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18 posts from May 2005

2005.05.20

トピクス 横木安良夫

トピクス

写真の粒子、ノイズ
写真お見せ方、コンポジット
TeachYourChildren
●盗み撮りについて

写真ジャンルの羅列です

ART PHOTOGRAPHS & NEWS 写真プリント販売について、考えるサイト

写真の粒子について Grain その1
その2
●粒子のあるデジタル写真

アート・フォトって何! ギャラリーブリッツにて
アートフォト、インテリアフォト
●デジタル写真で何ができる その1
その2
その3
●なぜオーバーランするの JR西事故
オリジナルプリント販売について
オリジナルプリント販売とは? その1
その2

●盗撮、盗み撮り、キャンデットフォト、スナップ写真 その1
●盗撮、盗み撮り、キャンデットフォト、スナップ その2
その3

●ロバートキャパのピンボケ写真と、僕のピンボケ写真

エミリーブロンテ 「嵐が丘」 の舞台で、かつて撮った写真

●EosKissDigital Nを 6歳の娘に奪われた その1

●デジで本 アサヒカメラで評論

3月3日から12日まで、アメリカウエストコースに行った。
超広角レンズのゆがみを取る方法?

「ロバートキャパ関係」strong>●
ロバート・キャパIN SAIGON
リチャードウイーランの伝記では、キャパは、1954年4月、日本滞在後、バンコクからハノイに行っていると書かれているが、実際はサイゴンから、ベトナムに入っている。
■「ロバート・キャパ最期の日」のBLOG
キャパ・イン・カラー写真展開催中 その1はここをクリック
●「ロバート・キャパ最期の日」本の紹介
●ロバート・キャパ最期日の書評など
1954年4月13日、日本到着から5月25日地雷を踏むまでのロバート・キャパの足取り
ロバート・キャパ写真展「ロバート・キャパ・イン・カラー」 その1に行く

「コダクローム関係」
●コダクロームについてのblog「僕のコダクローム」ポールサイモン
●「僕のコダクローム 真行寺君枝」a>
●「僕のコダクローム 沢田研二」
「阪神大震災関係」
「M7.3子供たちがみたもの」TOP 阪神大震災から10年、当時まだ幼く何も語らなかった彼等は今十代になり、震災について何を重いっているのだろうか。その本についてのブログ。
「写真関係」
デジタルで撮れない大型カメラの世界 その1

2mフォトグラファー、小堀正一

「ポラロイド関係」
ポラロイド195ランドカメラとネガつきポラロイドモノクロフィルムType665

「そのほか」
怪獣映画「ゴジラ誕生50年だったな」
流行通信
40年以上も前のクリスマス
ベトナムのモデル1
ベトナムの女優写真
ベトナムNo.1の歌手、ミイ
タム

ベトナムのモデル2
ピンクレディ キンスマ
ピンクレディ2
若いお巡りさん
横木安良夫のHomePage
横木安良夫のプロフィール 詳細をUPしています
デジタルカメラで作る、本格的な写真集の作り方「デジで本」

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2005.05.18

写真て何だ!カテゴリー?その2

写真て何だ その2

以下、写真のジャンルの羅列です。きちんとして整理しているわけではありません。
写真てどんな分野があるのかを書き出しているだけです。
他にもあるようでしたら、教えてください。重複でも結構です、言い方が違うとか。
それと今僕は、現代アートについて、勉強中なので、間違いがあれば、指摘してください。

ファインアート・フォトグラフィ 
コンテンポラリー・ファインアート・フォトグラフィ
コンテンポラリー・フォトグラフィ 
アート・フォト 
インテリア・フォト 

上は、ほとんどジャンル的には同じだ。ファインアート、コンテンポラリーアートのギャラリーが取り扱っていると言う意味だ。内容的には、マスメディア・アートと重複している部分もあるが、なにしろファインアートとマスメディアアート、例えば宣伝美術は多くの、ファインアート(純粋芸術)を利用し、作家は重複している。
写真美術館は、このほか、「写真」として商業的な写真も含めている。

コンテンポラリーアートのなかには、広告宣伝美術も含まれている。
だから、コンテンポラリーアートと、コンテンポラリーファインアートは違う。
コンテンポラリーアートは、現代美術。
コンテンポラリー・ファイン・アートは、現代・純粋・芸術(美術)
なんていえるのかな。このへんの分類わけは、不勉強家の私としては、まちがいがあるかも。

なぜこんなふうに分類わけにこだわるのかというのは、写真の未来を考える上で、どこに一番夢があり、将来性があるのか、俯瞰してみたいからです。

コンテンポラリー・フォトグラフィは、60年代にMOMAでカテゴライズされた写真だ。日本ではコンポラ写真と、言われている。

ファインプリント・フォトグラフィ 

ファインプリント・フォトグラフィという言い方があるのかは、わからないが、販売を目的とした写真ギャラリーにて扱われている。モノクロバラ板印画紙を使い、(RCというプラスチックプリントや、デジタルプリントではない…もっともデジタルプリントは、ファインプリントにそのうち入るかもしれない)
写真の、伝統的な美しさを、目標としている。
しかし、多くの場合過去の有名な作家のものの市場価値が高く、それらが流通している。
ネガフィルムで撮った、ニューカラーの写真は、このジャンルというより、コンテンポラリーアートのジャンルに入るのかもしれない。

なぜか、カバーのない、「マスメディア時代のアート」(ジャージAウォーカー)という本が、僕の本だなにあった。1987年ごろの本で、きっと自分で買ったのだが、まったく内容は覚えていなかった。かつては単純に斜め読みしたのだろうか。今読むと、興味深い本だった。ただ、ファインアートより、マスメディアアートのほうが、先進的な気になる内容だった。それが時代の空気だろう。
僕が若いときに、ファインアートに惹かれなかったのは、広告やファッションのような、実用的なアート、マスメディアアートの方が魅力的に感じられた。
ただ、時代の違いか、なにしろ、インターネット以前の、マスメディア論、大衆芸術論、で今のインターネットの双方向性を考えると、時代が変わったと思えてしまう。
なにしろ、マスメディアは、かつてはごく一部の情報の送り手と、ほとんどの情報消費者という構図だったからだ。
いまや情報はさらに、平等化された。しかし多くの情報は、経済的価値がなくなりつつある。どれもが無料だ。
情報誌の売れ行きが落ちたのは、情報が無料時代になったからだろう。

そうなると、かえって、こんな時代だからこそ、伝統的なしくみの、ファインアートのヒエラルキーのようなものが、意味ある、価値ある時代になるのかもしれない。情報ではなく、「物」こそ価値がある時代だからだ。
それには「幻想」をささえる、システムが必要だから。

アマチュアア写真 人畜無害な写真 趣味 余暇 家族の記録 
コミュニテイ写真 労働者が、社会の不平等を告発する写真 左翼的マスメディアが後押しをした。

と上記の本に書いてあった。

●NEW

Self Photo  自己撮り写真 自画像写真 
セルフポートレイト写真
セルフタイマー写真
定点写真
内視鏡写真
スクープ写真
証拠写真
捏造写真
アイコラ写真
コラージュ写真
インスタント写真
バカチョン写真
使い捨て写真


以下、 羅列です。

お座敷写真
ポラロイド写真 
銀塩写真
針穴写真 ピンホール写真
携帯カメラ写真
ペット写真
SL写真

芸術写真 
広告写真 
ファッション写真 
ルポルタージュ写真 報道写真 
グラビア写真 
タレント写真

ピンナップ写真 
ポートレイト写真 肖像写真 人物写真

スナップ写真
盗撮写真 盗み撮り写真 
キャンデッドフォト  

 
演出写真 
コマーシャル・フォト 商業写真
商品写真
建築写真 
鉄道写真 
風景写真 
新聞写真
航空写真
戦争写真
赤外写真
免許証写真
証明証写真
顔写真
尻写真

ストレート・フォトグラフィ 
シリアス・フォトグラフィ
ヌード写真 
ネイキド・フォト

コンポラ写真 ネオコンポラ写真 ポストコンポラ写真  
白黒写真 モノクロ写真 
カラー写真 
静物写真 
スポーツ写真 水中写真 
ネイチャー・フォト ねえちゃんフォト 
ナイトフォト 長時間露光写真  
合成写真
ピンボケ写真 アレブレ写真
電信写真
デジタル写真
特撮写真
スチール写真
一発撮り写真
スタジオ写真
南国写真
天体写真 天文写真
ビーチフォト
舞台写真
冒険写真
旅写真
口絵写真
カバー写真
カバーガール写真

