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June 2005の7件の記事

2005.06.29

グループ展 SummerSurfTales

7月5日から8月6日まで、目黒にあるギャラリーBlitzにて、「SummerSurfTales」というグループ展に写真をだしています。今僕がまとめている、1967年から2005年までの、「TeachYourChildren」というタイトルの写真から、1973年8月に撮影した、湘南、稲村ガ崎で撮ったサーファーとそのガールフレンドの写真、モノクロ4点を出展、販売しています。今回は、すべてライソンのペーパーを使った、デジタルプリントです。サイズは23.5x23.5、¥30000での販売です。また、この写真の一部は、アサヒカメラで紹介する予定です。また、1967-2005年の写真で、来年1月からやく一月、やはりギャラリーBlitzで、写真展を開催する予定です。お楽しみに。
surfer600inamura

1973年8月26日 神奈川県稲村ガ崎袖ヶ浦 (C)ALAO YOKOGI


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2005.06.26

デジタルカメラの粒状とノイズに関して長々と

「Grain」グレインと「Noise」ノイズについて。


前回のブログで、かつて銀塩で撮った写真をスキャンしたものを、デジタル上で、「Grain」(ノイズ)をつけたわけだが、もちろんノイズがないほうが良いように見えるだろう。ただ、粒子があるものと、そうでないものの写真のメッセージの違いを感じ取ってほしいと思っただけだ。ただ、ディスプレー上では、ある意味矛盾がある。なぜなら、デジスプレイーじたいに、ピクセルがあるので、それも小さくはない、そのドットと、写真の粒子の二つが存在しているので、純粋に写真の粒子感は、わかりにくいだろう。これはインクジェットなどで、紙にプリントすると、粒子があるかないかの違いがわかりやすい。

僕が、デジタルプリントをしている時に、いつも違和感を感じるのは、たとえば600万、800万画素カメラで撮影したとき、プリントするとその描写がどこか、好きじゃないからだ。たいていデジタル的とかたずけられる。
さて、どうしてなのだろうか、とずっと考えて、一つの結論に達した。
それは、僕が今のデジタルカメラAPSーcを銀塩35mmの代用、いやそれ以上のこととして求めているからだろう、それなのにプリントしたものが、35mmのかわりにはなっていないからだ。
これは、逆説的でもあり、デジタル写真の、画素競争からも必然かもしれないが、なにしろデジタル写真は、デジタル的なノイズを消すことの挑戦の歴史だから、35mm銀塩と同等になった瞬間、そこには何かが欠落していた。
銀塩35mmカメラとはなんだったのだろうか、とうことだ。
24x36のフォーマットが35mmということで、そのサイズが表現する世界とはなんだったのかということだ。

僕にとって、35mmフィルムカメラは、ブローニーのイージー版ではない。
もちろん4x5とか8x10とか比べるものでもない。35mmカメラでしか撮れないものがたくさんあるからだ。
それは、スポーツ写真とかの機動性のことではない。
静物を撮っても、風景を撮っても、大型カメラと35mmカメラは写り方が違う。

多くの人は、大型カメラで撮ると、35mmで撮るより情報量が多くなり、写真のグラデーションも豊富になるので、すぐれた写真になると思っているようだ。
しかし実際は、大型カメラの写り方は、「即物的」に写ることだ。感覚的な言い方でもうしわけないが、僕はそう思って、大型カメラを使用する。もっといえば、「存在感」が必要なときには、大型カメラを使う。人物を撮っても、その表情がどうかというより、その画面のなかに存在していればいいのだ。表情なんてあまりないほうがいいぐらいだ。

それからくらべると、35mmに求めているのは、一般的に言う、機動性は当然として、
写り方のスピード感だ。これまた感覚的表現でもうしわけないが、「存在感」より「空気感」や雰囲気が写る。
たとえばポートレイトを撮るとき、8x10カメラで撮ると、表情なんてどうでもよいような気がする。さっき書いたことだが、そのカメラの前にたち、克明に複写されただけでもう、なんでもいいような気がする。ちょっと醜く写っても、気のないように写っても、それはそれだなと。だから目線がきた、記念写真のようにとっても、それこそ現実にカメラのまえで起こったこととして、魅力がある。ところが、35mmで撮ったときには、表情はとても大切になる。記念写真のように撮ると、記念写真でしかない。

