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2005.01.29

セーラ・ローエル「僕のコダクローム その9」

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カラーフィルムが発明されて60年、そのコダクロームで撮った、ロバート・キャパの写真展が2月15日開催される。コダクロームとはどんなフィルムだったのだろうか。それは決して幻ではなく、ほんの少し前まで、プロカメラマンにとって特別なフィルムだった。そのフィルムについてのブログだ。
「僕のコダクローム その1」は、ここをクリック

さて、コダクロームで撮った作品だが、今回はセーラ・ローエルという、一世を風靡したモデルのことを書く。僕が撮影したときは、まだ16歳ぐらいだったろうか。最初は週刊プレーボーだったと思う。やはり1978年頃のことだ。GOROとかでも活躍していた。今で言えば、バイリンガルのアイドルだ。その後、激写もやっているて、DJもやっていた。
2年ほどまえ、今や井上陽水の奥さんである、「八月の濡れた砂」を歌った、石川セリのひさびさ(10年以上)のライブで、セーラを見かけた。少し立ち話をした。すっかりマダムになっていた。かっこよかった。僕がもうそうとう年が
いっているので、彼女がそうなるのも当然だろう。
彼女はローティンの頃から、モデルだった。もっとちいさいときからやっていたろうか。ただ小さいときはそれほど可愛いと思わなかった。面長で、悪く言えばちょっと馬づらだった。子供としては。ところが15,6ぐらいから俄然美しくなった。それはもう、きらきらしていた。全盛期の宮沢りえみたいなものだ。(なんていって最近の若いひとは宮沢りえの絶頂期を知らないという)。子役や、子供のモデルが、幼児時代、10歳ぐらいまで可愛くても、可愛くなくなることはよくある。そして逆にある年齢になると、突然輝く子がいる。アイドル顔は10代で輝くけど、大人になると光を失う。それより子供の頃は、なんだか大味な子が、二十代半ばに輝きだす。面白いものだ。
1978年頃、僕はまだ広告はそれほど多くはやっていなかった。ファッション広告といった単発物はやったが、シリーズというかレギュラーでの広告の仕事はしていなかった。それが、あるきっかけでコーセー化粧品のキャンペーンをやることになった。
その頃の広告は、ある意味日本の広告の全盛時代であるが、紙媒体とテレビテレビコマーシャルは、別々に制作されていた。モデルは一緒でも、アイデアや内容は別のことが多かった。当時コーセー化粧品には、独立した宣伝部があって、キャスティングは電通が絡んでいたが、紙媒体は宣伝部による、別進行だった。
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当時、資生堂のキャンペーンは、一ヶ月以上のロケハンと、本番1月といった、かなり贅沢なスケジュールが組まれていたが、だからこそあのような素晴らしい広告が作れたのだ。憧れた。コーセーはキャンペーンといってもそんな贅沢はできなかった。それでも、僕のような新人のカメラマンがキャンペーンを任されることはたいへんなことだった。
当時、コーセーには、佐藤耕造というアートディレクターがいた。なかなか優秀な人で、気が合い多くの仕事をした。
このときはエスプリークいう新製品の広告だった。
値段はまだ決まらず、なるべくシンプルな表現にしたいとのことだった。化粧品は、内容は一緒でもいくらで売るのかによって、コマーシャルの展開、パッケージ、入れ物がかわる。
当時僕は、沢田研二を手がける前で、基本的にはスタジオでは、バルカーの一灯撮影に凝っていた。バックからもサイドからもなにもない、たった一灯だけの撮影だ。ただそのころ僕はブロニーで撮ることが多かった。雑誌が多かったからだ。ところが、当時ポスターは皆35mmで撮影するように言われた。B倍のポスターもだ。当然フィルムはコダクロームだ。このときはKRを使用した。それだけコダクロームは印刷に適合していたのだ。実際はブロニー、EPRで撮ったカットもあったが、やはりコダクロームで撮ったほうがあがりがよかった。
