秋葉原の隆盛と区立練成中学廃校 その1
秋葉原に行った。かつての電気街は、今や町中がパソコン関係で埋め尽くされている。この隆盛は、すさまじく、そしてそこにあつまる人たちの一種異様な雰囲気は、オタクという言葉が特殊なものではなく、日常になりつつあるのだと思えてしまう。今や、8割は男性。年齢は10代後半から、20,30が圧倒的だ。どこも男、男、男。たまに女の子がいてもそれはたいていカップルか、アジア系の外国人。そして白人。この圧倒的な熱気はなんだろう。女性やカップルが渋谷に集まるのとは、対極?に、ここには無言の熱気がある。そしてこの街は、歩きタバコ禁止。でも、外国人が吸っていた。誰かが注意するのだろうか。何年前だろうか、秋葉原は閑散としていた。もう秋葉原じゃないのかなとくるたびに思っていた。日本中に量販店ができて、秋葉原の役目は終わったのかと思っていた。それが、今日のような土曜日は、渋谷に負けないぐらいにぎわっている。
40年以上まえ、僕は毎日秋葉原を歩いていた。千代田区立練成中学がこの地にあるからだ。
当時はまだ、都立日比谷高校が、日本の高校の中でダントツの東大進学No.1だった。千代田区には、一ツ橋、九段、麹町、今川、練成と5つの中学があった。千葉生まれのぼくがなぜ、秋葉原にある練成中学に通っていたかといえば、越境入学をしていたからだ。千葉や埼玉から、優秀な生徒が、日比谷めざし、受験資格のある千代田区の中学に、住民票を移して、通っていたのだ。3分の1が、地元で、残りの3分の2は、越境通学というある意味異常な時代だった。そのかわり学力レベルは高かった。なにしろ、近郊の国、公立を目指す秀才が、通っていたからだ。
そんななかに、市川の、国府台にある小学校から僕は、バスを乗り、総武線に乗り、秋葉原でのりかえ御徒町でおりて、その練成中学に通っていた。
ただ、多くの越境通学する彼等と僕が違うのは、僕は、全然勉強ができなかったことだった。というより、通っていた小学校は、市川のなかでも一番のんびりとした田舎の小学校で、天気がよければ授業を中止してハイキングに行くような理想的?な小学校生活送っていた。なにしろ、勉強をすることを知らなかった。
全校生徒、約1000人以上、一学年300ぐらい(もっといたかな)、なにしろ団塊の世代、ベビーブームの時代だ。僕は始めて、勉強をすることを知ったが、まあレベルは関係なく、私立の優秀な受験校に、学力を無視して一緒に授業を受けているようなものだから、ちんぷんかんぷん、授業を受けていた一日は異常にながかった。このことは、以前の日記に書いたが、僕は、この暗黒の中学時代は、心のなかから抹殺していた。何も考えていなかったし、考えたくもなかった。そんな中学の3年間で僕は、24センチ身長が伸びた。途中2年の始まりに、病気をして1月休んだ。なにが原因かわからないが、もともと運動神経は悪いほうではなかったし、短距離はまま早いほう、長距離は学年で2番と強かったが、練成中学では僕はいつも短距離走がビリになった。どうして東京の連中って、走るのが速いんだろう。僕は学力ばかりか、運動能力も落ち、大きなコンプレックスを感じていた。得意の長距離は、それを証明する場はなかった。小学時代は、かなり積極的、楽天的だった性格は、うちにこもっていた。その小学校からは、初めての生徒だったので僕の情報はなにもなかった。運動会で長距離走が得意な者と、問われたとき、僕は自分から言い出すことはできなかった。それほど内にこもっていた。唯一、国語と理科が好きだった。国語のたいしたことはなかったが、理科は勉強しなくても、もともと子供の頃から、科学には興味があり、そういう本ばかり読んでいた。そして僕は「安良夫」という名前にもコンプレックスを持った。なぜなら、皆先生が読めないからだ。「横木君なんと読むの」「あらおです」というと教室はわらいに包まれた。なぜ。そんなとき、国語の担任、松田稔先生(後に国学院教授)が、一発で読んだ。やはり国語の先生は読めるんだとうれしくなった。授業はよく聞いていたが、残念ながら成績には結びつかなかった。周りができすぎた。
僕は孤立して、ひとりでいることが多かった。登校は、御徒町からだったが、下校は秋葉原駅に向かった。当時の秋葉原は、後の賑わい、現在の賑わいとはかけはなれた、部品の街だった。中学生にとって、それは迷路であり、さまざまな電気部品をみるだけで楽しかった。僕はひとりで歩き回った。そして秋葉原デパートを徘徊した。
