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July 2006の16件の記事

2006.07.31

盗み撮り? DtoH 

Yyucho
DtoH (Distance to the Horizon)実は、この写真は盗み撮りだ。といっても被写体は知り合いです。でも彼女には許可なく、知らないうちに撮影しています。これは盗撮の「逆撮り」に限りなく近いが、スナップショットの一種です。

DtoHを撮るときには、誤解されないようにどうどうと撮るしかありません。
それには、いろいろな方法がありますが、たやすいのはひとりで撮らないことでしょう。
美しい女性、皆が振り返るような美しい女性と一緒だったらかなり、楽に撮影できます。子供を撮る時には、子供と一緒に行くのもよいでしょう。
まあ冗談でいえば、報道という腕章をつけるとか、スクランブル交差点で撮りたければ、「ローアングル撮影中ミニの人は寄らないでくださいと」看板を立てるとか。・・・でもそれじゃ、撮ることにスリルもなくかえってつまらないか。それじゃスナップショットになりませんね。

もっとも、スナップ写真、キャンデットフォトは、もともと、相手に気づかれないように撮るので、本質的に盗み撮りです。ブレッソンだって、キャパだって、木村伊兵衛だって、盗み撮りの名手でした。被写体に許可を受けて撮ったらそれは、スナップではなく、ポートレイト写真や記念写真と同じです。
それが、今や、街でスナップすることは、「盗撮逆撮り」という性的異趣味派と、「盗撮ビジネス団」によって、蹂躙されているのです。
いや、そればかりではないでしょう。せせこましくなり個人の皆被害者意識が強くなり、例えばプライバシーの侵害などという、それは国家や企業やマスコミと言った権力側が、個人の権利を侵害するからこそ、必要なことなのに、街で撮影されただけで、プライバシーの侵害だとわめく人が多すぎます。弁護士の多くも、黙って撮られたくない個人の権利は、守られるべきだと簡単に言うしまつです。それならば、国家権力が常に監視している、繁華街の監視カメラはどういうことなのか。国家という権力が一方的に、撮影しているではないですか。

僕は、街でスナップをする。盗み撮りもします。黙って人の顔も撮ります。それについてどう思っているのか、よく聞かれるので、かなりラフで乱暴な意見ですが、書いてみます。

●僕は、街でスナップすることは、本当は今も昔も変わらないと思っています。
都会などは、昔と較べるととても撮りづらい。カメラを持って歩いているだけで、皆の敵意のある視線を感じます。かつてだったら、例えば電車のなかで撮影していて、撮った相手と目が合ってしまったら、軽く会釈するぐらいですんでいたもの。もう30年もまえだから、それじゃロバートキャパが、日本を写真の天国、スナップ天国だと言ったことと同じで、そんなのはるか昔のことになりますが。
いまじゃカメラを向けただけで騒ぎ立てる、人たちがいます。
それもプライバシーの侵害だとか、肖像権の侵害だとか・・・。
正直僕はそんなこといわれても、全然気にしていない。
それは、肖像権の侵害があくまで親告罪だから。だったらどうぞ訴えてください。受けてたちます。
びくびくすることは、ないのです。絡まれたら、
「分りました、告訴してください」と受けてたつのです。
警察にゆくのだって、何も怖くないのです。相手が告訴してこその犯罪だからです。
だた、受けて立てないような撮影はやらないほうがいいでしょう。
それは、盗み撮りではない、盗撮、隠し撮り、逆撮りです。そのことをしていることを、どうどうと反論できないのなら、やめるべきでる。
また、そんな疑いをもたれるだけでも屈辱的で、絶対にいやだと思う平和好きな人は、街でスナップ写真は撮らないほうがよいでしょう。
今の時代、スナップ写真を撮り発表することは、戦いです。
というのは、憲法で保障された、基本的人権のなかにある、二つの矛盾した思想の戦争だからです。
それは、13条の個人の尊重ということでしょう。プラバシーの保護もこの辺のことでしょう。
しかし、法律とは面白いもので、特に現在の民主主義社会としては、とてつもなく大きな、逆の思想があるのです。それは、21条にある、表現の自由です。
このことこそ、近代民主主義が獲得した、最大の思想です。
プライバシーと表現の自由は、矛盾しているのです。
だから、ケースバイケースで、裁判するしかないのです。

スナップする人は、漫然と撮るのではなく、常にこのことを考え自分なりに整理し、確固たる信念をもって理論武装していなければなりません。それが時代です。
僕は、スナップ写真を撮るにあたって、自分のガイドラインを持っています。
プライバシーの侵害で言えば、被写体を貶めるような場面は基本的には撮りません。基本的に僕が、思う、相手を辱めるような、醜い姿は撮りません。人格権の侵害は極力しないようにしています。
僕は、写真で真実が写ると思っていないので、僕は、僕が気に入ったものを撮るというのが、基本姿勢です。
でも、それは僕のあくまでも判断です。だから、意に反するひともいるでしょう。
でも、僕の撮った写真は、僕のものであり、僕が責任を背負い込むことに、逃げたりはしません。
告訴されたら、受けてたつしかないし、なぜ撮るのかを、僕は全精力を使って、主張します。