刺青写真
メイルヌード 男性写真
女性写真
性器写真
ハメ撮り写真
ポルノ写真
セックス写真
奇形写真
死体写真
解剖写真
医学写真
内臓写真

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2005.05.17

写真て何だ!その1 思いつくまま

何の意味もないけれど、思いつくまま、写真のジャンルを書き出してみた。
もっともっとあるかな。あれば教えてください。
写真って、つけばいいわけじゃないけど、造語もなるべくさけるとして、それに、順不同。さまざまなジャンルがあって、さて自分にはいくつ関係しているだろうか、と自問。

ファインアート・フォトグラフィ 
コンテンポラリー・ファインアート・フォトグラフィ
コンテンポラリー・フォトグラフィ 
ファインプリント・フォトグラフィ 
アート・フォト 
インテリア・フォト 

お座敷写真
ポラロイド写真 
銀塩写真
針穴写真 ピンホール写真
携帯カメラ写真
ペット写真
SL写真

芸術写真 
広告写真 
ファッション写真 
ルポルタージュ写真 報道写真 
グラビア写真 
タレント写真

ピンナップ写真 
ポートレイト写真 肖像写真 人物写真

スナップ写真
盗撮写真 盗み撮り写真 
キャンデッドフォト  

 
演出写真 
コマーシャル・フォト 商業写真
商品写真
建築写真 
鉄道写真 
風景写真 
新聞写真
航空写真
戦争写真
赤外写真
免許証写真
証明証写真
顔写真
尻写真

ストレート・フォトグラフィ 
シリアス・フォトグラフィ
ヌード写真 
ネイキド・フォト

コンポラ写真 ネオコンポラ写真 ポストコンポラ写真  
白黒写真 モノクロ写真 
カラー写真 
静物写真 
スポーツ写真 水中写真 
ネイチャー・フォト ねえちゃんフォト 
ナイトフォト 長時間露光写真  
合成写真
ピンボケ写真 アレブレ写真
電信写真
デジタル写真
特撮写真
スチール写真
一発撮り写真
スタジオ写真
南国写真
天体写真 天文写真
ビーチフォト
舞台写真
冒険写真
旅写真
口絵写真
カバー写真
カバーガール写真

刺青写真
メイルヌード 男性写真
女性写真
性器写真
ハメ撮り写真
ポルノ写真
セックス写真
奇形写真
死体写真
解剖写真
医学写真
内臓写真

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2005.05.14

アート・フォト オリジナルプリント販売について

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POLAROID LAND CAMERA 195
LENS TOMINON1:3.8 f=114mm PolaroidType665Film
1997年 原宿 モノクロネガつき、ポラロイドフィルムを使用。
そのモノクロネガからプリント。
ライティングは、TwiligthTwist。懐中電灯一灯での撮影。
ISO50 F4 10秒露光

アートフォトについて、渡部さとる氏の意見
Blitzのワークショップを受けた、海野未来雄氏の記事
もっと、多くの方がこの話題に意見を!!
どうすれば、オリジナルプリントが日本で売れるようになるのか考えましょう。
現代美術について村上隆の意見

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2005.05.12

「アート・フォト」と「写真」の違い

0270w700ttp6gene01sumple

額に入れたこの写真は、もちろん写真だ。アートといってもいいだろう。しかし現代美術ではない。コンテンポラリーアートとするには、美術館に所蔵してもらうか、ギャラリーと契約して、アート・フォト市場にデビューしなければならない。本来、この写真をどのように、解釈、感じるかは見る側の自由だ。しかし、現代アートでは、この写真を作者が、見るがわにどのように見て欲しいかを明確にする必要がある。しかもその見方が、オリジナルでなくてはならない。それがコンセプトだ。バラ板の印画紙を使うことではない。デジタルプリントはもちろん、デジタルカメラで撮っても関係ない。(デジタルを使う理論武装ができていれば)

写真が芸術かどうかなんていう議論はいまや意味をなさないが、なにしろ芸術、ART自体が変容したわけだし、写真が芸術に含まれることはたしかだ。<だから僕は、写真が芸術かどうかなんて議論に興味はない。
それは表現、創造物ということでは、異論はない。
僕は、これまで写真を撮ってきた。それでも大きな意味のアートだと思っていはいるが、ことさら明確に考えていたわけではない。写真は写真でいいじゃないかというのが僕の考え方だった。それは、雑誌や広告、ファッション、ドキュメンタリーなど、写真というメディアをつかい、発表することで、ことさらアートを意識することもなかった。

ところが、ひとたびオリジナルプリントを売ると考えたとき、写真はアートであるか、いなかを突きつけられた。なにしろ、写真のプリントを売るということは、写真をアートと位置づけなければ、市場価値がないことを知ったからだ。
今まで僕は直接個人にオリジナルプリントを売っていた。
しかしそれは、僕がかってにつけた価格で、適当にこれぐらいなかとかってに設定したものだ。単発の需要と供給だから、ある意味問題はないが、ただ残念ながらそれがシステムにはなりえない。あくまで個人的な自己満足の作業でしかない。
それでは、写真を売るシステムはどこにあるのか。正直に日本にはごく一部のギャラリー以外ほとんどないといえる。美術館が買い上げるか、圧倒的には、個人的な売買があるぐらいだろう。

しかし、海外では、しっかりとした売買のシステムがある。
それは、写真をアートとして位置付け、ギャラリーが扱い、戦略的な価格を設定し、継続的に、写真家がアート・フォトを供給することだ。
それには、アート市場に参加しなくてはならない。
写真がアートとしてアート市場に常時取引されるようになって30年だ。
バブル期には、多くの企業が、そのシステムを利用して、海外の作品を日本に持ち込み、売った。しかしバブル崩壊後、ほとんどすべてが撤退している。しかもインターネット時代になり、海外の作品をかいつけにいかなくても買える時代になったこともある。
いまや、アート・フォトビジネスは、海外の作品を売るということでは、ほとんどなりたたなくなってしまった。
さて、そこで、BLITZのようなギャラリーが、日本の作家の作品を売ることを考えはじめた。
日本の作家を海外に売るのではない。まずは、日本の作家を日本で売ることに力を入れている。しかしそれには、日本には作家がいないと、BLITZの福川氏はいう。
写真家はたくさんがいるが、アート・フォト、写真をコンテンポラリー・アート・フォトグラフィとして販売することを目的に制作する作家がほとんどいないというのだ。
いや、そういう人はたくさんいるのだろう。しかし、福川の言う、「アート・フォト」を理解する人は少ないという。「アート・フォト」と「写真」は何が違うのか!

決定的に違うのは、アート・フォトとは、コンテポラリ・アートの一部だとうことだ。
現代美術だ。その部分をきちんと理解しないといけない。
ただ現代美術だからと、コラージュや、引用で、どうみても写真に見えない難解なものばかりが、けっして現代美術ではない。きちんとプリントした一枚の写真でも、現代美術になりえる。
写真とアート・フォトグラフィの違いは実は明確にある。
額に入れて壁に飾ることではない。
「現代美術としての写真」とは、アート市場に参入することだ。
そうやって初めて、市場価値が生まれるからだ。
市場価値があるものが、「アート・フォト」だ。
それは、メジャーリーグに入らなければ、メジャーリーグとして表現することができないのと同じで、野球のように、日本だけでも大きな市場があれば、別にメジャーに行かなくても、プロの野球をすることには違いがない。
残念ながら、日本にはコンテンポラリーのアート市場は現在存在していない。
さて、これまでは入物の話で、内容的には、何が「写真」と「アート・フォト」は違うのだろうか。
それは、コンテンポラリー・アートが何かということになる。
易しく言えば、コンテンポラリーアートは、新しい価値の提案、創造、クリティック、等々が大きなテーマである。オリジナルな提案だ。コンセプトともいえる。
写真は、心のなかを撮るものではない。レントゲン写真だって、こころは写らない。
写真は、世界を複写、写す機械。広い意味では、それさえも芸術「アート」といえる。
しかしそれでは「コンテンポラリーアート」ではない。
コンテンポラリーアートとは、そのそこに明確なルールがあるからだ。
それは「あたらしい、オリジナルな価値の提案」、コンセプトが必要だということになる。

