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26 posts from December 2004

2004.12.31

大晦日

昨晩は、写真家のHとAと女性カメラマンFと評論家Tと忘年会と称して突然恵比寿で飲む。Hは、先日電話をしたら福島で撮影とのこと、そこでこの日の忘年会が突然決まる。なにしろ30日、どの店も満員もしくは、お休み。結局恵比寿の連れ込み街の裏手の地下にある、しゃれた、そうでもないか、店に入る。飲み物を注文しもなかなかでこないので一同いらいら。ようやく乾杯。初対面の女性カメラマンFさんは、その日、カラープリントしたばかりの写真、ファイル入りを見せてくれた。というより、僕たちオヤジカメラマンが批評する。皆自分のことはたなにあげて、かなり辛らつな批評。彼女は十年来のボーフレンド、現在同棲中、の男とは結婚しないという。えーどうして。ながすぎる。結婚してし、修羅場をくぐれば、もっと写真がよくなるとなどと、酔っ払いオヤジのたわごと。ラストオーダーになり、12時過ぎ、カラオケにゆく。4時ぐらいまで歌う。
朝、目覚めて、昼、家内の実家、三島に行こうと思ったら雪がふっている。そしていざ出発して、246を走っていたら東名高速、東京、沼津間が通行止めになる。しかたなく、戻ることにして、スーパーにより、仕込み。
今日は、プライドとK1を家でみることにする。しゃぶしゃぶでもするかということになったのである。
奈良の幼児誘拐つかまる。各紙新聞配達を転々として、それまでに何度か幼女犯罪を重ねている。病的な犯罪者を簡単に、社会に復帰させることには、なにかしらの措置が必要だろう。
雪は雨になったが、あいかわらず、東名高速は不通。

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2004.12.30

地球誕生46億年 NHK 地球大進化

NHKスペシャル「地球大進化」で僕がいままで知らないことばかりが放送され、かなり驚いた。最近そういう方面の本を読んでいなかったせいかもしれない。

地球が誕生して46億年、確かに人類、ホモサピエンス誕生は、1月1日から始まる地球誕生のカレンダーからみれば、12月31日の年も迫った、紅白も佳境の11時37分だ。
宇宙や地球の歴史からみると人類の歴史のあまりにもの極小さ。僕の生まれたのは、12月31日の11時59分59秒、そのさらに後半の、一瞬にもならない時間だ。よく言われるように、いかに自分の存在が小さいか、ある意味存在する意味もほとんど皆無のような状態で、深く考えると虚無的になってしまう。
でもまあ、その存在することの「無」のような自分が、ここに存在していることを「意識」できていることに、感謝しなければならないのかもしれない。なにしろ、自分の意識を感じられるのは、たった人生約80年間に限られる。死んでしまえば自分ではなくなる。かりに輪廻があるとしても、違う生命体になろうが、生命は永遠だといってみても、それは自分ではない。自分とは、この肉体を持ち、この精神を持った集合体だからだ。
宇宙の存在から見れば、チリひとつにも(チリが地球だ)ならない。
ある意味「無」である自分が、存在を意識している。意識できる。しかし、存在の意識からみれば、宇宙の流れのなかで、無限の無から、一瞬生まれ、自分を意識し、そして死に、無限の無に戻る。ちりのように自分の存在なんて無意味かもしれないが、それでもここに自分を意識させてくれた、宇宙、地球、人類、親、に感謝しなくてはならないのだろう。まあ、この考えが宗教なのかもしれないが。

さて、NHKの番組でこういうことを言っているわけでは当然ない。
もっと科学的な、最新の学説に基づいた番組だ。
何より驚いたのは、不勉強だったせいだが、46億年前に地球は誕生して、1月12日には、惑星の衝突、月と地球が分離する。
16日には、地殻が形成され、41億年まえには陸と海が生まれる。その一億年後にはタンパク質や、核酸、そして39億年前には原始生物が生まれる。
生命誕生と大騒ぎするが、海が生まれれば2億年で生命は誕生する。そこには、無機質も有機質もたいしてかわらないようなものだ。それより、進化のほうが無限の時間がかかる。
この内容ぐらいはもともと知っていたことだが。
昨日の番組で驚いたことは、今から2億5千年前の、シベリアで起きた大地殻変動の話だ。シベリアといっても現在のアジア大陸ではなく、もっと大きな大陸だった。
そのことによって40億年近く進化を遂げた生物のほとんどが絶滅したという。地球上の生命は幾たびも絶滅の危機に瀕している。幾たびもの巨大隕石の衝突。そのたびに綿々と生命体は継続して生きていた。しかし、それは進化していないバクテリアのような生命体であり、まだ下等な生物の時代だ。
しかし2億5千年前は違う。それは、まるで、人類の歴史ならば、ギリシャ、ローマ時代、キリスト教以前に、美術や思想、市民社会などからみれば、現代と全く変わらない文化がかつてあった、そして滅びたと同じように、そして宗教の時代の暗黒時代、ルネサンスとふたたび、文化的にギリシャ、ローマなみになるにはかなりの時代をようしている。‥‥まあ、それと同じとは言わないが、2億5千年前の地球上には、高等動物が存在していた。
もちろん人類のようなものではく、哺乳類のと同じようなものらしい。しかし卵から生まれ、爬虫類的な哺乳類だそうだ。そのころは後に恐竜となり双弓類も存在していた。
それが、巨大火山、地殻変動によって、滅びてしまったという。それはメタンガスが噴出し、地球は温暖化とともに、酸素の量がへったという。
その後、1億5千年まえのジュラ紀、いうなれば恐竜の時代になる。
なぜ恐竜は大繁栄したのかというと、恐竜は薄い酸素でも効率よく取り入れることできたからだという。それは現代の鳥類と同じ器官、「気嚢(きのう)システム」を持っていたからだという。肺胞にいくつかの副室がある)鳥が酸素の薄いかなり高空まで飛べるのは、その肺にその器官があるからだそうだ。恐竜の子孫、鳥類だという証拠でもある。
その間、人類の祖先、哺乳類は、ほそぼそと進化を遂げる。その時代に、肋骨は肺だけを覆い、横隔膜を獲得する。そして胎生になる。それでも、恐竜の時代、祖先は木の上での生活だったとう。
そして6500万年まえの、大隕石衝突。そこからはじまる、寒冷化、そこで変温動物の巨大恐竜は絶滅してしまう。
哺乳類は定温動物で生き延びる。そして原始的な猿のなかまの誕生だ。彼は樹上生活をしている。
これでついに哺乳類の時代になるのかというと、そうではない。
次に地球上で栄えたのは、巨大鳥類、巨大なダチョウ、ただ咀嚼力は強く、鳥版、Tレックだ。それはディアトリマだとう。それが哺乳類、われわれの祖先の天敵だった。
祖先はやはり樹上生活だったが、しだいに暖かくなると、植物も進化を始めた。広葉樹の大繁栄だ。それとともに、樹上生活をする祖先、猿のなかまも大繁栄する。
とともに、哺乳類のなかから、ハイエノドンという肉食獣のようなものがでてくる。なまえからいうと、ハイエナに近いのだろうか。
ちょうどそのころ、地球は大規模な地殻変動、大陸移動があった。アジア、アメリカ大陸は地続きになり、ハイエノドンによってディアトリマは絶滅してしまう。ハイエノドンもそうだが、哺乳類は、柔らか腹を持ち、授乳をし、親と子の濃密な関係を持つ。そして、集団で行動し、狩をする。
人類の祖先、猿の仲間は、広葉樹が広がる、世界中に広がる。霊長類の誕生だ。
番組的に面白かったのは、目の話だ。霊長類が樹上を飛び回るために、二つの目は横から正面に移動し、立体視できるようになる。そして視細胞、フォベアが生まれ、目を固定するため、眼窩後壁ができる。
人間は目から80%の情報を得ている。目の進化が、能を進化させたのかもしれない。
ここまでが、ゆうべみた番組だ。ひさびさに興奮した科学番組だった。まだ続いているし、再放送もあるだろう。問題のNHKだが、こういう番組は素晴らしいと思う。


