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2005.02.01

デジタルでは撮れない大型カメラの世界 その1

arashigaoka1
「嵐が丘」 リンホフテヒニカ4x5 スーパーアンギュロン65mmf8 ベルビア (大きな写真とText)
粒状性がわからない、WEBサイトでも、35mmやデジタルと、違って写っていることがわかるだろう。
2001年12月号のアサヒカメラのために撮った、一ノ瀬泰造の故郷の写真。これも4x5だ。

最近は、デジタルカメラで撮ることが多くなったが、それでも絶対にデジタルにかえられないカメラは大型カメラだ。僕は、今でも4x5サイズのカメラは多用している。デジタルの高画素化が進み、いまや6x6並だ、4x5に迫るといっているが、それはあくまで画質の一面の性能だ。
銀塩時代、35mmのコダクロームの画質は、ある意味通常の120フィルム(ブローニー)6x6サイズの画質を越えていた。だからコダクロームのブロニー版がでたら、4x5はいらいないと言われたものだ。しかし要望どおり、ブローニー版はでたが、4x5の代わりにはならなかった。
そこでわかったことは、35mmは6x6のかわりにはならないということだ。6x6は4x5の代わりにならない。
例えばある風景を、35mm、6x6、4x5カメラで、絞りをパンフォーカスにして撮って、同じ大きさにプリントする。横長2対3、正方形、4対5といった、フレーミングの印象の違いも大きいが、プリントしてみて比べると、雰囲気がそれぞれ違うことがわかる。絞りを開放撮影すれば、その写りの差はもっと大きい。
この雰囲気の違いが、カメラのフォーマットによる写り方違いだ。
決して大きいカメラで撮ると、粒状性がいいからとか、の問題ではなく、単純な解像度の問題でもない。並べて、よく観察すれば、その映り方の違い、雰囲気の違いに気付くはずだ。
そして、結構忘れられているが、レンズの差が大きい。大型カメラのレンズはかなり、おおらかに作られている。例えば、4x5の、フジのベルビアのポジの一部を35mmの大きさに切り抜くと、驚くほどぼんやりとしている。それに引き換え、同じベルビアを使い、35mmのカメラで撮ったものと比べると、同じ面積、同じコーリティのフィルムのはずなのに、まったく写りが違う。シャープなのだ。それだけ小さなカメラのレンズの性能は、小さな画像を結ぶために、先鋭化している。ここになにか大きな秘密が隠されていると思う。それは、光学的な専門家だったら簡単に答えを教えてくれるだろう。
僕は写真光学者ではないので、経験的にしか言えないが、違うことはわかっている。

デジタルの撮像素子が、将来4x5サイズまで大きくなれば、その写り方は同じになるかもしれない。しかし経済学がそれを許さないだろう。銀塩フィルムの経済学はほぼ大きさに比例している。8x10一枚と、35mm1本の総面積は、ほぼ同じだ。
カメラだって、大きくなったからって高くなるわけではない。レンズも同じだ。ある意味大型カメラはとても安い。
デジタルはそうはいかないだろう。4x5クラスの撮像素子は、今だって作ることは可能だろう。しかしそんな高価なものを買う人はいないだろうし、扱いが大変だ。