写真の解釈は、写真を見る側の自由だ。それが本質だ。
特に写真は、存在する世界を記録するメディアだから、切り取られた写真をどのように、感じるかは、それを利用する側にゆだねられている。
本当の写真の見方は、見る側の自由だ。
しかしほとんどの写真は、送り手や利用者が、あるメッセージをこめている。
一番きちんと考えているのが、広告だろう。広告は、商品を売るためにその写真をどう見てほしいのか、コピーをつけてたりして、明確にしている。決してあいまいではない。そんなふうにわかりやすくなくても、裏ではしっかりと考えられている。
グラビア写真や、ピンナップ写真は、やはり明確メッセージがある。
それは見る側を欲情させることが目的だ。もしくは報道写真のように、出来事しらせるという目的もある。ほとんどの商業的もしくは、報道写真には、実際は明確なコンセプトある。その写真をどのように見てほしいのか、意図がある。

ところが、ひとたび、写真を額に入れて飾ると、みな、その明確な目的を失う。
いいでしょう。こんな素敵な写真。どんなふうに感じてもらってもいいですよ。
見る側の自由だから。写真てそいうものですよ。……。
と言葉がなくなる。写真にことばはいらない。
もっと、もっと自由に僕の写真を見て、感動してほしい。
ずっと見ていると、いろんなことを感じるでしょう。……。
そう。この意見は、写真を撮っている側からみるととても正しい。
カンファタブルだ。素敵な写真を、壁に貼れば、その部屋の雰囲気もかわる。
だからこそインテリア・フォトが必要なんだ。
だからこの素敵な写真は、アートだ。

しかし、それはファインアートではない。
美しい風景写真は、「美しい写真」かもしれないが、それは現代美術ではない。
それは、単に写真だ。個人的に売ることはできても、アート市場で市場価値はない。

「アート・フォト」とは、その作者(キューレーター、ギャラリーのように作者以外がすることもある)が、その写真をどう見てほしいか、を提案することだ。
その写真の新たな意味づけた。現代において、新しい価値観の創造。美の創造だ。
美しい風景写真は、誰でもすでに認知している「美」だ。だから、ファインアートになるわけはない。そこには主張がないから。
現代美術はあるいみ、言葉とくっついている。それは決して、自分の作品を評論するという意味ではない。
そうではなく、提示した写真を、どう見てほしいか、明確にすることが、コンセプトなのだ。
ファイン・アート・フォトグラフィは、制作した写真を、どう解釈、どうみてほしいのか、作者が明確にすることなのだ。
それを見る側にゆだねたら、それはもう、現代美術ではなく、ただの写真だ。
誤解してほしくないのは、「写真」が悪いわけではない。写真が写真であることは、まったく間違っていない。
しかし、オリジナルプリントを売るというときに、そこにはファインアート市場という、システムが厳然とあることを、知らなくてはならないことだ。
それには、写真をどう見てほしいのか、作者は明確にする必要がある。そしてそのコンセプトがオリジナルでなければならないということだ。

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2005.05.11

アートフォト オリジナルプリント販売について

オリジナルプリントについて、先日、渡部さとる氏と会った。彼のサイトの日記でこのことが触れられている。
5月5日
5月9日
●参考 現代美術の寵児、村上隆の「アメリカ現代美術のリアリティ」で、ファインアートの価値、価格設定のことを触れている。基本的には、ArtPhotographyも、現代美術の範疇なので、世界はこのルールでなりたっていると考えられる。
026ttpolaharajuku02
POLAROID LAND CAMERA 195
LENS TOMINON1:3.8 f=114mm PolaroidType665Film
1997年 原宿 モノクロネガつき、ポラロイドフィルムを使用。
そのモノクロネガからプリント。
ライティングは、TwiligthTwist。懐中電灯一灯での撮影。
ISO50 F4 10秒露光

トピクス
写真の粒子について Grain その1
その2
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その2
その3
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その3

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「ロバートキャパ関係」strong>●
ロバート・キャパIN SAIGON
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2005.05.08

最近のトピクス 横木安良夫

0270w700ttp6gene01
POLAROID LAND CAMERA 195
LENS TOMINON1:3.8 f=114mm PolaroidType665Film
1997年 原宿 モノクロネガつき、ポラロイドフィルムを使用。
そのモノクロネガからプリント。
ライティングは、TwiligthTwist。懐中電灯一灯での撮影。
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その3
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その3

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「ロバートキャパ関係」strong>●
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「写真関係」
デジタルで撮れない大型カメラの世界 その1

2mフォトグラファー、小堀正一

「ポラロイド関係」
ポラロイド195ランドカメラとネガつきポラロイドモノクロフィルムType665

「そのほか」
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40年以上も前のクリスマス
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2005.05.07

インテリアフォト アートフォト その4

380grain99ri
アートフォトその3は、ここをクリック
なぜ日本では、オリジナルプリント.アートフォト(Fine ArtPhotography)が、盛んにならないのだろうか考えてみた。

もともと写真を額に入れて飾る習慣がなかったのだろう。壁に貼るのはたいていポスターだ。だいたい日本家屋にはシンプルな白い壁がなかったから、先祖の写真を鴨居などに飾っているぐらいだったのだろう。
絵画は立派な額に入れ、応接間に飾られた。それは、たいして値打ちがなくても、応接間という、外に開いた空間での、もてなしのつもり、だったのだろうか。
現代リビングの生まれた、アメリカは、壁になにもなければ殺風景だったに違いない。絵はもちろん、家族の写真を額に入れて飾る習慣があったのだろう。日本では額に入るのは、死者という写真にたいしてスタンスの違いが面白い。写真といえば、昔の日本では、御真影といって、天皇陛下の写真、ポスターを貼る家が多かった。
インテリという概念は、日本では最近のことなのだろう。
調べたわけでも、専門家でもないので、このへんの意見は、僕のかってな感想だけど。
かつて日本人は、まるでミニマムアートのような生活をしていた。ものがなかった。
だからインテリアというか、部屋のなかはかなりシンプルだった。床の間に掛け軸が基本だったのかもしれない。昔の日本の家、といってもせいぜい僕が知っているのは、50年ぐらい前だが、どこの家もわりとかたずいていたような気がする。毎日そうじするといった、生真面目さがあったこともたしかだが、掃除をするのが簡単なぐらい、部屋には何もなかったのだ。布団を上げれば畳だけの世界。ほうきでさっさと、掃き、雑巾がけをすれば、それで終わりだった。
部屋は現在よりむしろ広かったと思う。僕の子供時代、庭のない家は少なく、かえって団地でコンパクトに住むことにあこがれたりもした。いや、きっと冷蔵庫、近代的な台所、茶の間でなく、リビングにあこがれたのかもしれない。
それでも、我が家は雑然ときたなかったほうだった。
うちには本がたくさんあり、雑誌や、それに父親の仕事がら新聞4紙が毎日届いた。それだけでもごみはすぐふえる。やはり僕が中学生ぐらい、昭和30年代後半から突然、ごみが増えだしたような気がする。

さてさて、ごみの話ではなく、そんな時代の日本の家屋の壁は、柱と柱の間が土壁だった。壁はそれだけで存在感があり、鴨居にカレンダーをひっかけ、自分の部屋があれば、ポスターを貼ぐらいだった。ポスターを一枚貼れば空間がなくなった。無駄な壁はすくなかったとういうわけだ。
それが、いつごろからだろうか、いわゆるうなぎのねどこのマンションや、2x4建築が増えてから、壁に空間ができた。白壁に囲まれた生活。それはたいてい壁紙が貼られ、何もないと圧迫感さえあった。
きっとそのころから、リトグラフなどが、よく壁に飾られるようになったのだろう。インテリアの一部だ。
ちょうど海外では、写真がアートとして認められ、流通し始めたころだ。写真のような複製可能なものが芸術がどうかなんて議論さえあった。

