« December 2004 | Main | February 2005 »

50 posts from January 2005

2005.01.31

中尊寺ゆつこ訃報 そして健忘症

中尊寺ゆつこさんが亡くなった。まだ42歳だったなんて。僕は4,5年前、自動車雑誌NAVIで彼女を撮影した。撮影の印象は希薄だけれど、なにせ今資料が見つからない。たしか横浜、外人墓地の近くで撮影したと思う。彼女の車と一緒に撮った。車がなんだったか思い出せない。
その頃、僕の最初の著作、「サイゴンの昼下がり」が出版されたばかりで、僕はいつもその本を持っていた。当時、撮影で気に入った人には、プレゼントしていた。と、僕が切り出す前に、彼女は僕のその本のことを知っていた。僕が今日持っているというと、是非読みたいという。もちろんプレゼントした。サインをして欲しいとのことで、僕はそれまで、タレントの写真集しかだしてなく、自分の本に、しかも知り合いではない、有名人にサインをしたことがなかったので緊張した。ただいつでもサインできるように、朱色の筆を持っていた。
そこに、僕は中尊寺ゆうこ、とサインをしてしまった。ゆうこ、ではなく、ゆつこよ。と中尊寺さんにいわれた。僕はずっと、彼女を、中尊寺ゆうこだと思っていた。中尊寺というだけで、立派な名前だ。だからそのあとも、ゆつこ、となっているなんて全く知らなかった。
まあ、「う」の上の点を取ればよいことだけれど、たしかそのままにしてしまった。いや、それとも太くして、「つ」にしてしまっただろうか。中尊寺さんは、ご主人もまたベトナムに興味があり、いろいろ読んでいるところだといった。うーん、車はベンツだったろうか。思い出せない。それにしても、早すぎる死。残念だ。ご冥福をいのります。

自分の著書にサインをすることは、とても緊張する。それは中尊寺さんを撮ったあとのことだ、某週刊誌で、小泉今日子、竹中直人の二人を一緒に撮影したことがあった。その日は、二人に、「サイゴンの昼下がり」をもともと差し上げるつもりでいた。別にサインをすることもなく、ただ読んでもらいたかったからだ。撮影後、お二人に本を渡すと、突然、竹中さんがサインをしてよ、という。写真を撮ることは緊張しないが、本人を目の前にして、サインをすることはとても照れくさい。
まして小泉今日子様なんて書くことは、緊張する。小泉今日子さんは、かなり昔、雑誌の表紙で2回ぐらい撮影したことがあったが、話をしたことはなかった。彼女の家の、本棚に、いやダンボールのなかでもその本があると思うとうれしくなる。
竹中直人氏は、そのとき初めてだった。彼の妻である、木の内みどりさん(木内みどり、とは違う)が、Gというベーシストと、失踪事件を起こす寸前、僕は彼女のレコードジャケットを撮った。
とてもできのよいアルバムだったので、嫉妬半分、残念でもあった。
その後、写真家の田村彰英のアシスタントをしていた。その頃、代官山の同じビルに田村氏の事務所があった。エレベーターで会えば、会釈するぐらいだったが、そこに木の内みどり嬢もみかけた。僕はあんまり、芸能人と友達になるタイプではないので、いや、美しい人にはちょっと緊張するのだ。挨拶ぐらいしかしなかった。
まあ、そんな話はいいのだけれど、僕は突然、竹中さんにサインをしてくれと、言われたとたん、なんと頭のなかが真っ白になり、竹中さんの名前を忘れてしまった。小泉今日子さんは、考えなくても書けるけれど、竹中さんの、字をわすれたのではない。この目の前にいる、有名な男優の名前を突然失念してしまったのだ。
最初に小泉さんのサインをして、そして僕は、え、字はどう書くんでしたっけと、竹中さんにごまかした。きっと、武か竹で迷っていると思ってくれたと思う。説明してくれて無事書き終わりほっとした。
takenakakoizumi350
WPost 9Feb.1999 Takenaka Koizumi Polaroid 195Camera Polaroid Type665 ネガよりプリント
僕は、人の名前が覚えられない。それは一種の病気だ。撮影前に、今日のモデルの名前を聞いても、撮っているうちに忘れてしまう。はじめのうちは、名前を呼んでいたのに、途中から、名前を呼ばなくなる。
仲のよい友達の名前を忘れることもある。そんなことが、だいぶ前あった。
ある時、寿司を食い、酒を飲みかわしながら、当時時々仕事をしていたスタイリストと二人で、僕の健忘症について笑い話をしていた。
そると突然彼女が、「だったら、私の名前わかる?」ときくのだ。
わからないはずないじゃないか。僕たち友達だよ、と顔を引きつらせた。
そのときも、酔いながらも、頭のなかは真っ白になり、名前がでてこなかった。
僕は冗談ではなく、真性の健忘症だ。これは老化ではない。若い頃からだ。
その後、すっかり彼女にあきれられたことは、言うまでもない。
友達をひとり失ったかもしれない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

岡本奈月 デジで本

「デジで本」より 岡本奈月
natsuki04
CanonEosKissD EF50mmf1.4 Jpeg Large fine
APSサイズのデジタルカメラでは、35mmの標準レンズ50mmが80mmぐらいになり、ちょうどよいポートレイトレンズになる。ポートレイトの基本、特に女性をとる場合は、逆光でとるのが基本だ。この写真は真夏の日中。太陽はほぼ真上にある。そういう場合、顔が影になる場所を選んで立ってもらい、周囲に影がないので背景は白っぽくなるが、それはそれで綺麗だ。顔の下に白レフを置いた。眼のなかにレフ版の反射が写っている。
逆光のコツは、レンズに太陽の光が入らないようにすることに尽きる。暗かったら、+1ぐらい露出倍数をかけるとよいだろう。逆光の女性の撮影の場合、露出は通常明るめが綺麗だ。

natsuki03
NikonD70 Tamron28-75mmf2.8
夕方の撮影では、色温度に気をつける。逆光もよいが、太陽が低くなったら順光、サイド光も綺麗だ。夕方の雰囲気を出すには、式温度をAWBにせず、太陽光などにするとよい。調整できるカメラだったら、アンバー、もしくはRedのフィルターをつけるみたいに、色彩を強調するとよい。商業的な目的以外、色はノーマル方向にするより、撮影で強調するやりかたのほうがうまく行く。順光、サイド光の場合、偏向フィルターの効果もある。色が乗った、順光撮影の時は露出はアンダーぎみのほうが雰囲気がでる
岡本奈月関連 デジタルと僕のコダクローム

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.01.30

デジタルと「僕のコダクローム その13」

カラーフィルムが発明されて60年、そのコダクロームで撮った、ロバート・キャパの写真展が2月15日開催される。コダクロームとはどんなフィルムだったのだろうか。それは決して幻ではなく、ほんの少し前まで、プロカメラマンにとって特別なフィルムだった。そのフィルムについてのブログだ。
「僕のコダクローム その1」は、ここをクリック

natsukicover380
CanonKissDigital EF50mmf1.4 Jpeg Natsuki Okamoto

コダクロームについて、連日書いてきたが、コダクロームに限らず、カラーポジはアマチュアカメラマンにとっては、敷居が高いフィルムだと思う。僕の昔のことを話すと笑われるけれど、なにしろもう30年以上も昔のことだから、学生時代のころ、日大の写真学生だったときのことだ。
僕はカラー写真はほとんど全くというほどやらなかった。ちょうど2年生の時に学園紛争があり、その1年間は授業がなかったせいもあるけれど、カラーの実習は、一度撮影と、現像を、しかもフィルターを変えた、テストプリントをして、フィルターを選び、露光して、すると8x10のプリントが上がったという、何にもディテールを覚えていない授業だった。
それから、卒製を作っているとき、エクタクロームを一本買い、撮影して、堀内カラーでスリーブで現像した。その2本が、いわゆる記念写真以外、僕がアシスタントをするまえに撮った、すべてのカラー写真だった。僕はまったくカラー撮影についてのノウハウは持ち合わせていなかった。興味もなかった。だからモノクロばかり撮っていた。何より、数本のカラーを撮ったからといって何になるのだろう。そんなもの撮るなら、モノクロを満足するまで撮りたかった。現像して、プリントする。Tri-xの100フィートカンを、自分でつめて、しかも最初の頃は、暗闇で両手を広げ、約180cmに切っていた。Tri-Xを買う金がなければ、FUJI ssや映画用のフィルムをつめた。印画紙は、当時まだ、小さな問屋だったヨドバシカメラで買った。たくさん撮らなければ上達しないことは、わかっていた。
コダクロームに出会ったのは、助手になってからだ。カラーフィルムを湯水のように撮影することに驚いた。しかしカラーの撮影は好きだった。どんなに撮影がたいへんでも、フィルムを現像所にだせば終わりだったからだ。あとは、セレクトに立会い、ファイル。モノクロはそうはいかない。現像して、べた焼きを取り、乾燥し、チェックしてもらい、セレクトされた写真をすべてプリントする。モノクロの撮影は、後の処理が多く、徹夜になることもたびたびだった。
コダクロームをじっくりみたとき、そしてライトテーブルに並べて、ルーペで眺めたとき、こんなに美しいフィルムがあることをしらなかった。難しいといわれていた、難しい露出。でも基本を知れば、それほど難しいものではなかった。モノクロのほうが、多くの小さな失敗があり、緊張した。特に、フィルム現像という取り返しのつかないものにかんしては、皆悩みの種だった。それは120ブロニーフィルム現像のときの、ピーキングという、現像ムラだ。手の温度が高いやつはむいていない、攪拌が悪い、等々、悩みは続いた。
それから比べれば、カラーの、しかもコダクロームの撮影の一番のポイントは、正確な露出だけだった。それさえ間違えなければ、あとはオートマチックだった。そして、現像があがり、一本一本チェックして、安心した。そしてその美しい発色は、これから自分がプロとしてやろうとしていることの妄想が広がった。こんなフィルムがあれば、いろいろなものが撮れる、と。
デジタルになった今の時代、カラーの撮影はかつてのモノクロ以上に楽しい。仕事でも、仕事でなくてもいくらでも撮れる。プロは湯水のごとくフィルムを消費するが、それはあくまで、仕事だからだ。直接仕事に結びついていないものに、投資のように、無限のフィルムを消費することはない。
デジタルは、まるで学生時代の、モノクロ写真を撮るような気分になれる。しかもカラーを撮る、ノウハウは、カラーポジを使っているときと全く同じだ。そして撮影後、ポラで確認していたことと同じように、撮ったものはすぐに見られる。
何度も書いているし、紹介もしているが、スナップ写真としては、最高のカメラだ。デジタル時代に生まれて、写真を楽のしめることに感謝しなければ、と思う。
natsuki02
NikonD70 Tamron28-75mmF2.8 Jpeg Natsuki Okamoto
デジタル時代になり、一番大切なことは、いったい自分が何を撮りたいのかだと思う。テクニックも自分で編み出すしかない。それができるメディアだ。写真はある程度テクニックがあれば、簡単にまねすることができる。見本があれば、再現はなんでも可能だ。まして、デジタル時代である。誰かみたいな、写真、今はやりの写真を撮ることは、趣味としてはよいかもしれないが、あまり意味があることではない。自分の写真は何かって、無理やり作るものではないかもしれないが。それより、撮って、撮って、撮りまくることが重要だ。闇雲にとることは、はじめはよいとして、やはり、何でもいいからテーマを自分で決め、ある時間その方法論で撮ることだと思う。
カラーポジは、ますますアマチュアには遠い存在になるだろう。でも、写真をカラーで表現することは、フィルムだろうかデジタルであろうが、すこしも変わることはない。
モデル 岡本奈月 女優 14歳(撮影時) 「デジで本」より。
岡本奈月記事つづき

| | Comments (0) | TrackBack (1)

「僕のコダクローム その12」

カラーフィルムが発明されて60年、そのコダクロームで撮った、ロバート・キャパの写真展が2月15日開催される。コダクロームとはどんなフィルムだったのだろうか。それは決して幻ではなく、ほんの少し前まで、プロカメラマンにとって特別なフィルムだった。そのフィルムについてのブログだ。
「僕のコダクローム その1」は、ここをクリック

コダクロームについて、ながながと書いた。紹介した写真は1970年代後半から80年代前半だ。実際は80年代にコダクロームで多くの写真を撮っている。今その頃の写真はほとんどが倉庫のなかだ。その11の年表を見ると、僕が写真を始めた頃は、やはりコダックの全盛時代だった。1983年にあたらしいタイプのフジクローム64プロフェッショナル発売の時、当時映画「時をかける少女」の主演をした、原田知世を起用して、フジフイルムと角川書店の共同で、ポスターを作った。電通の仕事だったかもしれない。その頃僕はコダックのEPR120を使っていた。
その仕事は、120と4x5のフィルムで撮ったと思う。当時、僕はスタジオで、4x5を使ってポートレイトを撮ることにこっていた。そのときのポスターも4x5で撮った。広告だったので、オリジナルは全部渡しているので手元にない。(依頼された広告の場合、ポジを全部渡すことは普通のことだ)。実はそのとき、テスト撮影して驚いた。実は通常、4x5で撮影する場合、EPRで撮ったときなど、平気で+1段は増感現像していた。4X5は粒状性は関係ないので、増感に無頓着だった。8X10なども、感度をあげるためにも、増感していた。物写真のように、正確な色を出す必要はない。増感したほうが、メリハリがつきうまくいった。そんなつもりで、新しいフジクローム64プロフェッショナルを、僕がいつも出している現像所でテストした。たしか+2分の1ぐらい増感したと思う。すると、マゼンタというか、とばした白バックがオレンジかぶりをしていた。真っ青になり、すぐにノーマルになるように撮って、今度は指定現像所で再びテスト現像した。ノーマルは素晴らしい発色だった。増感するとやはり、カラーバランスが崩れた。結局、本番は、露出に気をつけて、ノーマル現像で流した。(そのときの写真はそのうち探してUPする)
その時、たくさんのフィルムをもらったが、結局一枚も、そして一本も使うことはなかった。その後、約8年間僕は、コダックを使い続けた。そして90年にベルビアがでた。きっとその間にも、64プロフェッショナルは改良を加えられ、増感にも強くなっていたと思うが、使い慣れているフィルムを変えることはなかった。ベルビア、プロビアがでてから、僕はフジを使うようになった。今から15年前だ。
Next

(訂正)
Fujikadokawa
広告は、フジフイルム、角川文庫の写真コンテストだった。
このときに、フジフイルムが、新しいフジクロームプロフェっショナルを使って欲しいとのことだった。
そのフイルムを使うにあたって、苦労したのでフィルムの広告だと勘違いしたようだ。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

「僕のコダクローム その11」まとめ

カラーフィルムが発明されて60年、そのコダクロームで撮った、ロバート・キャパの写真展が2月15日開催される。コダクロームとはどんなフィルムだったのだろうか。それは決して幻ではなく、ほんの少し前まで、プロカメラマンにとって特別なフィルムだった。そのフィルムについてのブログだ。
「僕のコダクローム その1」は、ここをクリック