もともと僕は、カメラの基本がブロニーサイズだった。6x6、もしくは67サイズだ。
そのサイズが基本だったので、4x5のような大型カメラ、35mmのようなカメラに求めていることが当然違っていた。仕事上も、メインは6x7だった。35mmはサブとして、機動性、偶然性、雑な感じを求めていた。
僕にとって35mmは、スナップカメラだ。

やっと本題に入るが、CanonD30がでたとき、初めて僕はデジタルカメラに興味を持った。
2000年4月に大型デジタルパックをテストした以外、僕はコンパクトデジカメさえ興味を持っていなかった。
だから今でもコンパクトデジカメは使わない。なぜかあんまり興味がわかないのだ。いや、最近やっと興味がではじめているが。まあ、僕は世間とかなりずれているのかもしれない。

D30は、仕事で使ったことはほとんどない。2000年10月銀塩を撮り、そのときの記念写真、もしくは実験として撮っていただけだ。インクジェットでプリントしたとき、あんまり感じるものはなかった。まだ銀塩35mmの代わり、超えるものとの認識はなかった。なにより、多くの人が思ったように、そのサイズがかつてのハーフ版ぐらい、APS-Cであることに不満があった。この撮像素子を二つあわせて、600万画素にしてフルサイズにすればいいとおもったぐらいだ。フルサイズの技術的な、問題点のほとんどは、僕にはさほど興味があることではなかった。周辺光量が落ちる!いいじゃないかと。

それが2002年の春、D60ができたときに、驚愕した。ある意味、銀塩35mm以上の描写力があったからだ。
C-mos APS-Cの世界が、条件によっては、ブロニーフィルムで撮ったかのように写ることに本当に驚いた。それから僕はデジタルのとりこになった。

D60から、僕は銀塩35mmはいっさい撮らなくなった。新しいメディアとして夢中になった。
今から比べると起動や読み込みの遅さなど問題点もあったが、二台持つことで解決していた。
もともとRawで撮ることに興味がない、遅いのがいやなことと、いちいち現像することに意味を感じていない、いや、JpegFineで撮った写真のコーリティに十分満足していたので、Rawで撮る意味を感じなかった。それは、僕はこのデジタルカメラを、35mmの代用と考えていたせいだと思う。僕が35mmに求めることは、「省略」だからだ。大型カメラのような、情報量を求めていない。だったら、ブロニーや4x5を使えばよいからだ。

ところが問題が起きた。そのころ最大だったIBMのマイクロドライブ、1ギガを買ったものの、さてパソコンをどうするかというときに、そのときMacは、i-Macがでたばかりだった。
※(このへん、時期は記憶違い。IMBのパソコンウインドーズMEは、2000年10月に買っている)
マックにノートがない。僕はそれまで、高価なFXからはじまり、パワーマック、パワーブックを使用していた。FXは、200万ぐらいしたけど、それこそ何をしたかといっても、思い出せないぐらいだ。画像はほとんどあつかわなかった。値段が高くて、何もできなかったことにめげて、後半はパソコンから少し距離を持っていた。
あるとき映像環境がすっかり変わったことを知った。今じゃ高いけど、パワーマック30万、パワーブックも30万ぐらいだったと思う、35mmスキャナー、フラットベッドスキャナー、インクジェットプリンター、と一ぺんにデジタル環境を整えた。そして銀塩で撮ったかつての写真をスキャニングした。1996,7年だろうか。
1999年の「サイゴンの昼下がり」はそのときに見本としてプリントしたものを構成して、出版社に売り込んだ。結局文章を入れることになったのだが、写真のプレゼンテーションとして、デジタル時代になったことを喜んだ。