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2004.12.29

スマトラ沖地震による津波

スマトラ沖地震の津波の被害者が、5万人を越した。一口に5万人といっても、ぴんとこない。日本は昔から地震のたびに津波があり、関東大震災のおりにも津波が発生してかなりの被害があったという。TSUNAMIは、すでに世界共通語にさえなっている。それにしても、もし津波に遭遇したらどうするかを、常に考えておかなくてはならないとは。海辺のリゾートのに行ったら、ホテルの非難口を探すように、津波にもし遭遇したら、どこに逃げるかを考えておかなくてはならないのだろう。これからさらに、多くの死者がでて、そして伝染病が発生するかもしれない。アジアのリゾートは数年前に、バリ島での爆破テロ、ベトナムの鳥インフルエンザ、そして今回の津波と災難続きだ。いやほんとうにイラクで戦争なんてしているばあいじゃないよ。21世紀になって、世界はなんだか騒がしい。NHKで人類創生の話をやっていて、それこそ地球誕生46億年、生物(有機物)誕生は40数億年前には存在したのではないかといわれている。その後7,8回にわたる、隕石(小惑星)の衝突、そのたびに地球の生物は壊滅されたけれど、ある種のバクテリアのようなものが、生き延びそして現在の人類まにつづいている。という。人間のような高等な生物の誕生はまれなのかもしれないが、どろどろだった地球がさめ、海ができると数億年で、生命体が誕生するなんて、宇宙の摂理のなかではわりとありふれていることなのかもしれない。有機物と無機物の境界線は実はさほど大きくないのかもしれない。それより、進化することのほうが、驚異的なのだろう。バクテリアのようなものから、人類までの進化にはかなり偶然性があるのだろう。何度かの小惑星衝突がなければ、今の人類は存在しないのかもしれない。その番組で小惑星が地球に衝突する場面を、コンピューターグラフィックでやっていた。衝突して、地球の近くは蒸発する。どこかその再現アニメをみたばかりで、津波の映像を見ると、奇妙な感じがした。地球が滅亡するような、スケールではないが、自然の摂理は、人間社会とは違いサイクルで進行しているのだと感じた。いや、実際は、人間の力が特に破壊する事に関しては、地震や津波なんか以上に、地球を破壊しているのかもしれない。

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2004.12.28

M7.3阪神大震災10年 子供たちのみたもの

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Canon20D EF50mmF1.4 Iso200 ノーファインダー撮影 三宮駅前 二点の写真とも、本のなかでは使用していないアザーカットだ。
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Canon20D Tamron28-75f2.8 神戸アイランド
昨日、2005年、1月17日に宙(おおぞら)出版から出版される、M7.3阪神大震災10年 子供たちのみたものの、印刷の立会いをした。写真は50ページぐらいだし、版型も四六判と小さく、全部を見たわけではないので、あっけなく終わった。印刷の立会いは、写真集の場合はやることが多い。アードディレクター、編集者に任せてしまうことも多いが、やはり直接立ち会って、最後にすられる瞬間をみるのはためになる。
印刷は、特に写真集や書籍のような、大量に印刷されるものは、校正刷りと言って、デジタルやフィルムから版をつくり、校正刷りをだす。そこで初めて、データやフィルムや印画紙の情報が、最終的な紙(違う紙の場合もある)に刷られる。たいてい、二回でるのだが、それをデザイナーや編集が、全体的な調子、肌の調子などを、不具合を書き込む。今はコンピューターで調整しているが、かつては版を人間が手仕事で調整していた。
構成され、OKがでたら(それでも不満な点は最終的な印刷でちょうせいする)、本機での印刷だ。それまでの校正機とは違う機械、違う技術者がやることになる。大手になると外注で、校正ずりが唯一の共通の手がかりだ。
最終的な、印刷に立ち会うのは、校正がいくらよくても、本番がそのとおりに再現さるるとは限らないからだ。
そして印刷会社は、インクをあまりつかいたがらない。コストというより、インクをたっぷり使って印刷するとそれだけ
乾くの時間がかかるからだ。印刷はぎりぎりのスケジュールで進行している。
印刷に立ち会うのは、こちら側の意図を、最終的な技術者に伝える、最後の場であり、ある意味一番重要な場面だからだ。
本の見本が、正月あけにはできる。その時もう少し詳しく紹介する。
「M7.3子供たちが見たもの」BlogTop

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中野のトキノン

fakeoff昨日の夕方、英知出版のキッスイ編集長、田中信一と神楽坂で焼肉を食いながら飲んだ。彼とは、彼がデラベッピン編集長時代、いやビデオボーイ編集長時代に(彼は28歳で編集長だった)仕事をした。一番の楽しい仕事はFakeOffという単発の別冊を一冊作ったことだった。その後、編集の山田くんと合流した。10時ごろ、田中編集長は、六本木へ、僕と山田君は、柊君の待つ中野にゆく。そこにカメラとんかつ屋、「tokinon 50 f1.4」があるという。写真雑誌Capaにも紹介されている。柊君は、某、労働組合の記者であり、カメラマンでもある。彼は全国を飛び回り、食べ物屋にかぎらず、何でも知っている。そこに元英知編集者、今は新婚でエディトリアルデザインをしている、中野在住の大駒君が合流。とんかつ、牡蠣フライ、餃子、さきイカを食べる。1時過ぎまでいて、解散。柊君が、カラオケに行こうといい、男二人で?と思ったが、3000円歩っきりのキャバクラみたいなカラオケで、へーと思ったが、満員で断念。中野、恐るべき町だ。楽しそう。昭和が生きている。

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流行通信

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流行通信、2005年2月号、500号記念号で、僕が撮った写真が、小さいけど紹介されている。1977年1月撮影

1975年9月にフリーになり、翌年の春、週刊プレイボーイに載った、当時の女性ロックグループ、ランナウエーズの写真を見て、助手の頃、一緒にインドに行った、横尾忠則さんから、着物のカレンダーをやらないかと、誘われた。横尾さんが、三宅一生のテキスタイルデザインをやった時だった。
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Canon F1 MF FD24mmF2.8 kodachrom2 ISO25 サンパック3400正確に言えばそれが最初の僕が撮ったファッション写真だ。その写真やグラビアで撮ったタレントの写真を携え、渋谷にあった流行通信の編集部に1976年の暮れ売り込みにいった。編集長?だった林さんがすぐに気にいってくれて、翌月号から使ってくれた。その最初の写真6pのなかのいちまいが三宅一生さんの服を撮った、一番上の写真だ。
sayoko02当時僕は、ファッションならば、日中シンクロだと思っていた。そのちょっとした非日常性と、服がはっきり映ることの両立だった。特別新しい手法ではないが、動きのあるものをブレないように撮るにはうってつけだった。しかし難点は、ちいさなストロボ、それも60分の1秒しかシンクロのついていない35mmカメラで撮るには朝や夕方しか撮れないことだ。500分の1秒までシンクロできる八セルブラッドは、大掛かりになる。なにしろ僕はCanonF1に、サンパックの積層ストロボをつけて、絞りもいいところ、f5.6ぐらいでオートで撮っていた。
流行通信の写真も、小夜子のカレンダーの写真も同じ手法だ。
昼間の日中シンクロには、バルカーのような大型ストロボが必要だ。初めての流行通信の撮影の時、雑誌は一日で4カットとる必要があり、しかたなく発電機とバルカーを持ち込み撮影した。背景は少し暗くなったが、あんまり僕は気に入らなかった。それより、ケイ便な35mmで撮った写真がやはり好みだった。
その頃のテクニックをおもいだしてみると、絞りはF4、レンズは24mmF2.8、コダクローム2、ISO25だったような気がする。サンパックのような携帯ストロボ、ガイドナンバーも25ぐらいだったろうか、積層でチャージタイム0で連射できた。ただコンパクトストロボの光は、青く、それに朝や夕方の撮影のため、CC10Rフィルターをかけていた。そのうえから、さらにシルクの黒いストッキング(紗)をかけた。そのころの僕は、なんでもかんでも黒いごくうすシルクのストッキングをかけて、取ることが多かった。それは、レンズの切れのよすぎがすきではなく、画像のトーンをそろえるためだった。しかしそのやりかた、広告をするようになって、紗をつかうことをやめた。雑誌と違い、広告では印刷コントロールでどうにでもなることを知ったからだ。
その後流行通信は、何年かやり、当時はファッション写真ばかり撮っていたが、しだいに広告に移り、そしてその後、ふたたびタレントの写真を多く撮るようになって、ファッションカメラマンとは言えなくなっていった。
僕は、Nude写真と、ファッション写真が好きだ。ファッション写真とはNUDE写真も含まれていると思っている。ファッションは裸の肉体を包み込むもの。どちらかにかたよってもつまらないからだ。それに写真が逃れることのできない「時代性」、「肉体という普遍性」、「モデル個人という一回性(存在としての個人)」が、一番写真にとってダイナミックな場所だからだ。


