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October 2005の21件の記事

2005.10.25

横木安良夫Blogトピクス

manipulation002

写真展を見て酒を飲む
マニュピレーション その2
ベトナム取材コーディネイトの杜国忠(ド・クォク・チュン)
マニュピレーション
ライトペインティング TwilightTwist
フィルム感度って何?ISO ASA DIN
明るい部屋の謎
不許可写真その5
すがやあゆみ写真展 障害はブランドだ!
不許可写真その2
フルサイズデジタルと、アスペクト比
肖像権侵害とEos5D
肖像権侵害 その5
肖像権侵害 路上スナップ35万の支払い命令
銀塩式デジタルプリント
危険な遊具
アサヒカメラ10月号
高田渡 ぐわらん堂 1974年
後姿 その1 いまやスナップ撮影では、後姿を撮ることが多い。肖像権の問題もあるし、これからますます後ろ姿を撮ることがさかんになるだろう。
後姿 その2
Eos5D発売 35mmフルサイズデジタルなんていらない!?
岩根愛 グループ展
1970年 船橋無線送信所跡
千葉県市川市、国立国府台病院 1970年
写真展 Teach Your Children 2006年1月
●茅ヶ崎パシフィックホテル その1
1967年 市川駅
あゆの恋 ネットアイドル すがやあゆみ
写真の粒子、ノイズ
写真お見せ方、コンポジット
TeachYourChildren
●盗み撮りについて
写真ジャンルの羅列です
ART PHOTOGRAPHS & NEWS 写真プリント販売について、考えるサイト
写真の粒子について Grain その1
その2
●粒子のあるデジタル写真
アート・フォトって何! ギャラリーブリッツにて
アートフォト、インテリアフォト

●デジタル写真で何ができる その1

その2
その3
オリジナルプリント販売について
オリジナルプリント販売とは? その1
その2
●盗撮、盗み撮り、キャンデットフォト、スナップ写真 その1
●盗撮、盗み撮り、キャンデットフォト、スナップ その2
その3
●ロバートキャパのピンボケ写真と、僕のピンボケ写真
エミリーブロンテ 「嵐が丘」 の舞台で、かつて撮った写真
●EosKissDigital Nを 6歳の娘に奪われた その1
●デジで本 アサヒカメラで評論
3月3日から12日まで、アメリカウエストコースに行った。
超広角レンズのゆがみを取る方法?
●なぜオーバーランするの JR西事故
「ロバートキャパ関係」strong>●
ロバート・キャパIN SAIGON
リチャードウイーランの伝記では、キャパは、1954年4月、日本滞在後、バンコクからハノイに行っていると書かれているが、実際はサイゴンから、ベトナムに入っている。
■「ロバート・キャパ最期の日」のBLOG
キャパ・イン・カラー写真展開催中 その1はここをクリック
●「ロバート・キャパ最期の日」本の紹介
●ロバート・キャパ最期日の書評など
1954年4月13日、日本到着から5月25日地雷を踏むまでのロバート・キャパの足取り
ロバート・キャパ写真展「ロバート・キャパ・イン・カラー」 その1に行く

「コダクローム関係」
●コダクロームについてのblog「僕のコダクローム」ポールサイモン
●「僕のコダクローム 真行寺君枝」a>
●「僕のコダクローム 沢田研二」
「阪神大震災関係」
「M7.3子供たちがみたもの」TOP 阪神大震災から10年、当時まだ幼く何も語らなかった彼等は今十代になり、震災について何を重いっているのだろうか。その本についてのブログ。
「写真関係」
デジタルで撮れない大型カメラの世界 その1
2mフォトグラファー、小堀正一

「ポラロイド関係」
ポラロイド195ランドカメラとネガつきポラロイドモノクロフィルムType665

「そのほか」
怪獣映画「ゴジラ誕生50年だったな」
流行通信
40年以上も前のクリスマス
ベトナムのモデル1
ベトナムの女優写真
ベトナムNo.1の歌手、ミイ
タム

ベトナムのモデル2
ピンクレディ キンスマ
ピンクレディ2
若いお巡りさん
横木安良夫のHomePage
横木安良夫のプロフィール 詳細をUPしています
デジタルカメラで作る、本格的な写真集の作り方「デジで本」

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写真展を見て、酒を飲む。

神田にあるオリンパスギャラリーで、明日、26日、3時まで開催されている、写真展、第三回「銀の粒」同人展を見にゆく。大学時代の先輩、青山達雄が出展しているからだ。と、前に書いた。
「銀の粒」とは、銀塩写真のグレインのことだ。
その三人の写真家、平カズオ、青山達雄、三浦和人は、僕よりひとつ、ふたつ年上の、団塊の世代の写真家だ。
1960年代中ごろ、ニューヨーク近代美術館、MOMAで開催されたコンテンポラリー・フォトグラフィという写真展に影響され、さらに高梨豊、森山大道、そしてカメラ毎日編集者、山岸章二に影響され、日本式にアレンジされた、「コンポラ写真」という運動があった。さまざなスタイルがあったが、揶揄するようにブレボケみたなことも言われた。しかしブレボケは少数派、単純に森山さんに影響された一部だけだろう。
そのまっさかりにいた写真家三人の写真展だ。
当時の若手旗手として、ちょっとまえまでクラシックカメラおじさんという座にいた田中長徳、(最近は再び作家に戻りつつある)そして、牛腸茂雄がいる。

当時、若いカメラマンに圧倒的な支持されていた、「カメラ毎日」という写真雑誌があった。そこに「アルバム」という、プロもアマも関係ない、ページが口絵のあとに20ページぐらいもあり多くのカメラマンが発表した。たしか70年ごろから始まったのだろうか。山岸章二がそのページの意味と意義の檄文?を書いた。
だから、この世代の多くが、ここで発表した。先日赤城耕一写真展にも来ていた、鬼海弘雄もアルバム、デビュー作家だ。明日から写真を撮りに、トルコに行くと言っていた。さてさて、そういう僕も「アルバム72」で、デビューしている。
時代背景から言えば、世界的なステューデント・パワーの時代、日本ではアングラの時代だったが、そこに全共闘運動みたいなものが重なり、いやそこに、ビートルズを中心に、ロックミュージックが通奏低音になり、世界は若者文化に制覇された時代でもあった。
しかし実は今の時代と同じように、そんな運動は、ほとんどが、「大人」の世界に取り込まれ、一人になったときは、無力な若者でしかなく、重く、閉塞した気分だったような気がする。
唯一、敢然と戦いを挑んだのは、フォークミュージックの連中、吉田拓郎、井上陽水、ハッピーエンド、等々たくさんいるけど、ビジネス面でも成功して、日本の音楽の新しい流れを作った。
しかし、写真は、音楽のように一般の人が支持するわけではない。一部の編集者、評論家に認められなれば、でてくることもできないだろう。今のように、多くの写真賞があるわけでもない。APA賞(日本広告写真家協会)とJPS賞(日本写真家協会)ぐらいだった。若い写真家は、写真界の閉塞した気分をうっとうしく思っていた。
それが、70年代頭ぐらいから、ファッションや広告写真という、商業写真が強烈に台頭し、カメラ雑誌なんて読まなくてもよい時代になっていった。・・・・・・なんてこんな思い付きのように書いたが、このあたりはきちんと書くとかなり面白い。まあ、そのうちどこかで書かなければならないだろう。オリジナルプリントでの発表など、胡散臭く感じ、商業主義と結びついた表現が、ポップで新しいものだった。

ところで、今回の「銀の粒」同人展で、平カズオは会っているが、三浦和人とは初めてだった。前回同人展のときにも完成度の高い美しいプリントのスナップ写真を撮っていたが、ありふれた景色を撮りながら、モノクロ写真のなかに、特に光と影を印象的に、頭に刻みつけてくる写真家だ。彼は牛腸茂雄と、桑沢時代の同級生で、牛腸の再評価に尽力した人でもある。
閉館後、どじょう屋で飲んだ。写真家の本多信男さんも一緒だった。本田さんは僕より10歳以上も年上だが、元気で活躍している。彼のホームページは、最高に面白いしためになる。