僕は、写真家になってからも、自分で撮った写真を額に入れ飾る習慣はなかった。仕事のポスターはよく壁に貼った。
1985年に初めて写真展をしたとき、写真はモノクロ約40点、ニコンサロンで開催したのだが、僕はそのとき、初めて自分の写真をオーバーマットした額にいれ、会場で並べ、1週間毎日自分の写真を眺めた。
それまで僕は写真を額に入れて、「お芸術」といったふうに、飾ることに抵抗があった。
写真の力はもっとダイナミックで、違うメディアだと思っていたからだ。端的に言えば写真は、メディアに乗ってこそ力があると信じていた。
その1985年の写真展では、40点のプリントを当然すべてバライタ紙、たしかイルフォードを使ったと思う。もちろん自分でプリントした。大きさは小全紙だった。
そしてニコンサロンで1週間自分の写真を眺めた。そして少し写真に対する考え方が変わった。
メディアに載ったときの写真は、それを見る人はごく一瞬のことだ。
一瞬見て、魅力的な写真がよい写真だといえる。
ところが、壁に貼られた、写真は、見る側に、無限の時間を与えてくれる。
気に入った写真だったら、それを壁に貼れば、毎日見ることができるのだ。
そして見るたびに、見る側に新たな気持ちが生まれる。
たった一週間展示しただけで、僕は自分の写真のなかから、
なんでもないけど、いつまでも印象的な写真を発見した。
そのことを知ってから、壁に写真を額に入れて飾るようになった。そのときの写真を買いたいという人があり、売った。そのとき、写真を買う人がいることを知った。彼らは写真を、インテリアだと考えていた。だから僕がつけた値段でもその部屋にあっていたから買ってくれたのだろう。

さて、本論だが、きっとオリジナルプリントを欲しいと思う人がいるのに、なぜほとんど流通していないのだろう。
それはきっと、欲しい人は、価値観が多種多様、美術品と思う人も、単にインテリアと考えている人もいる。
そんな彼らが、写真をどこで買えばよいのか、わからいない。
そのうえ自分が買ったものの本当の値打ちはがわからないからだろう。

今回、いろいろ調べていて、デジタルフォトストックのWEBを見つけた。
データで写真をダウンロードできるというのだ。これは、フォトライブラリーといって、通常、商業的な目的で写真を使う場合のやりかただ。オリジナルプリントではない。データから印刷物にするための、使用権を買うわけだ。しかしこれが、インテリアやフォトフレームの会社のサイトとリンクしていたことに驚いた。
普通のひとにも、データを売るようだ。しかしこのデータを自分でダウンロードして買う人がいるのだろうか。自分でプリントしなければならない。しかも市場性はない。
疑問だった。しかも値段が高い。ちょっとこのやりかたの現状はわからないので、知っている人がいたら教えて欲しい。
それからくらべたら、オリジナルプリント、アートフォトは、もっときちんとした仕組みになっている。しかし、どこでかえば良いのかは、わかりずらいし、どんな写真があるのかも、普通の人には探すのが難しい。
それはやはりBLITZのような、ギャラリーで買うのが一番だという結論になってしまう。

さて、さて、ここまでだったら、前回書いたことと同じになってしまう。
今日、思いついたのは、アート・フォトではなく、
もっとカジュアルに考えて、「インテリア・フォト」
というジャンルができてもよいのではないかと思ったのだ。
もちろん、アートフォトは現に存在する市場だ。ファインアートといってもいいだろう。

そうではなく、インテリアの一アイテム、家具などと同じように、そういう分野の写真が、流通してもよいと思う。
ぼくが提案した、オリジナルプリントのサイトの前段階としての、
「インテリアフォト」がどうだろうか。
撮るのは、プロもアマチュアもない。気に入った写真ができたら、それを公開する。
自分で値段をつけてもよいと思う。何しろ、ファインアートではない。家具と同じ、インテリアアートなのだ。
インテリア・フォトの、オークションサイトが、や、楽天の中のショップがあってもいいような気がする。
ただ、楽天のサイトは、店構えとして、写真を扱うには、洒落れはいないけど。
そういう意味の、デジタル・アート・ショップができると何かが動くような気がする。
そうすることによって、ファインアート、フォトグラフにも新たな動きがでるのではないか。

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2005.05.06

Grain 写真の粒子について その2

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Grain 写真の粒子について その1

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さて、このBlogを見続けているひとは、気づいていると思うが、僕は今、写真の粒子、粒状性にこだわっていることを。銀塩写真とデジタル写真の違いというより、写真にとってGrainとは、なんなのだろうかとうことだ。
最新のデジタルカメラは簡単にドットがでることもないし、デジタルではノイズというのだろうか、偽色もふくめて、あってはならないものだという雰囲気がある。
しかし銀塩写真は4x5や8x10のような大型のフィルムを使わない限り、引き伸ばすと当然粒子がでてくる。粒子といえば、印刷物だって網点が見える。さて、粒子はないほうがよいのだろうか。本当に粒子は邪魔なもので、技術的に解決できれば、抹殺したいものなのだろうか。
トライXというフィルムがある。それを増感現像したときの粒子の荒れ具合。それがなんとも美しく、なんでもない写真が、何かメッセージをこめられているようにさえ思える。
写っているものより、その粒子が、想像力を膨らませる。
上の写真は、EosD60をISO1600で撮ったものだ。A3ノビぐらいにすると、ノイズが目立った。でも、高感度カラーフィルムを増感現像したときの効果のようで、僕は好きだった。ノイズがなぜだめなのと。
ただここにUPしてある写真はナチュラルではない。こんな小さくて、粒子をきわだせるには、それなりの工夫が必要だ。難しいことではないので、種はあかさない。
なにより、粒子がある写真と、ない写真は、やはり印象が、メッセージが違うような気がしている。
粒子を眺めながら皆さんに考えてもらいたいと、思っている。写真にとって、Grainとは何か。

さて、粒子を眺めていて、ふと思ったことある。それは、写真の粒子とは、テクスチャーなのかもしれないということだ。素材感、触覚感。それは、印画紙の質感とは違う、写真のなかにある、写真としての素材感なのかもしれない。
銀塩時代、35mmから8x10フィルムをチョイスするとき、もちろん拡大率や、被写界深度による写りの違いも重要だったが、やはり粒状感も大きな選択の理由になっていたと思う。
大型カメラを使わないで、35mmカメラは使う理由は、粒状感のためだったのではないだろうか。
印刷やプリントの質感ではなく、写真画像そのものにもテクスチャーがあるような気がする。