僕は、公道上で撮る被写体を、プライバシー状態だと認めていません。
それはぼくの写真家としての信念です。
普通に肉眼で見えることを、撮ってはいけない理由がないからです。
撮られているということに不快感を感じるなら、分らないように撮ればいいのです。
なぜなら、公道上、街を歩いている人は、素顔(プライバシー)では絶対にないからです。
他人の視線を気にせず、街を歩いている人はいないでしょう。
皆、仮面をかぶっています。そこには、他人の目は意識しても、カメラを意識していない、社会の中の個人が存在しています。
いうなれば、「社会的風景」、「社会的人物」であり、撮ってもプライバシーの撮影にはあたりません。僕はそう理解しています。
スナップやキャンデット写真とは、人間の社会的仮面を撮ることです。
ポートレイト写真とは、カメラの前で演じた、人間の仮面を撮ることです。

ただ、普通ではないアングル、例えばスカートの中は、僕はプライバシーと思っています。それは別にカメラで撮らなくたって、覗いたらプラバシーの侵害、チカン行為でしょう。でもエスカレータで見える下着は、偶然、見えたり、偶然写真に写ったって、別に問題ないと思ってます。それは見せるほうが悪いともいえるでしょう。でも、それを狙って、撮ったり、それをビジネスにすることは、犯罪といってもいいでしょう。居直って、表現の自由だと、わめいたところで、裁判に勝つことはないでしょうし、どうどうと主張できるひとは、皆無なはずです。いや謝らずに正当性を主張できるなら、裁判で負けたって、かまわないという信念があれば、別にかまいませんが。

ただ、そうやって自由にスナップした写真は、自由に発表できるわけでなありません。
まず、広告にはつかえません。それは、タレントと同じようにパブリシティ権という、肖像権が無名の人間にも発生するからです。
巨大な営利を産むことには、それなり許可と対価がいるでしょう。
どこで発表するかというと、「報道と芸術」の名のもとにです。

それこそが、表現の自由です。
ジャーナリズムとアートは、近代民主主義の、個人が獲得した最大の武器です。
そこでは、かなりきわどいことさえ、表現できるでしょう。
何度もいいますが、信念さえあれば、訴えられて、もし裁判に負けてもいいのです。
罰を全うすれば、またその信念を、再度実行することは可能です。
民主主義の社会とはそういうものです。
そして、それが表現者というものです。

肖像権関連

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2006.07.30

DtoH 川越ブラブラ撮影会

恒例、恵比寿写真倶楽部、ブラブラ撮影会が川越であった。
猛暑、日にち変更のせいか、10名ぐらい、夜の二次会に3人ぐらいが合流。
川越は何年ぶりだろう。すっかり変わっていた。ちょうどお祭り。
今回のDtoH(地平線までの距離、Distance to the Horizon)は、人物が入る写真を多く撮った。なにしろ、ひとひとだったので。
Hawaguchi03

Kawagoemachi1

Kawagoemachi02

Kawagoe04

Kawagaoe05

Kawagoeyakyu

RICOH GR DIGITAL  
僕のすべての写真は、CReCoされています。これは、レタッチ(修正)では、ありません。モノクロプリントと同じような、自分の意図を表現するための、CReative Controlです。
CReCo
アサヒカメラ8月号


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2006.07.29

hanaさんゴールデン街に行く!

hanaさんの写真展「HAZAKAI」も残すところ、あと2日。
28日の夜は、早めの打ち上げ?
6時半ごろ、写真展開催会場、四谷のちょーとくギャラリーに行ったら、渡部さとる内藤さゆり、がいた。内藤さんの作品のファイルを見せてもらう。デザインを勉強しただけあって、作品のフィニッシュワークがとても巧い。その後、ヒーラギ、友人のテレビのディレクター狩野喜彦がくる。そしてC社のA氏。A氏は、皆と初対面だ。その後、近くの越後料理の店にゆく。極厚の油揚げ、さしみ、等々とても美味かった。
そして今日のハイライト、ゴールデン街、カメラバー、こどじツアー。
そこでヒーラギ君が写真展をしている。「陽子・・もう電話せんといて」hanaさんも、狩野君も、A氏も初めてのこどじ経験。hanaさんは興奮気味。
そこには、赤城耕一もいた。A氏と赤城君のカメラ談義。途中HARUKI登場。
12時ぐらいまで、いて、その後移動したら、Hal君が来た。2時ごろ帰る。