まわりが、勉強しているので、僕も少しは勉強をしたが、成績はよくならなかった。皆僕の何倍も勉強していた。
結局、高校進学は、レベルの高い、一学区をあきらめて、学区を変えてある都立高校を受験したが、見事に落ちた。結局僕は私立の高校になんとか入り、ようやく落ち着いた。
すぐにブラスバンドに入った。中学ではブラスバンドができたばかりで、募集があったが、勉強ができるやつばかりなので、気後れして、入れなかった。だから高校に行ったら絶対にブラスバンドをやりたいと思った。
高校時代、のびのびとした学園生活を満喫した。勉強はしなかったが、360日は、学校にゆき、ブラスバンドの練習をした。そして運動会で短距離走を走ってみると、早いほうになったし、長距離はクラスで3番だった。(全国レベルの水泳特待生がクラスに二人いた。彼等は早かった)水泳は、25mを15秒台で泳いだ。(水泳部は12秒台だった)
あの暗黒の中学時代はなんだったのだろう。僕は中学時代の出来事を思い出すことはなかった。
一度だけ、カメラマンになってから、校門の前をクルマで通った。校舎が新築されていた。すでに、日比谷はNO.1ではなくなり、越境通学する生徒もほとんどいない時代だった。敷地いっぱいに校舎は立ち、屋上が全体がグランドになっていた。それを見たとき、僕は、もうこの学校とは関係ないんだと思った。
ところが、2年前、写真展をしているときに、1年の担任だった、小原俊平先生が会場にかけつけてくれた。
僕は、その先生があまり好きではなかった。真面目でタイトだったからだ。
会場に来ると電話があったときには困惑した。それでも酒を飲み話をして、先生が僕のことをよく覚えていてくれたことを知り、救われた。先生もそのとき、新任、新米教師だったこと。超受験のこの学校に来て、カルチャーショクだったこと。そして、僕のあること。いってみれば、僕がバカではなかったことなど。
そんなこと、最悪だった中学生の時に言ってくれたら、と思ったが、でも、こうやって、わざわざ、自分の教え子を気にして、そして自分の人生のプライドとして、会いに来てくれたことが嬉しかった。教師とは、こういう仕事なんだと僕は思った。そして僕は、こころに押し込めていた、中学時代を解きほぐすことができた。そう思うと、中学時代のさまざまなことを思い出した。図書館が好きで、自然科学ものの本ばかり読んでいた。などと、それまでの外交的だった僕が、その3年間は、自分の心の内側に向かったときで、きっと僕の人格のある部分を、その時代が作ったのだと思えてきた。
その後数度、小原先生と酒を飲んだ。それが先日、電話があり、実は練成中学が、統合、廃校になるという。それも
3月でおしまいだそうだ。3月12日にそのお別れがあるという。そして、2月26日に、OB会?(教師関係)の紫光の会があるので、そのときにスナップ写真を撮ってくれないかという。昼間の2時間ぐらい、歓談中にチョコッとでよいという。僕は快諾した。
前列、左から2人目が松田先生、その右が生物の田中先生(カバと呼んでいた。後列一番左が小原先生。
練成中学は、昭和23年、東京大空襲で焼け爛れたこの地に開校した。僕が生まれる前の年だ。始めは先生も少なく、いくつかの科目を兼任したという話だ。父兄や多くの人々の尽力により、多くの生徒がここで学んだ。
それがいまや全校生徒がたったの98名だ。1年15名、2年45名、3年38名。僕の時代は越境入学が多く、当時か等地の生徒は少なかったが、それでも300名以上はいたことになる。まるで山村、過疎の地の学校のようだ。生徒が減れば、統合し、廃校になるのはしかたがないかもしれない。しかし、そこを卒業した生徒の歴史がここで絶えることは事実だ。街にでれば、若者であふれているではないか。しかし、この街に住む人は少ない。秋葉原は子供を育てる土地ではないのだろうか。店舗あかりが立ち並び、ここには生活がない。どうしてこの街で、生活ができないのだろう。それは、国家の政策、都の政策、区の政策の欠場だろう。廃校になってから、若い人を集めるための住宅にするという案もあったらしいが、家賃がたかくなるとかで、見送られた。まあ、きっと何かの施設になるのだろう。東京の街は、中心部に大開発のマンションが建ち始めている。しかし秋葉原地区のような、商業地区には立つことはない。どうしてだろう。ヨーロッパのように、都会の中心部にも多くの集合住宅、アパート(日本的に言えばマンション)がある。どうして東京ではそういうことができないのだろうか。