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2005.10.21

Manipulation マニピュレーション 肖像権 その2

Manipulation マニピュレーション 肖像権
manipulation001

●人間には、写真を見る特殊能力がある。
それは、たった170年前に発見した能力だ。
思い出してみよう。記憶の中の映像は、ほとんどどれもが止まっている。
しかも、膨大な量の、ストップした映像を記憶することができる。
それは、人間が写真を記憶する能力だ。
動く映像は記憶しずらい。記憶はいつも断片で写真のようなものだ。
写真が生まれる前から、人間の記憶とは断片の集積だ。
人間が自分の映像記憶装置に気がついたのは写真が生まれてからではないだろうか。
人間の記憶装置、認識装置が、写真と同じようなものだからだ。
人間の目は、日常世界を見るときは主観的でしかありえない。
人間の目は全体を、平等に見ることはできない。
情報量の無限な、現実世界のなかで、人間はごく一部だけを、意識的に見ている。
あとは、無意識に見るか、何も見ていない。
もちろん意識的な見ているものも、ほとんどは忘れるが、無意識に見ているものも、実は記憶のなかに沈殿する。

そんな主観をもった、撮影者が切り取った(写真を撮るという行為)画面のなかの写真の世界は、光学的な、物理的な世界で主観はない。物理的な、化学的、作用だ。
写真の描いた世界には、中央も、四隅のすみずみまでもが、等価な光学的な反映でしかない。

情報の多い、現実の世界を人間が認識するには、主観的な、選択的だ。だからごく一部しか認識できないはずだ。だから人間の認識じたいが、パソコンの圧縮記憶装置のようなものだ。
写真も世界を圧縮する装置だ。
圧縮された世界は、記憶しやすい。それが人間の記憶装置に似ている。
世界を等価に圧縮する写真の仕組みが、
人間の記憶装置のずれとなり、奇妙な感慨をいだかせる。


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ベトナム旅行、取材コーディネイト!オススメ

trungphoto

僕の著作「サイゴンの昼下がり」や「ロバート・キャパ最期の日」に登場する、元ベトコンの日本語通訳である、ド・コック・チュンさんが、旅行会社をやっています。
彼の会社、SHINYO COORDINATION(シンヨー・コーディネイーション)のHomePageをご覧ください
チュンさんのMailです
主な仕事の実績
1995年3月
ぶんか社 (ホーチミン市、ニャチャン、ミトー、カントー)
1995年6月
週刊文春「 ベトナム美人図鑑 」の取材コーディネーター(ホーチミン、ハノイ、ミトー)
1996年3月
バウハウス「真弓倫子写真集」(ホーチミン市、ミトー、ニャチャン、ファンティエット)
1996年4月
TV アミューズ ミズエン フンザン テレビ取材 (ホーチミン市)
1997年10月
ワ二ブクス(WANIBOOKS)の取材コーディネーター(ホーチミン市)
1998年6月
新潮社 「サイゴンの昼下がり」 取材(ホーチミン市、ミトー、カントー、ダラット、フエ、ニャチャン、ダナン、ハノイ、ハロン、ナムディン、タイビン)
1998年9月
ワ二ブクス(WANIBOOKS)の取材コーディネーター(ホー・チ・ミン市、ニャチャン)
1999年1月
セブンシーズ(SEVENSEAS)の取材コーディネーター(ホーチミン市、ハノイ)
1999年10月
バウハウス社「クガヨーコ 写真集」の取材コーディネーター(ハノイ、フエ)
2000年9月
ワ二ブクス(WANIBOOKS)の取材コーディネーター
2000年10月
ワニブックス小松千春写真集 (ホーチミン市、ミトー、カントー、ニャチャン)
2000年8月
TV 石川次郎プロデュースGRAM CREATIVE&SUNSET FILMS
2001年10月
FAUVLIC「写真集」の取材コーディネーター
2001年4月
小学館 サブラの取材コーディネーター
2001年9月
映画 一ノ瀬泰造ドキュメンタリー映画 取材コーディネーター (フエ、クアン・チ)
2002年3月
週刊文春「ベトナム原色美人図鑑」の取材コーディネーター(ホーチミン、チョウドック)
2002年4月
TV NHK総合BS & テレコムスタップ「 地球に好奇心 」の取材コーディネーター
2002年9月
TV 石川次郎プロデュースGRAM CREATIVE&SUNSET FILMS
2002年9月
TV テレビ朝日映像 おとなのBSマガジン「 夜のバカンス 」(ハノイ、ハロン)
2002年10月
ワ二ブクス(WANIBOOKS)の取材コーディネーター (ホーチミ市、ニャチャン)
2003年2月
集英社ヤングジヤンプ「 エリカ 沢尻 写真集 」の取材コーディネーター
2003年9月
Canon EOS Kisss写真展 横木安良夫 コーディネイート
2004年4月,5月
東京書籍 エスクアイアマガジン 横木 安良夫 写真家 「ロバート・キャパ、最期の日」本の取材コーディネーター(ハノイ、ナムディン、タイビン)
2004年4月
横木 安良夫 写真家 「ハナモン族 Tamronレンズ」の取材コーディネーター
2004年11月
ぶんか社 「エリコ村上写真集」の取材コーディネーター
2004年12月 
週刊ポスト取材コーディネーター
2005年1月
ワ二ブクス「サチココクブ写真集」取材コーディネーター(ホーチミ市、ダラット、ファンティエット)
2005年2月
音楽線社「小野真弓写真集」の取材コーディネーター(ホーチミ市、ニャチャン)
2005年2月,4月
外山 ひとみ 写真家 「Vietnam 30 anniversary-from war to peace」 写真展のコーディネイート

●彼との出会いは1995年、僕の2回目のベトナム取材でした。その経緯は、「サイゴンの昼下がり」に書いてあります。
彼は正真正銘の「元ベトコン」です。(ベトナム側から見れば蔑称です)17歳から徴兵され、1972年のベトナム中部、非武装地帯付近、クアンチでの戦いでは、北ベトナム兵の80%以上が死んだ、激戦の生き残りです。
1975年のベトナム解放、ちょうどそのとき僕は独立してフリーのカメラマンになりました。同じとき彼は外国語大学に行き、最初は中国語、後に日本語を勉強しました。その時代ベトナムは、まるで今の北朝鮮のように世界から孤立していました。彼は、最初内務省に勤め、それからサイゴンツーリストの日本語ガイドになりました。
そして僕たちは1995年に出会うのです。
彼がいなければ、僕のベトナムの著作はひとつもありえません。僕は、ベトナムを観光客、外国人の視点だけではなく、ベトナム人の側から見えるようになったのは、ひとえに彼との出会いがもたらしものです。
●彼の仕事は、取材、撮影のコーディネイトが専門ですが、個人旅行の手配もしています。
通常、格安パックで行く旅行者も多いようですが、もう少しじっくりベトナムを旅行したい方は、彼のようなガイドい頼むが、安く格別な旅になるでしょう。航空券だけ、格安のチケットを買い求め、送迎、ホテルの手配、国内移動、国内航空券を現地で手配してもらうのがベストでしょう。
●彼はベトナム人には珍しくルーズではありません。責任感があり、満足の行く、取材、旅行ができるでしょう。
携帯電話の連絡もできますが、まずは、メールで尋ねててください。日本語、漢字入りでだいじょぶです。

先日のブログでお知らせしたように、昨日から、赤城耕一氏の写真展が開催されています。昨日はその初日。オープニングのパーティがあったわけではないのですが、10人ぐらいで最初は御苑あたりの魚屋、その後はゴールデン街のギャラリー酒場で2時ぐらいまで飲みました。
写真展、銀塩モノクロ、35mmフィルムを半切に、フジのミュージアムという印画紙に焼き付けてあります。この10数年間に撮った、著名人そしてお多くの写真家。なんといっても写真家を撮った写真が秀逸です。35mmとは思えないグラデーション。プロの、大人の写真を満喫できます。