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hanaさん。こどじの前。DtoHで。

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DtoHで撮る、A氏。
今日のRICOH GR デジタル。横木、hana,赤城、A氏、狩野、渡部の計6台。異常だ!いや、もってこなかったけど、HARUKIも持っている。僕のまわりのGRDの占有率80%ぐらい。
どうして、そんなに人気なのか。値段の割りに、高級じゃないし、スペックもたいしたことない。
でも単レンズのわりきりのよさと、大きさと重さのバランスなのだろう。
ぼく個人的には、小さいけれど、「カメラという感じ」がするのが、好きだ。
★29日にHarukiに確かめると、GRDを昨日持っていた。おれだけではなく、なんとハルさんも持っていたというのだ。ということは、あの瞬間8台のGRDがあったことになる。
これは、事件だ。
HANAさんは、GRDのディスプレーを正方形にマスキングして撮っている。正方形のデジタル。彼女が今やっている写真展は、ローライミニ、デジタルだ。そのフォーマットは、当然正方形。GRDに限らず、デジタルカメラは、そんなふうにアスペクト比を変えることは簡単なのだから、GRDにももともと、そういう機能がついているといいなと思う。
僕も、正方形のフォーマットは大好きだからだ。


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2006.07.27

DtoH  蛍光色のバッタ

Batta
ひさびさの晴れ。今日は夕方打ち合わせだけ。久しぶりに7歳の娘の相手をする。午前中の公園。最初娘がせみの抜け殻をみつけ、生きていると大騒ぎ。いや、これは単に抜け殻だった。その後さらに大騒ぎ。気持ち悪いという。何かと見ると、蛍光グリーンの小さなバッタ。うーん、生まれたて。こんな見るの初めてだった。ただ、ジャンプする足はが一本。取れてしまったのだろうか。じっと動かないから触ってみる、と30センチほど、弱弱しくジャンプ。
孵化?したて。かどうかわかない。ちかづくと逃げるので、絞りを開放、2.4にして、ファーカスは、マニュウアル。そっと近づいて、何度かトライしてやっと撮る。
Semi

RICOH GR DIGITAL ISO64 
Distance to the Horizon 地平線までの距離
DtoHのスライドショーあり。
Ami01

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2006.07.24

アサカメ8月号 レタッチ

アサヒカメラ8月号に、写真家に学ぶ最小限レタッチ術が特集され、僕が載っている。
見る人の「視線を誘導する」クリエーティブコントロール


もちろん書いてあることは、CReCoやり方は本当だが、校正刷りと較べると色がずいぶん違ってしまっている。
というわけで、Web上で、オリジナルとCReCoをした写真を載せておく。
写真のサイズは、解像度72pixleで、左右900pixle天地600pixleにリサイズしてある。

リサイズした、900pixle原寸は、ここをクリックしてください。

Ricaoriginal
Canon 5Dで撮ったオリジナル。JpegLargeFineで撮っている。弱冠アンダーぎみだ。実はこれでもよいといえるが、この際、少し素直にノーマルなあかるさまであげることにする。
下のAが、CReCoで調整したものだ。

Jpeg90001

Cr900img_0430

★実は、Bのやりかたは、アサヒカメラでは紹介していないし、当分公開する予定はない。
今僕はまた少し違うやり方をしている。基本は変わらないけれど、途中にいくつかの行程が入っている。それは特に皮膚感をどうするかということだ。
広告にしても、雑誌にしても女性のタレントの場合、フルレタッチすることになる。最近の多くの写真が、皮膚感をなくす方向だ。今出ている資生堂のポスターを皮膚感を殺している。そのことに、僕をは不満を感じている。
この辺をどうする、皮膚をアニメやサイボーグのように、修正して満足するわけにはいかない。
今のところの、僕の答えが下の写真だ。これは、Distance to the Horizonも同じやり方のCReCoだ。
みなさんも、いかにフォトショップを使えるかではなく、どうしたら思い通りの皮膚感、質感がだせるのか、そういうスキルを磨いて欲しいと思う。それこそが本当のデジタル技術だからだ。

CReCoのやり方 Color編


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地平線までの距離 その3

DtoH 地平線までの距離

新作スライドショー DtoH No.2●            
DtoH No.1

★このスライドショーは、あくまで写真をみるためですので、一コマ1コマがゆっくりしています。音楽をかけながらみてください。ハワイのラジオなども合います。

朝、打ち合わせのために、渋谷セルリアンホテルに行く。
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エスカレーターの撮影は、危険がともなう。このときも、エスカレーターに乗ろうとしたこの女性に怪しまれた。

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2006.07.23

フォトブロガー hanaさん初個展 +新宿ゴールデン街

友人である、hanaさん(osampo hana)が、四谷にある、ちょーとくぎゃらりーで、初めての単独写真展を開催している。
hana写真展「~HA*ZAKAI 端境II~」
タカザワケンジのhanaさん写真展についてのTEXT
7月22日~7月30日まで。
11時ー6時。
hanaさんは、毎日つめているという。週末は11-6時、平日でも昼過ぎから6時ぐらいまでは、毎日会場にいるそうだ。生hanaをチェックしたいかた、気さくに話ができると思います。彼女のBLOGでチェックししてください。