世界で最初のカラーフィルム、Kodachrome(コダクローム)は、ニューヨークで生まれた、二人のプロの音楽家、レオポルド・マネス(Leopold Damrosch Mannes, 1899-1964)とレオポルド・ゴドフスキー(Leopold Godowsky, Jr. 1900-1983)によって発明された。マネスはピアニスト、ゴドフスキーはヴァイオリニストだ。二人は写真という共通の趣味を持っていた。彼らは学生時代からカラーフィルムに興味を持っていた。
(このKodachrome発明秘話は、Ito Kenjiさんのサイト、カラーフィルムとブラームスに詳しく書かれている)

写真のFILMの歴史他 他にわかることがあったら教えてください。

1935年 Kodachrome  16mmムービー用コダクローム(ISO12)
1936年 Kodachrome  35mmスチール用コダクローム(ISO12) 8mm(ISO12)
1936年 フジクローム フジネオクローム 120モノクロフィルム 映画用35mmネガフィルム  発売
1938年 ロバート・キャパ、日中戦争でKodachromeを使用。LIFEに発表 ポジは不明
1938年 富士SPフィルム 35mmモノクロフィルム
1939年 スライド用、Ready-Mountサービス開始 紙マウント
1946年 Ektachrome と、自家現像キット発売
1948年 富士フイルム 外型反転カラーフィルム 富士カラーフィルム(ロール,シート) 発売
1951年 富士フイルム映画用35mm外型反転カラーフィルムによる本邦初の総天然色長編劇映画「カルメン故郷に 帰る」(松竹作品)完成 封切 ポートレイト用バンククロマチックシートフィルム 富士SS 富士引き伸器B型
1952年 富士ネオパンSS
1954年 Kodack Tri-x 発売 
1954年 ロバート・キャパ、インドシナにて死ぬ
1959年 富士 映画用ネガカラー発売、 
1959年 富士カラーネガティブ、カラー印画紙 発売 35mm 120
1959年 Ektachrome High Speed 発売
1961年 Kodachrome II (ISO/ASA25,)KⅡ
      Kodachrome Profeshional Type A (ISO/ASA40) KPA
      Kodak コンベヤープロジェクター スライド80枚トレイ
1961年 フジカラーR100
1961年 フジカラーN50
1962年 KodachromeX KX(ISO/ASA64)
1963年 東洋現像所 現像受付開始 それまでは、ハワイ、または香港にて郵送現像
      Kodackインスタマチックカメラ
1965年 フジカラーN100(35mm)
1966年  ニュータイプフジカラーR100(35mm判)発売(オイルプロテクト型カプラー使用の最初の製品)
1969年 フジカラーリバーサルプロフェッショナルフィルムデーライトタイプ(シート)発売
1972年 フジクロームプロフェッショナル120 タイプD,タイプT 発売
1974年 Kodachrome25 KM 
      Kodachrome64 KR
1976年 Kodachrome40 (タングステンタイプ)
1983年 フジクローム64プロフェッショナルT(ロール,シート),フジクローム50プロフェッショナルD(35mm判,ロール,シート),フジクローム100プロフェッショナルD(35mm判,ロール,シート)発売 このときの角川との広告の撮影を僕がした。
1984年 Kodachrome Professional 64 PKR
1985年 KodachromeProfessioal 25 PKM
1986年 東洋現像所、社名をIMAGICA
1987年 Kodachrome 120 220?堀内現像所
     Kodachrome200
1988年 Kodachrome200 Pro
1990年 フジクローム ベルビア発売

※Kodachromeは、現在東京では堀内のみ現像可能で、増感(+1/2,+1,+2の3種類のみ)も可能


Kodakの歴史(翻訳版)

日本のカラーフィルム(映画)歴史はここをクリック
映画のフィルム
コダクロームとブラームスポールサイモン、「僕のコダクローム」
ワーナー視聴盤 Poul Simon「Kodachrome」
LYRICS AND TUNES 「僕のコダクローム」

NEXT

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.01.29

フジ・ベルビア「僕のコダクローム その10」

カラーフィルムが発明されて60年、そのコダクロームで撮った、ロバート・キャパの写真展が2月15日開催される。コダクロームとはどんなフィルムだったのだろうか。それは決して幻ではなく、ほんの少し前まで、プロカメラマンにとって特別なフィルムだった。そのフィルムについてのブログだ。
「僕のコダクローム その1」は、ここをクリック

1990年、フジフイルムからベルビアが発売された。僕はそれまで35mmはコダクローム64、KRを使用していたことになる。まえにも書いたが、当初はブロニーのベルビアを使っていた。印刷所の対応もまだまだで、EPRと兼用していた。
しかししだいにベルビアに切りかわった。さて、問題があった。
僕は、35mmで撮ったKRを必ずマウントしていたからだ。東洋現像所、そしてイマジカにかわっても同じだった。スリーブ(ビニールのフィルムケース)は、特別な場合や、急ぐとき以外は使わなかった。マウント仕上げは時間がかかったし、値段も100円か200円高かったが)
なぜマウントにするかといえば、それはセレクトのスピードが違うからだ。
東洋現像所時代、紙マウントされたコダクロームは、マッチ箱を横に二つ並べたような箱に、おさまっていた。スライドしてあけると、中箱に、36枚(もう少しあったろうか)のマウントされたポジが、二つに分かれておさまっていた。それにフィルムの切れ端なども入っていた。
それを順番にずらりと、大きなライトテーブルに並べた。
5倍のPeakLupeで片っ端から選んでゆく。いらないものはさっさとよけて、紙の箱に戻す。これは助手の役目だ。
選んだものはすぐに、ビニールのファイルにつめてゆく。これも助手がやった。
スリーブはいちいち切らなくてはならないので時間がかかる。一本のフィルムから選ぶものが少ないときはよいけれど、スナップ写真のように、選ぶ確立が高いときは、全然能率が違う。35mmで100本撮ると、3600カット。そこから1000枚ぐらいを選ぶのは、時間との勝負だった。1000枚を選び、はさみで切って、マウントしたり、トレファンに入れていたら、時間がかかりすぎる。紙マウントはそういう作業に最適だった。
堀内現像所で、コダクロームの現像を始めたとき、マウントはプラスチックだった。プラスチックはライトテーブルに並べて選ぶとき、滑った。能率が落ちた。そのため、堀内は使わなかった。
東洋現像からイマジカになったときに、ケースがプラスチックになった。これにも困った。紙の箱のほうがあつかいやすかったし、プラスチックのごみが大量にでることに、逆行していると思った。
さて、ベルビアはマウントがこまった。ところが、コダック系の現像所である、イマジカでもベルビアを買えることを知った。そして紙の機械マウントもできるというのだ。上がってみると、フィルムはベルビアだが、マウントにはブルーの文字でエクタクロームと刻印されている。それから僕は、完全にベルビア、そしてプロビアになってしまった。
NEXT

| | Comments (0) | TrackBack (0)

セーラ・ローエル「僕のコダクローム その9」

sara03

カラーフィルムが発明されて60年、そのコダクロームで撮った、ロバート・キャパの写真展が2月15日開催される。コダクロームとはどんなフィルムだったのだろうか。それは決して幻ではなく、ほんの少し前まで、プロカメラマンにとって特別なフィルムだった。そのフィルムについてのブログだ。
「僕のコダクローム その1」は、ここをクリック

さて、コダクロームで撮った作品だが、今回はセーラ・ローエルという、一世を風靡したモデルのことを書く。僕が撮影したときは、まだ16歳ぐらいだったろうか。最初は週刊プレーボーだったと思う。やはり1978年頃のことだ。GOROとかでも活躍していた。今で言えば、バイリンガルのアイドルだ。その後、激写もやっているて、DJもやっていた。
2年ほどまえ、今や井上陽水の奥さんである、「八月の濡れた砂」を歌った、石川セリのひさびさ(10年以上)のライブで、セーラを見かけた。少し立ち話をした。すっかりマダムになっていた。かっこよかった。僕がもうそうとう年が
いっているので、彼女がそうなるのも当然だろう。
彼女はローティンの頃から、モデルだった。もっとちいさいときからやっていたろうか。ただ小さいときはそれほど可愛いと思わなかった。面長で、悪く言えばちょっと馬づらだった。子供としては。ところが15,6ぐらいから俄然美しくなった。それはもう、きらきらしていた。全盛期の宮沢りえみたいなものだ。(なんていって最近の若いひとは宮沢りえの絶頂期を知らないという)。子役や、子供のモデルが、幼児時代、10歳ぐらいまで可愛くても、可愛くなくなることはよくある。そして逆にある年齢になると、突然輝く子がいる。アイドル顔は10代で輝くけど、大人になると光を失う。それより子供の頃は、なんだか大味な子が、二十代半ばに輝きだす。面白いものだ。
1978年頃、僕はまだ広告はそれほど多くはやっていなかった。ファッション広告といった単発物はやったが、シリーズというかレギュラーでの広告の仕事はしていなかった。それが、あるきっかけでコーセー化粧品のキャンペーンをやることになった。
その頃の広告は、ある意味日本の広告の全盛時代であるが、紙媒体とテレビテレビコマーシャルは、別々に制作されていた。モデルは一緒でも、アイデアや内容は別のことが多かった。当時コーセー化粧品には、独立した宣伝部があって、キャスティングは電通が絡んでいたが、紙媒体は宣伝部による、別進行だった。
sara02
当時、資生堂のキャンペーンは、一ヶ月以上のロケハンと、本番1月といった、かなり贅沢なスケジュールが組まれていたが、だからこそあのような素晴らしい広告が作れたのだ。憧れた。コーセーはキャンペーンといってもそんな贅沢はできなかった。それでも、僕のような新人のカメラマンがキャンペーンを任されることはたいへんなことだった。
当時、コーセーには、佐藤耕造というアートディレクターがいた。なかなか優秀な人で、気が合い多くの仕事をした。
このときはエスプリークいう新製品の広告だった。
値段はまだ決まらず、なるべくシンプルな表現にしたいとのことだった。化粧品は、内容は一緒でもいくらで売るのかによって、コマーシャルの展開、パッケージ、入れ物がかわる。
当時僕は、沢田研二を手がける前で、基本的にはスタジオでは、バルカーの一灯撮影に凝っていた。バックからもサイドからもなにもない、たった一灯だけの撮影だ。ただそのころ僕はブロニーで撮ることが多かった。雑誌が多かったからだ。ところが、当時ポスターは皆35mmで撮影するように言われた。B倍のポスターもだ。当然フィルムはコダクロームだ。このときはKRを使用した。それだけコダクロームは印刷に適合していたのだ。実際はブロニー、EPRで撮ったカットもあったが、やはりコダクロームで撮ったほうがあがりがよかった。
レンズは、細いセーラの体が、ボリュームがでるように、スタジオだったが、FD200mmF2.8を使用した。絞りはたぶんf8かf11ぐらい絞っているだろう。場所は麻布スタジオだ。今は古臭いスタジオだが、その頃は最新のスタジオだった。スタイリストは、伊藤佐智子 ヘア 矢野トシコ メイク コーセーだった。
当時、化粧品のポスターをたった一灯のライトで撮ることはまれだった。正面ライティング、押さえに銀レフを下に使っている。ただそれだけだった。
sara01
この仕事が成功して、5年間ぐらいコーセーのキャンペーンをやった。
そのどれもを、35mmのコダクロームを使用している。
コダクローム25、KMが綺麗なときは、それを使ったことがある。乳剤のよいときのKMは、かつてのKⅡのような素晴らしい発色をした。
その頃いくつかのコマーシャルフィルムのカメラマンもやった。当時、スチールのカメラマンがムービーをまわすことが流行っていた。今でも多くのコマーシャルをスチールのカメラマンが撮っている。
コーセーの仕事がなくなったのは、コーセーの宣伝部の力が弱まり、かわりに電通がキャスティングなどハンドリングするようになってからだろうか。
そのきっかけになる仕事があった。僕がコーセーの仕事がなくなるきっかけだ。そしてムービーカメラマンの声がかからなくなったきっかけだ。
僕はフリーになってすぐに、仕事に恵まれ、順風満帆だった。コーセーとも長く仕事をしていた。
コーセーのある夏のキャンペーンで、カリブ海にあるボナール島でロケをすることになった。モデルの名前は忘れたが、ハワイの16歳ぐらいの美しい少女だった。
なぜそんな島に行ったのかというと、当時、セブンスターの広告で、三角形の氷山が何重にも並ぶ写真があった。
実はそれは塩の山で、そのボナール島というところにあるという。
暮れから正月にかけての仕事だった。ぼくはそのとき初めて、スチールとムービーの両方をやることになった。
スタイリストはその前の夏のキャンペーンを一緒にやった高橋靖子さんのところをでたばかりの、中村のんだった。
ところがそれでもスケジュールがあわず、アシスタントが変わりにつくことになった。最初からいやな予感だった。
キャンペーンにきちんとスタイリストがつかないという変則的な撮影だ。なにしろ拘束は2週間以上あったこともある。制作は東北新社だったが、電通しきりだと思う。場所が決まらず、モデルが決まっただけのおせおせでの見切り発車だった。
スチール隊が先に乗り込んだ。後にムービーがくることになっていた。といってもカメラは僕だが。
CMのプロデューサーは、われわれと一緒だった。たよりなかった。
スチールとムービーを同じカメラマンが撮ることとは、かなりの負担だ。しかも過酷の撮影の場合はなおさらだ。
ニューヨーク経由で、ボナール島に着いたとき、そしてコンテにある、塩の山を見たとき愕然とした。
カリブ海の猛暑、炎天下、塩の山は鋭利なガラスのような高さが20mぐらいの連山だった。写真でも見れば美しくとも、そこに上るのは至難だった。単純に絵から決められた、撮影場所だ。いやそれはいいだろう。仕事とはそういうものだ。はしごを、線路のように塩の結晶の山に敷き、山頂まで上った。特別怖いことはないが、猛暑とそして、そのガラスのような塩の上に、非情にもモデルは横たわることになった。東京で書かれた、絵コンテにそうなっているからだ。
たしかに、目論見どおり、背景に塩の山が連なり、絵コンテそのままの絵が撮れることになった。
絵としては成功だった。
しかしだ。モデルはその、鋭利な塩の結晶の上に横たわらなければならない。
見えない部分はタオルを敷くとしてもカメラから見える部分は直接体や腕、足を乗せなければならない。痛い。本当にいたいのだ。でもコンテにはそうなっているから、我慢するしかない。そして炎天下。スチール撮影で僕は、その塩の山頂で、16歳の、全く日本語を知らない少女と向かい会うことになる。時折雲がかかり、そのまま待つことになる。何しろ、その上に横たわるには、一度下りたら再び上るのに時間がかかってしまう。
僕は、モデルと向かいあった。35mmカメラでさまざまな表情、さまざまなポーズを撮った。UP、ひき、立て位置、横位置、光を変えて‥‥。レンズを換える。
もちろん痛いのはわかっている。でも、君はモデルだ。それに、こんな非情なコンテを書いたのは僕ではない。雪の上に寝転んでいるような、いい気分の表情が欲しいなんて、そんなのあまりに無理だよと思いながらも、もっと優しい顔をしろ。もっときもちよさそうに。‥‥。そうして僕と彼女は次第に険悪になっていった。
彼女は、日本語を解さない、16歳の少女だ。僕はとてもサディスティクな気持になっていた。そのほかのカットも一週間ぐらいかけてとった。そして無事、スチールが終わった。
そんな彼女の心をほぐすほど、僕には英語力はない。いや、日本語を話したとしても、あまりにもやらなくてはならないことがあるし、僕だって必死だった。でも、とにかく、スチール撮影は無事終了した。東京に戻ってから見ても文句なかった。
本当はもう、僕も彼女もこの状態から開放してほしかった。しかしこれから、ムービー部隊がくる。
そして僕は、クレーンに乗り、カメラを覗く。
彼女はつかれきっていた。それでも頑張った。だれがいったいこんなコンテを書いたのか。ムービーはモデルにとってさらに過酷なことは当然だった。それでもとにかくムービーの撮影も無事終了した。モデルは本当に頑張った。
ラッシュを、途中のニューヨークでみることになった。
そのとき僕は、ニューヨークに残り、2週間ほど滞在することにしていた。当時のガールフレンドを呼んでいた。飛行機代はもちろん僕が払ったが、航空券の手配は、東北新社に頼んだ。彼女も一緒にラッシュを見た。
風景の場面で、僕のパンが少し早く、少しフリッカーがでていた。だからなんだというのだ。たいした問題ではない。
ポスターも、CFも上がりに特別問題があったわけじゃない。
しかしはっきり言って、この仕事のやり方には不満だった。最後にギャラで少しもめた。いやおおいにもめたかもしれない。誰かに、モデルともめたの?と言われた。もめてないよ。だれかが吹聴しているようだった。
たしかにモデルとは大変だったかな。子供だったし。しかしグラビア撮影ではない。グラビアだったら、カメラマンにモデルとの関係はかなり責任がある。しかし広告の場合、大勢のスタッフがいて、カメラマンだってそのなかの、ひとりなのだ。モデルばかりとコミュニケーションするわけにはいかない。実際は、モデルはプロだとう前提になっている。そしてCFだったらもっと、カメラマンは、スタッフの一人だ。僕は演出もしていない。モデルはもっと遠いところにいる。しかも僕の考えたコンテではない。過酷な場所での、絵に描いたもちのようなところで、皆ガンバって仕事をしたのだ。それなのに、僕はさんざん悪口を言われた。ムービー最悪。よくわからん大勢の人間と仕事をする怖さをしった。
僕が仕事を終えた後、ガールフレンドを呼んだことが不評だったのだろうか。手配はしてもらったかもしれないが、何しろ帰りの便をあわせる必要があった。でも旅費は僕が払ったんだよ。当時僕は32歳ぐらいだったろか。生意気だったかもしれない。怖いものはなかった。ざけんなよと思った。
何があったかしらないが、その後、僕にコマーシャルフィルムの仕事は全くこなくなった。やられた。
いや、それがコーセーの最後の仕事だったろうか。1982年ぐらいの話しだ。
話は違うが、コーセーの冬のキャンペーンを撮るため、夏の白根山、山頂で撮影中の、1979年8月1日、父親が倒れた。母親からホテルに電話があったのだ。しかしたいしたことないから、仕事は続けないさいと言った。仕事がおわってから飯田橋にある警察病院に行くと、半身麻痺していた。リハビリを頑張ったが、1981年の8月2日永眠した。
なんかしんみりした話になってしまったが、コダクロームから、コーセー化粧品と、ちょっと苦い思いでを思い出してしまった。
NEXT