さてさて、またまた脱線したが、2000年春にリーフデジタルパックをテストして、デジタルの可能性をそのとき知ったが、まだ値段が350万するので、まだ先のことだと考えていた。
それが、D30、そしてD60になったとき、一気に僕はデジタルカメラで撮ることを考えた。ところがである、マック党だった僕の、パワーBookのハードディスクはななんと、1Gしかなかった。マイクロドライブ1Gの時代だ。新しいノートは40万以上それもたいしたことなかった。やっとi-Macがでて、大ヒットしたものの、ウインドーズなみのノートはまだ出ていなかった。そこで僕は初めて、ウインドウーズに興味を持った。
IBMシンクパット、ME、ハードディスク20G メモリー256、約25万円だった。CDRは、別付けだったが、それはもうマックから比べたら画期的なパソコンだった。
なにしろ、I-mac以前のMacはいつつぶれてもよい状態だったからだ。デザイナーのようにマックを使わざるを得ないひとはしかたがないとして、撮ったものを読み込む機械としては、IBMはそのとき、最高のパソコンだった。
ウインドーズを持って、ベトナムに行き、がんがん撮ってこまったことがあった。写真の閲覧ソフトの問題だ。取り込めることは問題ないが、Jpegで撮っても、そのセレクトには膨大な時間がかかる。
ところが、ベトナムの僕のコーディネーターでもある、Mr.チュンが、彼はウインドーズを使っていたが、僕がそんなことに格闘していたら、ACDSeeという、閲覧ソフトを終えしてくれた。うむうむ。ベトナムのほうが日本より進んでいる。もちろんそのACDSeeは、コピーものだ。なにしろベトナムは、98も2000も、Meもパソコンのシステム、ソフトともすべてコピー商品なのだが、そのACDSee英語版を使って驚いたことに、写真のセレクトにまったくのストレスを感じなかったからだ。

本当にACDSeeとであった瞬間、もう35mmフィルムは、僕のなかでいらなくなっていた。デジタルの最大の問題点が、写真のセレクトだったからだ。
東京に戻り、ACDSeeの日本版を買った。どうみてもアマチュア仕様、プロの使うものに思えなかった。しかしその性能はマックしか知らない人には想像がつかなかったろう。だから僕が、デザイナーにデジタル写真を大量にそれでも数百枚なのに選ぶのに一日かかったなどときくと、どうしてと思ったほどだ。

やっと本題に近づいたが、さて、デジタルプリントをいろいろするうち、D60で撮った写真を、1mx1m40ぐらいの大型プリントをしながら、iso1600のノイズを楽しんだり、デジタルの可能性をいろいろためしていたとき、間違えて、昼間なのにISO1600でポートレイトを撮ってしまったり、しているうちに、何かデジタルプリントに不満を感じ始めていた。デジタルは、原稿のリサイズさえうまくやれば、理論的には、どんな巨大なプリントもできるとしっても、普通にA4とかA3にプリントして、何かが気にいってなかった。
それは、デジタルの描写感についての不満だった。どんなにキャンデットにとっても、「ぬめっと」描写される。
ノーファインダーでカジュアルに撮っているのに、たとえば人間の皮膚感がブロニーサイズで撮ったみたいだからだ。
そのとき知ったのだ。デジタルには、ノイズはあっても、粒状感がない。
ふとそのとき、僕が35mmカメラに求めていることのなかに、粒状感とうものがあったことに気がついた。
特にモノクロ時代、トライXの粒状性。ピンボケ写真でも、粒子のエッジをきりっとプリントすると、ピントがあってなくても成立することを知った。
そして森山大道、エルスケンの、いわゆるアンセル・アダムスのファインプリントと対極のプリント。刺激、スピード感。それはどれの写真の粒子が際立っていた。そこには、省略があり、情報量の多さには背を向けた世界があった。
それこそ35mmの描く世界。絶対に大型カメラでは撮れない世界だ。プリントの目標は「ファインプリント」ばかりじゃない。そういえば、大好きな、ロバートフランクのビンテージプリントはファインプリントからは遠い世界だった。

僕がデジタル写真にも粒状性を!といったところ、デジタルが銀塩の真似をする必要があるのかと問われた。銀塩とデジタルは違うのだから。
僕にはその答えがある。どっちでもいいんだよそんなこと。デジタルも、銀塩も写真なのだから。