★初日である昨日は、午後、田中長徳氏のトークショーとコラボがあった。ちゃんと作家だと認めていると、かなりほめられ、照れてしまったという。

今回、彼女は、デジタルカメラのなかでも、さらにおもちゃじみた、ローライミニという、デジタルカメラで撮影した作品を展示している。どれも自分の家の周辺を撮ったものらしい。
おもちゃのようなカメラでも、撮影技術、センス、プリント技術がたしかなので、一見どんなカメラで撮っているのかわからなくなってしまう。銀塩のようでもあり、不思議な写真だ。
プリンターは、EpsonPX5500。ペーパーは、インクジェット用和紙にすべてプリントされている。だからといって、にじんでいるわけでもない。しっかり写真になっている。
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逆D2H
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正当D2H(Distance to the Horizon)

その後、打ち合わせで上野に行く。K社の編集I氏に会う。彼は1月の「Teach Your childeren1967-1975」写真展の時に、1968年の10.21騒乱罪、国際反戦デーのときに撮った写真を購入してくれた。ひとり暮らしの彼は、部屋の真ん中に飾ってあるそうだ。1980年代に生まれ彼にとって、あの時代はどんなふうに見えるのだろう。
Kodanishi

I氏も、偶然ゴールデン街に行くというので、タクシーに同乗。写真バー「こどじ」で写真展をやっている、ヒーラギ君に会いにゆく。銀塩ローライで撮った、「陽子ーも電話せんといて!」という作品が壁に展示しある。彼の今までの写真のなかで一番好きかな。
こどじには、ギャラリー冬青の高橋さんがいらっしゃった。さっそく、12月に出版する予定の写真集の構成見本を見てもらう。
Kodojihiragi

Kodojiokasan
奥の席に、JimさんとKissui.netの女性。彼らにも写真を見せる。
Jimkissui

しばらくして、12時もまわったころ、ギャラリー・バーnaguneにヒーラギ君と行く。そこで神谷竜介氏の写真展を見る。
すぐにタイミングよく、K社のI氏と合流。
Nagune

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2006.07.22

人間力大賞準大賞をすがやあゆみが取った!

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友人のすがやあゆみさん、ことぁゅ☆姫に、「何か賞をもらえるみたいだから、その受賞パーティの写真を撮りませんか」と言われた。ぼくは彼女のことを最近追いかけて撮っているので、その流れとして、気楽に引き受けた。
そして、なんだかわからないまま、横浜に行った。
それは、日本青年会議所が主催する、青年版国民栄誉賞を目指す、「人間力大賞」の受賞式だった。
ぁゅ☆姫の日記

そんなたいそうな賞ともしらず、21日の午後、小雨降る、四谷三丁目、チョートクギャラリーのosampo hanaさんの写真展「HA*ZAKAI 葉境2」設営を手伝い、(これについては、後で書く)そして丸の内線、銀座線、東海道線、横浜で京浜東北に乗り換え、関内にある、まずはぁゅ☆姫 がいる美容院に行った。すでにメイクもヘアも終わり、ぺティキュアが乾わくのを待つぁゅ☆姫を、D2H(distance to the Horizonのことで、ニコンのカメラのことではない) で撮る。
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その後、介護のはなちゃんが来て、一緒に会場であるヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルに行く。
それは、なにやら大げさな、コンベンション?イベント、大授賞式だった。
そのとき僕は初めて、「人間力大賞」なるものがあることを知った。しかももう20回目だという。
なんとなんと、それに、ぁゅ☆姫は、最終ノミネートの10人に入っていたのだ。

美容院に着いたとき、やばいと思った。めかしこむ、ぁゅ☆姫。そしてやはりめかしこんでいる、介護のはなちゃん。
それにひきかえぼくは、超普段着。まあカメラを持っているからいいか、と思っても、プロカメラマンには絶対に見えない、2台のGRD。まあ、そんなことも気にせず、いつものことだ・・・。

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予定では、6:00から始まり、授賞式は7時半ぐらいで終わりそのあとは、祝賀会ということだった。ところが、その式のスピーチ、そして受賞式は延々、8時ぐらいまでかかったろう。テーブルの上には水が出るくらい、空腹・・。そして冷房の効きすぎ。
まず予想していたとおり、最終ノミネートの10人には、それぞれ賞が与えられた。3番目ぐらいだったろう、ぁゅ☆姫は、「全国知事会会長奨励賞」をもらった。
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1000人ぐらいはいるホテルのホール、ぁゅ☆姫は、受賞後スピーチをした。
「障害者が頑張っているというだけの理由で賞がもらえるというのは、それだけこの社会が遅れている証拠、障害者がごく普通に暮らせる生活ができる社会に・・・・障害者援護法は、実は私たちの生活を生きずらくしている・・・もう自由に歩けなくなるかも知れない・・・・・今は、障害者として生まれてきて良かったと思っている、そのことで、ここにいるのだし、多くの人たちと出会えたのだから・・・等々」ぁゅ☆姫の素晴らしいスピーチ、ちょっとじんとくる。
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多くの受賞者は、他人のために尽力をつくしている。でもぁゅ☆姫は、まずは自分だ。他の受賞者とは対極にある。いってみれば当事者だから当然だろう。なんて思いながら、準大賞のひとり目は、カンボジアの子供たちを支援している、村田さやかさんだった。当然かな・・・。と、次に再びぁゅ☆姫が呼ばれた。準大賞、衆議院議長奨励賞だ。途中から取るなと思ったけど、ここにくるまでそんなこと、微塵も考えていなかったので感動。再び壇上にたったぁゅ☆姫は、さらに素敵なスピーチをした。
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こんな授賞式なのにちゃっかりD2Hを撮るわたくしである。
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日本青年会議所会頭、池田佳隆氏と
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すがやあゆみを、推薦した人たち
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橋本聖子氏 スケート時代と同じ、勉強家の重戦車だった。
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介護のはなちゃんもとてもオシャレだ。こうじゃなくっちゃ。
壇上で次が始まっているので、姿勢を低く、昔の歌番の中森明菜状態だ。