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2004.12.26

40年以上も前のクリスマス。

本当はクリスマスイブにでも書けばよかったが、僕が小学校に上がる前のクリスマスについて、以前書いた。それはこのサイトを読んでもらうとして、なぜこんなことを書こうかと思ったかは、僕にとっての、音楽や、芸能がどういう意味があったか書いてみたいと思ったからだ。今は写真をやっているがやはり音楽に僕は大きな影響を受けたと思う。ただ、あんまりまとめようと思わず書くのでとりとめもないかもしれないが、そのうちにきちんとまとめるとして、書きなぐってみる。
音楽について1
小学校以前から僕は、音楽にたいしてはかなり敏感だったかもしれない。時代が時代なので、兵舎を改造した幼稚園では、それでも設備はなかなかのもので、当時はまだ珍しい、大型の蓄音機(当然電気で動く)を聞きながら、昼寝をした。僕は昼寝が嫌いでいつもしかたがなくおとなしく聞いていたが、最初の記憶は、♪みかんの花がさいている、思い出の道丘のみち♪だった。女の子の歌うそれが今でも耳に残っている。僕はその歌を聞きながら、その映像を浮かべていた。大きくなるまで僕の映像は、瀬戸内海の風景だった。(もちろん子供の時に瀬戸内海は知らない)しかし、後にその歌は伊豆のみかん畑でのことだと後で知ったが、しっくりこなかった。それより、大学時代、小柳ルミコの「瀬戸の花嫁」とみかんの花咲く丘のイメージが重なった。
幼稚園時代は、キリスト教系だったので、降誕劇などをやらされたが、その季節になると讃美歌の練習が行われた。子供は聞いているだけだったか、歌ったかは覚えていないが、♪もろびとぞこりて~主はきませり、主はきませり、の意味が全然わからなかったが、その歯磨きのような歌が、頭にこびりついている。
小学校低学年の頃、まだテレビは特別な存在で、日常はラジオだった。「一丁目一番地」「やんぼうにんぼうとんぼ」
「ひゃらーる、ヒャラリーコ」「少年探偵団」等々、どれもラジオドラマの主題歌だ。
そんな頃、落ち着きのなかった僕は、母親にピアノを習わされた。どのくらい続いたのかわからないが、陰気な部屋で、ピアノの鍵穴から数えていくつめかの、「ド」の位置を探し、右手左手も同じ動きの、「きらきら星」をやった。僕が唯一引けるピアノの曲だ。(その後猫踏んじゃったのなどのレパートリーはいくつかある)
ところが、ピアノの先生が根をあげた。僕のやる気がなかったからだろう。いや家にピアノやオルガンがあるわけでもなし、たぶん1ヶ月ぐらいで首になった。その後僕は、絵の教室にゆく。そこは性にあったのだろう、4年生ぐらいまで
かようことになる。
小学校時代、5年生のときに、コーラス部に担任の藤原先生の命令で入れられる。学年で男3人、森と、近藤と、僕だった。反強制で、入れられたものの、1組の担任近藤先生のクラスからは、男は誰もいない。3組からも男はいない。わが藤原先生のスタンドプレイだった。コーラス部の練習はたいくつだった。発声練習、♪あえいおう、あえいおう、などとやり、なによりもいやだったのは、僕ら男3人はアルトであり、決してメロディーを歌えなかったことだ。あってもオンチなハモリのメロディだ。その時間は、クラブ活動をする時間で、僕ら3人はよく、さぼって裏山で遊んでいた。
でも、そこでハモリの練習ばかりさせられたので、後にすぐになんでもはもれるようになった。
その前だろう、夏休みにはいつも福島の中の沢温泉にゆくことになっていて、そこに映画館があり、当時としてはもうふるくなっていたのだろうか、美空ひばりの映画ばかりやっていた。僕は美空ひばりが大好きになった。最初の大好きな歌手だ。音楽が好きだったので、アメリカのホームドラマや、日本のドラマ、例えば、月光仮面、幻探偵、とうとうの歌はすべて歌えたしくちづさめた。珍犬ハックルというアニメがあり、その犬はいつも、「お前誰、お前誰」と歌っていたが、後に「オーマイ、ダーリン」と歌っていることを知った。
31日の、大晦日、テレビもチャンネル件は父親にあり、父親は喜劇が好きで、紅白歌合戦と重なっていた、エノケンを見た。僕は、紅白歌合戦が見たかった。テレビは今と違い、一家に一台しかない。しかたがなく僕は布団にもぐってラジオで聞いていた。もちろん、エノケンは面白かったが、僕は美空ひばりが好きだった。
コーラス部にいたけれど、音符が読めたわけではない。それでも、たて笛や、ハーモニカは上手だった。歌が好きでいつも歌っていた。もしかしたら、音楽方面に進むかなと思ったりした。その頃ようやく、わがやにもレコードプレーやが、それもモノラルで、レコードはソノシートだった。本のなかにぺらぺらのビニールのようなレコードが入っていて、それをプレーヤーにかける。クラシックなんか聞かないが、合唱団の歌集でもなりそうな曲ばかりだった。
まだ洋楽は知らず、ラジオからの、それこそ宇宙の果てから流れてくる、特別な音楽としてしか洋楽は意識していなかった。
この続きは、「音楽について2」として中学時代以降としてそのうち。すぐに書くかも知れないが。

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2004.12.25

猟奇的な彼女 チョン・ジヒョン

チョン・ジヒョン主演の「猟奇的な彼女」を見た。今頃見たわけで、テレビの吹き替えだったので、でたり入ったりしながら見ただけなので、きちんと見たわけではない。ただ主演のチョン・ジヒョンの魅力ははっきりわかった。ものすごく美人というわけではないが、今の日本の女優にないエネルギッシュな感じが、それでいて「品」を感じた。それは今の韓国のタレントたちに共通する、「品」のよさだ。
日本のタレントは、テレビのキャスターが育ちのよさと、「品」を売っているが、韓国の女優たちはその「品」のよさがほのかに感じられる。それは日本の芸能界と、韓国の芸能界のちがいかもしれない。
話は飛ぶが、ベトナム人は韓国人があまりすきではない。現在のベトナムには韓国の影響が強い。ホーチミン市の一番のデパートは韓国資本だし、かつて日本の車が多かったが、今やほとんど韓国の車、バスやトラックも含めて多くなっている。工場も多い。そんなわけで、ベトナム人は韓国企業、会社の労働者という立場ということもあるが、韓国人の人使いの荒さに少し驚いているようだ。そして何より、韓国人は、すぐかっとして感情的だという。
そういうところは今はやっている韓国映画からは想像できない。僕も韓国人というと、血気盛んというイメージがある。もっとも、在日の韓国人、朝鮮人の知り合いは、皆インテリで、日本人よりかえってクールな気がするが。
「猟奇的な彼女」では、根本的な笑いが、日本人とほとんど変わらないことが面白かった。それほど、日本と韓国は似た文化だということだ。
ただ韓国の男子には徴兵があって、そいうどうしようもない国家に対しての「忠誠」というか、現実があり、韓国の男はどこか現実的に見える。かえって、徴兵のない日本の男のほうが、暴力に対して、憧れがあるのだろうか。映画のなかで、武器を持った兵士がでていても、当然不自然な気がしない。そういうところが、映画を作る側としては、無理やりリヤリティを狙わなくても、そんなもの日常だから自然に扱える。
映画はとても面白かった。きちんとみてないのに、無責任だが、しかも吹き替えだ、なのにとても面白いと感じた。今まで韓国の映画を僕はぜんぜんみていない、不勉強だった、と思った。ビデオでも見ていない。遅ればせながらこれから見てみようと思う。一時期、香港や、台湾、中国の映画は続けて見ていたが、韓国がこれほど、楽しめる映画を作れるとは、驚きだった。単純に映像が、綺麗すぎるところもあるが、素直で好きだ。悪ぶったところもなく、芸術ぶったところもなく、自然で好感が持てた。
なにより、チョン・ジヒョンの魅力いっぱいだ。いったい日本だったら、誰だろうと考えたがあてはまる女優はいなかった。昔の女優にいたかもしれないが、今の女優にはいない。
韓国はヨンさまばかりではないことを、もっともぼくはヨンさま、もよくしらない。冬のソナタをみていない。それでもテレビでちらっとみた、この「猟奇的な彼女」を見て、「僕の彼女を紹介します」を絶対みてみたいと思った。
さっきベトナム人にとっての韓国人について語ったが、韓国人はすぐ怒るということだったが、それでは日本人はどうなのと聞くと、たいていベトナム人は日本人はやさしいから好きだという。あまりおこらないと。それでもどこか日本人の嫌いなところがあるだろうと聞くこと、、日本語通訳の女の子は、日本人旅行者をガイドしているときは、とても楽しく、うまくやれたと思ったのに、数日後、日本の旅行社からクレームがきて大問題になるという。その場でいえよ、と思うが、日本人はその場は不満でも、あまりクレームはいわないらしい。いかにも日本人らしいエピソードだ。