デジタルは銀塩と根本的に違うことは、一度0と1に解体されているということだ。銀塩のような、光学的な世界と、現像という科学的世界、そこには、この世界のなかの物理学と化学のリニアな整合がある。
ところが、デジタルは世界は一度、0と1になっている。
何がいいたいのかというと、デジタルカメラで撮った写真は、かつての写真、当然銀塩写真を参考して、技術者が再構成しているのだ。

だから、今のデジタルの質感、ノイズの問題にしろ、それは設計されたものだとうことだ。さも、銀塩写真のように。そしてそれは、ノイズとの戦いだったのだろう。
技術者はデジタルのノイズに対して、極悪な敵として考えていた。
ユーザーも、銀塩時代だったら、おお伸ばししたプリントに顔をこすりつけ、粒子があるなんって大騒ぎなんかしなかったっくせに、デジタルプリントになった瞬間、目を凝らして、それこそ目をくっつけて、ドットが見える、ギショクがある、諧調がデジタル的だと悪態をつく。そして安心したかのように、いや誇ったかのように、やはり銀塩とは違う。デジタルはまだまだだという。

そういう歴史なのか、デジタルカメラの画像の質感は、35mmフィルムではなく、一段上のブロニーのようであることを、喧伝する。ブロニーなみ、もうこれは4x5以上だと。
そしてもともとは35mmから始まったことなのに、35mmの描写感、メッセージを忘れている。35mmフィルムの粒状感は、ないほうが良いと思ったようだ。

デジタル写真は、描写さえ設計されたものだ。だから、解像度、明度、彩度、グラデーションばかりではなく、粒状感も、撮影者が選ばなくてはならない。
それは、粒状性0にするか、微粒子にするか、素粒子にするか。
それによって、イメージはがらりと変わる。
デジタル写真の粒状性は、銀塩の真似ではなく、かつての写真の引用なのだ。それは0と1に解体し、再構成するときの、技術者の忘れ物なのだ。

前回ブログのわかりにくい写真だが、実は粒子がないほうの写真にも実は、粒子を入れてある。
プリントしても、通常にプリントしても、粒子は見えない。
しかし、拡大すればわかる。そのメリットは、粒子を入れることにより、調子がそろうことだ。
たとえば、フォトショップのぼかしツールで顔をレタッチすると、したところと、していないところの質感が換わってしまう。そこがまた不自然だ。そこにごく弱く粒子を入れるときれいにそろう。
実はこのテクニックは、合成写真をする、デジタルラボの技術者たちは、ごく普通のこととしてやっている。

ところで、粒子、粒子 Grainと僕は言っているが、フォトショップでは、NOISEのことだ。
フォトショップ→フィルタ→ノイズを加える。プレビューにチェック、均等に分布にチェック→グレースケールノイズにチェックを入れる。%によってその世界が変わる。
画像を100%にして、ノイズをチェクするとよい。
次のフォトショップには、ノイズではなく、Grainの選択と書いてほしいと思っている。

通常のプリントにも試してみるとよいだろう。ノイズ1%でもプリントしてみると、何かが違うことがわかるだろう。この辺のテクニック、は、日本カメラ8月売り号できちんと紹介できると思う。



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2005.06.24

Grain 粒子 ノイズ?

hanatsubaki002

さて、二つの写真は、同じ写真だ。違うのは、粒状感だけ。どちらがよいとか、悪いとかではない。
印象がとても違うと思う。写真をクリックすると、大きくなる。このことについて、今度書くが、粒子のあるなしで、
イメージが違うことを感じてほしい。