都心部の空洞化は、政策の無策の結果でしかない。
ともかく、千代田区立練成中学校は、3月限りでなくなる。せっかく僕の心のなかでは、練成を認めたのに、なくなるとは、少し寂しい。
Comments
以前このブログを偶然に見付けたさいに嬉しくて興奮のあまりコメントを残すのを忘れてしまいました。私は千葉県市川市からの越境入学で総武線の本八幡駅から御徒町という経路で通っていました。写真の前列一番左の有馬先生(英語)は私の担任の先生でした。小原先生には一年生の時に数学を教えていただきました。元卓球の選手だったこともあり、教壇でチョークを片手に肩を前後左右に揺さぶりながら卓球のような動きで指導なさっていた様子が思い出されます。また、小原先生の口癖でもある「あれ、あれでしょ?」もとても懐かしいです。三年生のときに都立高校受検のために通っていた(上智大学の教室を借りて行なわれていた)日曜進学教室の数学担当が小原先生で偶然の出会いに2人でビックリしたのも覚えています。学校と進学教室と両方でお世話になりました。練成は最高の学校です。もう卒業して38年になりますが校歌もまだ覚えています。
Posted by: t.s. | 2013.02.26 09:59 PM
私も本日、偶然にもこのBLOGを見つけ、懐かしさと共にコメントしております。
私も40年程前に練成中学に通学しておりました。千葉県柏市から千代田線で湯島で降りて通った越境入学でした。秋葉原の電気街も通い、ごちゃごちゃした小さな店で抵抗やらコンデンサーやらを買い求め、ラジオ作りをしておりました。
私の担任も小原先生で良く覚えております。背が高く、声が大きく、チョークを握る手が大きかったのが印象的でした。
写真の前列左の先生は英語の有馬先生だったかと記憶しております。当時ニューホライズンが教科書だったかと思います。
高校進学は、私も一学区は内申書の点数が足りず、やっと五学区の都立高校へすべり込みました。
Posted by: M.K | 2012.05.09 04:42 PM
37年前に卒業したものですが、
国語の松田先生のお写真を見て
懐かしさが湧いてきました、
当時と変わらない優しいお顔に
感激してます。
Posted by: 吉岡昭 | 2011.05.22 08:56 AM
偶然このページを見つけました。
私も30年程前に練成中学に通っていました。千葉県柏市から千代田線で通っていた越境入学生でした。学校からの帰りにはよく「初歩のラジオ」という雑誌を片手に秋葉原の電子部品街を徘徊していました。ヲタクの走りでしょうか。
小原先生、お名前だけでは思い出せませんでしたが写真を見て思い出しました。前列一番左の先生もお顔だけは覚えています。何の先生だったかは忘れましたが。。。因みに私の担任は写真には載っていませんが社会の小森先生でした。
懐かしいです。
Posted by: pan | 2010.06.15 02:34 PM
めちゃめちゃ古いコメントに、返事です。とうことは、僕の後輩ですね。たぶん僕が初めて、国府台小学校から練成に行ったのだと思います。バスの渋滞、思い出します。京成国府台から乗った話、そんなこともありましたね。
Posted by: alao | 2008.10.13 12:19 AM
初めてお邪魔いたします。
ふと何気なく練成中学で検索し、ここにたどりつきました。
練成に関する記事はだいぶ以前に書かれたようなので、コメントのタイミングとしては、だいぶずれたものになってしまいますが・・・
私も30年近く前に練成を卒業しました。
記事を拝見していて、何より驚いたのが、私と同じく国府台の小学校から練成に入学されたということです。
ねぼすけで、家を出るのが遅くなった上にバスが渋滞でなかなか進まず、やむを得ず京成国府台から上野へ、そして銀座線で末広町まで行って走ったことも一度や二度ではありません。
今は、当時の友達とも先生方とも連絡を取ることはなくなってしまいましたが、記事を拝見して、とても懐かしくなりました。
Posted by: みつこ | 2006.07.08 12:06 AM