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2005.10.19

Manipulation マニピュレーション 肖像権

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顔がないポートレイトに肖像権はあるのだろうか。このモデルが、例えば有名な女優だったらどうだろう。著作権は僕にある。そうだとしてもどこまでが、財産権としての肖像権があるのだろうか。どう考えても、この体つきは、誰々だと特定できるとしたら。
そういう意味で街を歩く人も、顔を消せばよいのだろうか。
写真は、不透明な(光を反射するもの)皮相世界の反映だという。透明だったら、光を反射しないから写真に写らない。透明だったら視覚で認識することができない。ところが、人間は透明なものを、見えないものを知覚することができる。写真は、透明なものは写らない。人間は写真を見ても、見えないものが見えるらしい。この写真の女性の顔が見えるだろうか。これが絵だったら、顔のない女性の顔を想像することはないかもしれない。いやあったとしても、頭のなかでの想像だ。ところが、写真のこの顔のない女性は、なぜか写真の中に顔があるような気がする。

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2005.10.18

日本カメラ11月号

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●10月20日発売の、日本カメラ11月号に、先日Blogで紹介した、横木安良夫流、「銀塩式デジタルプリントのすすめ」という、Howtoページがあります。一番やさしい、本格的なデジタルプリントのやりかたです。僕はこのやりかたで、印刷の原稿も作ってしまいます。P157~163。まあ、ご覧ください。そして試してみてください。
先月は、アサヒカメラ10月号で、昔の写真「TeachYourChildere1970-1975」を、発表しましたが、12月20日発売の、日本カメラの1月号では、「TeachYourChildren2000-2005」という内容で、10pで発表します。

●同じ日本カメラ11月号で、先日紹介した、友人、写真家HARUKIの、「Tokyo girl 彼女たちの居場所も」口絵で6ページ紹介されています。
harukicard01
11月1日から6日まで、GalleryLE DECO2Fで写真展です。HARUKIは、10代から写真展をやったりと、かなり精力的に活動し評価されていましたが、この10年ぐらいは、写真作家として活動はなぜかしていませんでした。それが、突然やるきになり、以前から撮りためていた写真と、そして最近は、ふたたび見知らぬ(僕が知らないだけだけど)女性を撮りまくっています。彼はシャイなふりをして、ぜんぜんそうではなく、対象にグイと、そして自然に食い込み、いつのまにか、「彼女」たちを魔法のように、ちょっとふしだら女にしてしまいす。そのなんともいえない、距離感とHARUKIのエロごころを楽しむ写真イベントになると思います。是非ごらんあれ。


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2005.10.17

LightPainting TwilightTwist

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1991年アサヒカメラ表紙 マリオ 
五反田の連れ込みホテルの壁はまるで60年代の、ポップアートのようだった。自然光と、TWILIGTTWISTのミックス。マミヤRZ67 RVP

なにげなくネットサーフィンをしていたら、面白いものを見つけた。
LIGHT PAINTING
DeanCamberlainhttp://juliadean.com/paintingwithlight.html
http://www.kazmaslanka.com/photos.html
http://www.photo-seminars.com/Seminars/PaintLight/Paintlight.htm
http://www.sentex.net/~mwandel/photo/night-photography.html
CANNIBAL FLOWER
FLOWERS

hanatsubaki001
1990年 花椿 HAWAII
僕が20年ぐらい前に思いついた、ペンライトによる撮影をしている写真家が、現在世界にはたくさんいることを知っている。たしかフランスにもペンライトを使うファッションの巨匠がいた。
誰が最初に思いついたなんて、野暮なことだ。ペンライトの手法は、昔からある。ただファッションやポートレイトに使ったのは僕が最初だと思う。1986年に思いつき、きちんと発表したのは、1989年のアサヒカメラ11月号だった。
asacanekodacover
その後デジャブの創刊号でも紹介している。その頃、これに近い手法は、アメリカの、「ホースマスター」というシステムだ。ライトを、たぶんグラスファイバーのコードで引き、動かないもの、特に物撮りに使用する。人間を撮影するのは無理だったようだが、そのライトシステムも100万?ぐらいしたと思う。銀一が扱っていた。その頃は、僕はTwilightTwistを、人間でも撮っていたので、しかもライトは、1000円ぐらいの懐中電灯で何でも、撮れる。このライトシステムの日本での販売を阻止してしまったかもしれない。
今、絶版で、AMAZONでも見つからないけど、1994年に小野みゆき、「NO」という写真集はかなりこの手法で撮影している。今はなきスコラ社発行で、ISBN4-7962-0152-1で、定価3800円。スコラ社がなくなったせいだろうか、この本は初版で6万部も刷った。かなりマニアックな本だったが、全部売れた。それなのに、アマゾンで見つからないのはなぜだろう。自分で言うのもなんだが、この写真集は絶対に見る価値がある。
ペンライトの撮り方は、面白いしなんでもできるけど、10年ぐらい夢中になってやって、実は飽きてしまった。
なぜだろう。90年後半からは、めったに使わなくなってしまった。怠惰なせいだけれど、いつもドキュメントな方法論を写真に持ち込みたいと思っている僕にとってどこか精神的、感覚的なハードルがある。僕は別に、ライトで絵が描きたいわけじゃない。だからライトペインティングという、言い方が好きじゃなかった。僕は写真を撮りたいのだ。しかし今考えれば、この手法はある時の僕には必然的だったかもしれない。
kodatt
1987年

1985年ごろ、ナイトフォトというジャンルがあることを知った。夜の長時間露光の撮影だ。それを車の広告でやってみようということになり、マツダの失敗作、エチュードの広告で試してみた。車は失敗だったが、広告はよかった。
p380mazdacar
なにしろ、徹夜で作業して、一番の狙いは明け方だった。しかし、闇のなかで何度かテストをしているうちに、懐中電灯でちょっと白いフェンスに光を当ててみた。なぜだか僕のは、その光の明暗がとても気に入った。物や、風景はとても簡単だった。暗ければ、どんなものでも撮れた。このやりかたで人間は撮れないかとテストをした。試行錯誤の結果、実用になった。このころはきっとこんな光が好きだったのだろう。
1980年にはこんな写真も撮っている。矢作俊彦の小説「神様のピンチヒッター」のための写真だ。これは画面の外から、ペンライトを顔に照射して、数秒かけて撮っている。後のTWILIGTHTWISTは、画面の中にライトを入れて撮っているので根本的に違う。
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その前に、1976年ごろ、小型ストロボの日中シンクロにこっていた。今は都庁のある新宿西口。この頃は、まだ京王プラザと住友三角ビルぐらいしかなかった。イッセイミヤケのための写真だ。
miyakeissey

こんなふうにどこか僕は人工的な光が好きだったようだ。このあとにも、沢田研二のシリーズも、ストロボやライトを使って、人工的な写真を撮っている。

今、またTWILIGTTWISTの写真を撮るかは、わからない。デジタルになったので、やってみようかなと思っている。

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2005.10.16

感度って何?ASA DIN ISO

sekonikimg_77051
SEKONIC STUDIO S 部分
pentaxmeter
PENTAX SPOTMETER 部分

カメラ的日常に昔のカメラの感度設定について書いてありました。
ミノルタハイマチックの感度設定のところに、ASA200と500の間に●が4つあり、ASA400は、どれかということです。僕ももミノルタハイマチックをスナップカメラとして使ってました。ポケットに入るからです。
ちょっと今の人にはわからないことなのでしょう、デジタルカメラの感度は、一段ごとになっているので。
銀塩時代、特に露出をマニュアルで計るとき、感度はとても重要でした。
感度について、僕の忘れかけた知識を書きます。
まず上のASA200と500の間には、ASA200、250、320、400、500があります。それぞれ3分の1刻みになっています。