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ご機嫌のすがやあゆみ、ことぁゅ☆姫。

この賞をとったことのある、国会議員、橋本聖子氏がとてもいいスピーチをした。大賞取った、ボランティア活動をする駒崎弘樹氏のこと。そしてぁゅ☆姫、すがやあゆみについて、「彼女のスピーチを聞いてとても感動した」ことを語った。彼女は、自民党の国会議員、最近スケート協会の会長、そして3人の子供の後妻、そして二人の子供を産み、さらに今おなかのなかに宿している、その子供たちは、不妊治療の成果だったという、スーパー女だった。でも少し偏見を持っていたが、スピーチも巧く、かなり勉強もしていて見直した。
この、日本青年会議所はある意味、自民党の下部組織のようなものかもしれない。将来この組織から、議員を生み出すのだろう。橋本聖子氏は「将来ここに私と同じところで活躍するひとがでてくることを望む」みたいな本音がでていた。
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授賞式が終わり、まったりするぁゅ☆姫。

ともかく、ぁゅ☆姫は、賞を取った。
こんなメジャーな賞、といっても今朝の朝日には載ってなかったが、おめでたいことだし、これからの彼女の活動がとても楽しみだ。
とにかくおめでとう!!

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2006.07.20

写真集の作られ方 その1と大脱線

Cover001
これは、写真集の縮小、構成見本です。たくさんの人が見ているので、よれよれになってしまいました。もうすぐ2弾の原寸サイズができます。ツカ見本はまだです。

横木安良夫の写真集
「TEACH YOUR CHILDREN 1967-1975」が、
2006年12月出版されます。

サイズ A4変形
ページ数 320ページ
モノクローム 2色

表紙 装丁 ソフトカバー カラー
予価 未定

アートディレクター 装丁 原耕一 トラウト

●写真集発売に合わせ、前回と形を変えた、「TEACH YOUR CHILDREN 1967-1975」写真展もする予定です。場所未定

写真集「TEACH YOUR CHILDREN 1967-1975」 PHOTOGRAPHS BY ALAO YOKOGI の作られるまでを紹介します。

★そして、その1は、大脱線 長文です。

2006年1月10日から3月18日まで、東京アートフォトサイトギャラリー京都ギャラリーと続けて開催されました。
写真展の写真は、僕が写真をはじめた、1967年から1975年、18歳から26歳まで、すなわち写真学生時代と、アシスタント時代に撮った写真、僕がフリーのプロカメラマンとしてデビューする前のモノクロ写真です。
写真は、銀塩プリントではなく、ネガやプリントをスキャニングして、エプソンのPX5500によってデジタルプリントしました。

初めてギャラリーと契約して、写真を売るということにも挑戦しました。
まだ日本ではデジタルプリントを、きちんとギャラリーから販売するというしくみがあいまいな時代、銀塩プリントより、おもいきって、安く価格を設定して売ったのです。そのもくろみどおり、購入した半分以上の人が、今までオリジナルプリントを買ったことがないひとたちでした。
参考「前衛としてのオリジナルプリント販売」

実はこの写真展をするまえから、この写真を写真集にすることを計画していました。内容的にも、コーリティに的にも意味がある写真だと思ったからです。
しかしタレントの写真集だって売れないご時勢、大出版社に限らず、どの出版社も今や、こういう、純写真集(ファインアート・フォト・・・こんな単語はないかな)を作る、体力も、意欲も、発想もありません。
しかも僕には大きなハンディがあります。それは写真家としての年齢と、フィールドがアートではなかったという事実です。
僕は、文学で言えば、大衆文学、商業文学とおなじように、商業写真家というレッテルがあります。かつて僕が若かったころ、商業写真家こそポップアートの体現者、先駆者だったのです。しかしポップアートは、完全にビジネスに吸収され、いまやアートは、ファインアートの時代です。

商業写真家は、僕の写真家としてのキャリアを広げることにはなっていませんでした。
それは、一冊たりとも自分の純粋な写真集を出版したことがなかったからでしょう。
今の若い人で、自分の写真集を、作りたいとは思っても、そんなことに僕が興味がなかったなんて、信じられないことでしょう。
今や、「写真集」をつくることは、目的にさえなっています。そのために商業的な仕事をしていると公言する写真家もいます。
だから、自費出版はあたりまえ。最初は売れなくても、出し続けることによって評価され売れるようになれば、そのまま商業出版として、純作品として写真集が出版されることもあるようです。
それはタレントや特殊な題材ではなく、写真家個人の表現が、写真家自身が商品となる、それは写真家が一番望むものでしょう。