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若いおまわりさん

今日の僕のブログ、ピンクレディ2で触れた、「もしもしベンチでささやく‥‥」の歌のタイトルは、
「若いお巡りさん」と友人に教えられた。
昭和31年、1956年
作曲 利根一郎 作詞 井田誠一 歌 曾根史郎

もしもしベンチで囁くお二人さん
早くお帰り夜が更ける
野暮な説教するんじゃないが
ここは近頃物騒だ
話の続きは明日にしたら
そろそろ広場の灯も消える

もしもし家出をしたのか娘さん
君の気持ちもわかるけど
国じゃ父さん母さんたちが
死ぬほど心配してるだろ
送ってあげよう任せておきな
今なら間に合う終電車

もしもしタバコをくださいお嬢さん
今日は非番の日曜日
職務尋問 警防忘れ
あなたとゆっくり遊びたい
鎌倉あたりはどうでしょか
浜辺のロマンス パトロール


昭和時代を感じさせるいい曲だ。警察官がナンパする歌。しかも現代と同じように、女がタバコを吸っている。タバコを吸う女ならばナンパできるのか。

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ピンクレディ 2

ピンクレディの続き補足
ピンクレディを初めて見たのは、1976年だ。ペッパー警部からだろう。僕は1975年にフリーになった。山口百恵の全盛時代だと記憶しているが、1975年は、岩崎宏実がデビューして新人賞を取った。僕は細々と(仕事が少なかっただけで、内容は恵まれていた)タレントを撮っていた。
前回も書いたがピンクレディをはじめて見たとき、アイドル写真と同じように健康的な色気を前面に打ち出したデュオだと思っていた。すでにキャンディーズが存在していたので、キャンディーはその名の通り、しかもナベプロなので、天地真理と同じように完全なアイドル路線だったが、ピンクレディはちょっと違う路線を狙っていたように思えた。
ただ曲は当時26歳の僕でも、へーと思うほど、耳に届いていた。あまりに時代が違うし、若い人は誰も知らないと思うが、僕が小学生のぐらいのときにヒットした、曲、タイトルは忘れたが、「やさしいおまわりさん」、だったかな、歌詞の内容は、♪もしもしベンチで囁くお二人さん、早くお帰り世が耽る、野暮な説教するんじゃないが、ここらは近頃ぶっそうだ‥‥。のおまわりさんが、ペッパー警部のような?気がしていた。なんて感想は僕だけだったろうか。
しかし作詞の阿久悠、作曲の都倉俊一は世代的に当然わかっているのだろう。
そしてSOSと、すぐにトップアイドル、トップ歌謡スターに上り詰めた。その後は国民的な歌手に、特に子供たちの人気は絶大で、今の30歳半ば以上の女性だったら誰でも振りを覚えているだろう。
キャンディーズとよく比較されたが、キャラの違いは当然としてサウンドが全く違っていた。
キャンディーズの3人の声は全員可愛らしく、そのため曲は単調だった。
ピンクレディは、顔に似合わずケイの野太い声がデュエットのハーモニーを大人っぽくしていた。
ある意味、ミイとケイは、容姿や歌とどちらも、ケイがリードしたいが、実際ピンクレディとしては、ケイはいつもミイの足を引っ張っているように見えた。いつもなげやりに見えた。シャイでしかもあの声のせいもあったろう。
僕は仕事ではアイドルを撮ることが多かったが、キャンディーズも、少年マガジンで撮った。彼女たち全盛時代、表参道の歩行者天国を走りぬけるように撮ったこともある。
ピンクレディは、前回書いたが、オリンピックキャンペーで撮影しただけだ。
実際その頃僕は、ほとんど洋楽を聞いていたので、仕事上だけで歌謡曲を聴いていたものの、なにしろ70年代は、日本の歌謡曲の全盛時代だったから、黙っていたって、テレビを見れば歌謡曲につかっていた。知りたいと思わなくてとも、だから知っているのだ。
キャンディーが解散したときは、全盛時代だったのでかなり盛り上がったが、いや解散することが決まって、初めてビッグになった。
ピンクレディはアメリカ進出失敗や、落ち目になっていたので、僕は解散コンサートを覚えていない。
まあ、そんなことに興味がなかったのだろう。もっと面白いことはたくさんあったしね。
もっとも僕は子供の頃から、歌謡曲が好きだったから、興味はないといってもインプットされているかな。
助手時代は、山口百恵、桜田淳子、と2泊0日のハワイにもいったことがある。僕の師匠は当時、日本のタレントたちを撮りまくっていたのでまるで芸能界にすんでいるような毎日でもあった。
フリーになったら、そんな生活はなくなり、しだいに僕はタレントを撮るより、ファッションや広告のほうに行くのだが、タレントの写真を撮ることは今でも好きだ。
ピンクレディの話から、飛んでいるが、昨日のキンスマを見て、歌手として今でも続けている人を見るとうれしくなる。演歌歌手は、営業をできるせいだろう、いきが長いがほとんどの歌謡曲の歌手は、消えてしまうとそれでおしまいだ。
今のように、歌手=アーティストとなれば、自分で音楽の方向性をつくれるので、固定ファンがつき、細々とでも活動を続けられる。しかし歌謡曲の歌手は落ち目になれば消えてしまう。続けることはたいへんだろう。
そういう意味でピンクレディの復活はうれしい。それも昔よりずっとパワフルになり、大人の仕事、表現となり、素敵だ。現代の作詞家、作曲家に新しい曲も提供してもらい、がんがん活動してほしいと思っている。昔僕が覚えている、ピンクレディより今のほうが百倍素敵だ。

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ピンクレディ キンスマ

クリスマスイブ
キンスマで、ピンクレディをやっていた。今のミイとケイ(増田けいこ)は、輝いていた。
1970年代、ピンクレディは忽然と登場した。最初の記憶は、レコード大賞新人賞?だったろうか。垢抜けないチープな二人が、ペッパー警部を歌った。曲も歌も安手でも、でもデュエットという、ザ・ピーナツから始まり、コマドリ姉妹?、‥‥。といった歌謡曲音楽時代にどこか衝撃的なニュアンスはあった。それは男性グラビア雑誌のような、少しエッチな、雰囲気があったからだ。何より二人の声のトーンが大人ぽかった。その理由が、ケイの低音だったことはあとで気がついた。
お色気路線だったピンクレディが、名曲「渚のシンドバット」以降、急速に子供向けになって、僕は興味が失せた。国民的スターになって子供たちのアイドルとなり、まい今で言えばモームス(パワーその百倍ぐらいあったが、何しろ日本の歌謡曲時代の全盛期、今と違う)だろうか。
UFO、サウスポーは、それぞれ未知との遭遇、王貞治ホームラン世界新、といった時事ねたを拝借していたな。
その頃僕はフリーの写真家で、オリンピックか、何か忘れたが、何かの協賛で、1970年代後半だからなんだろう、まあいいとして、彼女たちを撮影した。撮影時間正味30分。場所は今や六本木ヒルズの建つ場所にあった、六本木スタジオの第一スタジオ。電通の仕事だったような気がするが覚えていない。しかも広告だったので、ポジも全部渡していて、何も残ってはいない。探せばポラロイドぐらいでてくるだろうか。二人に直接あって、ケイは元気がなかった。テレビで見ても、ミイはいつもはつらす、ケイはいやいやというイメージだった。
そのうち彼女たちはアメリカでデビューして、ビルボード40位以内に入り、(宇多田より立派)番組で水着になり風呂にはいり、しかも彼女たちの事務所が大問題を起こし、消えた。いや解散した。いやどうしたのだろう。
今日、キンスマで、増田けいこが当時のことを振り返り、恋人と事務所との確執を語っていた。恋人とは、当時を知る人は誰でも知っていること、野口五郎のことだ。
そのころ僕はピンクレディのことにすっかり興味はなく、あんまり覚えていない。
ピンクレディは結局、落ちぶれて解散したと記憶していた。
数年後、ミイを撮る機会があった。沢田ケンジの、アートディレクター衣装担当の早川タケジの衣装で(すけすけの極彩色)、文藝春秋の「エンマ」という雑誌で撮ったことがあった。一生懸命彼女もやってくれた。
今、ピンクレディは2年間だけ限定で再結成。40過ぎた大人の女はいいものだ。
なにより二人とも本当に楽しんでやっている。踊りは若いころよりずっとうまくなった。二人とも、努力し、トレーニングを持続していた成果だ。歌もずっとよい。きっと、かつてのピンクレディ時代には、自分たちがやっている実感がなかったのだろう。今は違う。
あの時代の日本の歌謡曲の、フィクションさ、はなんとも懐かしい。
歌に限らず、今のアートは皆どこか現実的だ。でも、歌謡曲全盛時代のメッセージは、本物らしさを前面に押しださないため、かえって普遍的なものが表現できている。作詞あくゆう、作曲、都倉俊一、二人とも本気で作っている。その潔さ。
日本の芸能や芸術、ファッション、音楽はどれもすべてが流行だ。はやっているもの以外は消えてゆく運命。でも違うと思う。良いものはそれぞれ残っていって欲しいと思う。
写真もそうだ。日本にファッション写真はない。モード雑誌はない。なぜならそのとき流行の撮り方以外はなくなってしまうからだ。ヨーロッパのように、アナクロな撮り方をする写真家が今でもボーグに載っている。それは流行ではなく、個性だからだ。
日本は懐メロといういいかたがある。美空ひばりも、ピンクレディも、山口百恵も、グループサウンズもどれもこれも、昔のヒット曲は懐メロだ。でもFENで1964年のヒット曲と紹介されたとき、それは懐メロではなく、その時代の音楽だと紹介される。時代が違うだけで、懐かしさとして整理されることと、現代につながる時代の音楽とは扱いかたが違う。
ピンクレディは、2年といわず、ずっと活動を続けて欲しい。ザ・ピーナツが復活することがありえないのだから。

