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2006.05.02

写真は撮るもの、見るもの、買うものじゃない。

Miniphototext_1
横木安良夫mini写真展「DaydreamBeliever」
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5月12日から、渋谷パルコPart1 地下ロゴスギャラリーにて、
レアブックコレクション(写真集)がある。

★その壁面を使い、横木安良夫ミニ写真展
「SHIBUYA NOW AND TEHEN」
~DAY DREAM BELIEVER~展を開催する。

今回も前回の写真展どうよう、写真を販売する。
今回は、1967年から2006までの、
パルコのある渋谷カルチャーをテーマにセレクションした。カラーとモノクロの写真だ。
会期中、会場に行くこともあるので、最新BLOGをチェックしてもらいたい。
それについて、長文を書いた。頑張って読んでください。

50062

写真は「撮るもの!」「見るもの!」
買って「所有する」もんじゃない!

いまや写真の歴史上最大の、「写真を撮る」ブームだ。
いやもうこれはブームとはいえない、空気を吸うように日常生活に組み込まれている。
そのほとんどはカメラつき携帯や、デジタルカメラで撮る写真だ。
もはやそれは写真というより、「空間複写機」、「思い出定着機」だ。

インターネットや携帯電話の出現によって変わったのは、写真ばかりではなく、
人間のコミュニケーションだろう。
例えば恋愛初期のもんもんなんて、ほんの10年まえだったら、
電話をしようか、ラブレターにしようか、直接告白しようかなんてチョイスで悩んだものだ。
いまやそのエネルギーは極小になっている。

便利になることによって、人間のある器官が退化するのはしかたがないのだろ。
現代人があらゆる便利さの恩恵を受け、昔の人と較べると、
かなり精神的、身体的能力が変わってきている。
まあそんなこと悲観しているわけではなく、その代わり人間は違うことが発達する。
かつて人間は、自然に順応するために、
かなりのエネルギーが使った。
それが今やパソコンや携帯に順応することに汲々としている。
それは自然のような「神?」が作ったものへの理解ではなく、
人間が作ったものへの「理解」の強要だ。
現実はかなり偶然でなりたっているが、どんな複雑なゲームでも、
それは人間が都合に合わせて設計したものだ。

だから今の日本では、「神」の創造した現実より、「人間」が作り上げた、
バーチャルな世界でコミュニケーションする能力が必要なんだろう。
きっと日本人はそんな「新世界」に最初に順応した民族なのかもしれない。
ただそれが幸福かどうかは、別問題だ。順応しているつもりでも、たくさんのほころびがでるのだろう。
所詮、人間のつくりあげた、小さな世界を「強要」、「隔離」、していることに違いないからだ。
バーチャルな世界、実感の無い世界に生きる人間は、自分の「生」としての存在感が希薄になる。
それにひきかえ、極限状態、たとえば戦場の人間は常に自分の「生」と「死」を常に意識することになる。
だからこそ、その恐怖をから逃避するために、「宗教」が必要になり、
ベトナム戦争ではドラッグが必要だったのだろう。

バーチャルな世界に生きる人間は、
自分の「生」と「死」を何かで確認しないと、不安になるのだ。
人間がつくりあげた、空虚な空間、なによりも、
偶然性のない、(パグぐらいか、パグは悪だ)世界を生きることぐらい、息苦しい世界はないのだろう。

現代人は、パソコンの中に生きているのか、この現実世界に生きているのか、
常に不安になり、それをたしかめるために、「写真」を撮っているような気がする。
それは携帯メールのコミュニケーションも同じだ。
内容じゃない。
「相手がでる」
「相手が自分を認識」している。
それだけで少し不安が解消する。
でもそんなことたいした実感じゃないから、ふたたび不安になる。
そしてまたメールをする。

携帯電話って、僕の子供のころから思えば、ほとんど「テレパシー」だ。
飛行機によって人間が鳥になったように、携帯電話によって人間は「テレパシー」を獲得してしまった。
ところが、テレパシーという新しい能力を持ってしまった人類は、
それにたいしてどう対処していいのか分らなくなっている。だからかえって、不安になる。

かつてだったら悶々としていることが普通でも、
青春は「苦悩」の時代であることが、当然だったのに、
今やそれを一見インスタントに解決できるような、「機械」(テレパシー)を獲得し、
すぐに不安を解消しようと思ってしまう。
しかし実際、不安は解消されることがない。
誰かにすぐ「つながる」ことはあっても、それはあくまで、つながっているだけだからだ。

バーチャルじゃなく現実世界に人間が生きている限り、本当の不安は解消されない。
最近の犯罪も、この「自己の生と死の確認そして
「他者による生と死の確認」、それはきわめて利己的な
バーチャルな世界の「不安解消」のためにと言えるかもしれない。
「俺をみてくれ!!」
根本的には愉快犯と同じような、現代人のさびしい自己顕示なのかなと思う。