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アート・フォト その3 Blitzにて

アート・フォト その201inamura01
1973 Inamuragasaki Kanagawa Hasselle 500cm 80mmf2.8 Tri-x

5月3日、目黒にある写真ギャラリーBlitzに行った。家から近かったので、自転車で行く。目黒通りは、いまやインテリアストリートと呼ばれるぐらい、家具屋がたくさんある。
通りから一歩入った住宅街に、白い建物のBLITZがあった。今はパルコでの展覧会のために、準備中でCLOSEしていた。
福川氏と会う。彼とは10年以上まえ、代官山にあった僕の事務所の、隣のビルで写真のギャラリーをOPENしていた。10数年ぶりに、福川氏の話を聞いた。
メモやテープを回したわけではないので、僕の記憶で書くが間違いもあるかもしれないが、ご容赦を。それに、僕の意見と、福川氏の意見がまざりあっている。
実は、ART Photographyについての本を書くかもしれない。
なるべくやさしく書きたいと思っている。しかし美術用語は難解だ。観念的で、何回読んでも理解できないものがあるけど、がんばってやさしく書きたいと思っている。
何しろ30年以上写真にかかわっていながら、僕は現代アートのなかに写真が含まれていると思っているものの、アート=写真とは思っていなかったからだ。現代アートについてはなんら勉強をしていないので、とんちんかんな発言もあるかもしれない。「不勉強家」のぼくとしては、これからいろいろ勉強するつもりだけれど、ブログではそんな無知にもめげず、書いてゆこうと思っている。(きちんとした意見は、本ができたときに)
なぜ、ART Photographyに興味をもったかというと、自分のオリジナルプリントを売って見ようと思ったからだ。ネットに載っている僕の写真を、買いたいというひとから、価格はと聞かれたのがそもそものはじまりだ。
1985年、最初の写真展、当時、京王プラザの1Fにあった、ニコンサロン新宿で「Day by Day」を開催した。そのとき二人、プリントをほしいという人があり、売った。バラ板プリント、サイズは小全紙だった。一点10万で売った記憶がある。そのころ10万だったらニューヨークの写真ギャラリーでコンテンポラリーのかなりちゃんとしたものが買えたろう。
コンテンポラリー(現代)のArtPhotographyとは、何だろう。
それは、写真家がギャラリーと契約し、恒常的に作品をつくり、アート市場に供給するということだ。それはギャラリーを通して、作品が市場で公開売買されるということだ。だからアート市場に参加しなければ、作品としてどんなにすぐれていても、市場価値はない。
特にコンテンポラリー写真(現代の写真)は、オークションにしても、世界中のギャラリーネットワークに入っているからこそ価値があるといえる。だから自分で値段をつけて売ることは、あくまで個人的なものであり、本来意味がない。満足として買うだけで、いざ売る場合に相場はない。
アートフォト市場が常設される前の作品とは、当然扱いが違うといえるだろう。
ただ、アート市場に参入することと、その写真が芸術的に優れていることとはシンクロしていない。やはり売れ線というものがあり、前衛的であり、芸術的であるかどうかではない。
言い換えれば、どんなに新しい表現でも、アート市場に参加しなければ、市場価値は生まれないということになる。
写真に限らず、芸術は、前衛としての、特殊なもの、もしくはわかりやすく、大衆的なもの、芸術的とはいえないが、人気があり商売になるもの。いってみれば商業主義としてのアート、たとえば人気の、ヤマガタやラッセンがその範疇だろうか。それは別に悪いわけではない。ほとんどのポップミュージックはそういうものだし…まあそれでも、最初は前衛的だとしても、儲かるからといって、自己コピーを繰り返せば、単なる商業主義になるのかもしれない)
そして、中間的なもの。海外ではこの中間的なものが多いし、そこが一番エキサイティングだが、日本では美術も写真も、この中間的なものが極めて少ない。それは、ギャラリーを通して、市場に紹介されることが、少ないからだという。
1975年の秋、写真はARTとして定常的にオークションが始まった。
まだ、たった30年の歴史である。60年台になって、ニューヨーク近代美術館が写真を、現代アートとしていくたびも取り上げた結果、写真は美術作品としてとりあつかわれるようになった。
なかでも、1962年ニューヨーク、近代美術館、写真部門部長に就任したシャカースキーの尽力が大きい。1978年「鏡と窓」展を開催した。
窓とは、外をみる、現実を見ることであり、鏡は、自分自身の内面を見つめること。本来そんなに簡単ではないが、便宜上、二つに分けた。

福川がいうアート・フォトと写真は何が違うのか?
福川は、抽象的だが、コンテンポラリーなアート・フォトには「突き抜けた」ものが必要だという。主張のようなものだろうか。
写真はさまざまな見方ができる。自由だ。しかし作者はその写真がどういう風に見てもらうかを明確にする必要があるという。そこには鑑賞する側の自由ではなく、作者の主張がもりこまれていなければならない。特にコンテンポラリー・アートとはそういうものだ。
バブル前後に企業が多くの写真ギャラリーをOPENした。
海外の作品を買い付け、日本で売る。それなりにビジネスになったらしい。しかしバブル崩壊以降、ギャラリーはなくなった。どこも貸しギャラリーになってしまった。
そしてインターネット時代になり、ふたたび大きく変わった。なぜならば海外のギャラリーでの相場がガラス張りになったからだ。海外のアートの販売をするだけでは経営がなりたたなくなっている。少しもうまみがないのだ。
そこで、今写真のギャラリーは、自ら作家を売り出す必要が生まれている。日本の作家を扱い、日本で、海外で売り出すということだ。福川氏はそのことを今テーマにしている。
ところが、そうなると作家がほとんどいない状態だ。
だから現在は黎明期でもあると福川はいう。
よく、日本で受けないから、海外で売りたいというが、日本で受けないものが、海外だったら受けうるというのは幻想だと言う。
まず国内で受けるか重要だという。かつてと違い、価値が多様化して、簡単に正解は見つからないという。
今、目黒にこのギャラリーはあるが、インテリアストリートというこのあたりには、インテリアの一部として写真を購入する人が多いという。
雑談として、なぜか東京、名古屋、九州で写真は売れるそうだ。大阪はだめだという。
海外ではアメリカとイギリスが売れるという。ラテン系は収集癖がないのかもしれない。
大阪はラテンだと福川は笑った。
かつては海外の作品を手に入れるには、現地に行かなくては、ならなかった。
情報もなかった。しかし、今ではいく必要はない。インターネットで、世界中のアート情報を知ることができるからだ。
福川は今、ギャラリー経営のノウハウをワークショップで教えている。
そうして、日本発信の、アート・フォトに力を入れたいと語った。

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2005.05.05

Digital Photgraphs No.0001 Grain

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デジタル写真で何ができる?その3

デジタルで何ができる?その2はここをクリック
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その2の続き(その3)
さて、現時点、銀塩にはできて、デジタルではできないことを考えてみよう。
●まず当たり前のことだが、写真の歴史170年でつちかわれた、ほとんどのカメラが使用できない。エプソンのような、レンズを使えるモデルはわずかにあるが、カメラは使用できない。使うためには、銀塩のフィルムが必要なので、この件は、あたりまえのこととして、銀塩にしかできない。
●しかし、撮像体が、薄くフレキシブルなものができれば、フィルムを装てんするように、今までのカメラにデジタルフィルムとして使用可能になるかもしれない。
●現在フィルムには多くの種類がある。デジタルカメラはその特性を、活用できない。これも、フィルムを使うわけだから、当然のことだがデジタルでは、今のところ、Jpeg派のようにお仕着せの、少ないチョイスで満足するか、自己満足的に、自分の狭い美意識だけで、映像世界をつくることしかできない。単純にいえば、一番プリミティブなフィルム、TRI-Xの粒状性とか、フィルムを使用した満足感は、デジタルでは撮れない。
これもパソコンで、TRI-xの性能曲線を持った、アレンジソフトがでてくると、できあがった作品はTRI-Xで撮ったものと見分けがつかなくなるだろう。しかし、あくまでTRI-Xフィルムで撮ることとは、物語性としては、決定的に違う。
●なにより、フィルムを装てんして、撮影、現像、プリントするといった、これまでの写真の制作過程の、楽しみを味わうことができない。
こんなふうに、当たり前のことを書いたが、実はこのフィルムカメラの歴史を、これまでのさまざまな写真と、同じ土俵で、撮ることが、できないことが、一番の不満な点だ。
クルマで言えば、ガソリン自動車が、電気自動車になるようなものだろう。電気自動車には、フェラーリも、ポルシェも当然まだいない。長い、銀塩時代の、「天才や巨人」といった、尊敬したりあこがれたりする、いってみれば「写真の神様」みたいなものが、デジタルにはまだない。それは、デジタルカメラをつかった、天才や成功者(ビジネスだけではない)がいない。アートとして、時代観を、多くのデジタル写真家にインスパイヤーすることは、きっとまださきのことだろうし、はたして、銀塩時代を超える、作品ができるかは疑問だ。もっとも、時間が解決するかもしれないが。
●さて、デジタルにできないこと。それは、フォーマットの大きなものが難しいということだ。今のところ、APS-Cサイズから、35mmフルサイズ、4x4cmそしてそれより若干大きなものぐらいだ。技術的な進歩により、より大きなセンサーが可能だろう。しかしそこにある決定的な問題は、やはり経済学だ。
なにしろ、35mmフィルムと8x10のフィルムが実はほとんど同じ価格だということは知られていない。35mmフィルムを現像して、6コマずつ切、ライトテーブルに並べてみよう。するとちょうど、8x10フィルムと同じぐらいの大きさになる。端的にいえば、35mmフィルム1本分の値段と、8x10一枚分の値段は同じぐらいだ。現像代もほぼ等しい。それはなにを意味しているかといえば、35mmと8x10は、フィルムカメラとしては、その情報量に見合った価格は等価だということだ。フィルムばかりではない。35mmカメラと、木箱で作った8x10の値段に、レンズをつけたとしても、探せば、ほとんど同じ価格だ。それが「銀塩カメラ世界」の平等性だ。
現在デジタルが急速に、高性能、低価格が進んでも、それは一部の受光体サイズ、APS-Cサイズのことだが、それ以上大きくなると、格段に値段がかわってしまう。桁がかわる。しかも8x10サイズの受光体など、経済学を考えれば夢物語だろう。
現在、画像数競争が激しいが、それはあくまで解像度のことで、銀塩カメラの現代創世記には、議論されたことがあるが、解像度がよいからといって、そのカメラを使うのは、記録写真や、科学写真、商品写真といった、表現より写真の記録性を重視するカメラマンにしか有効ではない。それより、多くのカメラマンは、カメラやレンズの、微妙な描写の違いといった、高度な描写のことではなく、もっと比べれば素人でもわかる、カメラのフォーマットによる、写真世界の違いのほうが大きいと思う。同じものを撮っても、35mmと8x10ではまったく違う。それはできあがった作品を見ればわかる。解像度の問題ではない。このことが一番デジタルに克服がむずかしいかもしれない。