| | Comments (0) | TrackBack (2)

M7.3-16 子供たちのみたもの

神戸新聞に M7.3子供たちが見たもの が紹介されている。
実は、1月17日に、神戸に取材にゆき、その翌日インタビューされたものだ。
M7.3 子供たちの見たものTop

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.01.28

キャパ「僕のコダクローム その8」

カラーフィルムが発明されて60年、そのコダクロームで撮った、ロバート・キャパの写真展が2月15日開催される。コダクロームとはどんなフィルムだったのだろうか。それは決して幻ではなく、ほんの少し前まで、プロカメラマンにとって特別なフィルムだった。そのフィルムについてのブログだ。
「僕のコダクローム その1」は、ここをクリック

連日頑張って、UPすると、とても多く人がこのサイトを訪れてくれる。今日は夜10時に戻りブログをチェックすると、このところ通常の3倍ぐらいの人が訪れている。
コダクロームというテーマがよいのか、それとも、連日UPしているからだろうか。
そうなると次のTEXTをUPしなければと思う。
文章を書くのは、さほど大変なことではない。僕は書くのが早いし、まあ、誤字脱字は勘弁してもらうとして、難しいことを書いているわけではないから書きなぐっている。それに昔の写真の説明って、罪がなくていい。現在進行形のことは、なかなか言葉にならないし、照れくさい。写真を撮るって、その時思っていることは、ことばにすると陳腐になるからだ。
ロバート・キャパが残した、50年以上前のコダクロームの展覧会があることは、お知らせした。その展覧会に僕もほんのちょっとだけかかわっている(ベトナムで撮ったカラーのキャプションを書いた)だから皆、キャパの撮ったカラー写真を見てもらいたい。
キャパの写真がうまいかへたかなんてどうでもいい。そんなことより、モノクロばかりで撮っていたキャパがいったいどういう気持ちでカラーを撮っていたのか想像して欲しい。もちろんカラーのグラビアページがあるから撮ったのだ。依頼があったのだろう。そんなことより、キャパはカラーとモノクロをどう使いわけたのだろう。
後にキャパは、写真の時代は終わった。これからはテレビだ。だからカメラマンも、ムービーを回さなければと言ったそうだ。テレ朝で世界の車窓をという長寿番組がある。それとおなじアイデアをキャパは提案したという記録もある。キャパはアイデアマンであり、時代に素直も反応している。
そんなキャパの撮った、コダクロームはどんななのだろう。とても期待している。
そんなわけで、コダクロームにこだわったら、いろいろなことを知った。
なにより、世界で最初のカラーフィルムがコダクロームだということを初めて知ったのだ。そしてそのカラーフィルムを開発したのが、音楽家だということを。
映画の世界ではカラーフィルムが実用化する以前から、カラーがあった。
不思議だ。そんなことも、写真をやっていながら僕は知らなかった。
さて、僕がコダクロームを多く使っていたのは、1975年から80年代末までだろうか。86年にトワイライトツイストを思いついたとき、35mmは、コダクロームだったからそのあたりまでのことだろう。そう思うと、約15年はコダクロームを使ったことになる。
前にも述べたが、アシスタント時代はコダクロームⅡだった。僕が使っていたのはKRだ。それもいつしか、フジのフィルムになり、すっかりコダクロームを忘れ去っていた。ポールサイモンのコダクロームという曲があることも忘れていたのだ。聞いてやっと思い出したが、当時はコダクロームはあまりに日常的すぎて、特別覚えていなかった。でもそこで、ニコンを、ナイコンと歌っているところで突然思い出した。さびの部分もタイムマシンで30年以上前に戻った気分だ。
さて、さて、あまりコダクロームについて、意見を書いてくれる人がいない。もっと気楽に個人的なコダクロームについて書いて欲しい。これをアップしたら、もうひとテーマ書こうと思っている。
それと、僕の写真はblog以外にもあるのでご覧ください。

Next

| | Comments (0) | TrackBack (0)

沢田研二「僕のコダクローム その7」

カラーフィルムが発明されて60年、そのコダクロームで撮った、ロバート・キャパの写真展が2月15日開催される。コダクロームとはどんなフィルムだったのだろうか。それは決して幻ではなく、ほんの少し前まで、プロカメラマンにとって特別なフィルムだった。そのフィルムについてのブログだ。
「僕のコダクローム その1」は、ここをクリック

Sawada001

1978年。この頃、コダクロームで撮影した写真は、たいていがいわゆる男性誌のグラビア写真が主だったような気がする。女性ばかり撮っていた。作品性は、強くない。
タレント、歌手のような芸能人の写真は、肖像権があるので、むやみにネット上で紹介することはできない。連続して撮り、なおかつ作品性の強い写真は、例えばコマーシャルフォトのような雑誌に一度掲載しているので、ここでも紹介できる。
沢田研二の撮影は、アートディレクターでもあり、衣装デザイナー、イラストレーターの、天才、早川タケジの仕事だった。(「熱を食む、裸の果実」の表紙イラストを描いてもらった。)特に、このころは大仕掛けな撮影が多く、しかも短い時間に、といっても10時間以上かかることもあった。(沢田研二の時間が取れないので当然撮影は夜になる)さまざまな仕掛け写真を、徹夜して撮った。僕はこの頃は、6x6や、6x7がメインだったが、早川の要求する、カット数の多さ、何しろ一晩で、コンサートパンフレット1冊を撮ってしまうのだから。そのため、スピードとバリエーションが要求された。中型カメラで撮ると、狙い打ち、決めカットが多くなる。だから35mmが必要だった。大きなスタジオを三つ使い、それぞれまえもっとセッティングして、撮ったこともある。そんなときは、僕たちは朝から用意している。カットが多いからといって、シンプルな撮影はあまりなかった。一日中たちっぱなし、そしてテンションをあげ、朝撮影が終わると、立っていられなかった。横位置の写真は、広告である。他に雑誌の特集(ラビ?)10ページのなかに使ったろうか。もちろんコンサートパンフレットにも使用した。
カメラはキャノンF1。FD24mmF2.8。フィルムはコダクローム64、KRだ。コダクロームが重厚な色彩のフィルムといわれているが、オリジナルポジは、さらに原色の世界だ。決して地味なフィルムではない。縦位置の写真は、レンズが50mmf1.4で、フィルムは同じだ。
スタジオでの撮影は、ポラロイドを使用していた。ライティングが複雑で、ポラなしではもう撮れなかった。なにしろ横位置の写真は、ストロボとタングステンが混在している。ゼラチンフィルターも多様している。すべてをスポット状態にして、部分部分をライティングしている。全部で20灯以上使っている。
Sawada002

縦位置の写真は、タングステンのスポットに、ピンクゼラチンをかけ、白い背景に当て、正面は大型ストロボをスポットにして、トレペでデュフューズしてライティングしている。顔のライティング、背景にもれないようにするのがこつだ。
ストロボとタングステンの組み合わせにより、微妙に背景がブレて、輪郭がにじんでいる。
早川タケジの仕事で僕は、いわゆる写真の正統的なライティングではない手法を学んだ。いや編み出した。なにしろ早川は、イラストレーターだ。撮影の時には、何十枚もの彼の華麗なイラストがコンテだ。早川は今回のイメージは、こいう感じだと、絵でも見せてくれる。しかし、これは写真には撮れない。彼のイラストは、写真世界とは全く違うものだ。色彩と、タッチで構成されている。僕は、そのイラストの持っている、世界を頭のなかに取り込む。そして、写真では、どんな風になるのか、想像する。そうなると、正統的なライティングは、どれも使えない。そこで編み出したのが、多灯ライティングだ。絵のように、画面は、部分から構成されている。そうすれば、自然ではないけれど、イラストと同じような世界が表現される。この手法をなんどもすることによって、後にトワイライト・ツイストになったのかもしれない。
下の写真は、上の写真と同じ手法でライティング。CanonF1MF FD24mm2.8 コダクローム64 KR
非常に細かい、シルクの黒いストッキングを、紗としてレンズの前につけている。
Sawada003
ただこれは、すべてストロボでライティングしている。いわゆるグリットという、蜂の巣状のディヒューザーを取り付けている。10灯以上使ったと思う。セッティングは、早川さんのイラストに合わせて、皆で並べる。僕がファインダーを覗きながら調整してからライティング。グリットには、穴の大小いろいろなものがあるので、並べてから、それぞれ光量をそろえる。それだとフラットになってしまうので、強弱をつける。部分的に当ててゆくので、顔に当たる部分がメインということになる。ときどきポラロイドでチェックする。
NEXT

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2005.01.27

ポールサイモン「僕のコダクローム その7」

「僕のコダクローム その1」は、ここをクリック

ワーナー視聴盤 Poul Simon「Kodachrome」
Nikonをナイコンと呼んでいる。アメリカでは、ニコンは、ナイコンだった。そういえば。
LYRICS AND TUNES 「僕のコダクローム」
ワーナーの視聴盤のサイトはともかくとして、LYRICS AND TUNESは、不思議なサイトだ。
オリジナルから比べたら、メロディーを追っているだけで、ずいぶん違うが、それでも詞がきちんと載っている。
著作権はどうなっているのかと、思ったら、法的なことにも触れている。
http://users.cis.net/sammy/lyric.htm
英語だけれど、excite翻訳の、ウエッブページ翻訳に、上のURLを入れて、読むと面白い。
アメリカのような、著作権のうるさいところでも、これができるという法的な根拠はなんなのだろう。
http://www.excite.co.jp/world/english/web/
翻訳された、歌詞や、歌手名は笑える。

著作権について。僕のWEB、特にホームページの写真は、フラッシュでもないし、正直言って、何のプロテクトもかかっていない。簡単にドラッグすれば、写真がコピーできる。大きな写真ならなおさらだ。よく心配される。
著作権については、音楽と同じように、個人的使用に関して、何も言えない。商業的に利用された場合が問題だ。しかし商業的に利用すれば、当然j、公然とした著作権侵害なので、ある意味、戦えるので問題ないだろう。それよりWEB上も、公開の場だと考え、商業的基準に準じると考えている。個人的使用とは、個人のなかで使用で、公開しないことが前提だから。音楽をコピーして、それをネットに載せれば、当然著作件の侵害になる。
それより、写真の場合は、肖像権のほうが、神経質になる。特に、タレントの場合の肖像権とカメラマンの著作権のからみだ。その辺の線引きは難しい。アメリカのように、どんな仕事もきちんと契約書を結んでいるならばともかく、日本の場合はそのへんがあいまいだし、撮影したものを後に絶対使わせないという、芸能人もいる。しかもインタビューのようなジャーナリスティックな写真にさえ、発表を制限しようとする。これからは、ちょっとしたインタビューの撮影でも、広告でも、本当は契約書が必要だろう。出版や、写真展のたびにもめるのは、困ったものだ。ただ、立場の弱いか写真家が言っても、難しいだろう。そういう機関ができるといいと思う。例えば写真家協会などがイニシアチブを取り、カメラマン全員に、プロとして働くなら、どんな仕事でも簡単な契約書、確認書を作る調整するべきだろう。自分の写真が、どのように使われて、どのように使えないの知るためにも。
タレントの写真を撮ることが、不便になれば、カメラマンにとってメリットが少なければ、モデルを使うことが増え、写真が写真家の作品となりえる、メジャーな仕事が増えるかもしれない。そんなわけないか。
今、日本の広告の仕組みはタレントを使わなければ、お金が出ない仕組みになっている。それが、広告写真をつまらなくしている元凶だろう。
NEXT

| | Comments (0) | TrackBack (0)

