デジタルカメラの粒状とノイズに関して長々と
「Grain」グレインと「Noise」ノイズについて。
前回のブログで、かつて銀塩で撮った写真をスキャンしたものを、デジタル上で、「Grain」(ノイズ)をつけたわけだが、もちろんノイズがないほうが良いように見えるだろう。ただ、粒子があるものと、そうでないものの写真のメッセージの違いを感じ取ってほしいと思っただけだ。ただ、ディスプレー上では、ある意味矛盾がある。なぜなら、デジスプレイーじたいに、ピクセルがあるので、それも小さくはない、そのドットと、写真の粒子の二つが存在しているので、純粋に写真の粒子感は、わかりにくいだろう。これはインクジェットなどで、紙にプリントすると、粒子があるかないかの違いがわかりやすい。
僕が、デジタルプリントをしている時に、いつも違和感を感じるのは、たとえば600万、800万画素カメラで撮影したとき、プリントするとその描写がどこか、好きじゃないからだ。たいていデジタル的とかたずけられる。
さて、どうしてなのだろうか、とずっと考えて、一つの結論に達した。
それは、僕が今のデジタルカメラAPSーcを銀塩35mmの代用、いやそれ以上のこととして求めているからだろう、それなのにプリントしたものが、35mmのかわりにはなっていないからだ。
これは、逆説的でもあり、デジタル写真の、画素競争からも必然かもしれないが、なにしろデジタル写真は、デジタル的なノイズを消すことの挑戦の歴史だから、35mm銀塩と同等になった瞬間、そこには何かが欠落していた。
銀塩35mmカメラとはなんだったのだろうか、とうことだ。
24x36のフォーマットが35mmということで、そのサイズが表現する世界とはなんだったのかということだ。
僕にとって、35mmフィルムカメラは、ブローニーのイージー版ではない。
もちろん4x5とか8x10とか比べるものでもない。35mmカメラでしか撮れないものがたくさんあるからだ。
それは、スポーツ写真とかの機動性のことではない。
静物を撮っても、風景を撮っても、大型カメラと35mmカメラは写り方が違う。
多くの人は、大型カメラで撮ると、35mmで撮るより情報量が多くなり、写真のグラデーションも豊富になるので、すぐれた写真になると思っているようだ。
しかし実際は、大型カメラの写り方は、「即物的」に写ることだ。感覚的な言い方でもうしわけないが、僕はそう思って、大型カメラを使用する。もっといえば、「存在感」が必要なときには、大型カメラを使う。人物を撮っても、その表情がどうかというより、その画面のなかに存在していればいいのだ。表情なんてあまりないほうがいいぐらいだ。
それからくらべると、35mmに求めているのは、一般的に言う、機動性は当然として、
写り方のスピード感だ。これまた感覚的表現でもうしわけないが、「存在感」より「空気感」や雰囲気が写る。
たとえばポートレイトを撮るとき、8x10カメラで撮ると、表情なんてどうでもよいような気がする。さっき書いたことだが、そのカメラの前にたち、克明に複写されただけでもう、なんでもいいような気がする。ちょっと醜く写っても、気のないように写っても、それはそれだなと。だから目線がきた、記念写真のようにとっても、それこそ現実にカメラのまえで起こったこととして、魅力がある。ところが、35mmで撮ったときには、表情はとても大切になる。記念写真のように撮ると、記念写真でしかない。
もともと僕は、カメラの基本がブロニーサイズだった。6x6、もしくは67サイズだ。
そのサイズが基本だったので、4x5のような大型カメラ、35mmのようなカメラに求めていることが当然違っていた。仕事上も、メインは6x7だった。35mmはサブとして、機動性、偶然性、雑な感じを求めていた。
僕にとって35mmは、スナップカメラだ。
やっと本題に入るが、CanonD30がでたとき、初めて僕はデジタルカメラに興味を持った。
2000年4月に大型デジタルパックをテストした以外、僕はコンパクトデジカメさえ興味を持っていなかった。
だから今でもコンパクトデジカメは使わない。なぜかあんまり興味がわかないのだ。いや、最近やっと興味がではじめているが。まあ、僕は世間とかなりずれているのかもしれない。