hanatsubaki002g


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写真作品の見せ方 コンポジット

cover01
Sanfrancisco 

前回のブログでも紹介したが、最近僕がこっている、写真の見せ方を公開する。
写真を見せる場合、印画紙やインクジェットのプリントをファイルに入れるなり、もしくは一枚ずつ見せるやりかたが普通だろう。製本できればいいなと思うが、なかなか製本するのも安くはないし、時間もかかる。
インクジェットプリントのよいところは、印画紙と違って、指紋がつきづらいところだ。だから、本と同じように直接さわることもできる。僕は、自分の作品をまとめるとき、今、キンコーズのリング製本に凝っている。安価だし、つくりなおすこともできる。
さて、このBookは、デジタル写真ばかりをあつめたものだ。この2年ぐらいの間に撮ったものだ。タイトルは
「Grainy」,まあ、粒状感といったところだろうか。以前にも書いたが、写真には粒子がとても大切だというテーマだ。
このなかには、タレントの写真なども入っているが、ここでは、「デジで本」で撮った、岡本奈月ちゃんの写真だけを紹介する。そのほか、神戸の高校生、アメリカに住む16歳の少女、それと、スピードがテーマの写真。カメラはどれも、D60,KISSD,20Dの写真ばかりだ。プリンターは、Canonの9100i,ペーパーは僕の好きな、エプソンのフォトマットだ。そのほかコクヨの両面マットも使っている。縦位置のBookなので、見開き写真を分割して、レイアウトしてみた。こんな風に自分の撮ったものを、ファイルではなく、Bookにすると、写真が多くの人に見せられるし、作品にもなる。
bench2821
Bench
natsuki2823
Natsuki Okamoto

bureshibakouen2826
ShibaPark

kobegirl_2829
Kobe girl

leona_2831
a girl in usa

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2005.06.22

写真 Teach Your Children

クロスビー・スティルス・ナッシュ、アンドヤングのDejavuというアルバム。これは、1970年ごろに買ったLPレコードだ。歌詞カードはついていなかった。
dejavu

Teach Your Children
( Crosby, Stills and Nash )

You, who are on the road, 
Must have a code that you can live by.
And so, become yourself,
Because the past is just a good bye.
Teach your children well,
Their father's hell did slowly go by.
And feed them on your dreams,
The one they picks, the one you'll know by.

Don't you ever ask them why, if they told you, you will cry,
So just look at them and sigh and know they love you.

And you, of tender years,
Can't know the fears that your elders grew by.
And so please help them with your youth,
They seek the truth before they can die.
Teach your parents well,
Their children's hell will slowly go by.
And feed them on your dreams,
The one they picks, the one you'll know by.

Don't you ever ask them why, if they told you, you will cry,
So just look at them and sigh and know they love you.......

こんなふうに、サイトの歌詞を載せることは本来、著作権法違反だ。しかし、前回のブログで書いたが、
今売られている、CDについた、歌詞カーどが間違いだらけなので、それを批評する意味で引用している。
実際は、このような場合、出版著作を管理する、ソニーミュージックに届け、アーティスト本国の許可が必要だ。
そのうえで、ジャスラックに使用料を払わなくてはならない。
また、この歌詞を訳詞するばあいにも、日本語訳したものを、英訳してアーティスト本国に許可がいるという。
ただ、かなり創作的な違訳の場合は、届けなくてもよいらしい。

今まとめている作品。
タイトルは、以前、「世代の子供たち」だったが、あんまりしゃれていないので、思案していたら、
TeachYourChildrenを思いついた。詩の意味もばっちりだった

photobookteac
この写真帳は、僕が写真を始めた、1967年から2005年までの、若者を撮ったシリーズだ。インクジェットプリントの
ポートフォリオ、作品集だ。厚さが3センチもある。
このリング製本に最近こっている。なにしろ、安い。24時間営業の、キンコーズで、たったの350円。ビニールの表紙をつけても、550円だ。とても美しく仕上がる。
この写真集は、主に60年代後半から、70年代後半、そして80年代後半から今までがまとめてある。約120枚の写真が入っている。これはモノクロの部分はどれもが、かつてプリントしたものを、スキャニングして、デジタルプリントにしている。この67年から1985年ぐらいのモノクロ写真を今度まとめてみようと思っている。