そして、なにより、デジタルにできないことは、心情的かもしれないが、写真の「ありがたみ」だ。銀塩写真の歴史と、その制作過程における、神秘性は、銀塩では「ありがたみ」としてしみこんでいる。
●そして、ART PHOTOGRAPHY市場」では、デジタルに市場価値は今のところ低い。デジタルプリントはかなり評価されてきているが、デジタルで撮ったものは、まだ評価されていない。そこには、まだデジタルカメラで撮った、いやデジタルでしか撮れない、作品、天才が住んでいないからだ。いってみれば、まだ「デジタルカメラ」の神様が存在していない状態。それは、これからのことで、そのうちあっていう作品が生まれてくるのかもしれない。きっとデジタルカメラでしか撮れないという、コンセプチャルな写真が、その突破口だろう。
●だからある意味、デジタルカメラで考えることはとても大切だ。新しい分野、モダンアート、コンテンポラリーアートの世界に、新たな地平線ができるかもしれない。今のところ、99%、表現という分野では銀塩が独占している。
●こうやって書いてみると、実はほとんどデジタルでできないことはない。超えられないのは、歴史のなさぐらいではないだろうか。新しい技術、例えば、またクルマの例だが、F1のマーケット、その世界は、電気自動車がいかに早くなっても、今のF1世界を超えることは不可能だろう。それは歴史の問題だ。
●といいながらも、フィルムは確実になくなってゆくだろう。それは経済学という、競争原理のなかで生産されるものだからだ。Tri-xと、現像、印画紙がほそぼそと、アーティストのために生産が続くかもしれない。そのほかの
銀塩フィルムは消滅する運命だろう。
デジタルと銀塩と書いているが、今の時代、銀塩で何ができるかではなく、やはりデジタルで何が表現できるかを考えることが、ARTのテーマになるかもしれない。

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2005.05.04

デジタル写真で何ができるの?その2

●デジタル写真は何ができるのか? その1
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昨年、写真評論家 飯沢耕太郎氏が、「デジグラフィ…デジタルは写真を殺すのか?」といったセンセーショナルな本を書いた。そのなかで書かれた、デジタル写真の分析について、僕はさほど驚くことはなかった。まだ言葉で明確にはできないが、デジタルと銀塩の違いは、いわれるほど写真家としては大きな差異を感じていないからだ。
唯一、芸術表現として、ART PHOTOGRAPHYとして考えてみると、はたしてデジタルは、それまでの写真に一撃をあたえているかどうか、いまのところ疑問だ。特にCGを使ったものに関しては、別にデジタル写真、デジタルカメラになったからではなく、それはあくまでパソコンの進歩であり、カメラが銀塩であろうが、デジタルであろうが、大して変わりはないと思う。そういう意味では、デジタルカメラよりPCの実用化、日常化のほうが世界を変えた。
デジタルについて、銀塩かデジタルかについての議論はあまり意味がないような気がする。
音楽はとっくにデジタル化されているわけだし、映画だって編集はおろか、デジタルで撮ることさえ日常になっている。CGがすごくなったから、どうだというのだろうか。だからといって、音楽の本質や、映画の本質が変わっただろうか。記録メディアが違っていても、音楽は音楽であり、映画は映画だし、写真は写真だからだ。
デジタルカメラ初期の議論で、フィルムの物質性、デジタルの非物質、電気信号でしかないといった議論があったが、フィルムだって本当に物質だろうかという問題もある。それは、レンズを通して、フィルムに光が当たり、感光性の銀に反応があったとしても、それはあくまで潜像であり、物質の存在として変化しているわけではない。
ある意味デジタルの受光体の電気的な反応と同じとも言える。フィルムは現像という科学反応をとおして、その光の反応を可視状態にするわけで、それがフィルムという物質に表出されるから、あたかもその写真が物質のように見えるわけだ。それはデジタルで撮ったものをプリントアウトすれば、その写真が物質化するのと何が違うのだろうか。銀塩で取ったものも、たとえばポジで撮ったものをみるとき、ライトテーブルでみるのと、スライド映写機にかけて投影したものの関係はどうなのだろう。映写した像は写真ではないのだろうか。
もともとポジフィルムは、印刷原稿のために始まったのではなく、もともとは映写するためのものだ。映画、幻灯機のながれだろう。
唯一違うといえば、フィルム写真は、カメラオブスキュラの投影された画像を、そのまま直接記録したものだし、デジタルはその画像を一度0と1に解体して、再構成しているということだろうか。いやそれにしても、受光素子のひとつひとつは、場所が決められ、銀塩と同じように、律儀にその光の粒を記録しているわけで、かわりはないような気がする。
銀塩とデジタルは、何が違うかといわれると、やはり明確に線を引くことができない。
今のところ、デジタル(カメラだけではなくパソコンを含める)になり、CG派アーティストにはかなり明確に、新しい試みをしている。しかしそれはデジタルカメラだからということではない。
今問題になっている、デジタルか銀塩かは、フィルムと使うか、デジタルカメラを使うかの議論が本質だと思う。
デジタルの、インターネット上の拡張性の便利さは、もちろん銀塩にはかなわない。しかしながら、現像とスキャニングが簡単だったら、デジタルとさしてスピードはかわらないだろう。
この世界は、すでに昔からテレビが日常的に行っていることで、特別写真だからと声だかにすることではない。
唯一、報道やスポーツの分野、伝達するということでは、テレビに負けない状態になっている。それは、テレビ放送は設備と機動性において、デジタルカメラ+パソコンの機動性にはかなわないからだ。そういう意味ではもちろんデジタルは銀塩をはるかに凌駕しているに違いない。だからこそ、スポーツ写真と報道の分野ではデジタルカメラの普及がかなり早かったといえる。
さて、芸術としての写真において、デジタルと銀塩はどうなのだろう。
本当に写真は、デジタルに殺されるのだろうか。
僕は、写真がではなく、「銀塩写真メーカーがデジタルに殺される」ということはできると思う。
何より、ネガカラーフィルムは、かつてアマチュアのものだったが、今やプロのほうが多く使っているのではないだろうか。アマチュアにとって、ネガカラーフィルムの存在意義は、風前の灯だろう。
実際、フィルムメーカーは最後の延命のために力が入っている。しかしその周辺の、モノクロ印画紙などは、いつ大手メーカーが市場から撤退するかわからない状態だ。かつてあれだけさかんだった、8mmフィルムはいまや世界の絶滅種になろうとしている。ほとんどの銀塩商品はある日劇的なスピードで消えてゆくだろう。
銀塩写真をつかった芸術家のためだけに銀塩フィルムが永遠に生産されることなどありえないだろう。
そこが一番心配でもある。まあ、35mm、ブロニーのTri-xさえ残れば、僕はさして失望はしないかもしれない。あと、印画紙だけでも細々とでもどこかが生産するだろうか。しかしそうだとしても、コストがかなり高いものになるだろう。
さて、飯沢氏のデジタルフォトグラフィ(デジグラフィ)の分析にひとつひとつの感想と独り言を書きたい。
デジグラフィの特徴に、まず、
1 
改変性があるという。パソコンで簡単に画像を可変できるという。
デジグラフィーを、飯沢氏は、銀塩からスキャニングしたものも含めているが、すでにそれでは、銀塩フィルムかデジタルカメラかの議論から離れている。
→画像の可変性は、別にデジタルカメラの問題ではなく、パソコン環境、PhotoShopのことで、銀塩フィルムで撮ろうが、デジタルで撮ろうがさして違いはない。これは写真とは関係ないことだ。スキャニングの手間がはぶけるって、そんなことで、写真の本質はかわらない。ある意味、タイムイズマネーとしての経済学の問題だろう。
2 
現認性、撮ってすぐに見ることができる。
→これも、ポラロイドというすぐに見える、フィルムがあったわけで、プロは当然のように湯水のようにポラを現認するために使っていた。ああこれでポラがいらなくなったと、やはり経済学として楽になった。百歩ゆずったとしても、たくさん撮ると、いちいち撮ったものの現認性なんてどうでもよくなる。ポラと同じように、テスト代わりに、最初のこまをチェックするだけだ。
3 
蓄積性 もデジタルに限らない。優秀なアシスタントがいれば問題ない。これもパソコンの問題で、銀塩写真もデジタル化すれば同じことだ。
4 
相互通信性 これが一番すごいのは、やはり携帯電話だろうか。今のようなカメラつき携帯ではなく、「携帯つきカメラ」がでればそうかもしれない。そうだとしても、デジタルカメラの本質ではない テレビではすでに放送がある。テレビや映画のストップモーションと、写真がどう違うのか。
5 消去性
物質として、簡単に消去することも、特別なこととは思えない。なぜなら一枚撮ってすぐに消去するならともかく、何百枚も撮ったあと、パソコンで選ぶ作業は、ポジフィルムをライトテーブルに並べて、選び不要なものを箱につめるか、裁断して捨てることとどう違うのだろうか。不要なものを捨てるは本質ではない。簡単に捨てられることは、便利という以外なんなのだろうか。