山口小夜子「僕のコダクローム その6」

●山口小夜子の京朋カレンダーの写真とTEXTは、こちらをお読みください。
●2007.8.21BLOG「山口小夜子さんが亡くなった」

「僕のコダクローム その1」は、ここをクリック

素晴らしいポートレイトを撮っている、湯沢毅氏から、コダクロームPKLについて、コメントをいただいた。
個性的なフィルムは、ある条件のもとでは、特別なフィルムになるという、目からうろこのコメントだった。
フィルムには、それぞれ色の傾向がある。ちょうと僕がフリーになる直前に、コダクロームⅡからKR,KMに変わった。それまでのKⅡ(イエロー傾向)とは違い、マゼンタ傾向になり、軽薄になったような気がした。それに乳剤が安定せず苦労した。
僕は海外や、どうしても35mmで撮るもの以外は、当時ほとんどハッセルブラッドにEPRの組み合わせで撮っていた。それとタングステンタイプのフィルムだ。スタジオでストロボで撮ると、色温度が違うのでブルーぽくなり多用した。
35mmはKRだった。KMはもっと乳剤が安定してなくて、数回使ったがKRになってしまった。KMの綺麗なフィルムはKⅡと同じぐらい綺麗だったが、ほとんどそんなフィルムなかった。船便で運ばれ、同一乳剤のロットも少なかったからだ。
さっき、当時KRで撮影したポジを見た。どれも、昔と少しも変わらず、決して地味な発色ではないことに驚く。
山口小夜子 京朋着物カレンダー 1976年山口小夜子着物カレンダーsayoko76-2
1977年に撮影した、山口小夜子の着物の写真のポジを見てみたが、以前は35mm専用でスキャニングした大き目のデータがあったが、探したけれど見つからず、しかたがなく小さいままをアップした。驚いたことに、スキャニングしたデータと、オリジナルをライトテーブルに置いてくらべたら、全く別物だった。何しろ、着物の赤が違う。ポジの赤は緋色、いうなればフェラーリーのレッドだった。WEB上の写真はオレンジがかっていて、(補正したのでそうでもないかな)アルファロメオの赤、なんて書いても今の人にはわからないし、この写真の赤よりずっとさえがあるはずだが‥‥。しかし、このポジの赤は印刷でもなかなか再現できないだろう。最近ソニーでだしたハイビジョンのなんたらかんたら、の画面で再生するビビットな色のようだ。だれだかが、最終的鑑賞は、ライトテーブルに置いたポジを、ルーペで鑑賞するといっていたが、その気持がよくわかる。
コダクロームを単純に色が地味だというのは間違っている。
他の写真もみたが、後にベルビアで撮ったものと比べても、遜色ないし、負けていない。その撮影のEPISODE
ぼくがKRからベルビアに変えたのは、なんといっても、ひとつにはブロニーで撮り、同じフィルムが35mmでも使えるということだろう。そして何より、増減感が効くからだったし、当時のベルビアの感度公称ISO50、実行感度25だったけれど、僕は増感現像して、+1、+1と2分の1ぐらいしたこともあった。
僕が撮った、サイゴンの昼下がりの、白いアオザイの写真はベルビアを1と3分の2も増感している。しかもLBA2というアンバーフィルターまで入れている。フィルムのきちんとした性能を発揮させるつもりが全くない、僕の根性曲がりの撮影テクニックだ。
KRに不満があったわけではない。いや、もしかしたら、KRの写り方に飽きていたのかもしれない。完成していたと思う。そこにおかしなベルビアというフィルムが出現した。
最初テストしたとき、その頃はマミヤRZ6x7がメインカメラだったので、発色の派手さ、うそっぽさが気に入り撮った。ブロニーはそこそこだったが、その後35mmで撮ったものを印刷して驚いた。ぜんぜんだめだったのだ。ハイライトがとんでしまう。
ところが、ベルビアがよくなったのか、それとも印刷所の対応が変わったのか、あるときからベルビアで撮った35mmの写真がとても綺麗に印刷できるようになった。そのころにはプロビアもあったろうか。
数年たって、他のカメラマンの女性の肌の色にさえがないものを見つけた。その色調から言って、もしかしてコダクロームではと思い、編集に聞くとそうだという。最近コダクロームで撮影すると、印刷が良くないと言う。
そうか、と思った。印刷所は、特に男性誌のグラビアの印刷は、完全にフジのフィルムにシフトしていたのだ。その頃には、グラビアカメラマンたちの多くがフジのフィルムを使用していた。
印刷所は、データの蓄積が一番だ。特に雑誌のような、印刷コントロールが細かくできないものの場合、そのときの主流のフィルムで撮るのが、正解ということになるのだろう。男性誌の女性の肌の描写、色は微妙なのだ。
さて、そう思うと、今のデジタル時代、当初はデジタルで撮った写真、今でもまだそうだが、なかなか思ったように印刷があがらない。特に雑誌の場合がそうだ。
しかし、デジタルの原稿が増えて、ある時点から、印刷会社は、デジタルのデータが豊富になり、銀塩のデータは少ししかないということにならないだろうか。
いや、近い将来、銀塩で撮ったものの印刷が今よりコーリティが落ちる可能性は十分ある。
コダクロームの印刷がうまくゆかないこと聞くと、もうそれは目の前のことなのかもしれないと思った。
●コダクロームについて、個人的なエピソードでもよいので、コメントもしくは、トラックバックお願いします。もちろんアマチュアの方でも。
NEXT

| | Comments (0) | TrackBack (0)

真行寺君枝「僕のコダクローム その5」

shingyoji
CanonF1 FD50mmF1.4 KR 
1975年、5月だったろうか。まだ無名だった、真行寺君枝を撮影した。僕がフリーになるのが、9月だから、アシスタント中に撮った作品だ。君枝ちゃんは、16歳だったと思う。全くのすっぴんです。すっぴんでこんな綺麗な子はなかなかいないようね。フィルムは、コダクローム64。KR。スキャニングしたのがずいぶん前なので、コダクロームの色がでているとはいえないけれど、雰囲気はわかるかな。わかるわけないか。こんどコダクロームで撮った写真をきちんとスキャニングしてみようと思っている。
君枝ちゃんは、バレーをやっていたので、稲村ガ崎にあったバレースタジオで撮影した。後に、資生堂の「揺れるまなざし」のモデルになり、今は個性的な演技派女優になっている。
「僕のコダクロームその1」へ
コダクロームとは?
NEXT

|

2005.01.26

カラーフィルム60年、「僕のコダクロームその4」

1935年、世界最初のカラーフィルム、コダクロームが発売されて、ことしはちょうど60年。
「Kodachrome」Poul Simon♪
ロバート・キャパは、1938年の中国取材ですぐにコダクロームを使った。そのフィルムは紛失したらしい。今回50年以上前に撮ったロバート・キャパのカラー写真の写真展が開催される。そのどれもがコダクロームで撮影されいている。50年以上たってもまだその画像は美しい。僕もずいぶんと撮影した。しかし今では支持するカメラマンも少ないようだ。このカラー写真の歴史に燦然と輝いたフィルムについて、語りあってみたいと思います。
コダクロームを使っていた、そんなカメラマンは年齢が高いかもしれない。今の若い、コダクロームという素晴らしいフィルムを知らない、人たちのためにも、話を聞かせてください。
コメント、トラックバック、もしくは、BBS、もしくは僕にメールでもよいので、その印象、思い出など教えてください。個人的な思い出でも結構です。
「僕のコダクロームその1」
コダクロームの、開発秘話のサイト「カラーフィルムとブラームス」ケンさんのホームページ
NEXT

| | Comments (4) | TrackBack (0)

「僕のコダクロームーその3」

1970年代前半、ポールサイモンの歌に「僕のコダクローム」という曲があった。来月2月15日から20日まで、日本橋三越で、「キャパ・イン・カラー」という写真展が開催される。50年以上前、キャパが撮影した、コダクロームというカラーフィルムで撮影した写真展だ。まったく退色していない、世界最初のカラーフィルム。コダクロームは、僕の世代のカメラマンにとって、格別なフィルムだ。そんな話題の3回目。1回目はここをクリック。
友人である、写真家の赤城耕一氏が、トラックバックが文字化けするとのことで、コダクロームについてメールをくれた。以下赤城さんのメールより。

コダクロームII(ISO/ASA25,1961)→KⅡ
コダクロームプロフェッショナルタイプA(タングステンISO/ASA40,1961)→KPA
コダクロームX(ISO/ASA64,1962)
発売となってました。当時の東洋現像所の現像受付開始が63年みたいですね。それまでは海外に郵送現像してたとか。
改良版が出たのが74年でコダクローム25と64が登場してます。76年にコダクローム40(タングステンタイプ)が出ました。
で後にプロフェッショナルタイプとして、コダクローム64プロ(1984)とコダクローム25プロ(1985)が出てます。
ブローニーが出たのは1987年で、当方も発表当時の記憶ではみなさんもう4×5はイラナイとか言ってましたね。でも使ってみたところ、発表会のサンプルみたいな色が出なくて、失望した記憶あります。ポジを探してみたんですが、捨
てちゃってました。
同じ年にコダクローム200プロも出ましたが。当方は『アサヒグラフ』なぞの撮影取材でけっこう使いましたが、高感度ながらもメリハリのあるシャープネスがあって、重宝しました。
それで最後に1988年にコダクローム200プロが出て、その後新製品はないです。
現在東京では堀内のみ現像可能で、増感(+1/2,+1,+2の3種類のみ)も可能みたいです。これはステップがおおまかなんで、ちょっと辛いですね。
横木さんもおっしゃってましたけど、当方はじめてコマーシャル用のコダクロームの原判を見たとき、(たしか小西海彦さんの)向こうが見えないような真っ黒(という印象でした)だったのでびっくりした記憶あります。印刷で無理やり上げるということですが、けっこう勇気あるなーと感じました。
キャパと横木さんの話を読んでいたらもものすごく久しぶりにコダクロームが
使いたくなりました。買いに行ってきます。
(赤城耕一)

以下横木
東洋現像所でコダクロームの現像ができるまえは、香港、もしくはハワイでの現像だったとおもう。当然僕の時代は、すでに東洋現像だ。最初のコダクローム(ASA10)が、1935年、少しずつ改良されたのでしょうが、1961年というと、東京オリンピック前。このときにコダクロームⅡ(ASA25)が発売されたわけです。
僕より上のカメラマンたちは、きっと僕なんかよりずっと、KⅡにたいしておも入れがあったと思うし、使い倒していたのでしょう。コダクロームXは、僕は使ったことがありませんし、あったのかなあ。(そういえば、KXというのがあったような記憶がわずかにあるけど‥‥)
タングステンタイプのKPAは、何度か使ったけれど、僕はあまり好きになれませんでした。
KPAが好きなのは、昔僕のアシスタントをしていた、小野麻早というカメラマンがいましたが、彼は今でもこのフィルムを使っていると言ってたような気がします。
1974年に、コダクローム25、KMと64のKRが発売ですか。やはり、変わり目のときだったのでしょう。
ということは、僕はアシスタント時代がKⅡで、独立してからは、KRとKMを使っていたことになります。
84年PKRが発売され、きっとそのフィルムを使っていたとのでしょうが、遠い昔のことで、忘れました。この頃僕は、メインがブロニーサイズで、35mmはKRを使ってました。
その後は、前のブログに書きましたが、ベルビア、プロビアに以降して、コダクロームは忘れてしまいました。今ではなんおフィルムがあるのか、しらないような状態です。
赤城さんが、書いてましたが、コダクロームの超アンダーな、原稿というのは、ほんとうに伝説的ですが、本当に僕も驚きました。というのも、たしかにコダクロームは、アンダー気味の綺麗なフィルムですが、広告の原稿に使われた一部のカメラマンの原稿は、本当にライトテーブルでは、ただ真っ暗としかいえないような写真でした。しかしスライドプロジェクターにかけると、そして暗闇でみると、その光の階調の美しさ、ドラマチックさは、見たことのないものです。
僕はそんな極端なアンダーはありませんでした。それというのも、当時、広告の全盛時代、雑誌や写真集の印刷と違い、一点一点、分解し製版して印刷するので、とても自由度があったということでしょう。きっと、失敗から始まったと僕は睨んでますが。そうだとしても、そのアンダーのなかに、潜在している絵は、やはりコダクロームのものだったのでしょう。
ブロニーのコダクロームも僕はテストしたし、仕事でも少し使って、すぐにやめた記憶があります。

コダクロームについて、思い出があれば、個人的なことでもトラックバック、もしくはメールください。
NEXT

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「僕のコダクロームその2」

コダクロームの思い出がまだあった。僕のコダクローム1の続き。
コダクロームⅡ、ケイツウは、ASA25(ISO)しかなかった。今思うと使いづらいように思えるが、実際は35mmで使っていたので何の不便さも感じなかった。その頃僕は、CanonF1,FD50mmf1.4、100mmf2.0、200mmf2.8、24mmf2.8のレンズで何でも撮っていた。
コダクロームは、現像の増減感もできない。助手時代、35mmの撮影ではポラロイドを撮ることはなかった。35mm用のポラホルダーがまだなかったからだ。心配だったらハッセルのポラを持っていった。しかし通常、海外でのコダクロームの撮影には、ポラは持ってゆかなかった。なにしろ先生が、ポラを切らない。それは自然光ばかりか、携帯ストロボ(そんないいかたがあったかなぁ)を使ってでもだ。当時はまだオートストロボの性能が未完成で、ナショナルP型というマニュアルのストロボを使っていた。ガイドナンバーは、32ぐらいだったろうか。距離によって露出をかえた。
だからコダクロームでの撮影はどきどきものだった。なにしろ、現像が上がってくるまでできあがりがわからない。しかも、E6現像のフィルムだったら、テストをだし、それを見て本番を流すが、コダクロームは、現像の調整ができないので、一発で流す。紙の箱に入った、紙マウント、それをあけるときの緊張感はなかった。
しかし、不思議と露出は、ほとんど間違いなかった。
そのわけは、当時のアシスタントとは、露出計がなくとも、光を見て、すぐに露出がわかったからだろう。
写真家の渡部さとる氏が、その著書で、感度分の16ということを言っている。
世界中どこで露出を計っても、順光の風景の露出は、感度分の16、ISO100だったら、100分の1のF16ということだという。
それと全く同じようなことを、僕は思っていた。それは露出計を計る前から、コダクロームⅡ(ASA25)で撮るとき、順光の露出は125分の1F8(=25分の1,f16)だと決めていた。
コダクロームで撮ると、人物など撮っても、コダクローム特有のこってりとした、写真が撮れた。(コダクロームⅡはアンダーぎみの露出が美しかった。)
そして日陰だったら、3段開けの、125分の1のf4もしくは2.8(明るさによって)。
サイド光の場合、顔のハイライトとシャドーのバランスを見て、一段から2段絞りをあける。逆光は、2.5から3段あけ。レフをつかったら2段開け、と一見大雑把だがすぐに決められた。
実際、露出計を使わなくても、それで十分計測できた。だからメーターを見るより、そのときの光の状態を見極めるのが、適正露出をはじきだす、わざだった。日中の屋外での撮影だったら、メーターは確認の道具ともいえた。
だから、昔の助手とカメラマンの関係は、助手が完璧なオート露出計状態だった。なにしろ撮影者が何を撮ろうとしているかは、現在の進化した側光機器でも、わかりはしないことを制御した。先生がいったいどういうフレームで撮っているのかを意識していたのだ。だからこそ昔は助手をやる意味があったのだと思う。写真家の仕事を、アシスタントも実際に参加していたのだ。今みたいに、メーターとにらめっこしてみても、なにもならない。実際の光を見ることが重要だ。顔のアップと、全身と、風景では露出が違うことが、わかることだと思う。
雲がかかったりしても瞬時に変える。雲がかかると、何段落ちだと瞬時に補正する。背景の明るさでも、露出を変える。人物の肌色でも露出は違う。暗めに撮りたいのか、明るめに撮りたいのか。さまざまな組み合わせを考える。
その助けをしたのが、セコニックのスタジオSのような入射光式の露出計だった。その辺においといて、針の動きだけで、すぐに光の違いがわかる。なによりも、実際にそこにどのくらいの強さの光が当たっているかを測るのだ。そこでわかることは、世界中どこでも日中の明るさはさほど差がないことがわかる。ヨーロッパでも、ハワイでも、太陽の光の違いはほんのわずかだ。
デジタルのように、数字の末尾まで表示されると、それにふりまわされる。正確な露出が絶対的なものに思える。しかし実際の適正露出は、撮ったカメラマンのイメージのなかにあるものだ。それは、オートの露出計で測ることはできない。
そんなわけで、昔のアシスタントは、露出を計るのが、今の人より数倍早かった。
コダクロームの話が、露出の話になってしまったが。
コダクロームへの意見、情報があったらトラックバックしてください。
NEXT


| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.01.25

「僕のコダクロームその1」

僕のコダクローム YouTubeより1970年代前半に、ポールサイモンの曲で、「僕のコダクローム」という曲があった。今メロディを思いだせないが、そのころコダクロームは、僕にとって、いや写真をやっている人だったら誰でも、特別な名称だった。
それは(カラーフィルムとブラームスというサイトコラムがある)、前のブログでも書いたが、コダクロームⅡ、KⅡ(ISO25、ASA25)(ケーツーと呼ばれていた)というフィルムのことだった
今回、ロバート・キャパの撮った50年前のフィルムが公開され、2月に写真展が開催される。
それについては、以前のブログを読んでください。
さて、僕が助手をやっているころ、70年代前半、写真の世界、特にプロの世界では、ほぼ全員が、カラーフィルムはコダックを使用していた。富士、やコニカは、アマチュア用のネガカラーだけで、カラーポジフィルムは、99%コダックだった。当時コダックのフィルムは長瀬産業という商社?が輸入していた。プロのための現像所は、E-6という、内式のフィルムの現像をしていた。エクタクローム、エクタクロームプロフェッショナル、EX、EPR,それらのタングステンタイプだ。そんなとき、外式のフィルムだった、コダクロームⅡ、KⅡは、(ケイツウ)は、横浜にある東洋現像所でしか現像ができなかった。基本的には、Kodachromeと赤く刻印された、紙マウント仕様だった。まる一日現像にかかり、翌日の夕方欲しい時には、横浜の工場まで夜、届けに行かなければならなかった。
しかし、そのフィルムの威力は、すばらしく、なにしろ、50年前のロバート・キャパのとった、コダクローム(ISO10)でさえあの発色だ。しかも退色することもない。
後に、コダクローム64(KR)コダクローム25(KM)、そしてPKRと進化してゆくが、実はKⅡが一番綺麗だったし、発色も安定していた。そのことによって、日に2回の現像が可能のなったと記憶している。
KRに変わってからの、コダクロームは、乳剤番号によって発色が違い、とても難しいフィルムになった。よいフィルムに当たれば、KⅡに負けない発色をしたが、KⅡを知っている人にとっては、次第に違うフィルムを使うことになったのかもしれない。もっとも35mmのフィルムとしては圧倒的に粒状性がよく、他のフィルムには変えられなかった。完全にコダックの独占だった。
僕がプロになったとき、ちょうどKⅡとKRの変わり目だったと思う。記憶では、KⅡを使っていたが、もしかしたら助手の時だけだったかもしれない。
今当時のフィルムを見ても、コダクロームとしてしか書いてないので、正確なことは覚えていない。昔のデータノートを探せばわかるが、倉庫のなかだ。もっとも、KRになってからは、乳剤番号で、きちんと厳選していたので、発色のよいフィルムを使っていた。それがかつてのプロのやりかたで、今のように量販店でフィルムを買うことはありえなかった。だから30年たった今でも、変色はなく、色彩も素晴らしい。
もっとも70年代ぐらいからコダックの内式のカラーフィルムも、画期的に耐久性がよくなり、30年まえのエクタカラープロフェッショナルEPRで撮った写真も、今でもほとんど問題ない、ちょっと見ただけではわからないレベルだ。いや、ぜんぜん問題ないといえる。
コダクロームのブロニー判が発売されたのは、いつ頃だったろうか。
たしか堀内カラーが取り扱った。しかしあまり安定してなくて、成功したフィルムとはいえなかった。220フィルムもあったろうか。
その直後に、フジのベルビアが発売された。粒状性が、外式のコダクロームに負けない革命的なものだった。初期には色が安定していなかったし、印刷側の対応が遅れていたので、使いづらかったが、突然問題なく使えるようになった。しかも、35mmばかりではなく、ブロニーから、4x5、8x10まであった。僕は最初、35mmより、ブロニーのベルビアに魅せられた。特に、その頃は、グラビア写真が多かったので、その解像感のよさは、画期的だった。
35mmは、コダクローム、それ以上はベルビアという時が僕にはあったが、しだいに、35mmもベルビア、そして
その後発売されたプロビアを使い始めた。増感しても、発色、粒状性ともによく、その時点でコダクロームのことは忘れてしまった。その時点が、コダックとフジの逆転の始まりだった。そしてグラビア系のカメラマンは、フジ系、ファッション系のカメラマンはコダックを多く使用していた。それは、フジのフィルムの発色がビビットで、明快な皮膚の色を求めるグラビア系に支持され、コダックのフィルムは色彩が落ち着いていたので、ファッション系のカメラマンが支持したのだろう。
そして時代は変わった。
話がそれるが、僕たちは今でもポラ(ポラロイドフィルム)というが、もうずいぶん前からフジのフォトラマを使っている。フジのポラとなどと、インスタント写真の普通名詞になったポラがそのまま残っている。そのフォトラマも、デジタル時代によって終わりを迎えるのだろうか。
コダクロームについて、ご存知の方、思い出のあるかたはこのブログにトラックバックしてください。
NEXT

| | Comments (0) | TrackBack (1)

写真の話、三脚について

BBSに、カメラの三脚についての質問があった。
三脚が、ブレの元凶みたいなことが、某雑誌に特集されていたそうだ。
三脚はプロにとっては、ごく普通に使うもので、誰でもかなりちゃんとしたものを、幾種類か持っている。だから使うといえば当然のことだし、理由がなければ全く使わないものでもある。
三脚といえば、大型カメラだ。
僕は、今は8x10を使わなくなったので、ジナーもデアドルフの8x10も売ってしまった。
そのころその大型カメラのために、ジナーのくそ重たい三脚、脚の太さが5センチぐらいもあるやつを、使っていた。今のようにカーボンではなく、一人で操作するのは困難で、(やってできないわけではない)アシスタントが絶対に必要だった。
なにしろジナーは8x10だと、標準レンズでも360mmだ。顔のアップを撮るとなると80センチぐらいに蛇腹を伸ばすことになる。
ただそんな撮影は、スタジオで強力なストロボを使うので、三脚は保持しているだけ、ブレを気にしたことはない。
それより、絞りをF32、45、64と絞りこむが、それでも被写界深度は浅く、ピントのほうが心配だった。
ジナーの4x5で車を撮っていたとき、望遠系のレンズをつけるとやはり、やはり蛇腹はかなり伸びる。屋外の撮影では、風もあるので前のほうにもう一つ、三脚を補助につかったりもした。パネルを立て、風除けもした。
僕は4x5は通常、リンホフテヒニカ4x5を使っている。今でも唯一もっている4x5だ。それはプレスカメラ、折りたたみのフィールドカメラだ。三脚はハスキーの3段や4段を使用している。通常はそれで何の問題もない。
アメリカ製の三脚、ハスキーは、パン棒というか、雲台がスムーズで使いやすく、プロカメラマンの多くが支持をしていた。それにジッツオより、大きさの割りなりに軽量だった。
ハスキーは万能で、マミヤ67、645、ハッセル、コンタックス645とそれに、35mmでも使用していた。
35mmの三脚使用状況は、200mm以上の望遠使用時に使用した。
あと朝や夕方のスローシャッターが必要なとき。そして開放での、超アップ時にも、高速シャッターが切れないときは、使用した。
もっとも僕は、望遠レンズ系は、90%以上、開放撮影なので、屋内でもかなり早いシャッターが切れる。ライブやファッションショーの撮影、特に若い頃よく撮ったが、そのころキャノンの望遠レンズは充実していた、明るく、600mmぐらいでもf5.6はあったと思う、いや4.5だったかな、シャープで素晴らしいレンズだ。もう30年近く前のことである。フィルムはハイスピードのエクタクロームの、デイライト、タングステンをISO800から1600ぐらい、またはTri-xを1600から3200ぐらい増感していた。
とにかく、明るい望遠と、ハイスピードの組み合わせで、かなり速いにシャッターが切れ、三脚を使えばぶれることはなかった。
そんなふうにブローニーカメラ以上の三脚の使い方は、僕の先生のやりかたをそのまま踏襲している。
そのころ沢渡朔さんは、ジッツオの三脚に、スリックの自由雲台を使っていた。沢渡さんはほとんどの写真をハッセルと35mmで撮影した。とてもシンプルなやりかただ。今でもそうだと思う。そのシンプルさに僕はあこがれた。
僕はジッツオの細めの三脚に、沢渡さんの真似をして、スリックの自由雲台を載せた。
僕は助手時代、先生のメインカメラがブロニーはハッセル、4x5は、テヒニカ、35mmは、初期はニコンF、その後CanonF1だった。助手時代の機材は、徹底的に使いこなしていたので、その使用法は肉体化されている。(何も考えずにそうさできる)。
フリーになったとき、テヒニカの4x5、ハッセル、CanonF1が僕のラインナップになった。すべてをその3台で撮った。当然三脚はハスキーだった。
しかし、その後、さっき書いたように、軽装を志向したため、ジッツオに自由雲台をつけた三脚も使った(作品の場合、助手なしも多いからだ)‥‥後に自由雲台は、ジッツオの純正になった。
その後、僕の、ブローニーのメインカメラが、マミヤのRZ6x7になった。
グラビア写真は当時、皆35mmコダクロームⅡ全盛時代だった。僕は、かなり早くからブロニーを使った。最初はハッセルだったが、後にほとんど、RZになった。110mmの標準が大好きで、2.8と明るく、しかもファインダーもみやすく、モノクロフィルムだったら、手持ちでも可能だった。400分の1秒が切れたからだ。しかし通常マミヤRZは、いつもハスキーを使用していた。重いカメラだし、リボルビングもついているので、横位置撮影も簡単だったので、ハスキーが安定した。
その後、マミヤの645PROを買った。しかし、ピントがなかなく難しく、すぐに友人に安くゆずった。僕のように開放派には、向いていなかった。
その後のコンタックス645を購入した。オートフォーカス。実際はセミオートのように使った。
操作感は35mmに近くても、ピントはやはり、ブロニーで、しかも僕は、いつも開放撮影、手持ちでの撮影は至難だった。結局645は、いつも三脚を使用した。
風景写真と違い、人物撮影は、ピントが微妙だ。35mmにしろ何にしろ、ピントが難しいときには、かならず三脚をしようした。
ハッセル時代、モノクロだったら、手持ちで撮影も可能だった。その代わり、開放撮影は無理だ。モノクロはにしろ、からーにしろ、f8-16ぐらいは絞った。
スタジオ撮影は基本的に絞り込む。F11とか16ぐらいが、常用だったろうか。そのためピントも深く、手持ちで撮影できた。もっともハッセルのF2.8の開放撮影では、必ず三脚を使用した。
今は、デジタルで、軽いジッツオと、ハスキーを使用している。
望遠の重いやつでもハスキーでよいようだ。今はカーボンで軽い三脚が多く出ている。だいぶ状況はよくなっている。僕はカメラも三脚も軽いほうが好きだからだ。かといって、なれた三脚が好きなので、やはりハスキーがメインの三脚だ。
ところで、三脚でブレ。うーん、BBSにも書いたが、あんまり気にしたことはない。風の強い日の望遠だとしても、僕は開放撮影が多いので、ブレることはない。
話はそれるが、面白いことに、僕の特殊撮影、トワイライトツイストは、三脚がなければ撮れない。デジで本でも紹介したが、ポラロイド690で三脚のねじを強く締めると、ボディがゆがんで動かなかったことがあった。
また、これまたおもしろいが、その撮影では長時間露光をする。シャッターを押した瞬間のショックがあり、1秒とかそのぐライのときのブレが多いことだ。10秒20秒が意外とぶれない。それは、シャッターのショックが収束した時間が長いほどブレにくいということだろう。
ついでに長時間露光についてだが、車の撮影をしていたとき、すべて4x5だったが、友人の、車をメインで撮っている、大学時代の同級生、天才、高木松寿が、(僕は学生時代彼の写真に多大な影響を受けた)、シートフィルムの長時間露光で怖いのは、フィルムのカーリングだという。タングステンでのライティングで、長時間露光をすると、途中の温度変化で、フィルムが突然歪むそうだ。だからとくに8x10のようなフィルムホルダーにはバキュームを使うといっていた。そのとき僕は4x5だったので、バキュームは使わず、それより、テストも含めて、なるべく1カットに何枚も撮影することにした。運良くその後、幾たびも撮影したが、カーリングによるピントのずれ事故に遭遇したことはなかった。
後に、コンタックスの645のパックにバキューム付きがでたときは、まよわずそれを買った。
僕のような、開放撮影派は、ブレよりピントが重要という結論だ。
そうそう、開放撮影のよいところは、デジタルのごみの事故が少ないということだ。ときどきスタジオでいっぱいに絞ると、あるわあるは、撮像素子はごみだらけ。絞込み派は、オリンパスのダストリダクションは必携かもしれいない。
などと、ちょっと三脚の話から脱線した。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.01.23

