写真を「あからさまに所有する」
●5月12日~24日まで写真展 渋谷パルコPart1ロゴスギャラリー
●横木安良夫mini写真展「DaydreamBeliever」
●今日、渋谷パルコPart1地下、ロゴスギャラリーに、
明日から開催されるMini写真展のセッティングに行った。
am10時からpm9時までのずっと開いている。
僕は会場に4時に行くつもり。
●写真は見るのではない、
「あからさまに所有する」のだ。
あからさまに、「売り」あからさまに「買う」
●写真は所有してこそ、価値があり、そのメッセージが見えてくる。
いまや写真なんて、誰でも撮れる。
素人だって、子供だって、サルだって、犬だって、オービスだって撮れる。
きっとオービスのなかには、傑作写真はたくさんあるだろう。
一枚の傑作写真が撮れたからって、がたがた騒ぐ必要もない。
●そんな時代に、一枚の「写真を買う」、手に入れるってどんな意味があるのだろう。
今回、渋谷Logosギャラリーでは、今では売っていない写真集、
レアブックコレクション、いうなれば古い写真集を販売する。
基本的にはファッション写真が多いだろうか。
そんななかで、僕の写真も売る。
写真は「ただ見るものではなく、所有して見る」ものだからだ。
誰のものでもない、情報としての写真を見て、
いったい何が楽しいのだろう。
そりゃ、知識は増える。そして世界を知った気になる。
今や世界は情報で溢れている。
そこに新たな情報を詰め込むことに、何の意味があるか。
止まっている写真は見た気にさせる、最強のメディアだ。
何しろ簡単に記憶できる。
動いているものは、知った気になるが、なかなか記憶しずらい。
でもそれだけじゃ写真の本当の面白さはわからない。
写真は、世界をコンパクトに複写して、
持ち運べる芸術(メディア)だ。
写真に写っている世界は、人間の考えた世界、妄想した世界ではない。
例え、妄想し、絵空事に見えても、
写真は綿密に膳立てして、
目の前に存在させなければならない。
だから写真は目の前に存在している「こと」が、ありありと写っているのだ。
「見るだけ」なら、写真を撮るまでもないだろう。
「見るだけ」だったら、その現実、本物を見ていろ!といいたい。
自分の記録、自分の記憶としてのこすのは、いいだろう。
自分が撮ったものではなく、他人(作家)が撮ったものを所有して、
その写真を見ると、不思議なことが起きる。
それは、他者との交感だ。(芸術だったらあたりまえのこと)
写真は、そればかりか写っている世界と、
写真を所有したものとの、記憶との交感が始まる。
それは、三重構造になっている。
それは写真を所有してこそ生まれる、
感覚だ。
写真は、写真を撮った、人間が、「見たもの」というわけで決っしてない。
現実は、無限に流れている。ひとときも止まることはない。
人間はその瞬間瞬間は、ほとんど無意識だ。
写真家は、シャッターを切り、時間を止める。
その瞬間は、人間の目には見えない。
カメラは「時間を止める」ことで、存在する世界を教えてくれる。
そしてフレーミングという、世界の99.99%を排除する作業。
それが写真だ。
●ひとりの若い写真家が、ある著名な老写真家を撮った。
彼は自分の個展のために、その老写真家のポートレイトを使いたいと思った。
肖像権があるから、かってに使ってはいけないのだと考えた。
それがマナーだと思ったのだ。
彼は、老写真家に電話をした。
すると、その老写真家は烈火のように怒ったという。
「その写真は、君が撮ったのだろう!だったら君の写真だ!君には責任がないのか!いちいちそんなことで電話をしてくるな」ガチャン!!
●この意味は重い。
今写真家は、自分が撮ったものは、自分のものだという心構えがあるだろうか。
写真はただ、世界を複写しているだけじゃないのだ。
複写するだけだったら、機械だってできる。
そうではなく、写真は世界を見る、鏡であり窓だ。
世界と接点を持つことこそが、写真を撮ることだ。
それこそが、写真が芸術である最大の意味だ。
美しいから、写真が芸術なんかじゃない。
美しいか、醜いか、どちらも現実世界にあることだ。
それと、正面から向かい合うことが、写真なのだ。
そこでシャッターを切る。
撮られた相手が、その写真を使ってほしくないと言って来た。
当然だろう。二十年も前の写真を、例えそのときOKしたとしても、もう気がかわっている。
「No!」
そのとき、初めて写真家は、自分が撮った現実と向かいあうことになる。
ただ訴訟をしても、使いたければ、使えばいいことだ。
根性があればする。なければそれでもいいじゃないか。
もし、訴えられて、罰せられても、それが芸術だと思えば何も恐れることはない。
一番、恥ずかしいのは、誰に言われなくても、
のこのこひっこめることだ。
写真は、現実と向かい合うからこそ、芸術なのだ。
だからそのことによって、生じるトラブルにも責任があるということだ。
「老写真家が、撮ったのは君だろう?だったら君の写真だ」
というのはそういう意味だろう。
そのことで、社会から批判を受けることも、
賞賛されることも、
写真家は全部受け入れなくてはならない。
だから、誰でもができるわけなはないだろう。
だからこそ、誰もが写真家になれるわけじゃない。
●写真を売ることについては、もう何度も書いた。
僕は、コレクターのために、写真を撮っているんじゃない。
音楽だって、映画だって、小説家だって、皆、多くの人に何かを伝えたいのだ。
だから、音楽にも、映画にも、小説にも、絵にもできない、こと、
写真でそれをやりたいだけだ。
僕は、今、多くの言葉を使う。使うことによって、写真を知ってもらおうとしている。
でも、写真はことばでは、伝わらない。
写真は一瞬情報として眺めるのではなく、
その写真を生活のなかに取り入れてじっくり眺める、
そのことによって初めて、
ことばにならない、メッセージが伝わるのだ。
●だから、写真を買ってみよう。
それは「あからさまに所有する」ことから始まるのだ。
今回の写真、8x10 デジタルアーカイバルプリント、
あーまるで、テレビショッピングみたいだ・・・・。
な、な、なんと、6000円。
いったいそんな価格で写真を売った写真家がいたろうか。
でも僕は、写真はそれでも高いと思っている。
それは、市場価値とは違う論理。
アートとして、価値のさだまったものが、高いのは当然だろう。
100万でも1000万でも1億でも決して高くない。
でも、普通はだれもそんなものを買ったりしない。
それは、生活じゃないからだ。
生活のなかの写真。
それは、いくらならいいのだろう。
そう思って今回は、この値段にしてみた。
その価値があるかどうかは、現物を見ることでしかわかなないだろう。
見る価値はあると思う。
なにより、素敵な写真集もいっぱいだ。
渋谷をぶらぶらしながら、写真集に囲まれながら、
この写真を買う価値があるかなんて悩むって、
絶対に、贅沢な時間だ。
そういう余裕こそが、
本当のスローライフなんだろう。
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