レンズは、細いセーラの体が、ボリュームがでるように、スタジオだったが、FD200mmF2.8を使用した。絞りはたぶんf8かf11ぐらい絞っているだろう。場所は麻布スタジオだ。今は古臭いスタジオだが、その頃は最新のスタジオだった。スタイリストは、伊藤佐智子 ヘア 矢野トシコ メイク コーセーだった。
当時、化粧品のポスターをたった一灯のライトで撮ることはまれだった。正面ライティング、押さえに銀レフを下に使っている。ただそれだけだった。
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この仕事が成功して、5年間ぐらいコーセーのキャンペーンをやった。
そのどれもを、35mmのコダクロームを使用している。
コダクローム25、KMが綺麗なときは、それを使ったことがある。乳剤のよいときのKMは、かつてのKⅡのような素晴らしい発色をした。
その頃いくつかのコマーシャルフィルムのカメラマンもやった。当時、スチールのカメラマンがムービーをまわすことが流行っていた。今でも多くのコマーシャルをスチールのカメラマンが撮っている。
コーセーの仕事がなくなったのは、コーセーの宣伝部の力が弱まり、かわりに電通がキャスティングなどハンドリングするようになってからだろうか。
そのきっかけになる仕事があった。僕がコーセーの仕事がなくなるきっかけだ。そしてムービーカメラマンの声がかからなくなったきっかけだ。
僕はフリーになってすぐに、仕事に恵まれ、順風満帆だった。コーセーとも長く仕事をしていた。
コーセーのある夏のキャンペーンで、カリブ海にあるボナール島でロケをすることになった。モデルの名前は忘れたが、ハワイの16歳ぐらいの美しい少女だった。
なぜそんな島に行ったのかというと、当時、セブンスターの広告で、三角形の氷山が何重にも並ぶ写真があった。
実はそれは塩の山で、そのボナール島というところにあるという。
暮れから正月にかけての仕事だった。ぼくはそのとき初めて、スチールとムービーの両方をやることになった。
スタイリストはその前の夏のキャンペーンを一緒にやった高橋靖子さんのところをでたばかりの、中村のんだった。
ところがそれでもスケジュールがあわず、アシスタントが変わりにつくことになった。最初からいやな予感だった。
キャンペーンにきちんとスタイリストがつかないという変則的な撮影だ。なにしろ拘束は2週間以上あったこともある。制作は東北新社だったが、電通しきりだと思う。場所が決まらず、モデルが決まっただけのおせおせでの見切り発車だった。
スチール隊が先に乗り込んだ。後にムービーがくることになっていた。といってもカメラは僕だが。
CMのプロデューサーは、われわれと一緒だった。たよりなかった。
スチールとムービーを同じカメラマンが撮ることとは、かなりの負担だ。しかも過酷の撮影の場合はなおさらだ。
ニューヨーク経由で、ボナール島に着いたとき、そしてコンテにある、塩の山を見たとき愕然とした。
カリブ海の猛暑、炎天下、塩の山は鋭利なガラスのような高さが20mぐらいの連山だった。写真でも見れば美しくとも、そこに上るのは至難だった。単純に絵から決められた、撮影場所だ。いやそれはいいだろう。仕事とはそういうものだ。はしごを、線路のように塩の結晶の山に敷き、山頂まで上った。特別怖いことはないが、猛暑とそして、そのガラスのような塩の上に、非情にもモデルは横たわることになった。東京で書かれた、絵コンテにそうなっているからだ。
たしかに、目論見どおり、背景に塩の山が連なり、絵コンテそのままの絵が撮れることになった。
絵としては成功だった。
しかしだ。モデルはその、鋭利な塩の結晶の上に横たわらなければならない。
見えない部分はタオルを敷くとしてもカメラから見える部分は直接体や腕、足を乗せなければならない。痛い。本当にいたいのだ。でもコンテにはそうなっているから、我慢するしかない。そして炎天下。スチール撮影で僕は、その塩の山頂で、16歳の、全く日本語を知らない少女と向かい会うことになる。時折雲がかかり、そのまま待つことになる。何しろ、その上に横たわるには、一度下りたら再び上るのに時間がかかってしまう。