僕の最初の写真集は、「サイゴンの昼下がり」(新潮社刊)です。実は写真集のつもりだっけど、結局は半分が文字をしめています。その本は、最初は純粋に写真だけで構成するつもりでした。僕の知っている出版社すべてにプレゼンテーションしましたが、どこも写真集はできないと言われたのです。売れないというのです。
僕には自費出版する発想はありませんでした。今でも自費出版することに抵抗があるし、残念ながら長く生きて、かかえるものが多すぎる生活のため、そのようなことにどんなに意味があるにせよ、余力がないからです。それは、僕が若い頃から写真とう仕事に対するスタンスなのかもしれません。良い意味で、僕は商業主義的なことはいまでも好きです。多くの人に目を向ける、それが資本主義国家のダイナミズムだからと信じて育ってきてるからです。
90年代後半、ベトナムは空前のブーム直前でした。結局、文章と写真という、写真集というより、書籍としての写真集だったらと新潮社のフォトミュゼ編集長が乗り、フォトミュゼではない形で出版されました。すぐに売れたので、編集がプッシュしたけれど、営業がビジュアル本なのに損しなかったからと、増刷せず、結局本はなくなり、1年以上たってから、値段を2700円から3000円に上げて増刷しました。値段があがったのは、新潮社は、フォトミュゼを撤退し、しかも時間の空いた増刷分を出すには、そうせざるをえなかったらです。でも、もうそれじゃ売れる勢いはなくなっていました。日本の出版社は、商品を真剣に売るという発想がかけているような気がします。

さて、商業カメラマンとしてのレッテルを持っていた僕は、「サイゴンの昼下がり」の文章を書いたことにより、今度は何を気まぐれか、突然書くことに目覚めてしまうのです。
僕はそれまで、カメラ雑誌の短い文や、プレゼン用の文章を書いたことはありました。実は子供の頃から「文字」を書くのはそれほど好きなほうじゃなかったようです。机に座ったじっとしていることができなかったこともあります。
特に子供のころは、原稿用紙恐怖症、ほとんど升目に文字を埋めた記憶がありません。きっと僕が鉛筆で書いた文字がとても醜く、その文字を見ていると吐き気がするぐらいでした。僕は僕の字が嫌いだったからです。
まあ、何より文章を書くことは、自分を見つめること。僕はそれより、外界を眺めること、経験することが好きだったというだけのことかもしれません。
写真家として独立した頃、いやサイゴンの昼下がりを書くまで、写真と文章は水と油だと思っていた。僕は、写真について、文章を書くこと、言葉で語ることを強く拒否していたのです。
写真はことばにならないことを伝えたい。言葉になることは、言葉でいえばいい。
でも、結局、ことばがなければ、伝わらないことがたくさんあることを知りました。
それは、ただ写真を鑑賞するのだったら、ことばは不要でも、何かを伝えたいと思うと、やはりことばが必要だからです。

一度書いてしまうと、それこそ堰を切ったように僕の言葉は爆発しました。
いや正確には書いてません、打っているのです。ワープロを。
あれほど、文章を書くことに集中できなかった人間が、機械であるワープロ(途中からパソコン)には、かなり持続力がありました。それに僕は、楽器をやっていたので、最初からブラインドで覚えたこともあるかもしれません。
2003年に、「熱を食む、裸の果実」(講談社刊)「ロバート・キャパ最期の日」を2004年、と続けて出版することになります。
小説のほうは、さんざんでした。なにしろ最初に決まっていたK書店では90%以上OKがでていたのに、2002年末の最後の会議で、編集はまったく問題ないと言っていたのに、ひとりの取締役が大反対して、おじゃんになってしまったのです。出るということで、その数ヶ月すべてを注いでいたのに、2003年の正月明け、僕は唖然とし、そして絶望しました。
結局ぼくは友人の講談社の編集者Tに泣きつきました。そして紹介してもらった編集者Aが読み、気に入ってもらい無事出版されたのです。
内容的にも、ベトナムを舞台とした、写真を撮られる側、モデルである女性から見た視線で書いた、風変わりなそれも刺激的な内容でした。いくつか書評がでましたが、あまり話題にはならなかったし、残念ながら講談社もプッシュはしてくれませんでした。まあ、そんなことはいいとして、・・。写真をやっているひとだったら、写真家の心理と、撮られる側の心理、視覚的描写が絶対に参考になるので読んでください。少しエッチです。

そして翌年、「サイゴンの昼下がり」のなかででロバート・キャパが地雷に倒れた場所を特定できず、キャパ没50年を前に、探すという決意を忘れた頃、2003年の暮、やばい、時間がないと思い、2004年5月25日、その日までにキャパの土地を探し出すと決め、その年の前半はキャパの本を書くことに没頭しました。そしてなんどもベトナムに通い、ようやく出版にこぎつけたのです。
この本はかなり話題になりました。
なにしろ、新聞や雑誌に30本ぐらい書評が載った。それもかなりほめられたのです。しかし増刷されたものの、それ以上売れることはありませんでした。ノンフィクションとして書いたのつもりでしたが、なぜか書店では写真コーナーにしか置かれなかったのです。
表紙が洗練されすぎ、書店がノンフィクションとして認識しないからだとか、写真家が書いた、写真の家の本という、出版業界のなかでは、軽く見られたのかもしれません。