今ではフィルムの感度表記はISO感度に統一されてますが、かつてはアメリカとドイツの二つの流れがありました。
ドイツはDIN感度、アメリカはASA感度です。
ASA=Ameican Standard Association
DIN=Deutsche Industrie Norm
ISO=International Organization for Standardization 
ASA感度=ISO感度
どれも3分の1刻み。ASA100は、DIN21、125=22 160=23 200=24です。
日本はアメリカにならい、ASAを使っていました。エー・エス・エー感度とかアーサー感度と呼んでました。
ASAのほうが、数字が倍々になるので使いやすく、DINはカメラに表示されているだけでした。
フィルムのASAの感度の流れには二つあります。絞りと同じように、小さなほうは誤差がありますが、ひとつの流れは、ASA8,12、25、50、100,200、400、800、1600,3200.6400 これは絞り1段刻みです。
 もうひとつの流れが、10、20、40、80、160、320、640・・・(この先はあんまり記憶がない)
世界最初のカラーフィルム、コダクロームがASA12、その後改良されたコダクローム2がASA25、コダクロームXはASA64でした。ASA50のエクタクロームXプロフェッショナル、普通のエクタクロームはASA64でした。
ネガのコダカラーがASA80。フジカラー100は、当然ASA100です。
ASA125は、モノクロのプラスX、コダックのエクタクロームハイスピードはASA160だったと思います。もっと感度が欲しいときには、現像で1段増感します。とうぜん、ASA感度は320に設定します。
もともとASA320のフィルムといえば、4x5のトライXプロフェッショナルだったことを覚えています。
僕が写真を覚えはじめの頃は、ようやくポラロイドが実用的になっていました。
撮影時のテスト撮影用に、ハッセルブラッド用のポラロイドパックがあり、POLAROIDType107というASA3000のフィルムを使いました。当然カラーポジフィルムはそんなに感度は高くなく、KodackのEPR120フィルムはASA50です。ASA3000といった高感度のポラフィルムが使い物になるのかというと、それには工夫が必要でした。ポラロイドパックのフィルム面の直前に、NDフィルターを、たしか絞りで6段とか7段分暗くなるように差し込み、使ってました。真っ黒のNDフィルターです。モノクロのそのフィルムは、感度が高くて使いづらいのが難点でいたが、現像時間が短く、気温の上下にも強く、何より感度が一定していて、ある意味、撮影の革命でした。今のデジタルカメラの液晶モニターで確認することと同じです。カラーポラロイドは、現像時間もながく、色も参考にならず、普段はあまりつかってませんでした。カラーを使うようになったのは、フジのフォトラマになってからです。
実は、フィルムには実効感度というものがあります。ISO100のフィルムが100あるわけではないのです。かつて、E6というカラー現像では、現像所ごとに感度が違い、色も違っていました。メーカーごと、フィルムごとに感度が違い絶対に乳剤ごとでのテストが必要だったのです。
モノクロフィルムは、自分で現像するので、増感現像は日常でした。TrixASA400を、800、1600、3200と増感するのです。また、ASA400のTRIXを、ASA200で計り、露光過度にして、あっさり現像する、「たっぷり露光あっさり現像」がよいネガを作る基本でした。
フィルム感度はとはあくまで、目安です。ISO50と64どのくらい違うのかなんて、あんまり厳しく考えても本当は意味はありません。感度の3分の1より、絞りの3分の1、増減感の3分の1については、シビアでした。
何よりフィルムはテストしてつかうものです。感度とは、光源の種類によっても違うのです。・・・・自分の望むものは、自分でデータを取ったものです。いまのデジタルもそうですが、モニターごと色は違います。昔で言えば、ライトテーブルにしても、同じものはありません。絶対はないのです。
昔、僕たちのころは、露出計はアナログでした。だから露出を計るのがなんと早いか。今の人のように、数字の端数まででてくると、それにまどわされかなり遅いようです。
カメラのオート露出今ではそんなのあたりまえですが、同じ感度に合わせても、アマチュア用は、ネガフィルムを多用するので、オーバー目になるように、プロ用のカメラは、ポジを使うため、アンダー気味になるように設定されていました。

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写真展情報ほか

●アサヒカメラでおなじみの写真家赤城耕一氏の写真展「気表」(かお)が10月20日より、10月26日まで、アイデムフォトギャラリー・シリウスにて開催。
akagikoichi

●日芸時代、写真家一ノ瀬泰造のいたフォトポエム研究会の先輩、ということは、一ノ瀬さんの同級生、(一ノ瀬の写真も撮っている)青山達雄氏の第三回「銀の粒」という同人展が、10月20日より26日までオリンパスギャラリーにて開催される。
青山達雄(あおやま たつお)
1947年名古屋市生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒。日本デザインセンター勤務を経て72年よりフリー。名古屋市在住。
写真展 「晴れ、ときどき曇り」(オリンパスギャラリー)

タイトル「歩幅で距離を測る」(50点)
小学生高学年の時、授業で校庭の端から端までを歩幅で測ったことがありました。歩幅の平均を出し、歩数を掛けるわけです。どうしてだか、その時の私の測定値は、巻き尺で測ったものと二、三センチの差しかなく、先生を大変驚かせました。その先生も数年前に亡くなられたと聞いたのですが、ふと、そんなことを想い出します。


●友人であり、飲み友達の写真家HARUKI写真展、「東京ガールズ」が、11月1日から6日まで、東京・渋谷、「ギャラリー Le Deco 2F」で開催されます。

haruki01


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2005.10.13

明るい部屋の謎

kodatt
1987年 アサヒカメラ 「TwilightTwist」より。M.Koda この撮影は、運動そのものだ。懐中電灯一灯で撮っている。RZ67 110mm F8 30秒 RVP 何のデジタル処理もしていない、一発写真


セルジュ・ティスロンという精神科医が書いた、「明るい部屋の謎」(青山勝訳 人文書院)という、2001年に出版された本を読んでいる。写真論である。今頃読んで、遅いなどと馬鹿にされるかもしれないが、求めていなかったからしかたがない。写真を「それはーかつてーあった」と書いた、今や古典的な写真論、ロラン・バルトの「明るい部屋」への正面切った挑戦状だ。写真映像は「刻印」ではなく、「痕跡」だという。写真とはできあがった写真映像、、言い換えれば表現された写真を語ってすむことではなく、カメラで撮る行為そのもの、そしてその運動を含めた実践の総体こそが写真だという。
らしい。というのはまだ僕は、3分の1も読んでいない。それなのに興奮している。面白いからだ。普通読み終わってから書くことだけど、書かざるをえないぐらい、今の僕にとってぴったりの写真論だ。きちんと読んで感想を書く。
参考 青山勝「明るい部屋の秘密」

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2005.10.12

不許可写真 その5

girlsinmotionshibuya02

不許可写真と題していて、不許可としているのは、僕自身だ。といいなが、載せている矛盾。いったい誰が、写真の掲載の許可をしているって、あくまでそれは自分の問題であり、これはパロディでしかない。