D30は、仕事で使ったことはほとんどない。2000年10月銀塩を撮り、そのときの記念写真、もしくは実験として撮っていただけだ。インクジェットでプリントしたとき、あんまり感じるものはなかった。まだ銀塩35mmの代わり、超えるものとの認識はなかった。なにより、多くの人が思ったように、そのサイズがかつてのハーフ版ぐらい、APS-Cであることに不満があった。この撮像素子を二つあわせて、600万画素にしてフルサイズにすればいいとおもったぐらいだ。フルサイズの技術的な、問題点のほとんどは、僕にはさほど興味があることではなかった。周辺光量が落ちる!いいじゃないかと。
それが2002年の春、D60ができたときに、驚愕した。ある意味、銀塩35mm以上の描写力があったからだ。
C-mos APS-Cの世界が、条件によっては、ブロニーフィルムで撮ったかのように写ることに本当に驚いた。それから僕はデジタルのとりこになった。
D60から、僕は銀塩35mmはいっさい撮らなくなった。新しいメディアとして夢中になった。
今から比べると起動や読み込みの遅さなど問題点もあったが、二台持つことで解決していた。
もともとRawで撮ることに興味がない、遅いのがいやなことと、いちいち現像することに意味を感じていない、いや、JpegFineで撮った写真のコーリティに十分満足していたので、Rawで撮る意味を感じなかった。それは、僕はこのデジタルカメラを、35mmの代用と考えていたせいだと思う。僕が35mmに求めることは、「省略」だからだ。大型カメラのような、情報量を求めていない。だったら、ブロニーや4x5を使えばよいからだ。
ところが問題が起きた。そのころ最大だったIBMのマイクロドライブ、1ギガを買ったものの、さてパソコンをどうするかというときに、そのときMacは、i-Macがでたばかりだった。
※(このへん、時期は記憶違い。IMBのパソコンウインドーズMEは、2000年10月に買っている)
マックにノートがない。僕はそれまで、高価なFXからはじまり、パワーマック、パワーブックを使用していた。FXは、200万ぐらいしたけど、それこそ何をしたかといっても、思い出せないぐらいだ。画像はほとんどあつかわなかった。値段が高くて、何もできなかったことにめげて、後半はパソコンから少し距離を持っていた。
あるとき映像環境がすっかり変わったことを知った。今じゃ高いけど、パワーマック30万、パワーブックも30万ぐらいだったと思う、35mmスキャナー、フラットベッドスキャナー、インクジェットプリンター、と一ぺんにデジタル環境を整えた。そして銀塩で撮ったかつての写真をスキャニングした。1996,7年だろうか。
1999年の「サイゴンの昼下がり」はそのときに見本としてプリントしたものを構成して、出版社に売り込んだ。結局文章を入れることになったのだが、写真のプレゼンテーションとして、デジタル時代になったことを喜んだ。
さてさて、またまた脱線したが、2000年春にリーフデジタルパックをテストして、デジタルの可能性をそのとき知ったが、まだ値段が350万するので、まだ先のことだと考えていた。
それが、D30、そしてD60になったとき、一気に僕はデジタルカメラで撮ることを考えた。ところがである、マック党だった僕の、パワーBookのハードディスクはななんと、1Gしかなかった。マイクロドライブ1Gの時代だ。新しいノートは40万以上それもたいしたことなかった。やっとi-Macがでて、大ヒットしたものの、ウインドーズなみのノートはまだ出ていなかった。そこで僕は初めて、ウインドウーズに興味を持った。
IBMシンクパット、ME、ハードディスク20G メモリー256、約25万円だった。CDRは、別付けだったが、それはもうマックから比べたら画期的なパソコンだった。
なにしろ、I-mac以前のMacはいつつぶれてもよい状態だったからだ。デザイナーのようにマックを使わざるを得ないひとはしかたがないとして、撮ったものを読み込む機械としては、IBMはそのとき、最高のパソコンだった。
ウインドーズを持って、ベトナムに行き、がんがん撮ってこまったことがあった。写真の閲覧ソフトの問題だ。取り込めることは問題ないが、Jpegで撮っても、そのセレクトには膨大な時間がかかる。
ところが、ベトナムの僕のコーディネーターでもある、Mr.チュンが、彼はウインドーズを使っていたが、僕がそんなことに格闘していたら、ACDSeeという、閲覧ソフトを終えしてくれた。うむうむ。ベトナムのほうが日本より進んでいる。もちろんそのACDSeeは、コピーものだ。なにしろベトナムは、98も2000も、Meもパソコンのシステム、ソフトともすべてコピー商品なのだが、そのACDSee英語版を使って驚いたことに、写真のセレクトにまったくのストレスを感じなかったからだ。