今、発売されたばかりの、日本カメラ別冊、EosKissDNで、僕が写真の撮り方の紹介をしている。ごらんあれ。


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2005.06.19

Teach Your Children

今、まとめている作品、それも1967年から2005年までの、いわゆる若者たちの写真のタイトルをあれやこれやと思案していたら、70年ごろの、フォークロックの名作、クロスビー、スティルス、ナッシュ、アンド、ヤングの「Teach Your Children」を思い出した。CSNYは、僕の大好きなバンドだった。カントリーロックとでもいうのだろうか、エレキギターではなく、アコスティクなサウンドのバンドだ。来日した二ール・ヤングのコンサートにもでかけたことがある。たぶん、アサヒカメラでその一部を紹介することになると思うが、タイトルをどうすればよいのか、なやんでいた。世代がテーマだったからだ。うちにはまだLPレコードが200枚ぐらい残っている。ソニーの最終形のレコードプレーヤーもある。たしかDeJavuというアルバムだったと、探した。濃い紫色のジャケット、そこに古ぼけた西部開拓時代のような服をきた、彼ら。早速かけてみた。これだと思った。
ベトナム戦争、ヒッピー、ドラッグ、ロック。若者は大人を信じないと叫んだ。大人が作り上げた文化をなにからなにまで、否定した。そんな時代だった。そんなとき、この曲は、親と子、断絶した世代の、和解の曲として印象深かった。特別やさしい曲だった。
昔のレコードには、輸入版には歌詞カードがついていないものが多かったが、僕の持っているジャケットは、日本版だったが、歌詞カードがなかった。
その歌詞だが、ウエッブ上で調べることができた。
書いてある内容は、僕が望んでいるもだった。
ところが、CD版を買って驚いた。
歌詞が違うのだ。それも決定的な部分の。
日本語訳の間違いはよくあることだけれど、
英語の歌詞が違うのはどうしてだろう。
そして、なん回聞いても、やはり、以前聞いたことのある、歌詞が正しいように思える。
いったい、CD版の歌詞はなんなのだろう。

Teach Your Children
( Crosby, Stills and Nash )

You, who are on the road, 
Must have a code that you can live by.
And so, become yourself,
Because the past is just a good bye.
Teach your children well,
Their father's hell did slowly go by.
And feed them on your dreams,
The one they picks, the one you'll know by.

Don't you ever ask them why, if they told you, you will cry,
So just look at them and sigh and know they love you.

And you, of tender years,
Can't know the fears that your elders grew by.
And so please help them with your youth,
They seek the truth before they can die.
Teach your parents well,
Their children's hell will slowly go by.
And feed them on your dreams,
The one they picks, the one you'll know by.

Don't you ever ask them why, if they told you, you will cry,
So just look at them and sigh and know they love you.......

Teach Your Children
( Crosby, Stills and Nash ) CD最新歌詞カード

You, you are on your own
Must have a code that you can live by.
And so, become yourself,
Because the past is just a good bye.
Teach your children well,
Their father's health did slowly go by.
And feed them on your dreams,
The one they picks, the one you'll know by.

Don't you ever ask them why, if they told you, you would die
So just look at them and sigh and know they love you.

And you, of tender years,
Can't know the fears that your elders grew by.
And so please help them with your youth,
They seek the truth before they can die.
Teach your parents well,
Their children's health will slowly go by.
And feed them on your dreams,
The one they picks, the one you'll know by.

Don't you ever ask them why, if they told you, you would cry,
So just look at them and sigh and know they love you.......

