり、いいべんきょうでもある。料理のようにさっととって、うまく写ればよいけど、とおりいっぺんの撮り方だとつまらない。結果しつこくなる。被写体に気をつかう。一ぽう、僕はどう動けばよいのかわかっているけど、何か演じているようで照れくさい。このところ、何人のかのカメラマンを、撮影中、逆撮影している。カメラマンだから、カメラを持っているのが自然だからだ。僕がとる場合、ファインダーを覗かない。ノーファインダーだ。タムロンの28-75mmのズームを少し望遠よりにしたり、ワイドのままにしたりして撮る。撮る側を撮るって、かなり面白い。ちょっと機会があれば続けようと思っている。
Photographaer Shinjo by Alao Yokogi

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2004.11.12

デジで本

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デジで本(デジタルカメラで作る本格的な写真集)という、HOW TO 本の表紙ができました。
まだ、これは完成系ではありません。手直しが入ると思います。この本の、プログもつくります。発売は12月中旬の予定です。

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2004.11.10

The Eye Forgetについて

このブログの、「The Eye forget 」とは、ロバート・キャパが、1954年4月、日本に滞在したおり、日本は「ピクトリアル・パラダイスだ」(写真の天国)と叫び、「TheEyeForget」という、タイトルの写真集をつくりたいと言ったことから、取っている。

残念ながらキャパは、日本での取材の途中仏領インドシナ(現在のベトナム)に行き、1954年(昭和29年)5月25日、フランス軍に従軍して、ベトナム北部、ハノイ南東80キロ、ナムディンからタイビンに向かい、ドアイタンの要塞から、タンネ(現在のキエンスオン)の前哨基地に向かう途中、左に曲がった堤防にのぼり、地雷を踏んで死んでしまった。
結局、日本での写真集、「TheEyeForget」は作られることはなかった。

このプログは、いままであった横木安良夫のサイトのDigtalDaybyDayの続きとして移行する。
ただ、今までよりは少し内容を、考えて書くようにする。今のところコラムのようなものにしようと思っている。

「ロバート・キャパ最期の日」(東京書籍)について、のブログは別に作る。「ロバート・キャパ最期の日ブログ日記

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