肖像権の問題の一部として、街頭での撮影について考えたい。
一番嫌われるのは、一眼レフカメラに立派なレンズの場合だろう。どう見てもカメラが目立つ。しかし、ひとたび望遠レンズで遠くから狙えば、誰を撮っているのかわからい。立派な機材は、プロの仕事、取材だと思い、圧迫するほど近づいてこなければ、無視できる。それは撮影者と被写体の距離も問題かもしれない。標準レンズの距離、3mから5mの範囲が、撮るほうも撮られるほうも緊迫する。
かつて、スナップの職人たちは、早業で被写体に気づかれないように撮影した。ドアノー、ブラッサイ、ブレッソン、キャパ、エルスケン、木村伊兵衛。皆空気のように獲物に近づき、瞬時に撮る。カメラはコンパクトな、ライカのようなレンジファインダーだ。シャッター音も小さい。撮影後、相手に気づかれたら、軽く会釈するとロバート・キャパは語っていた。今でも、東京の街で、一眼レフより、ライカのほうが、被写体にはやさしいのかもしれない。
実はウエストレベルの中盤カメラも、被写体にやさしいカメラだ。キャパの多くのスナップ写真は実はローライで撮られている。誰かがお辞儀をしながら撮るので、礼儀正しい撮影方法だと言った。僕はハッセルをよく使っていたが、あるときに子供になぜ地面を覗いているの?と言われたことがある。自分が撮られているとわかっていないのだ。
アイレベルの一眼レフカメラがやはり一番圧迫感があるのだろう。イメージもシューティング、望遠レンズをつけると銃で連射しているようだ。かつて、工学メーカーは、軍事産業の一員だった。国家にバックアップされ、航空機のように戦争によって進化した。それが戦後、平和の企業、ベトナム戦争では平和の武器になった。そのため今や戦争取材は、規制されている。武器は国家のものだ。
やはり35mmカメラは、戦争でも、平和でも、武器のようなイメージがある。男性的なフォルムが好かれる。35mm一眼レフ以外は、どのカメラも割りと女性的だ。
街で35mm一眼レフで撮られると、射抜かれたような気がするのだろう。村上龍の駄作映画、「ラッフルズホテル」で、主人公のカメラマンは、カメラを連写することで、女優をエクスタシーに引き込んだ。35mmのシャッター音は、一部の男たちの間では、男性性の象徴のように思われている。(村上龍の小説は好きだけど、映画はつらい。それでもKYOKO以前までは、すべて見た。こんどこそは、こんどこそは、と思っていたが、さすがにKYOKOは、予告編を見て、見る気がしなかった。)
街で一眼レフに、ワイドレンズをつけて、三脚にセットする。群集のなかでもいい。カメラは覗かない。レリーズをつければ完璧だ。するとどうだろう、皆以外と気にしない。覗かないといつとっているかわからないからだろうか。それとも、撮られている圧迫感がないのだろか。もっとも、何しているのと声をかけてくるやつはいる。街を撮っているとでもいえばいい。
上の写真は、渋谷の駅前だ。カメラは4x5という大型カメラだ。リンホフテヒニカだ。レンズは65mmという超ワイドがついている。僕は何かに上って少し、ハイアングルにしている。大型カメラと三脚、しかも夜。歩いている人からは夜でも僕の姿は見えている。しかも僕はハンディのストロボをつかっている。真ん中にたっているのは、モデルだ。正確には被写体。
20枚ぐらい撮影したが、後ろの人がもっとはっきり写っているのもある。大げさな撮影だが、誰もなにも言わない。もっとも、撮影は5分もかからないすばやいものだ。ストロボはともかくとして、大型カメラもまた、被写体に圧迫感を与えないのだろう。大きさではない。蛇腹のついた、クラシカルな造形が人に優しいのだろう。
ふと、街の撮影をしていて、不思議だなと思うことがある。それは、ビデオ撮影だ。スチールの場合だと、撮っているときに露骨にいやな顔をする人がいる。撮るなよと眼をつける。ところが、ビデオだと皆無表情だ。ビデオの特権。ビデオだと、拒否した態度、不快な表情をするとそのまま撮られてしまうから、あきらめて表情をかえないのだろう。ビデオは時間も撮っているので、ココロの変化を晒したくないからだろうか。
さて、まだまだ、スナップ撮影のシチュエーションはあるだろう。これからも考えてゆきたい。
スナップがやりにくくなったのは、やはり「盗撮」ピーピング、といった、性犯罪的なイメージからではないだろうか。かつては、カメラを持っていて恥ずかしい気持ちはなかった。本当に自分を守る武器に思えたときもあった。
まあ、そんなことにめげずに、普通のひとたち、被写体に無断でなってくれている、人たちにも認知されるような写真(も)撮って行く必要があるだろう。


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2005.10.10

畑谷友幸写真展 NATURAL すがやあゆみ 開催中

友人である、TOMO、畑谷友幸写真展「NATURAL」 第10回アートふる山口の企画展が現在開催中です。
モデルはすがやあゆみさんです。
TOMOとあゆについては、過去にBlogで触れています。

tomoayuphotoshow

「えー、よくよく考えたら初の写真展です。(^^;;;
HeartVoiceの作品展は何度かやってきたのですが・・・
結構ドキドキです。(笑)
今回のタイトルは「NATURAL」
モデルはマルチネットアイドルの「すがやあゆみ」さん
彼女は「 先天性多発性関節拘縮症」という障害をもちつつ
多彩に活躍をされています。
そんな彼女のありのままの姿を表現できればと思います。

2005年10月7日(金)~10月16日(日)
山口市久保小路 髪工房バーバークラマシ」
Tomoのサイト

●あゆの本

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2005.10.08

肖像権侵害

syozokenshingai001IMG_8844
昨日、赤目線を入れた、この写真に写っている人物の肖像権はどうなのでしょう。もし彼女たちが、肖像権侵害だと訴訟すれば、裁判になるでしょう。この場合、僕は当然彼女たちに黙って撮っているし、しかもノーファインダーという隠し撮り、キャンデットフォトともいえるので、ただの未承諾の写真とは違います。
昨日、赤目線を入れた写真と、今日の写真。どちらに悪意があるのでしょうか。
「不許可」の文字は、僕の自意識です。このコンセプトはアートです。しかし、素朴ななにもない裸の写真こそが、本当の写真でしょう。なぜなら、この写真を見て考えることと、「不許可」の文字の入った写真を見ることは、全く違う印象があるからです。
街の状態、人々の様子の写真を撮ることは、本当に悪なのでしょうか。
例えばこの写真を商業的なものに使用すれば、営利に利用されたとして、肖像権の侵害、利用になるでしょう。
例えば、覗き写真(ピーピング)のように、たとえ公道でも、プライバシーを暴く覗き、ローアングルから下着を覗いたりすることと、肉眼で見えている、公の場所の生態は、同じことなのでしょうか。
例えば、ここに写る彼女たち二人の関係が、問題のある場合、そしてそのことによって彼女たちが、不利益をこおむった場合、どうなのでしょうか。
それでも僕は、町でのスナップを撮ります。きっと、10年後、20年後に無意味な写真にはならないと思うからです。
写真は肉眼では見えない瞬間を、切り取ります。
この情景にしても、実は僕の肉眼でこのように、見えているわけではないのです。この場所、この時間にシャッターを切ったのはぼくです。しかし、カメラに定着した画像は、絵描きの描くような、作品は僕の自意識ではないのです。それは、そこに現実にあった世界の表層の引用です。
僕の言葉でいえば、「現実世界の影」が、がカメラに飛び込み、無作為に、無意識にその瞬間が選ばれたのです。僕がシャッターを切った瞬間なんて、ささやかな意味しかありません。
現実世界の影の光の粒とは、本当に世界のことでしょうか。
僕は、カメラによって世界をどのように見るのか、解釈するかが、欲望であり、僕にとっての表現なのです。
写真は、撮り、そして見ること、そして考えることだと言われてます。
肉眼では認識があいまいな三次元の混沌とした世界を、カメラという、世界を停止させ、二次元化することにより、世界をもういちど、再確認し、そして思考の機会をあたえてくれるメディアだと思っています。
写真が発明されて、160年。それまで人類は、自分自身を客観的にみることはできませんでした。写真によって客観視することによって、多くのことを発見してきたはずです。
そして、人類の長い歴史のなかで、たった160年まえに獲得した、ストップモーションの映像ほど、感覚に影響を与えたメディアはありません。なにしろ、ストップした映像、写真は、人間にとって、例えば記憶作用ひとつみても、特別な能力が人間にあることを教えてくれます。
世界のようすを写真に撮る。多くの先人が作り上げた、スナップ写真の世界。
それがほんとうに、「悪」だったのだろうか、もういちど、よく考えてみようと思っています。


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不許可写真 その4

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1994年渋谷 EosKiss D EFS 18-55mm