CGと写真と遅い新年会

友人の、写真家HARUKIの家で、遅い新年会をする。大きなテーブルを囲み、約15人わけもなく騒ぐ。テーブルの上には、日本酒、ワイン、シェリー、焼酎、ビール、ジュース、他につまみ、焼き鳥、餃子、崎陽軒のシュウマイ、うに、ソーセージ、から揚げ、生ハムとチーズ、スペインのサラミ、サラダ等々、まだまだ食いきれない量。実はそのあと、なべでもしようと材料を買い込んでいたが、皆、つまみ等を持ち込んだので、なべまでたどりつけなかった。この様子は、「カメラまいにち」blogに紹介されると思うので、割愛。
そこで、HARUKIの先輩である、古賀信明氏に会う。彼は、日本のCG界の第一人者、特に映画や広告のスペシャルエフェクトを多く手がけている。最近の映画では、篠田正浩監督、スパイゾルゲの上海の昔の町並みを、CGで再現している。パンをしながら映し出され、そこに歩く人々が写っている。それこそ実写で撮ることは、不可能な場面だ。そういう彼の作品や、制作過程の紹介されたDVDを見せてもらった。
今や、ハリウッドの映画に限らず、再現できないものはない状況だ。しかし時間と金さえあればなんでもできわけではなく、たとえば水の表現は難しいという。
いろいろな話をしたが、お互い酔っていたので、話がかみ合ったかわからないが、話していて、GGの世界の問題点と、写真の問題点がどこか共通しているような気がした。
CGはすべてを外側から描く世界だ。同じ人間を描いても、例えば実写だったら、その役者の存在と演技で人に何かを訴える。しかしCGには、内面は存在していない。そこに命を吹き込むというか、アニメに心を吹き込む作業と同じように、人間の存在ではなく、存在しているように「見える」ことに力が注がれている。
そこには、日本のアニメーションの歴史と強く結びついている。例えば現在のディズニーのアニメは、実際の役者を素材にシミュレートして、表情などを写し取り、それをCGに再現する。ある意味とても、科学的な再現方法だ。
もちろんそのやり方は日本でも多く採用されているが、日本には違ったやりかたがある。それはアニメの手法だ。アニメはもっと動きを省略し、デフォルメしている。現実を克明に、写し取っても、リアルにはならない。そこには、デフォルメし省略ほうが、見る側にリアリティを感じさせる(というようなことを言っていたと思う)。日本のアニメ(例えばジブリ)とディズニーのアニメの大きな違いは、日本のアニメは伝統的な省略がある。観客は、動きのスムーズさに、感動するのではなく、表現された内容に感動するしリアリティを感じる。
そんな話を聞いていて、今の日本の写真界の主流である、あまりにも個人的な、内面主義の作品が幅を利かせるこの時代、半径数メートルの表現ばかりで、いいのかなと思えてくる。
日常の記録は重要だけれども、日常のなかから何を発見するかが、重要で、ただ日常や現実が表現されていても、だから何だと思う。
実際、荒木経惟氏の初期の写真、特に写真時代の頃の写真は、当時の広告や、多くの表現の主流だった、フィクションをテーマにするより、ずっと現実的な、なまなましいものを撮っていながら、それはまるでうそ臭い、偽者まるだしの写真に見えた。逆のアプローチだ。(広告写真とは、フィクションをいかに、本物らしく見せる作業だ。)
荒木は彼の日常を撮っていながら、決して、日常の再現をしていたわけじゃない。それは荒木経惟の見たものという、偽の現実を見せてくれたのだと思う。
ところが、今、荒木の子供たちの多くは、どこか、その日常を、その日常のまま提示して満足しているような気がする。
日常に暮らしたければ、日常に暮らせばいいだけの話だ。それを何も写真で再現する必要はないと思う。写真は日常を越えられるわけではない。それならば、なぜ日常をカメラで撮るのかといえば、肉眼では見えない、または経験することのない日常を、カメラという機械によって、異界としての日常を垣間見ることができるからだ。
‥‥見事なCGの偽世界を見せられて、この先さらにCGが進むと、果たし写真はどこにゆくのかと思う。現実を撮ることと、そこに再現された、映像、画像との差は、これからどんなふうになるのだろう。現に、合成された写真と、実写の差は、言われなければわからないようになってきた。北朝鮮の素朴の合成写真は、ただ稚拙なだけだ。
実は、もう境界線は限りなく薄くなっているし、重なりあっている。
そこには、実はという、「ことば」がなければ、わからないものになりつつあるのだろうか。
実際は荒木はそのために、かなりのことばを屈指した。荒木にことばがなければ、荒木の意図は伝わらなかったと思う。
さて、古賀の作品を見ていろいろ考えさせられたが、写真家である僕にとって、今考えられる、他のメディアとくらべて、唯一の写真の優位性は、一人でできて、しかも短時間でできるということしかないかもしれないということだ。
極端に言えば数万分の1秒でも完成させることができるということかもしれない。写真はスピードがすべてのメディアを凌駕するのだろう。もちろんテレビの生はもっと早いが、それは表現ではないからだ。たれ流しであり、選択をしていない。(それも表現のひとつともいえるが)
簡単に言えば、写真は、思いついたらすぐにできるということだろう。その断片を、重ねることによって、それが1年かかろうが、10年かかろうが、よいのだけれど、撮るという断片は、とてもカジュアルなメディアなのかもしれない。

| | Comments (1) | TrackBack (1)

2005.01.19

鎮魂を込めて 菊の写真

災害被害に鎮魂を込めて菊の写真
380kikucover
850x567pixelの写真
EosKissDigital EF50mmf1.4 Jpeg-Large-fine AWB ISO200

| | Comments (0) | TrackBack (0)

M7.3-15 子供たちのみたもの

nagatajieitai95
1995年1月22日 長田
nagatajogakusei95
1995年6月17日 長田
nagata2005IMG_8982
2005年1月17日 長田 3枚とも同じ場所
こうやって見ると、半年後に撮った写真と現在は、建物が立ち並んでいるものの、さして変わっていないように見えるのはなぜだろう。
M7.3 子供たちの見たものTop
Next その16

| | Comments (0) | TrackBack (0)

M7.3-14 子供たちのみたもの

380girlIMG_4780
8歳ー18歳 神戸市長田区 高校3年生 

Next
M7.3 子供たちの見たものTop

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.01.18

M7.3-13 子供たちのみたもの 阪神大震災10年

380misuga1995
1995年1月21日神戸市長田御菅地区
380misugacarIMG_8986
2005年1月17日pm4時長田御菅地区 上の写真とほとんど同じ場所から撮影
380misuga01IMG_8965
2005年1月17日 みすが地区慰霊祭の準備 
380misuga01tateIMG_8996
慰霊祭 逆から撮影

Next

M7.3 子供たちの見たものTop

| | Comments (0) | TrackBack (0)

M7.3-12子供たちの見たもの

1月17日
神戸市内は、午前中まで雨が断続的に降り続いた。昼頃あがると、六甲山の上部が白く雪が覆っている。寒いわけだ。神戸は日本でもかなり変わった場所かもしれない。海が近く、背後に高い山がある。外国人たちが好んで住んだのも理由があるのだろう。海外にゆくと、山の斜面に立派な住宅があるが、日本人はかつては、あまり住まなかった。いや、こういう適度な斜面の土地が少ないからだろうか。海の近くのこんもりとした丘はあっても、神戸のような地形は少ないような気がする。
rokkouyuki_8820
昼、長田に行った。もうなんども通っている場所だ。半年後、5年後にも訪れいている。そのほかにも数回来たことがある。このあたりは、すべても燃えつくされてしまった。聞いたことによると、都市計画の名の下で、なくなってしまった自分の家を、プレハブでもと再建しようと思ったら、禁じられ、土地を買いとられることになったそうだが、家屋の燃えてしまった家は、土地だけの金額しかでないそうだ。ぼろぼろでも家屋が焼け残っていたら、土地プラス家屋の値段で買い取られるそうだ。強引にプレハブで再建しても、結局は罰則がなく、やったもの勝ちだったそうだ。そしてすべてが焼けてしまった人間のほうが、保証されないという矛盾。長田の町に新しい店舗、集合住宅がたくさんできているが、買い取られた金額では、とても住めないと言っていた。まして、この土地に住んでいただけの、住民の多くは、もうこの住み慣れた土地に住むことはできない。
nagataakichiIMG_8851
Next
M7.3 子供たちの見たものTop

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.01.17

阪神大震災10年 M7.3子供たちが見たもの-11

kosoku1995
1995年1月21日 AM7時 
500kosoku0117
2005年1月17日AM5時46分 阪神高速崩壊現場
雨が降っている。意外なことに、報道機関はどこもきていない。個人的にここで写真を撮っているのは僕だけだ。皆東遊園地の、慰霊祭現場にいるのだろう。現在6時半、雨のせいか、まだあたりは真っ黒だ。10年前のこの日は、晴れていた。満月だったという。
ラジオからNHKラジオ体操の音楽が聞こえている。10年前のこの日、被災者もこの音楽を聞いたのだろうか。
kosoku050117ue
今回の震災取材とは直接関係ないが、ある局の取材を受けることになり、7時すぎまでこの場所で待つことになる。
雨が強く降り、なかなか明るくならなかった。7時過ぎると道路には、車があふれ、ラッシュアワーだ。きっと10年前も、7時過ぎていたらこんな状況になっていただろう。
そして、やはり不思議なことは、この現場に報道機関の誰も来ていない事だった。いやきっともっと違う時間に来るのだろう。それとも、ここの崩落現場は、僕個人の思い込みだろうか。
kosokuam71107_8761
NextM7.3 子供たちの見たものTop
Next

| | Comments (1) | TrackBack (1)

M7.3-10阪神大震災10年 子供たちのみたもの

2005年1月17日午前5時35分 神戸市東灘区深江 国道43号線 阪神高速 雨 高速道路崩壊現場
あと10分で、阪神淡路大震災10年になる。まだあたりは真っ暗。この時間すでに交通量は多い。
この場所に、報道機関はどこも来ていない。これからここで写真を撮る。
関係記事
Next
M7.3 子供たちの見たものTop

| | Comments (0) | TrackBack (0)

M7.3-9子供たちのみたもの 震災10年

nhkmoonIMG_8661
2005年1月16日 pm6時 東遊園地 中央区市役所南

nhkcandleIMG_8659
Next

M7.3 子供たちの見たものTop

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.01.15

墓参り 雨の鎌倉霊園

Keikyu01IMG_0173

雨の鎌倉霊園。帰りぎわには、雪が舞った。僕の父親の教え子たちが、一年一回墓参りをしている。それにぼくは一緒させてもらった。ニッポン放送の塚ちゃんをふくめて7人で、凍える手で、墓の草をむしり、ビールで乾杯、その後待合場で、つまみと酒で飲む。その後品川駅前居酒屋で飲んだ。塚ちゃんはこれから、結婚式の司会をすると言っていた。
久しぶりの、京浜急行。いつも車で行くので、本当に久しぶりだ。初めて乗ったのは何十年まえだろうか。山口百恵のずっといぜんだから、30年以上も前だ。そのとき、京浜急行のスピードに驚いた。今は高架になっているが、かつては家並みがせまる、曲線をハイスピードでつっぱしる。そんなイメージ、「これっきり、これっきり、もう、これっきりですか」という、横須賀ストーリーは、京浜急行のスピード感のなかにある
そして今日乗って、あいかわらず急行の、まるで車で言えば東名の大井松田、御殿場間を160キロ平均で走るようなスピード感。列車の加速もいい。。800系はローレル賞ももらっている。あまりに早いので、先頭車両のメーターを見ると、120キロで走っている。急行だから通過駅も関係ない。のぞみの250キロ以上のスピード感とさして変わらない。スピードが好きな人は、一度乗るとよい。ここちよい緊張感がある。きっと京浜急行は新幹線と同じ標準軌だからあんなスピードがだせるのだろう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「M7.3」-8子供たちのみたもの 阪神大震災10年

明後日、1月17日は、阪神淡路大震災から10年。
明日の夜神戸に行き、17日は、神戸の崩壊した高速道路の場所で、10年目を迎える予定。
そこからすぐに、このブログにアップしてみたい。実況というわけだ。
17日は一日、神戸で撮影する予定。
インタビュー集「M7.3、子供たちが見たもの」が完成した。日曜日には書店に並ぶと思う。是非ごらんください。
NEXT

M7.3 子供たちが見たもの のTOP

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.01.13

M7.3-7 阪神大震災 復興はまだ終わっていない

今日の朝日新聞1月13日号の朝刊、 14面 オピニオン 私の視点 に経済評論家の内橋克人氏の論評が載っていた。◆阪神大震災 復興はまだ終わっていない
略 ‥‥震災10年のいま、国、自治体の素顔に峻烈な検証の目を注がなければならない‥‥震災時の笹山幸俊による神戸市制とは一体何だったのか‥‥数兆円に余る国の復興予算のうち被災者の生活再建に向けたのは4分の1、兵庫県は4兆数千億の予算措置を講じながら、生活救援対策は12,3%程度。それも貸付‥‥神戸市は2兆7千億‥‥生活支援は6%台‥‥「住宅は個人の資産。資産回復に個人補償は不可」との基本姿勢‥‥。少数派となった真の被災弱者の声は、「改革」「自己責任」論に明け暮れるこの国為政者らの耳に届くことはない。‥‥経済大国と生活大国は原理が違う。 ‥‥略
この意見は、神戸にゆくとある感慨を持つ。道路や、ビルや公共施設の復興、建造はめざましい。昔の神戸と比べると表面的にはぴかぴかになったようにさえ見える。しかし、長田の町に残る、歯が抜けたような空しい空間はなんなのだろう。その空いた空間は、震災以前にすでに計画されていた、効率的な都市計画による、あまった空間だろうか。いや違う。その空いた空間には多くの人々が住み、営んでいた痕跡なのだ。そしてそこにいた人々は、今そこに住むことができないのだ。いったい彼らはどこにいってしまったのだろう。そしてその空間をつぶすように建てられた住宅は、安手の建物が多い。それはコンクリートになったかもしれないが、やみ跡に立ったバラックと何が違うのだろうか。道路や公園は整備されても、そこで目論まれた、都市計画は、図面上のもので、街の景観は、あいかわらず貧相なものだ。いや、かつての活気がなくなった部分、街は死んでいるのかもしれない。入れ物は復興しても、中に住む住民、そしてこの土地に住むことができなくなった人々は、まだ深く傷を負っているのだろう。
僕が撮った、倒壊した高速がある。あのたった500mだけ、日本ではまれな、他の工法とは違う、ドイツ式工法で建設された高速道路だ。コンクリート一体型のそれは、震災後、倒壊したまさにその500mを、何の検証することもなく、たった1週間で完全に撤去、抹殺、証拠隠滅してしまったのはなぜだろうか。
阪神大震災をあれだけ大きな被害にしてしまったのは誰なのだろうか。地震は天災であっても、その被害の多くは人災だ。地震の被害を拡大させた「加害者」が、地震の復興予算によって、一番潤ったのではないのだろうか。
‥‥復興住宅から家賃滞納を理由に「追い出し」の目にあった高齢者、失業者は100数十世帯を数える(私の視点)という。
Next

