流行通信
流行通信、2005年2月号、500号記念号で、僕が撮った写真が、小さいけど紹介されている。1977年1月撮影
1975年9月にフリーになり、翌年の春、週刊プレイボーイに載った、当時の女性ロックグループ、ランナウエーズの写真を見て、助手の頃、一緒にインドに行った、横尾忠則さんから、着物のカレンダーをやらないかと、誘われた。横尾さんが、三宅一生のテキスタイルデザインをやった時だった。
Canon F1 MF FD24mmF2.8 kodachrom2 ISO25 サンパック3400正確に言えばそれが最初の僕が撮ったファッション写真だ。その写真やグラビアで撮ったタレントの写真を携え、渋谷にあった流行通信の編集部に1976年の暮れ売り込みにいった。編集長?だった林さんがすぐに気にいってくれて、翌月号から使ってくれた。その最初の写真6pのなかのいちまいが三宅一生さんの服を撮った、一番上の写真だ。
当時僕は、ファッションならば、日中シンクロだと思っていた。そのちょっとした非日常性と、服がはっきり映ることの両立だった。特別新しい手法ではないが、動きのあるものをブレないように撮るにはうってつけだった。しかし難点は、ちいさなストロボ、それも60分の1秒しかシンクロのついていない35mmカメラで撮るには朝や夕方しか撮れないことだ。500分の1秒までシンクロできる八セルブラッドは、大掛かりになる。なにしろ僕はCanonF1に、サンパックの積層ストロボをつけて、絞りもいいところ、f5.6ぐらいでオートで撮っていた。
流行通信の写真も、小夜子のカレンダーの写真も同じ手法だ。
昼間の日中シンクロには、バルカーのような大型ストロボが必要だ。初めての流行通信の撮影の時、雑誌は一日で4カットとる必要があり、しかたなく発電機とバルカーを持ち込み撮影した。背景は少し暗くなったが、あんまり僕は気に入らなかった。それより、ケイ便な35mmで撮った写真がやはり好みだった。
その頃のテクニックをおもいだしてみると、絞りはF4、レンズは24mmF2.8、コダクローム2、ISO25だったような気がする。サンパックのような携帯ストロボ、ガイドナンバーも25ぐらいだったろうか、積層でチャージタイム0で連射できた。ただコンパクトストロボの光は、青く、それに朝や夕方の撮影のため、CC10Rフィルターをかけていた。そのうえから、さらにシルクの黒いストッキング(紗)をかけた。そのころの僕は、なんでもかんでも黒いごくうすシルクのストッキングをかけて、取ることが多かった。それは、レンズの切れのよすぎがすきではなく、画像のトーンをそろえるためだった。しかしそのやりかた、広告をするようになって、紗をつかうことをやめた。雑誌と違い、広告では印刷コントロールでどうにでもなることを知ったからだ。
その後流行通信は、何年かやり、当時はファッション写真ばかり撮っていたが、しだいに広告に移り、そしてその後、ふたたびタレントの写真を多く撮るようになって、ファッションカメラマンとは言えなくなっていった。
僕は、Nude写真と、ファッション写真が好きだ。ファッション写真とはNUDE写真も含まれていると思っている。ファッションは裸の肉体を包み込むもの。どちらかにかたよってもつまらないからだ。それに写真が逃れることのできない「時代性」、「肉体という普遍性」、「モデル個人という一回性(存在としての個人)」が、一番写真にとってダイナミックな場所だからだ。
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