さて、オリジナルプリントを買うと言うテーマから、大きく話題がそれてしまった。
写真は、「撮るもの」「見るもの」で、「買うもんじゃない」
写真を壁に飾りたければ、
「自分で撮って額にいれ、飾ればいいじゃん」
「写真なんて誰でも撮れる」のだから。
絵やリトグラフのようなものは、その作者にしか作れない。
それに引き換え写真は、巧い下手はあっても「誰でも撮れる」と思われている。
ましてデジタルカメラの発達した時代、世にあるフォトブログを見ればわかるとおり、今や写真のレベルは、プロもアマチュアも差が無い。そんな時代になってしまった。
そんな風に自分でも作れるもの、撮れるものを買う意味、所有する意味とはなんだろう。

写真は、「一枚の傑作写真」を見る時代ではない。
いまや写真は巷にあふれ、今、生産されている無量大数の写真は、
きっと50年たってもたいした意味はないかもしれない。
写真は古くなればなるほど価値があるといわれていたが、それはあくまでも希少価値だったのだろう。
今撮られている、無限の写真は、人類が終焉して、ごく一部だけ残れば価値はでるだろう。
そうでなければ、今撮られている写真が50年、100年たったからといって、価値がでることはないだろう。

それでは、ますます、これから「写真の価値」は、なくなる。
「いやそんなことはない」
それは写真の機能としての「一枚の写真」の世界から、すでに大きく変容しているからだ。

それは写真が「一枚」でありながら存在できてたとしても、
写真で何かを表現したいと思っている「写真家」にとっては、
その「傑作の一枚」では、「意味がない」からだ。
一枚の傑作写真を撮ることは、ある意味、プロも、アマチュアも、初心者もベテランも、
日本人もアメリカ人、ベトナム人も皆、平等にチャンスを与えられている。
だからどんな素晴らしい瞬間を撮ったとしても、それでは、「写真家」とはいえない。
もし一枚しか撮れなかったならば、言葉を屈指して、
自分のバックグラウンド、「世界観」を構築すればよいのだが…。

たいてい写真家は、多くの作品を撮ることによって、それをまとめ、
写真集や写真展、雑誌への発表などで、「傑作の一枚」ではなく、自分の「世界観」を作り上げる。
なぜ世界観が必要かとうと、写真を見る側は、自分の経験でしか、その写真を見ることができないからだ。
写真に限らず、多くの芸術は、見る側に、見るため、聞くため、味わうための、
訓練(受け入れる用意・・・知識のようなもの)を本当は要求する。
そうでなければ、どうこの作品を見て欲しいのか、伝える必要がある。それがコンセプトだ。

しかし現代社会は、大衆に受けるとか、
儲かることが優先されているので、(確かに大衆に受ける=莫大な利益を生む)、
味わうための知識の必要ない、よく言えば根源的な、普通にいえばどうでもいいこと、
「無知でも理解」できるレベルのものが、社会に蔓延する。

写真で言えば(誤解を恐れずにいう)、美しい、風景だ。美しい花もそうだ。
見た感動をそのまま写す。
「素晴らしい」
本当にそうだ。
でもそんなふうに、目で見て、美しいものは、
「目で見れば」いいのだ。
かつて未知の世界、
「あなたは、月の裏側にいけますか?」
「そんなの誰も行けないよ」
「だから撮る価値があるんですよ」
かつて、エジプトのような場所に誰でも行けたわけじゃない。
まだ「旅行」というものが、自由にできる以前のこと、
ピラミッドを大型カメラで写真に撮る意味は大きかった。
そんなふうに、かつて写真家は、そこにいけない人のための「代理人」だったのだ。
しかし今やそんなことは意味がない。どこにでも行ける時代、
「不精な人間の代理人」なんて、大して意味がない。もはやそれは写真家の仕事ではない。
なんどもいうけど、「目で見えるもの」は、自分の「目」で見にゆけばいいのだ!

僕は風景写真や花の写真をバカにしているのではない。
そういう日常のものこそ、撮ったその人にしか見えないものを撮るのが写真家の仕事だ。
目で見たとおりに(本当はそんなことも不可能だ、そう思っているから怖い)撮るなんて、ナンセンスなのだ。
だから花の写真は誰でも撮れるようでいて、誰でも撮ることなんてできない。

さて、写真家とはなんだろう。
一枚の傑作写真を撮るのが写真家ではない。
写真家とは、ひとつひとつは一枚の写真によって構成されていたとしても、
それによって、自分の「世界観」を構築できる人が写真家なのだ。
それには、特別言葉がなくたっていい。
ただ言葉は、自分の写真の見かた理解のしかたを、
伝えるための道具として有効だ。
さきほど書いたとおり、写真家とは、一枚の写真を見せることではなく、
その写真家の「世界観」を構築し、
それを表現するのが今や「するべきこと」だからだ。

一枚の写真について、語る必要なくてとも、
その写真家の全体を理解してもらうには、
やはりことばはスピーディで有効だ。
自分が語りたくないのなら、誰かに語ってもらえばいい。