本当にACDSeeとであった瞬間、もう35mmフィルムは、僕のなかでいらなくなっていた。デジタルの最大の問題点が、写真のセレクトだったからだ。
東京に戻り、ACDSeeの日本版を買った。どうみてもアマチュア仕様、プロの使うものに思えなかった。しかしその性能はマックしか知らない人には想像がつかなかったろう。だから僕が、デザイナーにデジタル写真を大量にそれでも数百枚なのに選ぶのに一日かかったなどときくと、どうしてと思ったほどだ。
やっと本題に近づいたが、さて、デジタルプリントをいろいろするうち、D60で撮った写真を、1mx1m40ぐらいの大型プリントをしながら、iso1600のノイズを楽しんだり、デジタルの可能性をいろいろためしていたとき、間違えて、昼間なのにISO1600でポートレイトを撮ってしまったり、しているうちに、何かデジタルプリントに不満を感じ始めていた。デジタルは、原稿のリサイズさえうまくやれば、理論的には、どんな巨大なプリントもできるとしっても、普通にA4とかA3にプリントして、何かが気にいってなかった。
それは、デジタルの描写感についての不満だった。どんなにキャンデットにとっても、「ぬめっと」描写される。
ノーファインダーでカジュアルに撮っているのに、たとえば人間の皮膚感がブロニーサイズで撮ったみたいだからだ。
そのとき知ったのだ。デジタルには、ノイズはあっても、粒状感がない。
ふとそのとき、僕が35mmカメラに求めていることのなかに、粒状感とうものがあったことに気がついた。
特にモノクロ時代、トライXの粒状性。ピンボケ写真でも、粒子のエッジをきりっとプリントすると、ピントがあってなくても成立することを知った。
そして森山大道、エルスケンの、いわゆるアンセル・アダムスのファインプリントと対極のプリント。刺激、スピード感。それはどれの写真の粒子が際立っていた。そこには、省略があり、情報量の多さには背を向けた世界があった。
それこそ35mmの描く世界。絶対に大型カメラでは撮れない世界だ。プリントの目標は「ファインプリント」ばかりじゃない。そういえば、大好きな、ロバートフランクのビンテージプリントはファインプリントからは遠い世界だった。
僕がデジタル写真にも粒状性を!といったところ、デジタルが銀塩の真似をする必要があるのかと問われた。銀塩とデジタルは違うのだから。
僕にはその答えがある。どっちでもいいんだよそんなこと。デジタルも、銀塩も写真なのだから。
デジタルは銀塩と根本的に違うことは、一度0と1に解体されているということだ。銀塩のような、光学的な世界と、現像という科学的世界、そこには、この世界のなかの物理学と化学のリニアな整合がある。
ところが、デジタルは世界は一度、0と1になっている。
何がいいたいのかというと、デジタルカメラで撮った写真は、かつての写真、当然銀塩写真を参考して、技術者が再構成しているのだ。
だから、今のデジタルの質感、ノイズの問題にしろ、それは設計されたものだとうことだ。さも、銀塩写真のように。そしてそれは、ノイズとの戦いだったのだろう。
技術者はデジタルのノイズに対して、極悪な敵として考えていた。
ユーザーも、銀塩時代だったら、おお伸ばししたプリントに顔をこすりつけ、粒子があるなんって大騒ぎなんかしなかったっくせに、デジタルプリントになった瞬間、目を凝らして、それこそ目をくっつけて、ドットが見える、ギショクがある、諧調がデジタル的だと悪態をつく。そして安心したかのように、いや誇ったかのように、やはり銀塩とは違う。デジタルはまだまだだという。
そういう歴史なのか、デジタルカメラの画像の質感は、35mmフィルムではなく、一段上のブロニーのようであることを、喧伝する。ブロニーなみ、もうこれは4x5以上だと。
そしてもともとは35mmから始まったことなのに、35mmの描写感、メッセージを忘れている。35mmフィルムの粒状感は、ないほうが良いと思ったようだ。
デジタル写真は、描写さえ設計されたものだ。だから、解像度、明度、彩度、グラデーションばかりではなく、粒状感も、撮影者が選ばなくてはならない。
それは、粒状性0にするか、微粒子にするか、素粒子にするか。
それによって、イメージはがらりと変わる。
