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2005.07.02

僕にとっての「稲村ジェーン」

Blitz グループ展 SummerSurf Tales 7月5日-8月6日

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前回も書いたが、目黒のフォト・ギャラリー・ブリッツでグループ展をする。出展は1973年に撮った写真の4点。稲村ガ崎のサーファーとそのガールフレンドたちだ。
稲村が崎といえば、「♪稲村ガ崎、名勝の、剣とおぜし古戦場」という、歌があるが、それよりサザン桑田佳祐の「稲村ジェーン」だろう。桑田の音楽はよかったが、映画は、なぜか気になり僕もみたが、しかしまあ、惨憺たるもの、いやあんなものだろうが、1965年というシチュエーション、時代の雰囲気があまりなかったのが残念だった。なにより海の場面が、どうみても湘南ではなく、伊豆だったのが残念だった。実際、伊豆の海で撮ったのでしかたがないが。今だったらCGでも屈指して、本当に稲村ガ崎で撮ってほしかったなと思う。

この写真は、1973年8月26日、日曜日に撮影した。僕は、大学に入った昭和42年ぐらいから湘南には良く行った。今だったらサーフィンをするためかもしれないが、僕のあたまのなかにまだサーフィンは存在していなかった。それより茅ヶ崎パシフィックホテルの前のビーチでうだうだと過ごしたような気がする。ガールフレンドが茅ヶ崎だったからだ。
彼女の家には良く泊まった。3LDKの公団だったので、僕は彼女の父親と同じ部屋で寝た。今じゃ考えられない。
大学までの定期は持っていたが、茅ヶ崎まではとうじとしても、運賃が高かった。だから、もう時効だから白状すると、それに国鉄はもうないし、何度もキセルをした。その方法はとても大胆で、若気のいたりだ。それは夜の茅ヶ崎駅は、バスに並ぶ人や、タクシーに乗る人が、いっせいに走って改札をでる。先頭グループは全力疾走だ。特に遅くなりバスがなくなったら、走る人はまるでレースのように怒涛の進軍だ。ただ、タクシーに並ぶためだ。のんびりしていたら、30分ぐらい待たされることになる。だから必死だ。とあるとき僕は、精算するつもりで、一緒にはしりながら、自分の定期を出し、右手に持ち、改札員に見せながら走り抜ける。絶対に見えない。機械じゃないから可能だった。もっとも今だったら、自動改札を乗り越えるくちかもしれないが。 反省。
大学を卒業すると、彼女にふられた。それでも僕の湘南通いは続いた。

昭和48年8月の夏の終わりの日曜日、僕は稲村ガ崎に行った。
そこで、かっこい姉妹に海岸道路で会った。声をかけ写真を撮らせてもらった。ついてゆくと、そこが稲村ガ崎、サーファーたちがあつまっていた。
僕は、仕事(アシスタント)で、そのころ数回ハワイに行ったことがあった。オアフ島は、サーフィンが盛んだった。ただ日本の波とは違い、しかもかなり皆上手だったので、自分がやることは考えなかった。だから日本でサーフィンをすることは、考えもしなかった。いやまだまり日本ではみかけなかった。
だから稲村ガ崎に集まっている彼らを意識したのが、はじめてかもしれない。
少女たちは、サーファーのガールフレンドだ。山口百恵の「ロックンロールウイドー」が流行っていた。まるで少女たちは、「サーフィン・ウイドー」のように、波に乗る自分のボーイフレンドをじっと眺めていた。まるでサーフィン未亡人のように。今でもこんなふうな少女たちはりると思うが、いや今の彼女たちは、自分からサーフィンをするだろう。
1973年8月26日のこの日、僕のこの写真を撮っているとき、一の瀬泰造は、カンボジア、プノンペンの戦場で写真を撮っていた。

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1973年8月26日 神奈川県稲村ガ崎袖ヶ浦 (C)ALAO YOKOGI
出展プリントは4点。ライソンという無酸性紙を使用したデジタルプリント。
価格はお求め安く、一点¥20,000と破格に設定した。額は別売り。

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