良い写真家とは、その写真家が「世界観」をきちんと構築しているかどうかだ。
その「世界観」は、千差万別、スペクタクル、宇宙的、のスケールの人もいるが、
四畳半的、極小の「世界観」の持ち主もいるだろう。
それは、優劣ではなく、「違い」だ。

写真家の作品を買うということは、その作家の「世界観」に共感し、
その作家の描く「イメージ」の世界から、
写真家が撮影した一枚を「あなた」が選びだし、所有することだ。

それには、一枚の写真を見るだけではなく、
写真家の全体像、その写真家がどんな世界を作ろうとしているのかを
「イマジン(想像)」することだ。
そのイメージが自分と共感できるのならば、
その写真家の作品を所有する価値がある。
もちろん、所有するには、買わなければならない。
そこには市場価値というものがある。どんなに共感できたとしても、
自分の財布と相談しなければならない。
市場価値の高い、言い換えれば価値の定まった
もしくは希少価値、あなたがどうしても欲しいもの、
そして皆が欲しいと思うものは、高価だ。
アートのなかでは安価だと思われている写真でさえ高価だ。
価値の定まったものは高価だ。コレクターでなければ、買う意味もないだろう。


かつて写真は、他のアートからくらべれば、各段に安かった。
写真市場の活発なアメリカだって、1970年代、80年代は、安価だった。
100ドル代の写真はざらにあったし、
かなり有名に写真家の作品も500ドルぐらいで買えた。
だから多くのひとが、コレクターばかりか普通の人(写真愛好家)だって、
つまらない現代アートを買うより、魅力的で安価だった写真を買ったのだ。
その時代、アメリカには「売買の入り口」があったといえる。その頃かった人は、
かなり値上がりして驚いたろう。そういう時代だった。

ところが、日本ではそんな時代はなかった。
70年代、80年代、写真は広告写真の時代だ。写真を売るより、
写真を撮る仕事のほうがずっと魅力的な場だったからだ。
そのことによって、日本には、写真を売るという仕組みができなかった。
だから日本では、今、銀塩オリジナルプリントの価格は、
意味がない。(意味があればいいけど)ずうずうしく、
市場のあるアメリカ並みの価格になっている。
一部の、目ざといグループが現代アートとしてきちんと存在させているが、
それは他のアートと同じように、その作家の「世界観」を巧妙に作り上げているからだ。
(一番にメディア的に有名であるということ。
有名であることは、世界観を持っているということに、
日本ではほぼ等しい。タレントの本が作家より売れるのは、
テレビで毎日そのタレントの世界観をたれながしているから、共感されやすいのだ)

さて、ここに日本にデジタル写真の時代が到来した。
写真家は、銀塩写真とは違う表現メディアを獲得したのだ。
だからといって、写真の本質はなんらかわっていない。
なにより、発表するうえで、大きく変わった。
とくに写真展や、オリジナルプリントを販売するうえでは、革命的なことが起きている。
オリジナルプリント「売買の入り口」が存在しなかった日本で、
ようやくデジタルプリントによって、その「入り口」が開いたのだ。

「写真は撮るため」でも、「見るため」でもない。
写真家の「世界観」をイマジンして、そこから気に入った一枚を所有するのだ。
一枚の写真は、その作家の世界観の「断片」だ。
一枚の写真はだから決して完成形ではない。
完成されていないからこそ、その写真を所有した人の
「世界観」~経験、記憶、美学、生活、なにより写真は
あなたの「記憶」とコミュニケーションすることができる。
所有した写真は、あなた部屋の壁に飾られる。
スノッブな写真コレクターでなければ、
封をとかずに値段があがるまで、しまいこむことはないだろう。
写真家の写真は、日々あなたの日常のなかに、存在して、
あなたの部屋の空気感や、ライフスタイルと感応する。

それはと空間と時間を支配する音楽にとても近い。
壁に飾られた、写真家の一枚の写真は、空間はもちろん、
「現在、過去、未来」という、時間にも影響する。
写真家の写真を買う、所有するということは、そういうことなのです。
ひとたび、写真を見るのではなく、所有しようと思って、写真を見ると、
写真の見方がまったく変わることに、気づくはずです。

前回の写真展「Teach Your Children 1967年1975年」
では、モノクロプリントA3ノビサイズ、
デジタルアーカイバルプリントを、100ドルで販売した。

今回は、8x10(202mmx254mm)サイズの写真を販売する。
値段は、6000円(50ドル)額別、額込みで8000円(税別)だ。
従来のデジタルプリントの5分の1ぐらいの値段に設定した。
それは、新しい表現メディアである、デジタルアーカイバルプリントは、
日本のオリジナルプリントの「入り口」始まりだといの理解だから。

デジタルアーカイバルプリントは、銀塩写真と較べて、
特にカラーに関して言えば、CPプリントより、コーリティはかえって高いといえる。
それは100%と作者のコントロールした作品だからだ。
今回、作者のサインとエディションナンバー、1-50がつく。
会場には、アート・フォト・サイト・ギャラリーの福川氏がほぼいる予定。
オリジナルプリントのこと、レアブク写真集のこと、なんでも相談してください。


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