デジタル写真の粒状性は、銀塩の真似ではなく、かつての写真の引用なのだ。それは0と1に解体し、再構成するときの、技術者の忘れ物なのだ。
前回ブログのわかりにくい写真だが、実は粒子がないほうの写真にも実は、粒子を入れてある。
プリントしても、通常にプリントしても、粒子は見えない。
しかし、拡大すればわかる。そのメリットは、粒子を入れることにより、調子がそろうことだ。
たとえば、フォトショップのぼかしツールで顔をレタッチすると、したところと、していないところの質感が換わってしまう。そこがまた不自然だ。そこにごく弱く粒子を入れるときれいにそろう。
実はこのテクニックは、合成写真をする、デジタルラボの技術者たちは、ごく普通のこととしてやっている。
ところで、粒子、粒子 Grainと僕は言っているが、フォトショップでは、NOISEのことだ。
フォトショップ→フィルタ→ノイズを加える。プレビューにチェック、均等に分布にチェック→グレースケールノイズにチェックを入れる。%によってその世界が変わる。
画像を100%にして、ノイズをチェクするとよい。
次のフォトショップには、ノイズではなく、Grainの選択と書いてほしいと思っている。
通常のプリントにも試してみるとよいだろう。ノイズ1%でもプリントしてみると、何かが違うことがわかるだろう。この辺のテクニック、は、日本カメラ8月売り号できちんと紹介できると思う。
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Comments
> カラーは、理論的にはCMYもしくはRGBの三色ですべての色の再現ができることになっています。
そのレベルの話でもギャザというのでしょうか。
でも、僕が言いたいのは、少し違います。
ベイヤー配列から、RGB画像に変換するときや、
印刷用にカラースペースを変換する場合などには、
少ない色深度では、元の色がその位置に収まらないので、
同じ解像度では、色が曖昧になってしまいます。
酷い場合は、バンディングを起こします。
しかし、大判プリントの場合、
ピクセル数だけは、稼げるので、
そこにギャザのノイズを掛ける事で、
色彩(主にグラデーション)を豊かに見せることが出来る。
RAW現像では、バンディング抑制と、
言われている機能のことです。
このノイズを掛けることでけっこう銀塩っぽくなります。
今の時点でこの機能が、本格的に実装されているのはCaptureOneの最新版くらいですが。
効果は普通にノイズを乗せるのに似ていますが、
ギャザ処理に基づいたノイズのほうが、グラデーションがより正確だと思われます。
> 昔の油えのぐには、今のような、アクリルえのぐにあるような蛍光色があるわけでもないのに、色彩はビビットです。
「AKIRA」というアニメーションの背景美術に関してのインタビューで、
美術の方が「遠くから見ると綺麗な遊園地みたいだけど、
近づいてみると、少し汚いような」絵のイメージを目指したとか。
なるほど、そう言われると面白いですね。
Posted by: ふゆっき。 | 2005.06.29 01:39 PM
ギャザとは、ピクセルとは違うのですか?
印刷物の、網点と同じように、デジタルも色の掛け合わせで、少ない色から多くの色彩表現をします。基本時に、カラーは、理論的にはCMYもしくはRGBの三色ですべての色の再現ができることになっています。
色の深度?が高ければ美しいわけではなく、すべて色は、ほかの色との組み合わせだと思います。印象派の絵画の色彩はすばらしいけど、昔の油えのぐには、今のような、アクリルえのぐにあるような蛍光色があるわけでもないのに、色彩はビビットです。
Posted by: ALAOYOKOGI | 2005.06.29 06:54 AM
はじめまして、バルクフィールズの検索から来ました。
粒状感に対する考察面白く読ませて頂きました。
あっと気付く見あり、とても参考になりました。
一つ、雑感など述べさせていただくと、
デジタルには、粒状性の代わりに、
ギャザというものがあります。
減色するときに指定する何パーセントというあれです。
少ない色深度、狭いカラースペースでいかに色彩豊かに見せるか、
というときに、ギャザはとても重要な役割を果たす。
とくに、解像度だけは、稼げる大判プリントでは。
では、失礼いたします。
Posted by: ふゆっき。 | 2005.06.29 04:49 AM