M7.3子供たちが見たものBlogTop 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

M7.3子供たちのみたもの6 阪神大震災10年

brother01IMG_0388
姉弟 8歳ー18歳高校3年生 6歳ー16歳高校一年生
神戸市長田区

bwcaple01IMG_5500
カップル 6歳ー16歳 高校1年生 
神戸市灘区 神戸市西区

NEXT

M7.3子供たちが見たものBlogTop 


| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.01.11

2005ロバート・キャパ写真展

380capaincolor

Robert Capa in Color 
「ロバート・キャパ写真展 ロバート・キャパインカラー」
1935年、世界で初めてのカラーフィルム、動画用(16mm)コダクロームが開発された。そして翌36年スチール用が発売される。ロバート・キャパは、その翌々年の1938年には中国取材で早速そのコダクロームフィルムを使用している。
当時の感度は、ISO(ASA)10ぐらい。しかしその性能は素晴らしかった。それは後に発売されるエクタクロームと違い外式という染料で、後から色をつけるものだった。耐久性に優れ、しかも50年以上も前に撮ったカラーフィルムだというのに、いまだに美しさが保たれている。そればかりか、その後に発売されるいかなるフィルムよりも素晴らしいものだった。後に現在普通に出回っている、内式のカラーフィルムが発売されたが、そのフィルムでもロバート・キャパは多くの写真を撮っている。しかし残念ながらほとんど画像が変色して使用に耐えなくなってしまった。
ロバート・キャパは、発売されてまもなくの、コダクロームフィルムで1938年の日中戦争を撮影した。その写真は、ライフに発表されたが、残念ながらポジは紛失している。
2002年、ロバート・キャパがコダクロームで撮った大量の写真が、ニューヨークマグナムから発見された。
そのキャパの撮った、初公開のカラー写真を軸に、今回展覧会が開催される。
内容は、発見された、イギリス、チュニジア、シシリーの戦争中の写真、そしてへミングウエイ親子、死の直前の日本滞在、それに最後の土地、インドシナで撮影したカラー写真が展示される。
他に15点のキャパの代表的なモノクロ写真も展示されるという。
そのほかキャパが撮影中着ていた従軍記者用軍服(?)も展示される予定だ。
当時、カラーフィルムは広告などでは多く使用されていたが、速報性の必要な報道写真(ルポルタージュ写真)では、メディアのカラー対応の遅れなどもあって、あまり発表されていなかった。それでもロバート・キャパは積極的にカラーフィルムを使用している。
ロバート・キャパ・イン・カラーのTopPageへ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

コダクロームとブラームス

キャパが撮ったカラー写真の写真展が、2月15日(火)から20日の日曜日まで開催される。
展示されるカラーフィルムのすべてがコダクロームだ。
コダクロームフィルム誕生は、1935年の16mm動画用から始まる。スチール用35mmのコダクロームは翌年の1936年から発売された。現在映画はネガフィルムを使う。使用するときは、写真で言えば印画紙に焼き付けるように、フィルムにプリントとして大量に複製する。
しかし開発された16mmのコダクロームはポジフィルムだ。ポジフィルムは基本的にオリジナルのフィルム自体を、編集して映写機にかけて見ることしかできない。(ポジポジで複製することはできる)基本的にはアマチュア用のフィルムといえる。しかしその鮮鋭度は、美しさは、一度プリントして使用するネガフィルムとは一線を引くものだ。(オリジナルをそのまま鑑賞するせいもある)。後にムービー用のコダクローム、8mmのようなアマチュア向けのフィルムとなる。
しかし、スチール写真は違う。そのまま印刷原稿にもなるからだ。だからスチール用のカラーフィルムとしては画期的であり、現在のフィルムと比べても遜色ない。おりしも35mmカメラ全盛時代、そして後に開発される、カラーフィルムをはるかに凌駕した性能だった。その後、コダクロームⅡ(ASA25)、コダクローム64(KM,KR)と進化(とも言えない、合理化か?)する。しかしその発色は後退し、失望したカメラマンが多かった。(現像時間が短くなった)
僕が写真を学んでいた頃から、フリーになってしばらくの間まで、35mmは、高感度のフィルム以外僕はコダクロームⅡしか使用しなかった。粒状性、カラー濃度は抜群で(デジタルで言えば高画素だということだ)、発色は落ち着いていた。いや、落ち着いていたというのは違う、濃厚だった。日本の冬の発色は不満があったが、ハワイやアメリカ、光線の強い場所でのその色は、今のフィルムにはない素晴らしいものだった。面白いことに、ヨーロッパでは、あまりこのフィルムは人気がなかった。日本の冬と同じように、光が弱く、強烈な発色をしないせいだろう、ファッションカメラマンの多くは発色の派手な、エクタクローム(内式のE6現像は公開され、普通のプロラボで現像できた)を使用していた。
コダクロームは発色が地味だというのでは決してない。濃厚なのだ。
特にルーペで覗くと、エクタクロームとコダクロームは別世界だった。
当時僕は、サイズの大きいカメラ、6x6、6x7、4x5、8x10は、エックタ系の、EPR、エクタクロームプロフェッショナルを使用していた。K2は後にKM、KRと感度の高いものに変わってゆく。残念ながらコダクローム2を知っている僕にとって、ものたりないものだった。また、発色が安定せず、よい乳剤番号を手に入れるのが大変だった。35mmしかなかったコダクロームもブロニーサイズが発売され、増減感も可能になったが、結局成功しなかった。
そんなおり、幾たびか富士フィルムの挑戦が続き、ついに、コダクロームなみの粒状性を持った(E6現像)のベルビア、プロビアが発売された。そしてしだいに世界最初のカラーフィルム、コダクロームは衰退していった。それこそこの10年ぐらいの話だ。
ところで、コダクロームは外式といって、内式のエクタクローム系、ベルビアもプロビアも、現在のほとんどのポジカラーフィルムとは違う。簡単に言えば内式とは、発色乳剤がフィルムに塗られているものであり、コダクロームのような外式は、フィルム自体には、カラー発色乳剤が塗布されてはなく、後で染色するやりかただ。
ただ公開され設備の簡単な、内式の現像とは違い、外式の現像はコダックの特別な設備が必要だった。
ある意味コダクローム全盛時代は、コダックの寡占状態だったわけだ。かの東洋現像所でしかできなかった。時間もかかった。なによりも、印刷特性とマッチして、ある意味、完成されたフィルムだった。
ところで、このフィルムの発明には、なぜか音楽家ブラームスがかかわっているという、ItoKenji氏の「A Plaza of Cara Schumann」という素晴らしいウエッブサイトがある。是非それを読んで欲しい。なにしろ、コダクローム発明秘話がこんなに詳しく載っているサイトは見たことがない。脱帽。
※ItoKenjiさんにリンクした件を事後報告したところ、音楽と写真の巨大なサイトがありました。
音楽のページのトップ
写真のページのトップ
※映画の用のフィルムの記述は正確ではないかもしれない。
日本のカラーフィルム歴史はここをクリック
映画のフィルム

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.01.10

凧揚げと台風の目

fishIMG_6252


典型的な澄み渡る青空、寒かったが厚着して六歳になったばかりの娘と自転車二台で世田谷公園に行く。野球場が凧揚げに開放されていて、たくさんのゲイラカイトが空に舞っていた。娘がやりたいというので、公園の売店で購入。ミッキーとミニーのカイト、650円だった。さっそく野球場に行き、芝生のあたりで組み立てる。組み立てるといっても、袋から出して、横棒を一本張るだけだ。糸の先にプラスチックの小さなフックを縛りつけ、三角形の真ん中に垂れ下がる、ひれのような部分にある穴二つ。一つは強い風用、もう一つは弱い風用という穴だ。
そのときはあまり風がなかったので、弱い風の穴に引っ掛け、糸を伸ばしてあげた。走る必要もなく簡単に揚がった。それこそ風さえあれば子供だって揚げられる。またたくまに付属していた糸いっぱい、たぶん25m-30mぐらいだろうか、天高く上がった。風は一定ではなく、時おりかなり強く吹く。
凧はそれこそ90度近く、真上まであがったりもする。
風が強いのか安定せず、スポーツカイトのように回転した。一度おろして強い風ようの穴に入れかえ、揚げた。今度は安定した。
娘にやりかたを教えるとすぐにマスターした。風が弱いときは糸を巻き取ったり、後ろに下がったり、手をリズミカルに前後に動かすことを教える。風が安定して真上ばかり見ていたのだろう、首が痛くなったというので変わる。1時間ぐらいあげただろうか。
僕の子供の頃、昭和30年代、正月になると皆凧揚げをした。その頃の凧は、駄菓子屋でひとつ10円ぐらいで売っていた。竹ヒゴのような、平たい竹で、縦がセンターに一本、横に2本骨組みとなり、そこに紙が張ってあり、たしか少し光沢のある、白いハトロン紙のような紙だった記憶があるが、単純に赤い「龍」と書いてある凧が、安くて軽くて、よく上がった。しかしゲイラカイトのように簡単に上がるわけではない。
なにしろ凧本体正面から、3本の糸がでていて、それをセンターより少し上で重心を取らなければならない。その調整は難しく、低学年の頃は、近くのお兄ちゃん(当時はそういう人がいくらでもいた)に手伝ってもらい、そのほかさまざまな隠し技を教えてもらった。それから新聞紙を短冊状に切って、尾をつけるのだ。幅4センチぐらい、長さは1メートルぐらいあったろうか。上げるにも技があったが、その凧は揚げやすく、ゲイラカイトほどではないが、バランスさえ取れれば簡単に上がった。揚げるときあんまり走りすぎると、そういう癖がつき、走り凧になり、ちゃんと上がらないと教えられた。
当時は空き地がいくらでもあった。僕は千葉県の市川市国府台という高台に住んでいた。がけがあったりして、いくらでも場所はあった。当時、タコ糸は子供のお小遣いでは高かったのだろう、そんなに長いものは買えなかった。軽い凧だったので、木綿糸をつかったりした。50m以上にもなり、高く上がった。誰よりも高く上がるのが誇らしかったのだ。ちょっとでも風が強いと、糸が切れた。木綿糸じゃ無理だったのだろう。
凧を揚げながら、昔の凧揚げを思い出してた。そういえば工作の授業で凧を作った。ただ重たかったのか、やはり売っている凧のほうがよくあがった。

昨日の夜、日本テレビで、「未知の世界を撮りたい」、映像ハンターで、台風の目のなかに飛行機で突入して撮るといったコーナーがあった。台風の目の映像は、以前、ディスカバリーチャンネルで、アメリカのハリケーンの目に飛び込んだ映像を見たことがあった。
台風の目といえば、僕は小学生の頃、市川で遭遇した。昭和34,5年のことだ。何号台風かわからないが、東京や千葉を直撃している台風だ。雨台風ではなく、雨より風がすさまじい台風だったのだろう。どの家も雨戸は、しっかりと釘や板で補強した。それは昼間だった。家の中は電灯をつけていたが、風が収まったので、外にでてみた。するとみるみる空が晴れてきた。風もたいしたことはない。僕は自転車に乗り、国府台から真間まで走った。台風のせいで交通量は少なく、真間から江戸川に出た。そのときの空は雲があったもの日が差し込んでいた。そしてぱたりと風がやんだ。台風が過ぎ去ったのだと思った。しばらくすると、再び風が強くなってきた。風は生暖かかく、真間山の県道の坂を、風にあおられ、追い風だったので軽々と自転車をこげたこと覚えている。そして家に戻ったころには、ふたたび暴風雨になった。ちょっとした冒険旅行だった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

M7.3子供たちのみたもの5 阪神大震災10年

kobeboy01IMG_0173
8歳ー18歳 高校3年生 神戸市長田区
NEXT

M7.3子供たちが見たものBlogTop 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「M7.3」 子供たちのみたもの4 

「M7.3」 子供たちのみたもの 阪神大震災10年
kobegirl01IMG_5847
6歳ー16歳 高校一年生 神戸市垂水区
本の中で使用した写真ではない写真を紹介する。
「M7.3」 子供たちのみたもののTop 
Next


| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.01.09

BBS 写真質問広場 

BBS広場 写真質問広場
以前からあるDigitalBBSと、このBlogをリンクしました。写真についての初歩的な質問歓迎です。
左側のメニューにリンクボタンがあります。
僕が答える場合もありますが、この広場に集う全員が、回答者でもあります。僕も参加させてもらいます。
技術的な質問、その他、考え方などなんでも結構です。
なによりも、どうしたら楽しく写真が撮れるのか、楽しく上達できるか、考えて行きましょう。
高度な質問は、そういうことに得意な人に答えてもらいます。
昔は、日本の家屋にはどこにでも縁側や、縁台がありました。そこでちょっとした情報交換や、議論などあったものです。
Blogのトラックバックとは違った、つながりがもてたらよいと思います。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

M7.3子供たちの見たもの3

「M7.3子供たちがみたもの」
宙(おおぞら)出版より、2005年1月17日発売 
定価:1400円 写真:横木安良夫 宙出版編
8-18koukosei
神戸市中央区 8-18歳 高校3年生

「ただ生きるのが、楽しかった」
阪神淡路大震災から10年
神戸で生まれ育った10代は今
何を思って当時を振り返るののか?
小さな体で本能的に感じとった衝撃を
インタビュー取材にて再生、収録

NEXT

M7.3 子供たちが見たもの Topへ戻る


| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.01.08

執筆前夜、クリエイターズワールド インタビュー

執筆前夜 横木 安良夫 インタビュー (全4回)
取材・文/小山田桐子 撮影/新城孝
新風舎のウエッブ、「クリエイターズワールド」で、表現についてのインタビューを受けた。インタビュアーが知り合いだったこともあり、かなり素直に答えている。全四回、「明日のジョー」に触れたりしていて、面白いと思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

タムロンプロカメラマンレポート

tamron2875
NikonD70 Tamron28-75mm Jpeg-Fine ISO200 AWB 75mm2.8
Tamronレンズ28-75mmで撮影した、ベトナム北部の少数民族の写真が紹介してあります。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

M7.3子供たちのみたもの2 阪神大震災10年

「M7.3子供たちがみたもの」
宙(おおぞら)出版より、2005年1月17日発売 
定価:1400円 写真:横木安良夫 宙出版編

mcoverIMG_8363

mnagataima01IMG_8370
1995年の長田
mnagataima01IMG_8374
現在の長田 (定点撮影)

インタビューした、10代の男女のポートレイトの紹介 30人のポートレイトとインタビュー

mgb02IMG_8365

mgb01IMG_8366

続き


| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.01.07

M7.3子供たちのみたもの 震災10年 TOP

M7.3coverimage001
M7.3 子供たちの見たもの TOP 横木安良夫写真 宙出版 編 
2005年1月17日発売
ISBN4-7767-9120-X  定価:1400円
宙(おおぞら)出版 03-5228-4060
インタビュー 宗田洋子 中江陽奈  装丁 名和田耕平  
DTP 中里純子  編集 大垣陽子

「ただ生きるのが、楽しかった」
阪神淡路大震災から10年
神戸で生まれ育った10代は今
何を思って当時を振り返るののか?
小さな体で本能的に感じとった衝撃を
インタビュー取材にて再生、収録

M7.3cover14image001
「たくちゃんもう、学校こないんだよ」
「どこ行ったの?」
「転校はしてないよ」
「どこにいるねん?」
「たくちゃん死んじゃったよ」って。

今考えたら、話しているときにに気付けば良かった。
‥‥中略‥‥
ものごとを考えられる年頃になって思ったのは、
自分の好きな子が亡くなって
それだけでつらいのに、
その子の口から「死んじゃったんだよ」って
言わせてしまったこと。
後悔っていうか、もし今、
私の好きな人が亡くなって、
今の自分の口から死んじゃったって言うのは、
ものすごく、きつい‥‥。(7歳―――17歳 高校2年女)
―――本文より


