アート・フォト その3 Blitzにて
アート・フォト その2
1973 Inamuragasaki Kanagawa Hasselle 500cm 80mmf2.8 Tri-x
5月3日、目黒にある写真ギャラリーBlitzに行った。家から近かったので、自転車で行く。目黒通りは、いまやインテリアストリートと呼ばれるぐらい、家具屋がたくさんある。
通りから一歩入った住宅街に、白い建物のBLITZがあった。今はパルコでの展覧会のために、準備中でCLOSEしていた。
福川氏と会う。彼とは10年以上まえ、代官山にあった僕の事務所の、隣のビルで写真のギャラリーをOPENしていた。10数年ぶりに、福川氏の話を聞いた。
メモやテープを回したわけではないので、僕の記憶で書くが間違いもあるかもしれないが、ご容赦を。それに、僕の意見と、福川氏の意見がまざりあっている。
実は、ART Photographyについての本を書くかもしれない。
なるべくやさしく書きたいと思っている。しかし美術用語は難解だ。観念的で、何回読んでも理解できないものがあるけど、がんばってやさしく書きたいと思っている。
何しろ30年以上写真にかかわっていながら、僕は現代アートのなかに写真が含まれていると思っているものの、アート=写真とは思っていなかったからだ。現代アートについてはなんら勉強をしていないので、とんちんかんな発言もあるかもしれない。「不勉強家」のぼくとしては、これからいろいろ勉強するつもりだけれど、ブログではそんな無知にもめげず、書いてゆこうと思っている。(きちんとした意見は、本ができたときに)
なぜ、ART Photographyに興味をもったかというと、自分のオリジナルプリントを売って見ようと思ったからだ。ネットに載っている僕の写真を、買いたいというひとから、価格はと聞かれたのがそもそものはじまりだ。
1985年、最初の写真展、当時、京王プラザの1Fにあった、ニコンサロン新宿で「Day by Day」を開催した。そのとき二人、プリントをほしいという人があり、売った。バラ板プリント、サイズは小全紙だった。一点10万で売った記憶がある。そのころ10万だったらニューヨークの写真ギャラリーでコンテンポラリーのかなりちゃんとしたものが買えたろう。
コンテンポラリー(現代)のArtPhotographyとは、何だろう。
それは、写真家がギャラリーと契約し、恒常的に作品をつくり、アート市場に供給するということだ。それはギャラリーを通して、作品が市場で公開売買されるということだ。だからアート市場に参加しなければ、作品としてどんなにすぐれていても、市場価値はない。
特にコンテンポラリー写真(現代の写真)は、オークションにしても、世界中のギャラリーネットワークに入っているからこそ価値があるといえる。だから自分で値段をつけて売ることは、あくまで個人的なものであり、本来意味がない。満足として買うだけで、いざ売る場合に相場はない。
アートフォト市場が常設される前の作品とは、当然扱いが違うといえるだろう。
ただ、アート市場に参入することと、その写真が芸術的に優れていることとはシンクロしていない。やはり売れ線というものがあり、前衛的であり、芸術的であるかどうかではない。
言い換えれば、どんなに新しい表現でも、アート市場に参加しなければ、市場価値は生まれないということになる。
写真に限らず、芸術は、前衛としての、特殊なもの、もしくはわかりやすく、大衆的なもの、芸術的とはいえないが、人気があり商売になるもの。いってみれば商業主義としてのアート、たとえば人気の、ヤマガタやラッセンがその範疇だろうか。それは別に悪いわけではない。ほとんどのポップミュージックはそういうものだし…まあそれでも、最初は前衛的だとしても、儲かるからといって、自己コピーを繰り返せば、単なる商業主義になるのかもしれない)
そして、中間的なもの。海外ではこの中間的なものが多いし、そこが一番エキサイティングだが、日本では美術も写真も、この中間的なものが極めて少ない。それは、ギャラリーを通して、市場に紹介されることが、少ないからだという。
1975年の秋、写真はARTとして定常的にオークションが始まった。
まだ、たった30年の歴史である。60年台になって、ニューヨーク近代美術館が写真を、現代アートとしていくたびも取り上げた結果、写真は美術作品としてとりあつかわれるようになった。
なかでも、1962年ニューヨーク、近代美術館、写真部門部長に就任したシャカースキーの尽力が大きい。1978年「鏡と窓」展を開催した。
窓とは、外をみる、現実を見ることであり、鏡は、自分自身の内面を見つめること。本来そんなに簡単ではないが、便宜上、二つに分けた。
福川がいうアート・フォトと写真は何が違うのか?
福川は、抽象的だが、コンテンポラリーなアート・フォトには「突き抜けた」ものが必要だという。主張のようなものだろうか。
写真はさまざまな見方ができる。自由だ。しかし作者はその写真がどういう風に見てもらうかを明確にする必要があるという。そこには鑑賞する側の自由ではなく、作者の主張がもりこまれていなければならない。特にコンテンポラリー・アートとはそういうものだ。
バブル前後に企業が多くの写真ギャラリーをOPENした。
海外の作品を買い付け、日本で売る。それなりにビジネスになったらしい。しかしバブル崩壊以降、ギャラリーはなくなった。どこも貸しギャラリーになってしまった。
そしてインターネット時代になり、ふたたび大きく変わった。なぜならば海外のギャラリーでの相場がガラス張りになったからだ。海外のアートの販売をするだけでは経営がなりたたなくなっている。少しもうまみがないのだ。
そこで、今写真のギャラリーは、自ら作家を売り出す必要が生まれている。日本の作家を扱い、日本で、海外で売り出すということだ。福川氏はそのことを今テーマにしている。
ところが、そうなると作家がほとんどいない状態だ。
だから現在は黎明期でもあると福川はいう。
よく、日本で受けないから、海外で売りたいというが、日本で受けないものが、海外だったら受けうるというのは幻想だと言う。
まず国内で受けるか重要だという。かつてと違い、価値が多様化して、簡単に正解は見つからないという。
今、目黒にこのギャラリーはあるが、インテリアストリートというこのあたりには、インテリアの一部として写真を購入する人が多いという。
雑談として、なぜか東京、名古屋、九州で写真は売れるそうだ。大阪はだめだという。
海外ではアメリカとイギリスが売れるという。ラテン系は収集癖がないのかもしれない。
大阪はラテンだと福川は笑った。
かつては海外の作品を手に入れるには、現地に行かなくては、ならなかった。
情報もなかった。しかし、今ではいく必要はない。インターネットで、世界中のアート情報を知ることができるからだ。
福川は今、ギャラリー経営のノウハウをワークショップで教えている。
そうして、日本発信の、アート・フォトに力を入れたいと語った。
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