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2004.12.23

ベトナムのモデル2 身長174センチ

身長174センチのモデルは、ベトナムではとても大きいほうだ。たいていベトナムのモデルは165センチから170センチぐらいしかない。
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タイン・ハンの大きな写真

2002年4月27日
朝6時に起きて、6時半出発。先日ミトウに行ってもらった、タイン・ハンが行っている、総合大学の中にある大学受験のための予備校のようなところに行く。授業を受ける様子の撮影。終わったら友達二人も同行してくれることになる。バスでヘアメイクの店に、アオザイをピックアップ。その後、サイゴンでファッションデザインをやりながら、カフェバーも経営している沢村たかゆき氏の店で撮影。彼は一週間前ぐらいに開かれた、ベトナムファッショウイークに参加していた。新聞にも彼の記事が紹介されていた。そこでミトウに行ったときに来たアオザイをもう一度着てもらう。彼女はまだ撮影に慣れていない。どちらかというと、動き回っているほが綺麗だ。その後、韓国資本の、ダイヤモンドプラザにある、ダイヤモンドデパートで、やはり友達3人と一緒撮影した。ちょうど階上の映画館がオープンしたとあって、デパートの入り口はいつにもまして混雑していた。化粧品売り場には資生堂やコーセーも、入っていた。日本のデパートの1Fの化粧品売り場と同じような雰囲気だ。エスカレーターで6階のゲームセンターやボーリング場、プールバーがあるフロアで撮影。その後、皆でイーボーという台湾料理屋で食事をした。週末だからだろうか、いつもはない点心‥‥飲茶があった。外務省のTさんが全てオーダーしてくれた。全員で11人。ふかひれスープ、クンシンサイ、ナスとひき肉の炒め物、マーボー豆腐、大根もち、えーと名前を忘れた、軟らかい米の皮で巻いた海老、よく飲茶ででるやつだ、それのビーフ、それで全部かな、ビールとジュースと最後にデザート、合計約9000円。ずいぶん安いと思った。

食後一回ホテルに戻り、2時にタイン・ハンさんの家に行く。彼女は2001年、PhuNuという雑誌のモデルコンテストで優勝した。賞金は50,000,000ドン、日本円にして約45万円だ。価値としては600万から800万もあろうか
thanhhangshop

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ベトナムNO.1歌手 ミイ・タム

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はがれたポスター、うらぶれた感じだが、実際は町中にミイタムのポスターが貼られた。雑誌の表紙もどれもがミイタムだった。田舎の男の子の部屋にもミイタムのポスターがある。彼女は男ばかりか、女の子にも人気がある。広告でも人気がある。
今やベトナムNO.1の歌手ミイ・タムは、先日見たテレビでは、まるで昔の美空ひばりのように貫禄があった。現代のベトナムのポップシーンをリードする、いってみれば、宇多田ひかる、あゆ、年齢は違うが、そのうちに似ると思うがあややをミックスして、でも貫禄がつき、美空ひぼりのようになったMyTamだ。ベトナムでは、CDは、初版プレスでおしまいになる。なぜならその後はすべて市場にコピーがでまわるからだ。だから歌手はレコードでは成功できない。そのため、彼らは日々ライブ活動をする。ワンステージ1000ドル以上、ベトナムの生活水準から考えたら、とんでもなくリッチだ。ライブする劇場やライブハウスは多く、特にライブハウスは、小屋のおおきさもちょうどよく楽しめる。通常10組ぐらいの前座があり、その後真打、ミイタムが登場して約1時間弱、歌い、踊りまくる。ベトナムは、メディアは発達しているないが、ライブはかなりいけている。ベトナムに行く機会があったら是非訪れて欲しい。熱気がすごい。

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これは、2002年に撮影したもの。サイゴン川のフェリー乗り場。スーパースターが突然あらわれて、周囲はいきをのんでいた。

ベトナムの今のスーパースター、ミイ・タムを撮影した。中心街にある、彼女がダナンから出てきたときに、間借りしていたおばさんが住むアパートに行った。アパートといっても、天井の高い多分仏領時代に建築されたであろう、ビルの4階にある広い間取りだ。今まで僕が見たサイゴンのアパートのなかで一番立派だった。エレベータが壊れていて階段を使った。彼女の家は今ニュータウンに建築中だということだった。撮影はそのアパートで始まった。ピアノやギターで弾き語りをしてくれた。現代的でシャープでかっこいい少女だった。取材中鼻歌のように歌を歌ったり、動き回ってとてもキュートだった。薄紫色の紗のような生地のちょっと変わったアオザイを着て、サイゴン川のフェリーに乗って撮影した。とっても気さくな気のつく素敵な子だった。お昼もおばさんと一緒に作ってくれた。食後、コンサートのダンスのレッスンに行った。歌ばかりか、とてもダンスも上手かった。練習というより振りのすり合わせてといったところで、3,40分で終わった。その後、ある作曲家の歌のレッスン。先日はライブハウスだったが、今度は劇場でのライブだ。楽しみだ。
MY TAMはベトナム中部の都市、ダナンの出身、八人兄弟。6歳からバレーを始め、10歳で賞をとる。そのころ劇団に入る。ギターをならい十代前半でかずかずの賞をもらう。16歳でオーディションで一番になり、有名な作曲家に師事する。
家族や親戚に歌関係の人間はいないので、本格的に勉強するために、親戚を頼ってホーチミン市にくる。その後歌の勉強を本格的に始める。最初はクラシックを学び、ポピュラーに転向する。その後数々の賞をもらう。2000年、新聞社主催の歌謡コンテストに優勝して、上海アジア歌謡祭で賞をもらいブレークした。作曲もする。4月26日ホアビン劇場でライブをする。そのライブの取材もする。
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2003年、二回目の撮影のときには、人ごみに囲まれるのはいやだと条件をだされた。そのため、ビルの屋上で撮ることにした。それでも日本のタレントだったらなかなかまわりが許しくれないような場所だった。

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ベトナム女優

ベトナムの映画監督、レ・ホアン監督の「ダンシングガール」に出ていた、女優。ちょっと名前紛失。そのうち見つける。この映画は、ミ・ズエンもでていた。
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モデルや女優を撮るとき、演出くさくならないように気をつけている。カメラの前というより、「視線の前」の瞬間を捕らえたいと思っている。ちょっとした偶然を取り入れることが、リアルさを呼び込む。
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2004.12.21