まあ、それはいいとして、さて、なんでこんな話を書いたかというと、僕のその2年間、あまり写真に気持ちが入っていなかったからです。そのため、どういう因果関係があるのか、写真の仕事が激減しました。唯一ベトナムの写真ぐらいでしょうか。
追い討ちをかけるように、ベトナムの取材ブームは去り、僕のフィールドだった男性誌は、出版不況をモロにくい、ぼんやりしていると仕事が全くなくなりそうになったのです。

(ちょっとここから脱線)おおいに脱線します。

男性誌が崩壊する予感はとっくにあっりました。男性誌があおる、社会のなかの消費される「性」は、確実にインターネットによって取って代われていたからです。
まして、いつのまにか、日本でも完全NUDE(ヘアだけではなく、性器もみえる)が、映画や出版ではきわめてきつい規制下にあるのに、なぜかポルノが解禁されたからです。これは大事件です。

欧米では1970年代には、完全NUDE(ヘアも性器も)は、映画や雑誌で解禁されています・・・ポルノショップに行けばポルノもあるのです。・・・ところで、欧米ではNUDEとポルノは違います。性器が見えても、それはNUDEです。裸だったら自然に見えるものだからです。ポルノとは性行為のことです。日本はそこが同一視あいまい化されています。・・・・・

いまや、インターネットは、全世界(一部を除く)完全にポルノが解禁されました。
新聞も雑誌もそのことを書きませんが、なぜだろうというより、どっちにしても歯止めがかからないからでしょう。マスコミで話題にすると、若年層がさらに、Pornoを見ることになるからでしょうか。いや、実は絶対にからくりがあるはずです。
そのくせ、洋書の芸術本の性器をあいかわらず消していることもあるという、ちぐはぐ。
僕はポルノが解禁されてよいと思っています。表現の自由においてです。
それはTPOの問題で、子供たちが目につくるところで、売るべきではないとは思っています。もっとも、「ポルノまがい」は、テレビでも雑誌でも日本では超鷹揚なのだけれど。
この辺は、道路交通法?と何か構造が似てるな・・・。

かつて欧米では、ポルノは、ポルノショップと美術館ではOKだったのです。日本では、猥褻物陳列罪、公序良俗になんとかといって、NUDEとポルノを同一視しています。国家が性を管理している時代のなごりでしょう。だからポルノショップもなければ、美術館でもNOという、表現の自由を全く無視した、非文化国家のままでした。

それがなんと、インターネット時代になって、
ポルノが解禁されました。
ネット上では完全解禁です。Googleで「Porno」とか「アダルト」等々、検索すればポルノ解禁が知らない間に実行されたことがわかるでしょう。
そして日本発信のポルノサイトのなんと多いことか。さすが歌麿の国!

いや、もうネット上じゃ規制なんてできないんだよ。世界は、すべてガラス張り。それは商業と欲望と少しの自意識の混沌状態。
ついには、欧米のポルノのTPO規範も、日本の全面猥褻物陳列罪も無意味になった。

いまやネットは無政府状態です。グローバルの実践道場です。だからネット情報としては、世界は平等になりました。東西も南北も、先進国も、途上国も、子供だろうが、老人だろうが、さまざまな人たちの間で、あらゆる情報を得ることができるようになったのです。
殺人の依頼だってできるのです。
まあ、そのうちいろいろ法律もできるだろう。特に犯罪やPornoに関しては、さまざまな規制がされてゆくと思います。げんにすでに規制をしている国は多いし、国家がやらなくても、そういうサービスが普通になるでしょう。
 
(まだ、ちょっと脱線中です・・・)

なぜ男性誌が売れなくなったか。いや出版が壊滅しているか。それは言われるとおり、ネット社会が出版を壊滅させたのです。(まだ壊滅とはいえなけれど、日本の出版はかなり打撃です。元気なところは、広告と、キャラクターで勝負です。出版はまだまだコンテンツを持っているからでしょう)
男性誌は、PORNOサイトに壊滅されられました。

出版の壊滅理由は、簡単です。それは単純な「情報」を(有料で)売っていたからです。そのほとんどすべてが情報誌だったからです。情報は、ネット社会では無料です。民放テレビ情報が無料なのと同じです。
それでも女性誌がまだなりたっているのは、カタログ情報はまだ紙媒体に有利だからでしょう。まだまだ紙媒体の広告、特に女性の購買欲をあおる広告は、有効です。女性誌とは欲望を最大に膨張させるシステムです。
そして例えばCanCamのように、テレビにたよらず、自前のスターを作るといった、努力がある雑誌はネットには負けていません。
しかし多くの雑誌は、単純情報を売っていただけです。単純な情報ではない、出版なりに工夫した雑誌や本はこれからも、売れてゆくでしょう。それはネットにはできないことだからです。