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不許可写真 その3

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1993年 チリ サンチャゴ Canon Eos60D Iso100 Jpeg-fine


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2005.10.07

不許可写真 その2

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CanonEos5D 24mm-105mm ISO100 千葉県九十九里浜 Jpeg-fine


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不許可写真 その1

hukyoka01

だらだらと、思いつくまま、未整理状態の文章です。街を歩く人の顔を無断で写してはいけないのだろうか。撮るときにはOKでも、それを無断で発表してはいけないのだろうか。プライバシーの侵害?でも、服を着て、周りの目を気にして、まるで仮面をつけたように、防備しているはずの人間に、プライバシーはあるのだろうか。なぜ街を歩く。何かの目的のために歩いているの。いや、あなたは誰に見られたいために歩いているのではないだろうか。他人の視線を意識して、自分がここに存在していることを、知ってほしいんじゃない?あなたはなぜ、ファッションに敏感なのだろう。誰のために服を着ているのかしら。自分の存在を知って欲しいんじゃないの。だって肉眼で見られることはOKでしょう。皆に無視されたいのじゃないでしょう。もちろん、その写真で金儲けをたくらんでいるなら、文句もいえよう。俺の顔だ、わけまえをよこせと、スターじゃなくてもいいたくなるよ。でも、商売じゃない場合、例えば街の中の風景の一部として、いやいやあなたを肉眼ズームでクローズアップしてじろじとと見つめる。写真に撮り、未来に遺す。それはいけないのだろうか。理屈を言えば、写真は別にあなたが写っているんじゃない。あなたから反射された、光と影を定着させただけだ。だから決してあなた自身ではない。これは屁理屈ではなく、真実だ。もしあなたのプライバシー、例えばあなたの寝室、トイレを覗き込むのは、そりゃ肉眼だっていけないだろう。街を歩いていて、マンホールから、覗いたらいけないだろう。それなのに、なぜ、肉眼では見られたいくせに、写真に撮られ、2次元に定着してしまうことに、不快感があるのだろう。それは、プライバシーではなく、批評される対象になっていることへの不快感ではないだろうか。街を歩き、実は心地のよい、批評でも欲しいのだろうか。おしゃれをして、歩いているあなたは、本当は見られたいはずじゃないか。ずぼしだろう。いや、チラッと見られたいだけかな。きっと容赦なく、ずうずうしく見られるのは不快だろう。だったら写真で、知らないうちにカシャって撮られて、何が問題なのだろう。もしかした撮られることをは、問題じゃないのだろうか。撮られたことを知らなければ、無と一緒だから。その写真が、何かに発表されることが、不快。それはやはり批評されることがいやなのだろう。昔の人間と違って、現代の人間には表情が乏しくなっているといわれる。根拠はわからないが、世界中いなかの人と、都会の人を比べると、都会のほうが無表情らしい。田舎ならば、皆知りあいだろう。コミュニティのなかの表情だ。しかし、都会は知らない人ばかりに囲まれる。仲間を見つけたときに、表情が変わる。だれもいなければ、無表情という仮面をかぶる。でも個性的なファッションに身を包み、それは流行という、記号のなかに自分を閉じ込め、自分の生な姿を隠していながら、実は人の視線を気にしている。なぜ街を歩くひとびとは、皆無表情なのだろう。一人で表情豊かに歩いていたら、変人扱いだろう。なんどもいうが、だから皆仮面をつけて歩いている。その仮面の写真をなぜ、撮ってはいけないのだろう。アートとジャーナリズムは、OKだと僕はまえに書いた。それは両方とも、新しい価値観の創造と批評だからだ。現代の民主主義思想のなかで獲得した、最大の価値観だ。ふと、なぜ昔は、といっても僕が若かった30年ぐらいの前のことだけれど、電車のなかで写真を撮っても、それほど嫌がれなかった。何のために写真を撮るんだと言われて、素敵だからといえばすんだりした。皆、なぜか皆ニコニコしていた。それは写真を撮る人が少なかったからだろうか。もしかして、スカートのなかや、トイレといったプライバシーを覗くような写真が蔓延したからだろうか。カメラを持つやつは皆変態だと。まあ、変態性は、芸術性と同一視する向きもあるが。平和な日本では、ネガティブなことを認める余裕があるから複雑だ。しかしそんなことではなく、本当は皆、余裕がないからではないだろうか。電車に乗ってみればよくわかる。皆、いらいらしている。なぜだろう。幸福ではない最悪の気分のときの、写真を撮られたくない。都会に生きるということは、いらいらすることなのだろうか。お祭りとかイベントのときには、撮られても平気みたいだ。気分がいいからだろう。でも、日常はなぜ撮られたくないのだろう。不思議だ。

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2005.10.05

Eos5D フルサイズデジタル アスペクト比

昨日のBlog,Eos5に、50mmf1.4をつけ、1.4開放で撮った写真を眺めていて、このレンズの裸のイメージサークルが見えてきた。ケラれてはいないが、周辺は見事に落ちている。コントラストも若干不足気味だ。この写真ではわからないが、二重ボケの傾向もある。それは、欠点?それがなんだろう。そんなことを昨日書いた。コントラストの足りない写真は、プリントや印刷のときに調整すればよいことだ。それより浅いピント、なんといえないメリハリのなさが、美しい。銀塩のときには、こんなに顕著だったろうか。それとも僕のレンズの傾向か。いや、きっと開放絞りとはこんなものだろう。あたらしい24-105mmは、周辺が少しも落ちていなかった。それは当然で、開放F4のレンズをF8まで絞っている。きっと50mmF1.4もF8で使えば、周辺が落ちることもないのだろう。
そして考えたことは、35mmフルサイズ、24mmx36mmのアスペクト比だ。
レンズの周辺の落ち方を見ると、ほぼ正しい円に、イメージサークルは作られているようだ。
いくら35mmが横長でも、楕円のイメージサークルなわけではない。イメージサークルが丸ければ、本当は正方形のフォーマットが画質的には最適なのだろう。ローライや八ッセルが6x6と正方形なのも、実はそういう理由なのだろう。
以前「35mmフルサイズデジタルなんていらない!」などといささか、大げさに言ってみたが、
イメージサークルを想像しながら、写真を見ていると、
実は、35mmレンズの性能を最大に発揮するには、24x36mmではないような気がする。
特にこれから超高画素化(2200万画素、4000万画素超)になると、デジタルパックやフォーマットの大きなデジタルカメラとの競争になるだろう。そういう高級機に対するためにも、豊富な35mmレンズの究極な性能を発揮するためにも、24x36を捨ててもよいのではないかと思う。
僕が適当に、こんなんなのかなって提案するのは、28mmx34.5mmのフォーマットだ。感覚的で数値的な根拠はない。2枚の写真を見比べてもらいたい。フルサイズより1割以上大きなフォーマットが35mmレンズで可能だろう。

aspecthi


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2005.10.04

Eos5Dインプレッションと肖像権侵害

まず、肖像権侵害訴訟について、評論家、ジャーナリスト、作家、学者である武田徹氏にちょっとメールで意見を聞いた。彼の備忘録に触れられている。
・・・・確かにこれは個人の権利を巡る些細な争いのようにみえて実は大きな公共的なものに関わっているもんだいだ。自分の顔とは誰のものなのだろうか。それは自分ではなく誰にも開かれた景色に所属すると言ってしまうのは間違いなのだろうか。
もしも表情が本人に帰属するもので、本人の同意なしには複製?できないものだとすれば都市の風景の写真は(『Nobody Tokyo』はその意味でとても逆説的なものだったがーー)被写体の同意が伴う、自意識の延長上に位置づけられる。それは果たして(バルトに言わせれば自意識から隔てられた細部の集積としての世界を記録することにこそその存在価値がある)写真というメディアの存在自体の否定に繋がるものではないか。ここで思考実験。もしも鏡や、他にもあらゆる反射像を生み出すものの存在を厳しく禁じ、また水面に自分を映し出すような行為もまたタブーとする宗教があって、自分の顔を見られずに育つ文化があったら私たちの自意識や権利意識はどう変わっていたのだろうか。「私」とは「私」の器の内側なのか、外側も「私」なのか。内側の「私」と外側の「私」はどう関係するのだろうか。・・・・・・

kujukuri24-105mm1000IMG_2300
24-105mm F8 
クリックすると、72pixel/inch で横幅を1000ピクセルにリサイズした何もしていない画像が開きます。
下の写真も同じ。