デジタルでは撮れない大型カメラの世界 その2

以下意味不明なので、削除したと思ってください。便宜上の残しおきますが、きちんと書き直すつもりです。

これは僕の私見で、僕の写真に対するスタンスであるが、写真は頭のなかで作り上げるものではないと思っている。(言葉足らずですが、今はそうとしか思いつかない)。写真を利用した創作物は、僕はそれを写真と呼ばない。絵であり、イラストレーション,インスタレーション、アートだと思っている。僕は写真は、写真でしかないという立場だ。その写真の根源的な部分、そういう運動をアートと呼ぶことには、同意するけど。
写真を利用したアートを、写真のジャンルにいれるのは、苦しい。
それは、シューレアリズムに取り入れられたころの、フォトモンタージュと同じだ思う。それはもともとアート、美術の一分野だ。写真というシンプルなメディアの特異性は、写真が発明された当時から美術家に利用された。いや、写真は美術のなかから生まれた。
写真は、かつて物体としてのみ存在していた。
音楽、映画、テレビは、メッセージそのものは、情報だ。音楽は空気を動かす、物体だともいえるが。
それを再生する装置はあっても、そのものには、形がない。
デジタル時代になって、写真さえも、物体であることから開放された。時代は変わったかもしれない。
写真も、映画と同じように、情報だけとして存在している。
何が、言いたいのかというと、‥‥ここで書く文章は、僕の思索であり、進行形なので勘弁していただきたい‥‥
もっとも、僕のなかで、写真とアートの境界線はあやふやだ。どこまでが写真で、どこまでアートだとか、区分しているわけではない。

イメージしたものを、カメラの前に、形あるものとして、存在させなければ、写真は写らない。一休さんが、屏風のトラを出してくれれば、捕らえることができるといったことと同じだ。(でもないか)。写真は頭に想像したものを、目の前に物体として、この世界に存在さてくれれば、撮る事ができる。(CGは、僕は写真だと思っていない。写真をもとにした、スーパーリアリズムの絵画が写真ではないように)
写真は常に現実の世界を観察して、記録し、何かを発見するメディアだ。
現実を切り取り、写真に異化することによって、何かを表現する。
自分でセッティングしてもいい。作られたこと自体が、この世の存在しているのが事実だからだ。
映像も(ビデオ、映画)、現実世界を借りて、ある主題を作り上げることができる。時間と音楽(音)、現実をモンタージュするものだ。(もちろん写真も、そういうふうに作ることもできるが、映像ほど説得力はない)。
例えば、映画だったら、1954年5月25日、とうたえば、タイムマシーンのようにそこに行くことができる。しかし写真はそうはいかない。例えばそういうタイトルをつけても、映画のようにトランスポーテーションはしてくれない。その場面を2005年2月1日に撮れば、写真には、2005年2月1日に、1954年5月25日を演じた、としか写らない。
その映画の一こまを取り出して、プリントすると、不思議なことに写真になってしまう。それは、同じ用意、2005年2月1日撮影した1954年5月25日を演じて、映画のスチール写真ということだ。写真は時間から逃れることはできない。
もちろん、うそをつくことは可能だし、簡単だ。そのうそを利用して、多くの写真はできあがっているのだが。
写真はもっと、世界のなかを見ることに、特化している。本当は構成などはは、二の次だ。
構成は、見方を、主張を、わかりやすく、明快にするためにモンタージュしているだけだ。アートのように見せているにすぎないともいえる。当然アートとしておおく利用されている。しかし写真は写真でしかないと思う。
映画は、写っているフィルムを見ても、映画ではない。一こま一こまは写真だ。それを連続して動かすことによってはjめて映画になる。
だからアートとしての写真、写真をつかったさまざまなn、表現はある意味映画と同じことだと思う。
‥‥そのうちこの件は、もっとまとまった文章にして書きます。論旨不明な文章につきあっていただき、すみません。
誤字脱字勘弁!

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Comments

良いですね。 私の http://www.megaegg.ne.jp/~ram て恥ずかしい。

山口県宇部市大字西岐波6563番地1

ラムシーオー有限会社

今城 明夫


Posted by: 今城 明夫 | 2009.03.30 10:06 PM

ウソでもいいから目の前に作り上げ、この世に存在させなければ写せないのが写真だと思います。
ああなんて不便なことかと嘆くのもあるかと思うけど、写真はある種のめぐりあいが大切なのではと思います。
そう考えるともっとも写真的な写真はスナップ写真や風景写真なのかも知れませんね。
この世の中にはこんなものがあるんだよと、いろんなところをさすらいそこで見聞きしたことを歌に変えて人々に聞かせる、そんな吟遊詩人のような写真家になりたいと僕は考えるんですけど、道はまだまだ遠いです。(苦笑)

Posted by: たけだ | 2005.02.13 02:04 AM

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