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2005.01.23

CGと写真と遅い新年会

友人の、写真家HARUKIの家で、遅い新年会をする。大きなテーブルを囲み、約15人わけもなく騒ぐ。テーブルの上には、日本酒、ワイン、シェリー、焼酎、ビール、ジュース、他につまみ、焼き鳥、餃子、崎陽軒のシュウマイ、うに、ソーセージ、から揚げ、生ハムとチーズ、スペインのサラミ、サラダ等々、まだまだ食いきれない量。実はそのあと、なべでもしようと材料を買い込んでいたが、皆、つまみ等を持ち込んだので、なべまでたどりつけなかった。この様子は、「カメラまいにち」blogに紹介されると思うので、割愛。
そこで、HARUKIの先輩である、古賀信明氏に会う。彼は、日本のCG界の第一人者、特に映画や広告のスペシャルエフェクトを多く手がけている。最近の映画では、篠田正浩監督、スパイゾルゲの上海の昔の町並みを、CGで再現している。パンをしながら映し出され、そこに歩く人々が写っている。それこそ実写で撮ることは、不可能な場面だ。そういう彼の作品や、制作過程の紹介されたDVDを見せてもらった。
今や、ハリウッドの映画に限らず、再現できないものはない状況だ。しかし時間と金さえあればなんでもできわけではなく、たとえば水の表現は難しいという。
いろいろな話をしたが、お互い酔っていたので、話がかみ合ったかわからないが、話していて、GGの世界の問題点と、写真の問題点がどこか共通しているような気がした。
CGはすべてを外側から描く世界だ。同じ人間を描いても、例えば実写だったら、その役者の存在と演技で人に何かを訴える。しかしCGには、内面は存在していない。そこに命を吹き込むというか、アニメに心を吹き込む作業と同じように、人間の存在ではなく、存在しているように「見える」ことに力が注がれている。
そこには、日本のアニメーションの歴史と強く結びついている。例えば現在のディズニーのアニメは、実際の役者を素材にシミュレートして、表情などを写し取り、それをCGに再現する。ある意味とても、科学的な再現方法だ。
もちろんそのやり方は日本でも多く採用されているが、日本には違ったやりかたがある。それはアニメの手法だ。アニメはもっと動きを省略し、デフォルメしている。現実を克明に、写し取っても、リアルにはならない。そこには、デフォルメし省略ほうが、見る側にリアリティを感じさせる(というようなことを言っていたと思う)。日本のアニメ(例えばジブリ)とディズニーのアニメの大きな違いは、日本のアニメは伝統的な省略がある。観客は、動きのスムーズさに、感動するのではなく、表現された内容に感動するしリアリティを感じる。
そんな話を聞いていて、今の日本の写真界の主流である、あまりにも個人的な、内面主義の作品が幅を利かせるこの時代、半径数メートルの表現ばかりで、いいのかなと思えてくる。
日常の記録は重要だけれども、日常のなかから何を発見するかが、重要で、ただ日常や現実が表現されていても、だから何だと思う。
実際、荒木経惟氏の初期の写真、特に写真時代の頃の写真は、当時の広告や、多くの表現の主流だった、フィクションをテーマにするより、ずっと現実的な、なまなましいものを撮っていながら、それはまるでうそ臭い、偽者まるだしの写真に見えた。逆のアプローチだ。(広告写真とは、フィクションをいかに、本物らしく見せる作業だ。)
荒木は彼の日常を撮っていながら、決して、日常の再現をしていたわけじゃない。それは荒木経惟の見たものという、偽の現実を見せてくれたのだと思う。
ところが、今、荒木の子供たちの多くは、どこか、その日常を、その日常のまま提示して満足しているような気がする。
日常に暮らしたければ、日常に暮らせばいいだけの話だ。それを何も写真で再現する必要はないと思う。写真は日常を越えられるわけではない。それならば、なぜ日常をカメラで撮るのかといえば、肉眼では見えない、または経験することのない日常を、カメラという機械によって、異界としての日常を垣間見ることができるからだ。
‥‥見事なCGの偽世界を見せられて、この先さらにCGが進むと、果たし写真はどこにゆくのかと思う。現実を撮ることと、そこに再現された、映像、画像との差は、これからどんなふうになるのだろう。現に、合成された写真と、実写の差は、言われなければわからないようになってきた。北朝鮮の素朴の合成写真は、ただ稚拙なだけだ。
実は、もう境界線は限りなく薄くなっているし、重なりあっている。
そこには、実はという、「ことば」がなければ、わからないものになりつつあるのだろうか。
実際は荒木はそのために、かなりのことばを屈指した。荒木にことばがなければ、荒木の意図は伝わらなかったと思う。
さて、古賀の作品を見ていろいろ考えさせられたが、写真家である僕にとって、今考えられる、他のメディアとくらべて、唯一の写真の優位性は、一人でできて、しかも短時間でできるということしかないかもしれないということだ。
極端に言えば数万分の1秒でも完成させることができるということかもしれない。写真はスピードがすべてのメディアを凌駕するのだろう。もちろんテレビの生はもっと早いが、それは表現ではないからだ。たれ流しであり、選択をしていない。(それも表現のひとつともいえるが)
簡単に言えば、写真は、思いついたらすぐにできるということだろう。その断片を、重ねることによって、それが1年かかろうが、10年かかろうが、よいのだけれど、撮るという断片は、とてもカジュアルなメディアなのかもしれない。

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Comments

新年会…ほとんど書いてませんよ。早退させていただきましたし。HARUKIさんが書くでしょう。
スパイゾルゲ…古賀さんがかかわっていたのですね。劇場で見ようと思っていて,テレビでも見逃してました。

この前,友人がセル画5万枚という「桃太郎 海の新兵」という戦前の国策アニメ映画のビデオをもっていました。戦前のアニメについて,ここが参考になりました。
新年会…ほとんど書いてませんよ。HARUKIさんが書くでしょう。
スパイゾルゲ…古賀さんがかかわっていたのですね。劇場で見ようと思っていて,テレビでも見逃してました。

この前,友人がセル画5万枚という「桃太郎 海の新兵」という戦前の国策アニメ映画のビデオをもっていました。戦前のアニメについて,ここが参考になりました。
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Posted by: Tres Pesos | 2005.01.23 11:58 PM

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