さて、Eos5をテストした。というより、僕はテストが嫌いなので、ただただ撮影した。
なにより一番興味があったのは、EF50mmf1.4でどのように写るかだった。上の写真が新しく発売された、24mm-105mmf4だ。F8で撮影している。ブレ防止の入った、ちょっと重たいがそつのないレンズだ。
そして、EF50mmf1.4。銀塩時代から僕の大好きなレンズだ。APS-Cでも、ポートレイトレンズとして気に入っている。
10月末にアスペクトから発売される、「5D」の本に紹介するテスト撮影だ。(テストではない、本気だ)
僕が細かいメカニカルなことを書くことはない。興味がないからだ。
それよりどう写るかと、使い勝手が興味だ。
下の写真が、F1.4開放撮影だ。周辺が落ちている。これをネガティブに思う人は、写真を知らない。それがいやだったら、開放で撮らなければいい。どこかに書いてあるように、F8ぐらいい絞れば完璧になるだろう。でもそれがなんだ。そんなことをしたら、24-105で撮った写真と同じになる。
開放で撮ることによって、雰囲気のある、このレンズの魅力がでる。本来これがこのレンズの個性だ。つまらないことを指摘して、技術者に無駄なプレッシャーを与えないように。ニコンがいつまでも、液晶にカバーをつけているのは、そんな瑣末なことに文句を言う人がいるからだ。
Eos5の感想。素晴らしいバランスデジタルカメラだ。
20Dと交互に使うと、なんだか645を使っているような気がする。
ファインダーは見やすい。四隅までがくっきりとしてる。
見えすぎて、ちょっと構図が丁寧になりすぎるかもしれない。振り回して撮るカメラではないのかもしれない。
合焦も20Dより、すばやい。
唯一の欠点は、大きく見やすくなった液晶が、屋外では最大に明るくしても暗く、ヒストグラムを表示させないと不安なことぐらいだ。
フルサイズ35mm、本当にこれは、35mm銀塩カメラの後継者なのか。
いつの間にか嫡子は、APS-Cのようになってしまった。フルサイズデジタルは、中盤サイズのカメラにリエゾンした、新しいカメラに思える。
東京はどんよりと曇っていたが、撮影地、九十九里は、時折薄日が差した。
撮影は、スターダストの中島怜美(さとみ)さん22歳のポートレイトだ。
今年理工学部を卒業した才媛。微分積分が大好きといい、今気象予報士の勉強をしていると言った。
きっとそのうち注目されるだろう。
ここでその写真を紹介することは、できない。彼女の魅力は、本を買ってください。
9ページにわたって紹介する予定です。
kujukuri50mm1
CanonEF50mmF1.4 絞り優先オート F1.4で撮影

協力 アスペクト 「Eos5D」10月末発売


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銀塩式デジタルレタッチのやり方 その2

銀塩式デジタルレタッチやり方 その1

日本カメラ11月号で、課題「銀塩式デジタルプリント法」を紹介すると前回書いた。
今は、そのゲラの最中だ。そのなかで、きわめて簡素な僕のデジタル作業場が写っている。
僕が現在使っているのは、DellのDimenshionと、DellのノートLatitudeだ。
わけがありLatitudeは2000の英語版と2000の日本語版の2台ある。
なぜ、僕がWindowsを使っているいるか説明する。
僕がパソコンを始めたのは、もう10年以上まえだろうか。92,3年、MacFXという180万ぐらいするおもちゃだった。その後、実用的なPowerMac、そしてPowerBookだった。その後i Macが発売されたと同時に買った。
本格的にパソコンで写真を使い始めたのは、PowerMacからだ。銀塩写真をスキャニングして、プリントする。1997,8年のことだったろう。僕は完全なMac派だった。
ところが、2000年の秋、CanonからD30がでた。その完成度と値段にひかれた。つかいこなすためには、どうしてもノートパソコンが必要だった。しかし、その時代、やっとi-Macがでたばかりで、Macはこのあとの大進撃は夢のような時だった。なにしろ僕のPowerBookは、ハードディスクがたった1Gなのだ。買った値段は40万ちかくしたと思う。1997,8年だ。
しかたがなく僕は、ビッグカメラで、それまで映像をやるにはと、偏見のあったWindowsを物色した。
B5サイズ、IBMシンクパックは、なんと20G,メモリー256Mだった。僕は卒倒した。買ったばかりのi-Macがたしか4Gだったのだ。僕は迷わずIBMを買い、D30を持ってベトナムに行った。小松千春写真集だった。しかし、撮影はコンタックス645と、Eos5、1、3で撮った。D30は、あくまでメモスナップだった。しかしそれをパソコンにいれ、デジタル写真の始まりだった。
僕はコンパクトデジカメを使ったことがない。IXYデジタルをもらったが、レスポンスが悪かったのであげてしまった。編集者がよく持っていたが、デジタルに全く興味がなかった。しかし、D30を触って、可能性を感じた。
それでも仕事に使うことはなかった。
それが2002年だったろうか。D60が発売され驚愕した。使える。仕事で使えると思った。
そのときにIBMのBackUpとして、DellのB5を買った。そのとき僕はあるソフトに出会い、完全にウインドーズ派になっていった。
それはACDSeeという世界最速の閲覧ソフトに出会ったからだ。それもベトナムでだ。
僕はデジタルの進歩は素晴らしいけど、写真のセレクトや管理がまだまだだと思っていた。ポジフィルムをスリーブや、マウントで何千枚もチェックして選ぶスピードは、デジタルにはまだできないと思っていた。
ところが、僕のベトナムの友人、コーディネーターのチュンさんが、僕がセレクトに四苦八苦していると、ACDSeeを教えてくれた。当然コピー版だ。
僕はそのとき、自分の無知を知った。
世界最速歌ったACDSeeは、スリーブで選ぶより何倍も早く選ぶことができた。日本に帰り、ビッグカメラに行ったら、ちゃんと売っていた。