ベトナムのモデル

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ちょっとわけあり、かつてデジタルで撮った、ベトナムの写真を選んでいる。そこで、僕が一番ベトナムで気に入っているベトナムのモデルの写真がでてきた。名前はヴァン・クインちゃん16歳。(当時現在18歳)
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彼女は、まだ高校生モデルだ。あまりプロ意識があるとは思えない。かつてベトナムのモデルは、ミスコンテスト出身者がほとんどだった。だから美しいだけではなく、勉強もできるし、家柄もよかったりした。ところが、ニューウエーブ、ヴァンちゃんは、しっかり撮影に6時間遅れてきた。しかも、ホーチミン市からチャウドックまで、約バスで5時間かかるロケ地にゆくてはずだった。朝6時集合、7時になってもやってこない。電話してもつながらない。もちろん携帯の番号にもかけている。コーディネイターのチュンさんに、段取りの悪さをクレームする。二人のモデルを撮るつもりだったので一人だけ乗せて、出発。チュンさんには彼女に変わるモデルを探して連れてくる段取りを取ってもらう。10時ごろ、新しいモデルを見つけたと連絡が来たやさき、ヴァンちゃんと連絡が取れたという。寝坊。けろっとしているという。チュンさんはかんかんに怒っているが、柳に風。チュンさんは新しく段取りしたモデルにしたいというが、ヴァンちゃんは僕がファッション誌からみつけて気に入っていたので、彼女をやはりつれてきて欲しいと伝える。しぶしぶチュンさんは、段取りした新しいモデルをキャンセルして、夕方チャウドックに連れてきた。
あってもあやまるでもない。でも可愛くて憎めない。にこにこしている。彼女は携帯のメールを時間さえあればやっている。何をやってるのときくと、今チャウドクに来ていると友達に送ったという。明日の夜の約束。レストランで大勢で食事。あーまるで日本の子といっしょだ。チュンさんは、こういうモデルは使いたくないという。でも、いいんだよ。だからかわいいんだと、僕は言った。ヴェトナムのモデルはいい子が多いので、新人類(ふるいことば)は、新鮮だった。
でも感覚も、スタイルもよく、日本だったら人気がでるな、いやいやベトナムでもかなり人気らしいが、こんな調子だからいつもでモデルをやっているかわからない。もうやめてしまったろうか。
ちなみに彼女は、友達の紹介でモデルになったという。将来はの夢は。「うーんわからない」「今日のことしかかんがえていない」とは、さてさて、といったところか。


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2004.12.18

日本カメラ1月号

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ベトナム、ホーチミン市郊外にあるゴルフ場。Tシャツで行ったら、襟のあるシャツを買わされた。

日本カメラ1月号に「私はコレで撮る!」という特集がある。そこに僕が載っています。NikonD70にタムロンの28-75mmF2.8をつけて、来年はCanon20Dで撮ると、周囲に目配りをしたことを言っています。でも実際本当のことだからいいか。実際そうやって撮っている。日本カメラ編集長が変わって、ちょっと雰囲気が変わった。手で持った、手触りも違う。ちょっとノリが軽快になったようだ。
渡部さとる氏の、「東京風景写真」が掲載されている。彼の本でみたことのある、4x5を2枚使った印象的な作品だ。カラー14ページの特集。こんなところも、ちょっと日本カメラ変わったのかなと思わせる。新しい編集長は、このまま思ったとおりの編集方針を貫いてほしい。

去年の夏開催した「サイゴンの昼さがり94-03」の写真展にきてくれて、カンボジアの写真を撮り続けている遠藤俊介氏が、2月号のアサヒカメラに3ページ掲載されるときメールがあった。そのとき少しばかりアドバイスをしたことが、役にたってくれたかなと思うとうれしい。彼はカンボジアについてのさまざまな活動もしている。
20日には、「デジで本」が発売される。写真集のつくりかたばかりではなく、写真の撮り方も書いてあるので読んでください。
さて、月初めにベトナムに行き、ユニチカのキャンペンガール、村上恵梨嬢を撮ったことを書いたが、そのときビデオもまわした。それが今日大筋、編集が終わり見た。機材は普通の家庭用のデジタルビデオだ。編集は、超プロフェッショナルの、K氏とW氏に頼んだ。スチール写真も挿入された、かっこいい作品にしあがっている。その編集をみていて、デジタルの進歩、編集技術の進歩、それが普通のパソコンでできる時代になり、イヤ本当になんでもできる、音楽だって、つくれちゃう‥‥。そう思うとなんて、写真てシンプルなメディアだなと思う。映画やビデオ音楽は、空間と時間の芸術だ。そこには、多種多様な技術が挿入されている。かつては本格的な編集室でやっていた作業が、簡単にできる。それでも、DVDはまだまだ情報量が少なく、進歩の余地はまだまだある。
それに引き換えなんて写真はアナログ、アコースティックなんだろう。デジタルだなんだかんだいっても、さして銀塩とは違いがあるようには思えない。モノクロの暗室技術と、デジタルの作業に根本的な作業の差はない。メカニックにかんしても、ビデオ、テレビ、映画業界のように、プロフェッショナルな技術は、それほどあるとは思えない。だからこそ写真が面白いのだろう。なんでもできて、かえってますます複雑になる、映像業界。でもそれから比べると、写真てなんてシンプルなんだと思ってしまう。

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2004.12.17

新風舎 インタビュー 横木安良夫

新風舎のインタビューです

2004年12月 執筆前夜

横木 安良夫 さんインタビュー (全4回)
取材・文/小山田桐子 撮影/新城孝


第1回

ゼロからひとつの世界を作り上げるクリエイターの仕事。ゼロが1になる瞬間ともいえる、一文字目を書き付けるその時に至るまで、プロは何を考え、何をしているのか。プロの創作の秘密に迫るインタビュー、今回はカメラマンとして活躍されながら、話題のノンフィクション「ロバート・キャパ 最期の日」を刊行するなど、精力的に執筆活動も展開している横木安良夫さんにご登場いただいた。第1回ではカメラマンを志すまでについてうかがう。

ユーミンの「オリーブ」など様々なミュージシャンのレコードジャケットを手がけるなど様々な分野の第一線で活躍を続けるカメラマン、横木安良夫さん。 03年、横木さんは「熱を食む、裸の果実」で本格的な作家デビューを果たした。写真という言葉を用いないメディアで長らく活躍していた横木さんが、小説を書こうと思ったのはなぜなのか。

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一ノ瀬泰造戦場より愛をこめて!

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一ノ瀬泰造のお母さん、信子さんから新作、「一ノ瀬泰造戦場より愛を込めて!」が届いた。紫色の横長の分厚いコンパクトな写真集。泰造がカンボジアで行方不明になった1977年、日本の外務省からフィルムが梱包された荷物が届いた。白黒フィルム376本、カラーフィルム45本、キックボクシングを撮った6本、使用残のカラーフィルム54本。
――私はこの時の感激を一生忘れないだろう。当時の私の日記をみると、この日から3日間空白になっている。何しろ、それからというものはネガを光に透かしてながめて終日過ごしているのだから。――(一ノ瀬信子)
まだそのときは、泰造の死を信子さんは確認していない。そのときの興奮が、いっさつにまとまっているのが本書だ。モノクロのコンタクトプリンと再現した写真と、あらたに発表する、その隙間に存在していた多くの写真。
キャパのコンタクトプリントが興味深かったように、やはり一ノ瀬のコンタクトも、一枚の写真とは違ったメッセージがある。写真とはなんと不思議なものなのだろう。一ノ瀬の全部のコンタクトプリントをみてみたくなった。もちろん一ノ瀬は戦争カメラマンだけれども、戦闘ではない、平和の時間の一ノ瀬の写真もやはり魅力的だ。1973年3月3日のサイゴン動物園での白いアオザイ姿の女学生たちのスナップ。たしかカラーで撮った、ずぶぬれの、そして下着の透けた写真を一ノ瀬は撮っている。僕はあの写真が大好きだった。そして今回その前後の写真が発表されている。そして恋人だろうか、レ・フォンを撮った幾つかの写真。みているとなんか胸がジンとしてしまう。今彼女はどこにいるのだろうか。
サイゴン、戦争博物館に、ベトナム戦争で活躍した多くカメラマンの作品とポートレイトが展示してある。そこにひときは目立つ、銃弾の貫通したニコンFの写真がある。それこそ一ノ瀬泰造のカメラだ。本当に不思議だ。いとも美しくニコンはひしゃげている。そしてこのときは、一ノ瀬は死ななかった。
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2004.12.14

