TYC写真展 市川南
市川南 千葉 1968
僕は、市川市国府台で生まれた。家のすぐそばの国立国府台病院だ。小学校は国府台小学校。中学からは越境して東京に通っていた。
大学を卒業して、アシスタントになったばかりのころは、六本木まで当然家から通っていた。
しかし前代未聞、アシスタント分際で、毎日自分のクルマで通っていたのだ。
そして毎日、六本木スタジオの駐車場に黙ってとめていたのだ。
なぜならクルマを止めるスペースがあったからだ。
当然数日で発覚し、皆にあきれられた。
しかたがなく、テレ朝通り、(材木町通り)、今はなんていうのだろう、ヒルズ西通りとでもいうのだろうか、そこから麻布十番に抜ける道に、路駐した。今みたいにレッカーがある時代ではないが、心配で3時間おきぐらいに、見にいった。これじゃ仕事にならないので、クルマで通うことは断念した。
その後、ガールフレンドができて、彼女のアパートにもぐりこむことになる。クルマは乗らないので友達に貸した。
それまでのわずかな間だが、家から六本木に通ったとき、東京に行くには、かなり困難でもあった。
川が多く、橋があるせいだろう。
市川の国府台と言う場所は、新興住宅がおおく、当時はかなり活気があるところで、市川ー松戸間の京成バスは、大型バスを連ねて、ピストン輸送だった。
当時、京成国府台は立体ではなく、踏み切りだったので、大渋滞、スムーズだったら市川ー国立国府台病院前は10分もかからないのに、毎日その時間、最低20分、ひどいと40分もかかってしまう、難所だった。
だから遅刻しそうな人は、白タクで乗り合い、裏道を走り、駅まで行った。
自分の車でそのラッシュ時間を走るのはやはり裏道を走るしかなかった。
ようやく抜けて、上の写真の市川南あたりにくるとまずは一安心だった。
それから行徳橋を渡り、葛西橋をとおり、当時はまだこの道はすいていた、そして銀座、六本木に行ったのだった。
市川駅の南口は、今もさほど栄えてはいないが、かつてはサイダー工場だったろうか、この写真は、今の竹中製作所あたりだろう。このあたりに、僕が小2ぐらいのことだから、昭和30年代初め、写真家小暮徹のお父さん、著名な書家の、小暮青風の書道塾があった。母親と僕はほんのしばらくそこに通っていたことがある。母は懇意で、家の表札を書いてもらった。ところがだんだん褪せてきて、あるとき父親がその上からなぞってしまった。
そのときの母の怒ったこと。その後、小暮先生は、市川真間に引っ越したと記憶している。
記憶だと、小暮徹は、僕が助手時代、ニコンサロンで写真展をしたように思うが、記憶違いかもしれない。
そして1975年、ほぼ同じ頃、小暮さんはパリから帰ってきて、日本で仕事を始めた。まあ、なんとなく知っている間柄だが、ほんの少し年上でもあり、ほとんど話したこともない。
上の写真は、理由は分らないが、なぜか好きなのだ。きっと昔の記憶にこの風景がインプットされているのだろう。
日、月が休みです。(2月5日、日曜日のみ1-5時OPENしています)
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☆☆
僕はなにも見ていなかった。
だからこれは僕がみたものの記録ではない。
これは僕がその時代に吸った空気、
その時代に若く生きた、気分の記録。
あの時代はよかったなんて懐かしんでいるんじゃない。
誰にでも一度はある若い時代、
まだ何の見通しも、さしたる経験も、
本当の挫折も味わっていない
ひとりの人間が、
世界と遭遇したときに、
感じ、掠めとった寓話。
18歳から26歳、
僕は夢中になってシャッターを切った。
●まあ、俗に言ってみれば、団塊の世代の、どこか浮ついた青春まっただかの写真かな!
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