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2006.01.16

写真展開催中 

●Teach Your children 1967-1975 写真展 (1月10日より2月25日) pm1:00より7:00
日曜、月曜 休廊
アート・フォト・サイト・ギャラリーBlitz

●Teach Your Children1967-1975写真展の内容は、ここをクリック

写真展会場、横木安良夫がいる日時。明日17日(火)は、4時から7時の間います。

 1月16日(月) 休廊   
●17日(火)pm4-7  
18日19日20日未定  ●21日(土) pm1-7
 
●「Teach Your Children 1967-1975」写真展の写真解説です。
このBlogだけでに公開です。写真展には、ひとつひとつにはキャプションはありません。
これはあくまで裏話です。
kikugawa1971

1971年僕は大学を卒業した。当時も、今でもそうだけれど、4大の写真学科を出たからといって、就職先がふんだんにあるわけじゃない。いや、全くないといえる。僕が受けた、当時一番人気の名門デザイン制作会社N社は、前年5人ぐらい雇ったので、この年の枠は3人。すでに2人は内定したいたような気がする。ということは、枠は1。入れたのは、学年で一番、写真のうまかった、同じサークルのTだった。彼と競争して勝てるものは、そのときいなかっただろう。順当な結果だ。
そのほか、D広告代理店、H代理店も、すでに内定済み。新聞社の募集 0. 少なくとも学生課の壁に貼られた募集に、大手はほとんどなかった。
かといって、さほど驚くことでもなかった。なにしろ、当時写真の大学に行くなんていったら、たいていの親は反対しただろう。まあ、音楽や、文学よりは、技術を身につけるのでそれよりはハードルは低かったかもしれないが、社会一般から見れば、写真を勉強しているなんて、違う意味では羨望のまなざし、もしかしたらなんて楽天的なんだなと馬鹿にされていたかもしれない。挙句に月謝は高い。
僕は、就職試験をいくつか受け、まあ、さしてどこかに入りたかったわけじゃないから、落ちたところでさほど悩むことはなかった。当時のスター写真家が皆、フリーランスだったこともあるだろる。漠然と誰かの助手なればいいかなと思っていた。
もっとも、いちおうもんもんとしていたので、大学時代付き合っていた子、茅ヶ崎に住んでいた子に、(前の記事の子ではない)1971年5月16日突然、振られてしまった。よほどのショックだったのだろう。日にちまで覚えている。
ラジオからは、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」が流れていた。

直後、N社でバイト始めた。撮影助手志望だったのに、暗室に回された。毎日、毎日、単純な、それでいて難しいドラム乾燥機による印画紙のフェロ乾燥だ。でも、ぼおってしていてもできる仕事だったので、失恋の痛手の回復にはちょうどよかったかもしれない。しかし、それでは写真が撮れないので、3ヶ月ぐらいでやめた。
そんなときある人の紹介で、師匠の面接を受けた。すると、今助手が二人いて、まだ入ったばかり、仕事を減らすから(といっていたが、途中で方向転換)と、数年待てるのなら、次の助手にしてくれると言った。いや、渡りに船だった。
なにしろ、その頃僕は猛然と写真を撮りだしていたからだ。今回の写真展の多くは、この頃の写真だ。
もしかしたら2年間ぐらいバイトをしながら、自由に写真を撮れると思った。撮りたかった。

上の写真はその頃、撮ったものだ。静岡県の御前崎の近く、菊川にあるお寺で撮ったものだ。
僕が受けて落ち、同じサークルのAが就職した、そのK社のマネージャーの実家だ。皆で休みのときに(僕はずっと休みだったが)東名高速を、たしか車2台で飛ばし行った。
布団が3つ(なんてかぞえるんだっけ)、ならんでいるが、一番奥の乱れているのが、僕。
ああ、今と同じになんでもちらかしてしまう。
真ん中が神戸でカメラマンをやっているK。そして一番こちら側が、A。
僕とAの違い。なんて几帳面なのだろう。
Aについては、面白いエピソードがある。
K社に入ったAはストレスで、何しろまじめだから、すぐにストレスになる。学生時代、当時は珍しかった、円形脱毛症になったくらいだ。その彼は、酒はまったくだめ。下戸だ。ちょっとしかのめない。それがたまたま、夜、A以外の数人で、練馬に住むSのところに集まって酒を飲んでいた。
すると変な電話がかかってきた。おかしい。Aだ。なにやらわめいている。SOS。必死で電話してきたのだ。
僕ら車を飛ばし彼のアパートに向かった。幸い玄関の鍵がかかっていない。
Aは、昏倒していた。意識はあるが、動けない。仕方がなく病院まで運び、救急で入院させた。
急性アルコール中毒だった。
ちっとも面白いはなしではなく、大変なことだったが、いや遅かったら命も危なかった。と医者が言った。だから僕たちは彼の恩人でもある。
ところで、何が面白かったかというと、そんな酩酊して、やっとのことでSOSを発した電話に、きちんとカバーがかかっていたからだ。電話にカバーは昔よくしたあったが、若い人はそんなことはしない。しかし几帳面だったAは、カバーをしていた。それがあんな状態なのに、そんなときでさえ、礼儀正しく、電話にちょこんとカバーをかけているのだ。笑えた。
その後彼は、少し酒が飲めるようになった。

時間はかかっても、助手になれると確信した僕は、たくさんの写真を撮っていた。ところが、師匠の事務所から、正月明けから来るようにと、突然言われた。う。せっかくカメラ毎日、アルバムに載ることが決まったのに、それはいいとして、その先もっと、もっと、撮りたかったのに、・・・・なんて思いもしなかった。
万歳。やっと助手になれる。でも。今考えると、もう少し後、半年でも遅かったら、きっと今回の内容の写真展はずっと昔にやっていたかもしれない。
僕が写真展をやったのは、1985年、フリーになって10年目、ニコンサロンで「DAY BY DAT」(特別な毎日)をやったが、発表した多くの写真は1975年から85年の独立してからの写真だった。


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