ベトナム、サイゴンにいる

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なぜか、ベトナム2泊4日の取材中、ホーチミン市にいる。今回のホテルはソフィテル・プラザ・サイゴンだ。旧大統領官邸とサイゴン動物園を結んだ途中、アメリカ大使館のはす向かいにある。このホテルに泊まるのは初めてだ。部屋は可もなく不可もなく。ただ中心街からは少し離れている。今回ベトナムを訪れて10年、初めて市内観光をした。なかでも大統領官邸は、始めてきた95年に一度一階部分をみただけで、もしかしたら当時はなかの見学コースがなかったのかもしれないが、今回初めてじっくり説明を受けながら見学した。表から見る印象より、ずっとモダンなインテリアだった。始めてくる人は是非見るとよい。その後、教会、郵便局、そして戦争博物館に行った。以前みたときとはすっかり変わって、展示物がかなり充実した。そこに、沢田教一、一ノ瀬泰造、石川文洋、そしてキャパの写真が展示してあった。あまり展示の状態は感心しないが、それでも一同にインドシナ戦争、ベトナム戦争の報道写真が並んでる様子は壮観だった。やはり、ベトナムのは雑貨をかいあさるだけではなく、ベトナムの歴史も知る必要あると思った。ベトナムは、中国の属国としての支配、独立、封建制、植民地、フランスの支配、日本支配、南北分裂、社会主義、自由主義、統一、開放制作、なんといっても戦争、戦争、とこんなにも激動の時代をくぐりぬけた国が他にあるだろうか。

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2004.12.11

ベトナムパック旅行と週刊誌

昨晩は、某週刊誌の忘年会。夜二次会から参加。若い編集者のエネルギー、残念ながら仕事へのエネルギーとは少々ベクトルが違っているが、このエネルギーが誌面に反映すれば、いいと思うが。彼らの責任というより、彼らを使う側の責任だろう。日本の週刊誌は世界のなかでもかなり異質だ。日本の出版社自体もなんでもやる総合出版社でハイブローなものから、限りなく風俗誌に近いものまでもを扱っている。一つの貫かれた精神がある大手出版社は少ない。今の時代、俗にいうおじさん雑誌、ポスト、現代、はかなり苦戦している。特に、脱ヌードをうたったポストは苦しいらしい。やはりヌードだのみなのだろうか。いや、今Nudeを載せたからといって復活することはないだろう。別に載っても不思議はないし、(読者のNUDE復活の署名でもあつめて、ごめんなさいとあやまればいい、それこそが日本の週刊誌なのだから)たぶんそのうち復活するだろう。日本の週刊誌の、グラビアと活版という、それも課粗悪な紙をつかったコーリティペーパー?は、世界のなかでもかなり特殊だ。
10年前、ベトナムで某週刊文春の、原色美女図鑑を撮ったときだ。そのとき、週刊文春をベトナム人に見せると、その本が日本の、割と知的な週刊誌であるとは、誰も信じてくれなかった。それもグラビアもせいぜい巻頭8ページぐらいのカラー頁、巻末同じく8ページ、表紙は和田誠のシンプルな画‥‥。外国人が見ると、その表紙以外はどうみても、安手の雑誌と同じだと思ってしまう。だから、ベトナム人にこの雑誌が、ちゃんとした雑誌だと説明するのに難儀した。
日本はかつていやごく最近まで、活字文化の国だった。そういう週刊誌も、もともと活字の本であり、それにグラビアがおまけとしてついていた歴史がある。活字を読むのにピカピカ光った紙では読みにくい。ビジュアル雑誌と、週刊誌は違うのだ。
某文春は、ともかく、ポスト、現代は、外国人が見ると、ポルノ雑誌もしくは、そうとう低レベルの大衆紙だと思うだろう。しかし、多くの日本の男性諸氏は、特別そういう週刊誌を、ポルノ雑誌とは思っていない。なにしろそれこそが、日本の文化だからだ。日本の週刊誌の面白いところは、ハイブローなことも低俗なことも同列に扱っている。「味噌もくそも一緒」等価にしてしまう。そこにどうしようもなく憤りを感じる人もいるようだが、僕はそれこそ日本の雑誌文化の面白さだと組する側にいる。
女性誌や、ファッション誌のようにカタログ化した、商業主義、販売促進に直結した雑誌を作るより、ポス、現、週刊誌の制作現場のほうがずっとビビットで、面白い。あの「くだらない内容」を作っている、編集者たちは、皆とても魅力的だ。本音で物が言える。しかもかつては取材費も潤沢だった。
ところが、その週刊誌が売れなくなってきた。理由は簡単だ、その手の雑誌は、暇つぶしのための雑誌だったからだ。政治や社会、スキャンダルの情報誌の面もあるが、とく別深いわけでもない。
かつては、読者であるサラリーマンが、しかも年功序列、終身雇用制のなかで、皆がなかよくやっていくための、ポ、現、は、情報ツールだったのだ。
日本の企業のなかの仕組みは、数人の優秀な頭脳と、あとはそれをサポートする従順な実行部隊で編成されていた。実行部隊は、本質を考えてはいけない。もちろん実行するためには、最大の切磋琢磨、そして思考はする。しかし、なぜそれをすべきかは、考えては優秀だとはみなされない。
何しろかつての日本、いまでもそうだが、その中心には、「利潤」が神のように存在していたからだ。会社の利益のためならば、それがたとえ社会的悪だとしても、やりとげるのが美学だった。そこには、コミュニケーションを円滑にする、共通言語、共通認識、を持つ必要があった。その気分を共有するツールが、ポ、であり、現だった。両誌ともかつては十分な役割をはたしてきた。
しかし、バブルが崩壊し、日本の企業のスタイルが変わった。大会社でさえつぶれる時代、銀行でさえなくなる時代だ。そこには、自分の将来を、いくら大会社に所属していたとしても、安泰であることは無保証になった。どこにいようが、自分の将来は、自分で考えなくてはならなくなったのだ。かつてだったら、良い上司にめぐりあることで、展望が開け、保証された。しかし今は、会社そのものの存亡がさえ予測がつかない。そんな時代の、誰が、暇つぶしの週刊誌を読むのだろうか。しかも悪いことに、携帯電話、パソコンの普及だ。暇つぶし、情報の収集に関して、週刊誌よりずっと強力なライバルが出現した。僕は経験あるが、新幹線で関西に行くとき、皆何冊も週刊誌を買った。
さてこれから、週刊誌はどうするのだろうか。このまま衰退するのだろうか。他の雑誌のように、お上品になって、広告をめざすのだろうか。
まずそれはありえないだろう。新聞がテレビニュースがジャーナリズムを標榜するように、週刊誌もやはりジャーナリズムだと、今でもわずかに自負しているからだ。男性週刊誌は娯楽雑誌の顔をしていていも、低通するのは、ジャーナリズムだ。ただ新聞ジャーナリズムと違うのはそこには、かなりファジーな要素も黙認することがあるメディアだ。
新聞の間違いと、週刊誌の誤謬は次元が違う。週刊誌はもともと、進行形、半加工品を提供する場であることが許されている。間違いだったらあやまればいいといったスタンスもある。その一線を明確には引けないという、いいかげんさもある。だからこそさまざまなことが網にかかってくる。
僕は日本の週刊誌が、ポ、現、文、新、etc、‥‥が、大衆的ジャーナリズムを標榜しつづけるべだと思っている。インタネットと何が確実に違うかといえば、たとえばここに僕が書いていることは、客観性がかなり希薄だということだ。あくまで僕の意見である。しかも文章も論理的ではないし、完成していない。だからこそ面白いのだが、(書いていて)ここには、あくまでの個人的な場でしかない。たしかにブログはかなり開かれていると思う。それでもこうやって書きなぐった文章を載せることもできる。しかし出版は違う。個人の遠吼えではない。(もちろん例外もある)この文章の責任は僕個人にあるが、出版物は多くの責任者がいる。多くのフィルターを通すことで、大衆ジャーナリズムを下支えしている。雑誌に限らず、書籍もだ。それは歴史のなかで出版という文化が保証したものだ。(もちろんかなりいつだつした出版物もあるが)。
今、出版界はまがりかどだ。かなりの部分が淘汰されるだろう。しかしネットと出版は別物ではなく、リンクし、補完しあうものだろう。出版は、出版のやくわりが明確になれば、よくなるかもしれない。‥‥。ちょっと尻切れトンボだが、こんなふうに終われるところが、ネットのよいところだ、このつづきはまた、そのうち書くと思う。