そのソフト出会って僕は、35mmの代わりにデジタル一眼が使えると確信した。Jpegでしか使えなかったが、僕はもともt、Rawではなく、デジタルはJpeg以外意味がないと思っていたので、何の問題もなかった。(新しいACDSee7.0.は、Rawもサポートしている)。
ところが問題があった。僕はざっと選んで、デザイナーに渡すと、彼らは青くなった。Mac使いの彼らにとって、当時はPhotoshopですべてを開くことになるので、選ぶのに膨大な時間がかかるからだ。横木さんデジタルは困るよと言われた。
Mac用のACDSeeもあるが、W用のようには早くないので、薦められなかった。写真をセレクトし、フォルダーに分け、モノクロのプリントのイーゼルのように、余白でプリントできるACDSeeは、僕のデジタルに対するコンセプト、アマチュアスタイルに合致した。
僕は、ずっとD60を使い続け、10Dは使わなかった。そしてKISSーDの発売の販促にかかわり、KISSDを使い、そのごニコンD70を使い、そして20Dにたどり着いた。
実は、D60がでたとき、Canonの人に次に600万画素のフルサイズが絶対に必要だと力説した。
D30のC-Mosを二つくっつければ、できるじゃないか。35mmのかわりだったらフルサイズ600万画素で十分だと。なぜ35mmフルサイズが必要なのかと。
それは35mmサイズという歴史のなかに入るか、その外側になるかということだと。
そのうちEos1Dsがフルサイズで発売されたが、値段と1100万画素という、中途半端なものに、がっかりした。
KISSDに、18-55mmのセットレンズをつけたものと、1Dsに50mmf1.4をつけ、アナクロにも天気のよい富士山を画角をそろえ撮影して、A3ノビにCanon9100iでプリントした。
結果、ほんんどの人が、ぱっと見ではわからず、周辺の微妙なにじみや、こっちはシャープすぎるから、KISSだとまことにプロっぽい目でしか違いがわからなかった。そのときまで、僕は高画素化より、APS-Cではなく、完璧である必要はないから、フルサイズが欲しかった。
それから2年たってようやく、Eos5Dが発売された。遅い。1200万画素などといわなければ、もっと早く発売できたのに。まあ、しかたがないか。
僕は、プロになり、メインカメラはずっと120、220のブロニーサイズだった。初期は八ッセル、後にマミヤRZ67、その後コンタックス645、そして今またマミヤRZだ。
その上が4x5で、下が35mmだ。35mmにブロニーぽさを求めたことは一度もなかった。35mmカメラには、35mmにしか表現できない世界があり、それが必要だったからだ。それは何かというと、動きだと思う。そして偶然性を一番呼び込むカメラだからだ。どんと撮りたければ、6x7や4x5そして8x10を使えばよい。
一時グラビアが多かったので、必然的に皮膚感の描写のよいことも理由だったが、何よりも依頼された仕事は、コントロールしやすい機材が必要だったからだ。6x7はゴールが見えている仕事に最適だった。
そいう僕が、初期にはフルサイズを望んだが、そのうちAPS-Cサイズを使うようになって慣れてしまった。いや、もしかしたら、35mm以上に、軽快に撮れることを知ってしまったのだ。
僕はあまりファインダーをよく見ない。35mmで四隅までよく見ることを拒否している。当然、、オートフォーカスしか使わない。だから多くのプロのように、ファインダーにはさほど不満はなかった。マニュアルフォーカス時代からレンズ開放撮影の多い僕にとって、全こまピントがあうことは、期待していなかった。オートフォーカスになって、やはりピントの合う確率は同じぐらいだった。僕は35mmのピンとは、たくさん撮ることで解決していた。何割かは開放でもどんぴしゃのピントがくる。
さて、銀塩デジタルレタッチのやり方と書いていながら、いつのまにか、デジタルカメラの話になっていったが、実は今日、Eos5Dをテストした。そのレポートは、次のブログで。


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2005.10.03

肖像権侵害 その5

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肖像権侵害その1

その5
この問題を、知ったとき、ある意味写真家のエゴとして、街でスナップ写真を撮ることが否定されたような気がして、「日本ファッション写真協会」は、写真家の権利を守るためにも、単純に控訴するべきだと思った。しかし深く考えるようになって気持ちは変わった。
だいたい日本ファッション協会は、さんざん写真の恩恵にあずかりながら、それを撮っている、カメラマンにたいして尊敬の気持ちのない団体だとよくわかったからだ。写真はただの記録ではないんだよ。
Satoboの写真日記を読んでもらいたい。彼の写真家としての、心の優しさに僕は、ドキッとした。そして彼が、写真に写っていることは、真実じゃないんだよと、僕がいつもいいっていることと同じことを、この問題の女性に、この写真を見た人に言っているからだ。こんかいの最大の被害者は、この女性だ。
そしてニュースになり、彼女の姿は、日本中にばらまかれたに違いない。
いまや、ネット時代になり、それを阻止することはできない。

本当に、SEXという文字の書いたTシャツを着て、肩をはだけて歩いたらいけないのだろうか。
彼女は、意識的なおしゃれをしている。しかし、リスクはあった。
鏡の前とは違う自分。
●写真に撮られた、その姿は、本当にそうだったのだろうか。

前のブログにも書いたが、写真の瞬間は目に見えない。カメラは人間には見えない瞬間を捕られることができる。
あれは一瞬の目には見えない世界、少なくともあの写真としてのバランスは、あの日、あの時に存在したことなのだろうか。
ファション写真に限らず、プロはひとつのシチュエーション、一枚の写真を得るためにたくさんの写真を撮る。どんな美しい人でも、目を半開き、くちはだらしなく、醜いポーズはたくさんある。そういう写真を使うことはない。全部僕は捨ててしまう。
インタビュー写真を使うとき、わざと醜い表情を使う編集者がいる。
そこにはある種の、マスコミ的権威やスタンドプレーとしての悪意がある。
被写体と面と向かった、カメラマンは絶対に選ばない写真を、そういう人は選んだりする。その醜い表情がその人間の本質だからだと。
カメラマンはそんなことをしない。(報道のもとに最初から悪意を狙うこともある)
もし、醜い表情を選ぶとしたら、本当に、向かい合った人間に、この表情があなただと、面と向かっていえるなら、使えばいい。黙って悪意の垂れ流しは、2チャンネル(の一部)と変わらない。どうしても其の写真がつかいたければ、説得するだろう。それだけ相手を傷つける価値があるのだろうかの自問。たとえNoと言われても、価値があれば使う。ここは、写真家個人の品性で、やはり受けて立つ責任がある。

街でスナップしたとしてもそうだ。きわどい写真を撮るならば、胸倉をつかまれても、誠意をもって対応するしかない。逃げ出してもいい。そしてもし使うとしたら、やはりこの写真がどういう意味があるのか、自問しなくてはならないだろう。それでもその写真を発表したければ、すればよいのだ。何も考えずにオートマチックですることが一番よくないだろう。

この問題について、日本ファッション協会は」声明をだすこともない。
日本写真家協会はどう思っているのだろうか。
ただ大げさになり、この程度のことで、彼女がますます晒されることもよくない。
いやさらされたことはもう認めなければならない。

ファッション協会のサイトはリニューアルしたが、あいかわらず、写真は誰が撮ったのかわからない。
コピーライトは協会にあるとされている。しかしどうころんでも、撮ったのカメラマンがいる。彼が著作権について全面的に放棄しているとサインしているのだろうか。

この問題の本質に、写真を撮るとうことは何なのかというが、あいまいにされていると思う。
多くの偉大な写真家がスナップ写真を撮ってきた。
ポートレイトとは違う、被写体にきずかれない、撮り方、
そこから人を感動させる写真が、スナップ写真という、ジャンルを作り上げたのだ。

それが写真も、写真家をも、なんとも思っていないサイトが、こういう事件を起こす。
そしてさっさと自分のサイトを防御して、写真にとってきわめて大きな問題を、気がついていない。
たった35万と、自分のサイトを、強固にするだけで、満足している。
ファッションという、写真と密接に関係した団体がこの程度の意識であることが悲しい。
日本のファッション写真が情報以上にならないのは、このあたりに理由があるのだろう。

訴えた女性は当然の権利だ。自分がその立場だったら訴えるだろう。2チャンネルは便所の落書きだ。そこに異はとなえられない。まだネットの世界は未完成だからだ。これは管理するべきか、自由であるべきかは、答えがでていない。いや実際はかなり管理されているはずだが。
問題はこのことを、うやむやに、おとなしく忘れ去って欲しいと思う人がいることだ。
忘れて欲しいと思っているのは、当事者の女性だけがいえることだ。

そしてなにより、Satoboのことば、
これが写真家にとって一番大切なことだろう。彼女の復権は、こういう気持ちを持つことだ。

どちらにしても被害者はこの女性である。
この服装で出かける事はもうないだろうなあ。
笑顔できめている写真を撮ってあげたいなあ。 satobo

PS.
一般的に、いまや現在はこういう考えになっていることを知るべきだ。
これはでは、スナップ写真は死んだと同然だ。
当然広告には、論外、唯一、
ジャーナリズム、アートと、表現の自由として戦う気があれば、その限りではない。
訴えた相手と、どうどうと戦うべきである。
そして、一方、言論、表現の自由というものがある。
弁護士 落合洋司の「日々是好日」より


肖像権侵害その1

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