僕は、この本の写真の部分を担当した。表紙の写真は10年前に僕が撮った写真だ
今日、本の見本ができた。
静かな写真と、当時4歳から8歳、今14歳から18歳の少年少女のインタビュー、
そして今の彼らのポートレイト写真がたんたんと構成してある。
おりしもスマトラ沖大地震とその津波被害の今。それは近代の歴史上、最悪の天災。
そんなときに、この本がでた。
今、生きている、彼らは阪神大震災のときには、まだ何もわからない年齢だった。その彼らはここで記憶を手繰り寄せ、言葉を発した。
僕はこの本の、10年前と今の写真、そして最初の切り口、コンセプトにかかわった。
僕はインタビューに答えてくれた彼らのポートレイトを撮った。
しかしながら僕は、彼らの話は聞いていない。インタビュー中は席をはずしていたのだ。
それは、この本ができたとき、彼らのインタビューを初めて読み、彼らの言葉が僕の写真とどんなふうに共振するのかを知る、最初の読者でありたかったからだ。
今日僕は初めてこの本を読んだ。
若い彼らの素直なことば。とりたてて悲惨な話はない。
でも、写真を眺め、言葉を読んでいると、不思議な感慨を持った。
彼らの前向きなことば。あかるさ。それは、彼らが「生きた側」だからだ。
彼らがあの震災にあい、10年生きたからこそ、明るい言葉が多かったのだ。
一つ間違えれば、彼らひとりひとりの10年後は、なかった。
それは今回の津波で亡くなった多くの人々の、逆の意味の鎮魂なのだと思えた。
彼らは、生きていたからこそ、10才年を重ねられたのだ。
それが、この本の最初の読者である僕の、素直な感想だ。


続き

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.01.03

ベゴニアガーデン、寒桜 僕の花の撮りかた

伊豆、天城高原にある、ベゴニアガーデンに行った。伊東の街からクルマで15分とあったが、そこに東急のハーベストクラブという会員制ホテルがあり、ビジターも食事ができると聞き行くことにした。ところがレストランとは名ばかりで、なんと昼食のバイキングしかやっていない。正月だからだろうか。大人一人1600円+税。ソフトドリンクは180円?別。なんてことはない、よくスキー場や、夏のホテルの安バイキング。ちょっとおなかが減っていたが、食堂のようなその場所で、入るかどうかまよっていた。入り口で、他にレストランはないのかと聞くと、ないと言う。ケーキやコーヒーの軽食だけだ。
広いホールの様な場所のテーブルは賑わい、内容はビジネスホテルの朝のバイキングをぐっとよくしたかんじ、かといって、いわゆるホテルのバイキングからはほどとおい。1600円ではしかたがないか。実際は軽食でもよかったのだが、はるばるここまでやってきている。
伊東の街から15分と案内板があったが、かなり飛ばして天城高原の入り口までジャスト15分。そこから先日の雪が残る舗装された山道を、まるでスキー場に行くみたいな坂をあがる。この間の雪の日はどうしたのだろうかと思う。ホテルのある頂上付近は強風で、飛ばされそう。しかし今日はさほど寒くはなかったので、凍えるほどではない。娘と雪合戦。
ここに行ってみようといったのは、大室高原に住む、私の母、もう80歳を越えているが、一度行ってよかったという。
母は僕が、何、こんなところで食べるの?と文句を聞くと、ここで食べると、ベゴニアガーデン入場料1000円が無料になるという。
なんというシステム。きっと会員、もしくはパックツアーだったら、すべて込みで安くなっているのだろう。このやりかた、以前ハワイで、間違って、そのときは仕事ではなかったが、たまたますき焼きを食べたくて、入って驚いたことと同じだ。夕食一人40ドル。まあ、それはしかたがないだろうと、思ったが、内容がともなっていない。少し切れた、周りの日本人客、何しろ客は全員日本人だ、彼らは全員クーポン券を持っている。40ドルのすきやきは、クーポン券をもっている人間へのプレゼンテーション、あり地獄に落ちたように、真っ正直で払った僕らは単なる馬鹿だった。
バイキングの食事は予想通り、うまくない。はっきり言ってまずかった。でも値段が、値段か。
そんなわけで、あまり期待していないベゴニアガーデンだったが、正直、食事つき、温泉つき一人1600円は安いと思う。
それにベゴニアをこんなにちゃんと見たことはなかった。見る価値はある。しかし、ベゴニアガーデンだけを見るのは高い。食事、他に温泉つきだと思うとかなりやすい。

さて、まじめに。
撮影講座
僕は花を撮る時、あまり花の状態や形にとんちゃくしていない。それより、シズル感もしくは、光の状態をみている。特にここのベゴニアは、温室のなか。背景が温室に見えないように撮るのがコツだと思う。温室の花なんて、なんだかありがたくないからだ。今回のカメラはEos20D。レンズはタムロン28-75mmを、75mmでf2.8開放の状態で撮っている。ISOは400。Jpeg-Large Fine。
僕は構図を気にしない。それより、撮りたいと思った花を、明快にフレーミングする。幾つかの花弁がならんでいたら、どれをフレームに入れるか選択する。主題が決まったら、不要なものを排除する。たいていはアングルを変えることによって可能だ。
こういう場合背景はぼかすので、絞り開放にする。光は逆光状態の、もしくは斜め逆光を選ぶ。
まず自分の好きな光線状態にある花を探す。咲いている花は、動かせないのだから、最初から花で選ぶより、気に入った光のところを選んで、そこで気に入った花を探すといい。

01pink01IMG_8303
largePhoto

02red01IMG_8326
largePhoto

03pink02IMG_8290


04aka01IMG_8299
ベゴニアガーデンのあと、大室山山ろくの、桜の里によった。そこに寒桜が咲いていた。これもちょっと逆光で撮る。
05kanzakuraIMG_8356
この花は、2003年の秋に新宿御苑で取った、菊、江戸菊だ。少しよれぎみ、雨の水滴がよかった。カメラはEosKiss、EF50mmf1.4を、f2.0で撮っている。
06kikusuitekiimg_94901
largePhoto

| | Comments (0) | TrackBack (0)

路地裏

三島路地裏

mishimamachi02IMG_8201
大きな写真

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.01.02

三島の裏通り

mishimamachi01IMG_8206

三島大社のあと、楽寿園を通り抜け、三島広小路にゆく。三島広小路駅の裏は、飲み屋街になっていて、僕はこういう路地裏が好きなので写真を撮る。ここをクリックすると大きな写真になります。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

三島大社へ初詣

今日は、天気がよくあたたかい。去年西武の松坂が挙式をあげた、三島大社にゆく。大社から歩いて10分ほどのところに三島市営プールがある。そこが正月の間、無料の駐車場になっている。三島大社にはよくくる。大社の周辺には古い住宅が多い。戦後(太平洋戦)まもなくたった、木造や、モルタルの建物が多く残っている。
mishima01aIMG_8120
その後、楽寿園にゆく。今日は無料開放している。ここにくるのは初めてだった。
mishimakamoIMG_8175

| | Comments (0) | TrackBack (0)

サンデーモーニング おもしろかった

サンデーモーニング素晴らしかった。それを民放がやることに意義を感じた。戦後60年、60年前のその日を著名人が語った。太平洋戦争を体験した彼らも、もう70歳以上、あの体験を語れる彼らはあと何年語り続けることができるのだろう。
今、多くの人々が、この国のあり方や、戦争について聞く耳を持ち始めている。著名人ばかりではなく、多くの戦争体験をした彼らに、今一度、あの戦争はどうだったのか、を語ってもらう必要があるのかもしれない、と僕は思った。
彼らの多くが、戦争はもうやりたくない、勝っても、負けても戦争はよくないとのことだった。そして戦争が、物をいえない時代を作るのではなく、何も言えない時代が、戦争を作るという‥‥。
最後に日本国憲法改正のことが語られた。パネリストひとりひとり考えは違う。しかし基本は、現在の日本国憲法の、平和憲法の理念を今一度考える必要があるということだろう。ただ、現在、世界第3位の軍事予算を持つ国家、日本。戦争放棄といいながら、(世界第三位軍事予算の理由のひとつ)の強力な軍隊(自衛隊といわれている)を持つ現実。
議論はこの軍隊のようなものを、憲法解釈のみによって、軍隊ではないと詭弁として放置しておいてよいのかということ、戦後60年たち、世界情勢が変わり、国際貢献さえできない憲法はこのままでよいのか。
実際はなんだかんだといって解釈、時限立法で切り抜ける。
アメリカに押しつけられたかどうかは、僕はどうでもよいのだが、この本音と建前の存在が、この日本を、経済的には世界一の発展、大成功をもたらした。
しかし「お金本位」(お金ほんいと読んでもらいたい)になり、国家の理念、理想を、きちんとした議論を放棄した国家にした。それは会社のためならば、不正はしかたがない、みたいな論理を増長させた。
理想は、理想、現実は、現実の二重構造を、日本国民に植え付けた。などなど。そのことによって、誰もこのことを真剣に議論しなくなった。
日本国憲法護憲派は、今あわてて変える必要はない。21世紀になって、ますます、この平和憲法の意味がでてくる。なにしろ世界唯一の、平和憲法だからだ。‥‥しかもこれだけ立派な憲法がありながら、ここまで解釈で、自衛隊を世界第3位の軍事費国家にしたのだから、新しい、自衛隊を軍隊と容認する憲法を作れば解釈によって、なんでもできるようになる。
僕は、護憲派ではない。現在の平和憲法は理念としてOKだが、現実と、かいりしすぎている。ただ一番の問題は、新たな憲法を作っても、解釈で憲法の運用をどうにでもなるようにでは元の木阿弥。それならば今のままでよいと思う。
だからといって感情的に戦争はいやだ、と叫んでいてもなにもならない。実際は、自民党も民主党も、改憲を目指している。それなのに、この60年間、日本国民は好きか嫌いでしか議論をすることなくこの問題を放棄してきた、日本国民は、それぞれ意見をいうことをしなくなった。何でも語れる時代にだ。
そしてきっといつのまにか、憲法は改正されるだろう。
そしてそれがどうなるか、従順に従う国民にだから、順応するのだろう。


| | Comments (1) | TrackBack (0)

2005.01.01

ロバート・キャパ写真展2005

capaexcolorIMG_8068
マグナム・フォト東京支社 2005年、年賀状

2005年2月15日から20日まで、日本橋三越にてロバート・キャパの写真展「キャパ・イン・カラー」が開催される。キャパは、当時開発されたカラー写真を積極的に取り入れ撮影している。ブレッソンのようにカラー写真は撮らないということはなかった。キャパはカラー写真の可能性を知っていた。しかしキャパのカラー写真はあまり多く発表されていない。ニュース写真としては速報性がなく、まだ価値を認められなかったのかもしれないし、メディアがまだカラーに対応していなかったのかもしれない。いや、あまり現実的に移りすぎるので、モノクロより芸術性がないと思われていたという考えもある。特にキャパが死んでからは、ルポルタージュカメラマンという面だけではなく、芸術家のとしてもキャパを評価する上でカラーは、カラー写真は「キャパのレベル」に達していないと評価したのかもしれない。キャパの有名なカラー写真は、ベトナムで死ぬ直前に撮った、最後の写真だけだった。今回大量に発見された、未公開のカラー写真を展示するという。興味深い。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

東京ー三島 東名高速渋滞

odaatsu01IMG_8050

朝、東名高速の状況を、ネットでみると、東京、厚木間は、回復しているものの、沼津まではあいかわらず不通。昨日の夕方には雪も雨になっていたのに、そのままずっと東名を不通にしておくなんて、道路公団も、管理の手抜きのような気がする。たいした雪でもないのに、約20時間も不通にするとは、どういうつもりなのだろう。
管理する側の都合で、使用する側のことはなにも考えていないということだ。大雪ならばともかく、あのぐらいの雪は毎年あるわけだから、想定するべきだと思う。
今日の午後2時ごろ、ネットを見たらやっと開通していた。開通する予想時間ぐらい書いておいてほしかった。
3時過ぎにでて、いざ東名に乗ると、川崎ー厚木間15キロ、厚木ー大井松田間、11キロ、御殿場まで2時間以上とでていた。ちょっと乗るのが遅かった。厚木まで約1時間半、そこからさきはま再び2時間ぐらいとでている。
ふと僕は、厚木でおりた。そして小田原、厚木道路を走る。
終点の手前、荻窪で下りて、裏道を走り、箱根ターンパイクに入ろうと思った。昼ネットでターンパイクが通常通りだとチェックししていたからだ。箱根から1号線に乗り、三島。
これはいいかんがえだと、小田原のからターンパイクに乗ろうと思ったら、通行止と柵がしてある。しかし上を見ると、ターンパイクを走る車が見える。僕は柵をすりぬけ、入ると料金所で止められた。どうやら閉鎖したばかりだったようだ。僕の車は4WDだがタイヤはノーマル、スタッドレスではない。しかも少し減り気味。僕はこの道路のが通行可能だと調べてきたというと、夕方になり凍結しているので、スタッドレスか、タイヤチェーンが必要だという。僕はチェーンを持っていたので、問題があればそこからチェーンを巻くといって、強引に通行することにした。箱根まではほとんど上りなので、たといノーマルタイヤでも四駆だからもんだいないと思っていた。料金所から8キロ地点にアイスバーンがあると聞いていたが、のぼりはほとんど問題がなかった。くだりでスピードをだしていれば、突然おアイスバーンは危険だろう。チェーンを巻いた車を2台ほど追い抜き、たぶん前日スタックして乗り捨てられた、数台の車をあとにして、無事1号線に入った。大型車もなく、快適に1号線を三島方面に下る。三島に到着したのがちょうど午後6時、まったくすいていれば、家から三島まで1時間20分だから、東名がちょっと込んでるぐらいの時間でこれた。それ、厚木まで1時間半かかっていたので、実際はそうとう早くこれたと思う。東名の渋滞いそのままのった時間の到着予定は7時近くだったからだ。
さて、それにしても道路公団はお役所仕事だなと思う。それはヨーロッパのフリーウエーやアウトバーンを走るとわかることだが、たとえば道路工事の時に、当然のように例えば2車線のうち、一車線をふさぐ。しかしアウトバーンも、イギリスの自動車道路も、工事の時には路肩を使い、できるだけ車線を減らさない。渋滞をできるだけ防ごうとする。日本では、工事だから渋滞は当然だと思っている。ユーザーのことは考えていない。こんかいのことも、大晦日で、人手がなく、読みを誤り、20時間も、通行禁止にするなんて、常識では考えられない。道路公団はどうなるのだろう。使う側のことを考えた、高速道路になってほしいものだ。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

Blogで新年あけましておめでとう

新年あけましておめでとう。年越し蕎麦を食べ、ブログをやりながら、年越しだ。これから近くの神社に初詣。さむそう。結局紅白は、得点集計を見ただけだ。終わって、ご~んと、ゆくとし来る年を一瞬見て、パソコンの前に座った。2005年どんな年になるか。ことしもたくさんブログに書いてゆこうと思うのでよろしくお願いします。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

« December 2004 | Main | February 2005 »