●そんなことより、デジタル写真はなんなのだろうか。銀塩時代の、神秘性、暗室作業の、まるで宗教儀式をしているような、怪しい行為。その部分がない、デジタルは、あからさまで、神秘性がない。現代アートでは、ART PHOTOGRAPYの分野で、まだデジタルカメラによる、メッセージは混沌としている。「なぜデジタルカメラか?」は「なぜ未だ銀塩写真か」と問われ、何の芸術的成果もない、デジタルに部が悪い。
僕は、現在デジタルが多いのは、デジタルが現代だからで、本来それだけで、コンテンポラリー芸術の資格があると思っている。しかし、それは決して、CGではない。デジタル写真でしか構築できない世界がぜったいにあると僕は踏んでいる。


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2005.05.03

デジタル写真で何ができる?その1

デジタル写真てなんだろう。
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EosKissDigital N 18mm-55mm
銀塩写真と比べて、デジタル写真特有のものは何なのだろう。ただの代替。フィルム不要で経済的だから撮るのだろうか。高感度でも撮れることが、デジタルの利点だろうか。写真が発明されてから、銀塩写真で作られた多くの作品。そのどれもがデジタルでも撮れるだろうか。いやまだまだ撮れないものが多い。それでは、デジタルで撮れて銀塩で撮れないもの。これぞデジタルとはあるのだろうか。ドットがでなければデジタルではないのではないか…。なんてアナクロの言い方、銀塩写真はリニアなメディアだ。デジタルはノンリニア。銀塩写真は、世界を規律をもった連続性のなかで再生する。デジタルは、一度、01に解体され、再構成される。
そこにどんな差があるのだろうか。一度01に解体されたものを、どのように再構成してもそこには、贖罪感がない。銀塩はどうだろう。なるべく手をつけない、ストレートさ、素直さ、原初さが大切にみえる。デジタル写真は、まるでゲームのように、あらかじめ誰かが計画した世界の再生だからだろうか。……。だったら自分がいくら手を入れても問題ないのかもしれない。それでも現実世界の視覚的な再現には違いない。
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アート・フォト オリジナルプリント売買その2

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アートフォトその2  
その1はここをクリック
思いつきで、オリジナルプリントの売買について、前回その1で書いた。いろいろ調べているうちに、以前東京代官山にあったBliz Internationalという写真ギャラリーのアートフォトというサイトにたどりついた。代官山のビルのなかにあったそのギャラリーは10年以上まえだろうか、OPENしたばかりのころ、知人に紹介されオーナーに会った。そこはこじんんまりとしていたが、いわゆるアメリカにあるような、洒落た写真ギャラリーで、海外の作家のオリジナルプリントを扱っていた。
当時僕は、ギャラリーで写真を売買することにまったく興味がなかった。自分の撮っている写真と、海外の著名なな作家の作品が、同じ土俵にあるとも思っていなかった。だから、そのギャラリーが、僕の事務所の隣にあっても、エレベーターに乗るのが面倒だったのか、その後、訪れることはなかった。
それが、思いつきのように、オリジナルプリントの売買について、考えているとき、ネットで調べたら、Blizのサイトにたどりついた。そこには、国際的なアートプリントの仕組みや値付け方法、理由が詳しく載っていたからだ。
20年ぐらいまえニューヨークに行ったとき、いくつかのアートフォトギャラリーを巡った。そこで写真が他のアート作品と同じように売買され多くの写真のコレクターがいることを知った。その売買の仕組みは、同じような複製芸術であるリトグラフのようなものだと理解していた。
Blizのサイトで、オークションガイドや、買い手ガイド売り手ガイドを読んでいていくつか疑問点があったので、直接電話することにした。
電話は、ギャラーのオーナーにつながった。僕は「横木と申しますが…」というと、オーナーは「横木安良夫さん?」と言う。彼は僕のことを覚えていたのだ。事務所の隣にあったギャラリーのサイトだとそのとき知った。今は目黒にあるという。一気に打解け、僕は疑問点をいろいろ聞いた。彼はさまざまな話をしてくれた。
そのなかで重要なことは、アートフォトビジネスは世界中のなかで、すでに仕組みができあがっているということだった。日本ではまだ一般的に広く認知されておらず、各ギャラリーがばらばらに写真を値づけして、販売しているのが現状だと言った。しかし本来アート・フォトの値段は、需要と供給のバランスで値段が決まるもので、かってに値段をつけるものではないという。僕のように、作家が自分で値段をつけるのは、よくないと言われた。それは個人的には問題ないとしても、そういう写真は国際的なアート・マーケットには参入できないからだ。写真を売るには、きちんとギャラリーと契約する必要があるとアドバイスされた。うーんそうか。僕はこの点について、Blizと直接あって話し合うことにした。
【閑話休題】
さて、前回に書いたことは、何もぼくの写真をアート・フォトとして売りたいというのが本意ではない。Blizにしても、そうやってきちんとした国際的なルールで写真の売買をしているけれど、海外であれだけ盛んなこのジャンルが、日本ではまったく認知されていないからだ。売る側も、コレクターもごくわずかだ。なにしろ30年以上も写真を撮っている、僕でさえ(もともと僕は不勉強家である)よく知らないのだ。一般の人が、写真を買うという発想さえないのではと思った。だから草の根運動として、誰もが写真をネットで売買するということをやってみてはどうかというのが僕の提案だ。Blogに自分の写真をアップして、値段をつけるのだ。僕の実験的なBlogサイトを参考にしてほしい。(この値づけは事情により削除するかもしれないが、当分はUPしておく)。価格はまずは、自分で決めればいい。通常のオークションサイトに参加するのもよいかもしれない。ジャンルは、「アート・フォト」でよいだろう。なにより、新人カメラマンやアマチュア写真家、アート・フォトに新たに挑戦する写真家も自分の撮った写真を売りたいと、宣言することが重要ではないのだろうか。特にアマチュアは単に自己満足的な趣味ではなく、アート・フォトとして多くの人に自分の作品をアピールすることはよいのではないか。第一段階として、売れなくてもよい。そういうジャンルがあることを多くの人に知ってもらうことが大切だからだ。
結論としては、そこからギャラリーがよいものをピックアップして、契約できたらよいと思っている。そんな仕組みを今考えている最中だ。
●アート・フォトサイト