health と hell じゃ、健康と地獄 まるで違っている!
とうぜん、CD版を僕は、間違いだと思うが。


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2005.06.04

ピーピング、盗撮、盗み撮り、キャンデットフォト、スナップ写真

もう一度、盗み撮りについて、僕の意見を書きます。町を歩いている人を、断り無く撮ることは、犯罪でしょうか。犯罪ともいえるし、犯罪ではないともいえる。いわゆる、覗き写真のように、故意に下着を覗いたり、プライバシーの確保された場所での覗き写真、トイレとか密室など、または、超望遠レンズを使って、プライバシーを覗き見ること、それらは当然犯罪でしょう。
それにしても、パパラッチが狙う、プライベートビーチで裸になっている有名人の写真は犯罪かといえば微妙なところでしょう。なにしろいくらプライベートでも、望遠レンズがあると知っている時代遠くから覗かれることは、海岸ならば予知可能だからです。露天温泉を遠くから望遠で狙うこととは少し違うような気がします。
僕は単純に、公の場所で、日常的なアングルから撮ることは、盗撮だとは思ってません。スナップ写真という、写真のジャンルです。
いちいちひとに断って写真を撮っていたら、それはポートレイト写真になってしまいます。それでは撮る側と撮られる側の関係が写ってしまうからです。
公衆の面前で、わからないように黙って撮る写真が、決して自然だといっているわけではありません。
ポートレイトのように、撮影者との了解のもとでは、被写体は、撮影者にたいしてある種の演技をします。
公衆の面前では、たとえ写真を撮られなくとも、他人の視線を感じているはずで、ある意味バリアーを張っている表情をしています。
原宿を歩く人と、渋谷のセンター街や、歌舞伎町を歩く人の表情は違うものです。お祭りのようなイベントのときや、夏の海水浴場でも、それぞれ皆仮面をつけて、ある意味演技をしています。
公衆だとしても、銭湯を覗けば、犯罪です。でも、海岸の水着の写真は犯罪とはいえないでしょう。でも、望遠で股間ばかり狙うやからもいることは、事実です。
話はもどりますが、スナップ写真は、自然さを写しているわけではなく、その人が公衆の面前でどのようなバリアー、仮面をつけているかが写ります。
彼らの言い分は、写真を撮られる心の用意ができていない、写真用のバリアーは張ってないから、勝手に撮るなという論理です。だから黙って撮って、相手に文句を言われるのはしょうがないでしょう。それは撮られたくないとい側の当然の反応です。
だからそういう写真は、当然コマーシャリズムのなかでは、使用できません。
撮ることを正当性を(主張できるの)が、芸術とジャーナリズムです。黙って撮られた人が、告発することも可能です。
しかし撮る側も、表現の自由をたてに戦う権利があります。ただ、そこには、名誉毀損という、悪意を持った写真については、撮影者に分が悪いかもしれません。人物をスナップするひとは、ある意味法律のすれすれの行為をしていることを自覚する必要があります。なんでもかんでも撮っていいわけじゃないのです。
話は飛びますが、法律は時代とともに、生きています。その境界線上にあるのが、日本では変な法律であやふやになっているけれど、なんでもできるのが、ポルノと芸術とジャーナリズムでしょう。
現在のような、インターネットのポルノサイト(AVではなく、完全にポルノ(無修正で性行為をしていること)が、蔓延している現状は、今までのルールが大きく変わってきているようです。
欧米では、いくつかの国が、完全にポルノを認めてきた歴史があります。ポルノは、日本のように猥褻物陳列罪、とかのファジーではなく、TPOというか、ある場所で認められていたのです。
それは、ポルノがみたければ、ポルノショップに行けば、合法だからです。
ところが日本はそんな場所はありません。黙認はされていても、ポルノは絶対に非合法です。何しろ、美術館のなかにさえ、官憲は踏み込みこんだことがあるくらいです。
昭和33年以前に日本は、売春は公然としていました。場所を決めて合法だったのです。非合法の売春も当時からありましたが。ところが現在ではあらゆる売春は非合法です。
それと同じように、ポルノはどんな場面でも非合法です。しかし、不思議なことに、日本では、テレビでも雑誌でも、ポルノまがいのものは、おおめに見られています。たとえ性行為の場面だとしても、ボカシが入ればOKという不思議な国です。アニメやコミックでは、世界中ポルノショップでしかみられないような、ものが公然と売られています。日本ではポルノもぼかしをいれればOKらしいのです。
さて、ポルノの話をしているのじゃありませんね。表現の自由、というか、報道の自由は、個人の尊厳、プライバシーは相反するものです。民主主義社会では、そんなふうに、矛盾した二つの命題が常に存在しています。それを調整するのが裁判所なのかもしれません。それは絶対的なものではなく、時代や場面、個々の事例といったことが加味される、相対的なものでしょう。
だらだらと論旨のめちゃくちゃな文章ですが、まあいいことにしてください。さて、さて。
町で黙って写真を撮っちゃいけない。認めない。そういう意見があることを、自覚して、スナップをするしかありません。その結果、被写体に告発されたり、殴られても、いやいや、殴られたら傷害罪で、違う展開になりますね、訴えられても、受けてたつ、その正当性を主張できなければ、平和主義者になり、被写体が望む仮面をとることに徹することです。間違っても、アングルを、下げすぎたり、エスカレーターを下から覗いたりせず、勇気を持って、節度を持って、社会をクリティックしているのだと思いながら、シャッターを切ることです。これは表現の自由を主張することだからです。

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