僕は、モデルと向かいあった。35mmカメラでさまざまな表情、さまざまなポーズを撮った。UP、ひき、立て位置、横位置、光を変えて‥‥。レンズを換える。
もちろん痛いのはわかっている。でも、君はモデルだ。それに、こんな非情なコンテを書いたのは僕ではない。雪の上に寝転んでいるような、いい気分の表情が欲しいなんて、そんなのあまりに無理だよと思いながらも、もっと優しい顔をしろ。もっときもちよさそうに。‥‥。そうして僕と彼女は次第に険悪になっていった。
彼女は、日本語を解さない、16歳の少女だ。僕はとてもサディスティクな気持になっていた。そのほかのカットも一週間ぐらいかけてとった。そして無事、スチールが終わった。
そんな彼女の心をほぐすほど、僕には英語力はない。いや、日本語を話したとしても、あまりにもやらなくてはならないことがあるし、僕だって必死だった。でも、とにかく、スチール撮影は無事終了した。東京に戻ってから見ても文句なかった。
本当はもう、僕も彼女もこの状態から開放してほしかった。しかしこれから、ムービー部隊がくる。
そして僕は、クレーンに乗り、カメラを覗く。
彼女はつかれきっていた。それでも頑張った。だれがいったいこんなコンテを書いたのか。ムービーはモデルにとってさらに過酷なことは当然だった。それでもとにかくムービーの撮影も無事終了した。モデルは本当に頑張った。
ラッシュを、途中のニューヨークでみることになった。
そのとき僕は、ニューヨークに残り、2週間ほど滞在することにしていた。当時のガールフレンドを呼んでいた。飛行機代はもちろん僕が払ったが、航空券の手配は、東北新社に頼んだ。彼女も一緒にラッシュを見た。
風景の場面で、僕のパンが少し早く、少しフリッカーがでていた。だからなんだというのだ。たいした問題ではない。
ポスターも、CFも上がりに特別問題があったわけじゃない。
しかしはっきり言って、この仕事のやり方には不満だった。最後にギャラで少しもめた。いやおおいにもめたかもしれない。誰かに、モデルともめたの?と言われた。もめてないよ。だれかが吹聴しているようだった。
たしかにモデルとは大変だったかな。子供だったし。しかしグラビア撮影ではない。グラビアだったら、カメラマンにモデルとの関係はかなり責任がある。しかし広告の場合、大勢のスタッフがいて、カメラマンだってそのなかの、ひとりなのだ。モデルばかりとコミュニケーションするわけにはいかない。実際は、モデルはプロだとう前提になっている。そしてCFだったらもっと、カメラマンは、スタッフの一人だ。僕は演出もしていない。モデルはもっと遠いところにいる。しかも僕の考えたコンテではない。過酷な場所での、絵に描いたもちのようなところで、皆ガンバって仕事をしたのだ。それなのに、僕はさんざん悪口を言われた。ムービー最悪。よくわからん大勢の人間と仕事をする怖さをしった。
僕が仕事を終えた後、ガールフレンドを呼んだことが不評だったのだろうか。手配はしてもらったかもしれないが、何しろ帰りの便をあわせる必要があった。でも旅費は僕が払ったんだよ。当時僕は32歳ぐらいだったろか。生意気だったかもしれない。怖いものはなかった。ざけんなよと思った。
何があったかしらないが、その後、僕にコマーシャルフィルムの仕事は全くこなくなった。やられた。
いや、それがコーセーの最後の仕事だったろうか。1982年ぐらいの話しだ。
話は違うが、コーセーの冬のキャンペーンを撮るため、夏の白根山、山頂で撮影中の、1979年8月1日、父親が倒れた。母親からホテルに電話があったのだ。しかしたいしたことないから、仕事は続けないさいと言った。仕事がおわってから飯田橋にある警察病院に行くと、半身麻痺していた。リハビリを頑張ったが、1981年の8月2日永眠した。
なんかしんみりした話になってしまったが、コダクロームから、コーセー化粧品と、ちょっと苦い思いでを思い出してしまった。
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