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2005.05.01

なぜオーバランするのか?尼崎転覆事故

hanoilaokai

JR福知山線尼崎、転覆事故では、死者107名(まだこれから数ヶ月間で増えるだろうか)のかたがたが亡くなった。ご冥福をお祈りします。
飛行機のように、もしかしたらという覚悟の上ので利用する乗り物と違い、日々日常、まさか通勤電車があのような事故を起こすとは、電車移動という日常のなかに突然訪れた、修羅の世界。
かつて、車のシートベルトとエアバッグというものが、なかなか普及しない時代があった。
安全にお金をかけるという考え方に変わったのは、ごく最近のような気がする。義務化されれば普及するが、経済学だけではなかなか、安全にコストをかけることはできないのだろう。
なにしろ何もおきない安全な時間が、99、99…%で、スピードとスケジュールのなか、乗客も、惰眠、携帯、無防備状態だ。安全が侵されるのが、0.00…1%の非日常のために、コストをかけることは、よほど意識がない限り、難しいのだろう。しかしそれが、公共鉄道というものだろう。だからこそ、JR西の経営者の責任は重い。
 民営化されJRになり、利益優先となったことが今回の原因のように言われるが、私鉄だって利益を優先している。本来は利用者の利益とは安全とスピード正確性の調和だが、ある意味矛盾している点もある。とまっているのが一番安全なのは当然だが、それでは動くことを目的として交通機関の意味がなくなる。
JR西日本は、経営者側の利益を優先させた。それは事実だろう。
それを守るために、現場を引き締めた。経験者の採用を見合わせ、従順な若い運転手を促成した。国鉄時代のように、労働組合が強すぎるのも問題だが、管理者と現場の関係がまるで軍国主義のような、性根を正すだけの、ロボットをつくろうとしているかのような姿は異常だと思う。
この国にそういうやりかたを信じている、連中がいまだ存在していることに、しかもメジャーな企業のなかでおこなわれている恐ろしさを感じた。まるで宗教の洗脳か、某狂信的会社と同じではないか。
さて、転覆、激突事故から一週間がたった。今回の事故のポイントの一つに、前の駅のでのオーバーランが問題になっている。しかも過去にオーバーランしたことがあり、日勤教育という罰とみせしめも受けている。そのくせ、そんな未熟な運転手に600人もの人命をあずけるている現実。論調はJR西日本の管理、教育システムに目が向けられている。
なんだかんだいっても責任の一番は、運転手にあると思う。しかし彼も、やはり被害者なのだ。なぜ彼は冷静さを失い、追い詰められたのか。そしてハイスピードでコーナーに突っ込んだのか。
今日の新聞に、オーバーランは、恒常的に発生していると発表されていた。事故の影響で、運転手にプレッシャーがかかっていて、駅で止まれないのだと。それは違うだろう。統計なんて、いくらでもかいざんできる。よほどのオーバーランじゃなければ、報告されないだけだ。
しかし、これだけ多いと、単純に運転手の不注意なのか疑問になる。構造的な何かがあるのではないか。
電車を完全自動制御にすればよいのだろうか。しかし自動にしたら、現在のような、過密なダイヤは無理だろう。コンピューターは臨機応変には対応できないからだ。小さな事故、出発の遅れ、さまざまなことに、瞬時に対応するのが人間だからだ。
僕は、電車のオーバーランを今まで難度も経験している。子供のころ、国鉄時代にもあったような気がする。それは今に始まったことじゃない。停車したと思ったら、車内放送もなく、突然バックしたこともあった。今はホームで乗車ラインにぴたりととまるが、昔はよくずれていた。そんなの日常だったような気がする。
 電車はクルマと違い、総重量が違う。大型船の操縦ほどではないとしても、車重の軽いしかもコンクリートとゴムといった摩擦係数が高いクルマと違って、鉄と鉄という微妙な摩擦係数で成り立っている。鉄道は、クルマのように単純にとまることはできない。たぶん雪上のドライブよりももっと難しいのではないかと思える。しかもブレーキを作動して、効くまで1秒強の空白があるという。もっともゆっくり走っていれば、寝ながらでも可能なほどやさしいのものだろう。
電車はクルマと違い、運転は単調だ。Ontheレールといえば、やさしいという意味だ。高速道路で眠くなるように、慣れてくると、電車の運転は退屈すぎるのかもしれない。
その退屈な日常に唯一難度の高いのが止まることだ。たとえば乗客数によってもかわり、天気でかわり、温度る。
だからこそ、電車の運転手は、指作運転(たぶんそういう言いかただったと思うが)が必要なのだと、昔きいたことがあった。信号機などいちいち声を指をさす動作しているのを子供の時にみて、しかも独り言をいいうのがこっけいだった。きっと何もしないと眠くなってしまうのだろう。よりハイテクになると、やることがなくなり、さらに集中力がなくなる。そんな状態のなか、ミスをする。実際は小さなミスなんだろう。それでも電車は100m駅を過ぎてしまう。 そして遅れた時間を回復するため、フル加速、最大スピードを出し、コーナーの手前で減速する。それじゃまるでカーレースみたいだ。遅そんなふうにレースのような運転が日常繰り返されてるのだろうか。直線では120キロまで許されているという。それを減速して70キロまで落とす。かなりの急激な減速だ。退屈な運転が突然緊張の連続になる。そしてまた、小さなミスを犯す。タイミングがちょっと遅れ、ブレーキがきかない。ロックしてしまったのだろうか。雪上の急ブレーキと同じだろうか。ホームを100mオーバーすることとは違い、決定的なミス。それが今回の事故なのだろうか。
 この路線で、私鉄と競争するため、JR西日本が選んだのは、スピードだった。乗り継ぎのためにも、正確な運行が大切だった。短い乗り継ぎだと30秒というのもあるそうだ。それが、客のニーズだと、JR西日本の経営者は判断した。車両を軽量化して、スピードアップした。
 軽量化については、最近の漁船が転覆しやすいという話を聞いたことがある。今のプラスチックの漁船は昔の重い船からくらべると波に弱いらしい。そのかわりスピードが劇的にアップした。漁場に速くつける。まるで今回の事故に共通しているではないか。
 客のニーズ、本当に客は秒単位の正確な時間を望んでいるのだろうか。僕にしても、田園都市線から半蔵門線に入り、表参道駅で到着した瞬間、乗り換えホームの反対側に止まっている銀座線のドアが閉まると、なんて営業努力のない組織だと悪態をついたりする。すぐに2分後に次の電車がくるのにだ。
便利になった世の中。たとえば携帯電話のような利器。どのくらい仕事や待ち合わせ、が便利になった。
戦後、60年、日本は効率と生真面目さを武器に、世界で戦ってきた。それは日本の利点だったかもしれないが、海外にゆくと、時間がもっとゆったりと流れていて、驚くことがある。
僕の子供時代にはすでに、せかせかする日本だった。ベトナムに行き、ハノイから中国国境のラオカイに行くとき、直線では200キロぐらいしかないのに、10時間ぐらいかかる。なにしろ日本の狭軌より狭い、レール幅ジャスト1m。まるでサイクリングするぐらいの速度の蒸気機関車。速くても時速40キロ。のろのろのろのろのろ走る。結局、僕が乗った昼間の列車は何か特別なことがあったわけではないのに、予定より1時間遅れだった。だからってだれかが文句言う人はだれもいない。
 最近のベトナムはずいぶん早い時間が流れるようになっているが、それでものんびりと、すぎる時間は人間には大切なのかもしれない。
「スローライフ」といわれてかなりたった。「スローフード」も話題になったことがある。
今、そういうことを、もういちどよく考えてみる必要があるかもしれない。
そういう社会だったら今回のような事故は起きなかったろうか。スローライフとハイテクの両立。本当は人間的な生き方をするためにも、ハイテクが使われれば一番のいいのだけれど、そう信じていたかもしれないが…。
 どういう社会にするか、皆の意識の問題だとしても、本当に後戻りはできないのだろうか。いや後戻りではなく、発想の転換。なんでもかんでも便利な社会ばかりを目指すのではない生き方。それこそ、一枚の絵や、写真をじっくりながめることが、あなたはできますか?と聞かれ、もちろん素敵な写真を見るのが好きですよと答えられる、余裕。生活。…現代の日本人に突きつけられた、根源的な生き方。僕は、今回の事故で、そんなこを考えさせられた。

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なぜ、街でスナップ写真を撮る 盗み撮り その3

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●盗撮、盗み撮り、キャンデットフォト、スナップ その1 について!!

AYOPS NEWS こちらにも、この件について、書いてあります。

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