さて、明日から、2泊4日でベトナムに行く。実質ホーチミン市、1日と4分の3の旅だ。しかもパック旅行。
そんなことやったことがないけど、スケジュールが合い、やってみることにした。もっとも写真を撮るだけなので、僕は短いだけで、仕事としてはたいしてかわらない。半日のホーチミン市市内観光もあるという。それも未経験だ。あたまをからっぽにして、初めてベトナムを訪れた気分で味わってみたいと思っている。
それと、ちょっとゴルフもやってもようと思っている。殺人的スケジュール。
そんな旅が安いか高いか、高いに決まっているのだけれど、未体験なので興味がある。

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2004.12.07

Robert Capaのアングル

キャパの写真を見ていて、いつも感じることだが、そのアングルの低さだ。それはたぶんキャパの写真の多くが、ローライフレックスを使用していて、そのウエストレベルのアングルが基本だからだろう。キャパは子供を撮るときは当然として、少しでも余裕のあるときは、腰のアングルだ。ローライのような二眼レフカメラの、ウエストレベルアングルは自然でも、35mmカメラは通常、アイレベル(立った状態の目の高さ)になる。撮影中のキャパや、残された記事には、キャパがすばやく、片ひざをつくアングルになり、安定した状態で撮影することが多いと書いてある。それは、あたかも、銃を撃つときの、ニーイング、と同じだ。戦場カメラマンであるキャパは、銃を撃つそのスタイルを当然のように受け入れていたのだろうか。それとも戦場では呆然と立って、構えることは危険だから、普段から片膝で構えるのが普通なのだろうか。キャパはたいてい右ひざをついて構える。だからキャパのズボンは右のほうが膝がでていてよれている。キャパの写真がどこか、対象と同じ位置に立っているように見えるのは、キャパのアングルが低いせいだろう。同じスナップの名手ブレッソンは、自分の目の位置、アイレベルから多くの傑作を作り出していた。
カメラのアングルはそれぞれ意味がある。ように見える。35mmカメラを使えばたいてい、アイレベルだからその身長に規定される。背の高いカメラマンと低いカメラマンでは捕らえる世界が違う。車椅子のカメラマン、短躯、普通、長身、巨人。それぞれ捕らえる、世界の関係性が違っている。昔ある著名なカメラマンが、高さ10センチもあるロンドンブーツが流行し、それをはいたとき世界が変わったといった。それほどアングルとは、カメラマンの一つの思想でもあるのだ。政治家だったら見上げるように撮る。そうすると偉い人、信用に足るように写るからだ。女性を可愛く撮るには、上から撮る。女性はカメラを見上げるようになる。目は大きく開き、かわいらしく従順に写る。女性を撮るばあいファッション写真は下から撮ることが多い。女性が世界を支配するよう、フェミニズムな感じがする。子供撮ればわかりやすが、大人からの目、子供の目の位置、子供より低いアングル。そのどれもが同じ子供でも、違って捕らえることができる。
キャパが、低いアングルをいつもえらんでいるのは、きっと無意識ではないのだろう。キャパのコンタクトプリント、それも最後のモノクロの1ロールを見ると、なぜわざわざ低いアングルから撮ったのかの、わからいない写真がある。アイレベルで撮ってもかわらないと思えるのに、きっと何かしらの意図があるのだろう。いや、きっとキャパは通常は、片膝をついた、ウエストレベルのアングルが、ごく普通のアングルなのだろう。何も考えなければ、すぐに片膝ついてとるのかもしれない。
同じ文章をキャパのBlogにも書いた。

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M7.3 神戸ガールズ

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神戸三宮で会った少女たち。彼女たちも震災にそうぐうしている。
「M7.3子供たちが見たもの」

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「デジで本」の最終的な表紙デザインです。
このハウツー本は、デジタルカメラで撮影して、写真集を作ってみようという本ですが、特徴は総覧的ではなく、一つの本当のやり方を紹介しています。かなり独断的な部分もありますが、僕の考えは、結局は自分で考えることがモットーなので、僕の本当のやりかたを一つ知ることで、他の自分のやり方をあみだして欲しいと願ってます。

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2004.12.06

節穴写真機

来年1月17日に発売される、「M7.3」子供たちの見たもの、阪神大震災10年の本の撮影のため、神戸に行っていた。神戸には大学の友人の北畠君と、そうださんがいる。写真は10年前の僕のものと、今回約30人、16歳から19歳までの少年、少女を載せる。インタビューは、そうださんや編集者がした。撮影するだけで彼らの話を聞くことはほとんどなかったので、完成した本にどんなインタビューがついているのか、楽しみだ。彼らは当時まだ、6歳から9歳まだ地震の本当の意味もわからなかったろう。言葉もなく大人から質問を受けることも少なかったろう。彼はまだ社会性のなかでもまれる前のできごとだ。彼らの五感は、どんなことを感じていたのだろう。そして今、あの出来事が、こどもから大人に変わる分岐点でどんなやくわり、影響をあたえているのだろう。いろいろな若者を撮影した。皆とてもきちんとしている。(なかには、どうしようもないのもいたけれど)当然紹介してもらう子にはずれはいない。やはりそればかりではつまらないと思い、三宮でキャッチをする。するのは、カメラマンでもあるY君。彼は外国生活もあり、将来はバックパッカーで旅をしながら世界を回りたいと話していた。彼は、バイトで水商売もしている。「さあ、やりますか!」「ついていっていい?」「え、ちょっとひとりで」。待つこと1時間は、やはり金曜日の午後3時に、高校生、16から19歳ぐらいは少ない。これぞと声をかけても、神戸出身ではない。三宮は観光地だ。途中ぼくと合流。次第に学生が増えてきた。僕の目の前で、Y君はてらいもなく、すぐに声をかける。かなりのプロだ。彼のやさしい話し方、でも、水商売のキャッチより難しいという。この際制服すがたでもかまわないことにした。その日の収穫8人。実際はもっと可能だが、インタビューの時間もあるので、これ以上は無理だった。でもやはり女の子はついついかわいい子になってしまう。夜、神戸の夜、食事と酒を満喫。神戸はいつ来ても、安くておいしいところがある。カジュアルで美味。
北畠君が、数日前に書いた、節穴からすりガラスに映った、ピンホールカメラ、カメラオブスキュラの話、自分も子供の時から知っていたという。台風の日、昼間から雨戸を閉めると、白いカーテンにその像が写る。それもカラーで。今でこそ、カラー写真はきれいだけれど、僕の子供のころ、カラー写真は特別なもので、目にする機会も少なかった。カーテンに写った総天然色の風景、その発色は今でも脳裏にやきついているという。やっぱり、針穴写真機の原理は、日常にありふれていたんだと思う。そこで、これから、針穴写真機、ピンホールカメラではなく、これからは節穴写真機なるもので写真を撮るのも面白いだろうということになった。
「M7.3子供たちが見たもの」

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「M7.3」子供たちのみたもの 阪神大震災10年

写真とインタビュー  写真:横木安良夫
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今日は在日の集まり。R子は、司会進行をした。震災当時は7歳だった。チマチョゴリは年に数回着るという。これは母親の着ていたもの。
reikanagataIMG_4948.jpg 16歳から19歳の約30人の男女を撮影している。 
「M7.3」~子供たちが見たもの 宙出版 1月15日発売予定 
「M7.3子供たちが見たもの」

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M7.3子供たちのみたもの 震災10年

写真:横木安良夫 宙出版 2005年1月15日発売予定

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1995年1月 神戸長田地区
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2004年12月 同じ場所
新潟中越地震の被害がなまなましい今、来年1月17日で阪神淡路大震災被災から10年になる。僕は10年まえ、数日後の神戸に取材に行った。その後、神戸救済のポスター制作にもかかわった。震災については多くの本が出版されて、多くのことが語り継がれている。WEB上にもたくさんのことがら、書き込まれている。
僕の娘は今、5歳、今月には6歳になるが、あの時その幼い年齢でいったい震災をどうかんじていたのだろうか。かつては客観視することも、言葉もなかったかもしれないが、今ハイティーンになって、人生の新たな出発点に立ち、どんなふうに感じているのだろうか。そのインタビューと、ポートレイトの写真と文の本が、1月15日、宙(おおぞら)出版から発売される。写真は僕が撮っている。大人たちが見たものと違った「阪神大震災」の記録だ。
タイトル「M7.3~子供たちのみたもの」
「M7.3子供たちが見たもの」


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