おまけにもう少し脱線。

出版業界にいて、出版を愛するからこその意見です。

日本の出版の最大の弱点は、再販制度です。そこには自由競争はありません。新聞もその恩恵にあずかっているので、これはなにかしらの外圧がないかぎり当分はなくならないでしょう。良い面もありますが、これは既得権の問題だからです。
今のように大きな変動期には、これを放置しては抜本的な対処はできないと思います。
その核心は、新規参入者、大手と弱小に経済的、商業的にきわめて大きなハンディがあるということです。
日本の本屋と世界中にある書店のなにが違うか。
世界中どこを探しても日本のような本屋はありません。これほど雑誌と漫画が本屋を占領している国はありません。海外に行って本屋を見てください。日本は書店ではなく、雑誌店です。
実は、雑誌を出し続けることは、弱小、新参出版社には、無理とはいわなくても、かなり絶望的に不利なのです。

これは文化的な違いではありません。
理由は再販制度にあると思います。

このままだったら、ほとんどの雑誌はフリーペーパーに取ってかわるかもしれません。
広告で成り立っている雑誌、そこにオピニオンがない雑誌は、フリーペーパーと内容がかわらないからです。そしてフリーペーパーは、流通や書店を黙殺しています。
そしてアマゾンのような、インターネット。
まあ、ほっておいても、変わってゆくかもしれません。
きちんとした書籍、海外にあるような、ビジュアル書籍が出版されないのは、日本の出版界の仕組みにあることは、事実でしょう。


(ここで脱線はやめましょう。)

●さて、僕の本題、写真集を出版することについてです。
僕は、2003年、2004年と書くことに夢中になり、写真に情熱を感じていませんでした。そのため、経済は壊滅し、おちおちできなくなったのです。まあ、原因は他にもたくさんありますが。

●そこで、僕はもういちど原点に戻ろうと思いました。それはやはり僕にとって、一番は「写真」ということです。

2年間、文章を書くことによって、僕は写真を撮るだけではなく、考えるようになりました。そして今一番写真家にとって、大切なことは、なんだろうと思ったとき、
「オリジナルプリントを売ること」と自分の純「写真集」を作ることと結論したのです。

まずは、ギャラリーとはなんだろうと、そのとき初めて勉強を始めました。
僕は写真は依頼があって撮ったり、自分から企画して撮り、なんらかのメディアに載せて発表するといった発想しかなかったのです。
★「前衛としてのオリジナルプリント販売」
そこで、BLITZ アート・フォト・サイト・ギャラリー福川氏と出会いました。

●その辺のことは、★「前衛としてのオリジナルプリント販売」に書いてあるのではしょるとして、2006年1月からAPSギャラリーで個展をし、写真を販売しました。

僕は、何をするかにあたり、原点に戻り、未発表だった、初期の写真を展示販売することにしたのです。それは今の時代にとても有効な写真だと思ったからです。時代性がなければこういうことはしなかったでしょう。そして何より、僕は、僕の写真の原点から始めようと思ったのです。


前述したとおり、その写真展は好評のうえ、終了しました。デジタルプリントはコーリティも評価され、低価格に設定したので予想どおりの好結果になりました。そこで写真を買いたい人たちがたくさんいることを知ったのです。

そして、終了後本格的にこの写真を写真集にしようと奔走します。
アートディレクターの原耕一さんにも、全面協力してもらいました。

やはり、そこで、出版社はとの問題がありました。僕は商業的には名前があっても、いわゆる純「写真集」の作家としては、認められていないからです。それに、僕は新人じゃありません。編集部の誰が熱意を持って担当してやってくれるというのでしょう。若い彼らは、やはり若い人とやりたい。しかたがありません。

そのほか、折半するならばという、半自費出版的な誘いもありました。

・・・続く


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2006.07.17

地平線間での距離 番外 阿佐ヶ谷住宅

地平線までの距離プロジェクト の番外 阿佐ヶ谷住宅
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もちろん、盗み撮りではありません。犯罪になってしまいます。
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Ami

阿佐ヶ谷住宅日記BLOG


「DISTANCE TO THE HORIZON」
スライドショーVol.001があります。ネットラジオの音楽でも聴きながら、のんびり見てください。

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2006.07.16

阿佐ヶ谷団地 地平線までの距離 その3

「DISTANCE TO THE HORIZON」
スライドショーVol.001があります。ネットラジオの音楽でも聴きながら、のんびり見てください。

「地平線までの距離」 阿佐ヶ谷団地 2006年7月
来年取り壊されることになっている、阿佐ヶ谷住宅を撮影した。昼過ぎ突然の雷雨。とおりすぎたあと、団地の様子は一変した。緑に包まれたこの場所は姿を消してしまう。ここに新しい6階建てのアパートができるという。

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★すべての写真は、RICOH GRDを、地面に直接置いて撮影しています。日常的な風景がアングルを変えただけで、すっかり変わって見えます。


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2006.07.14

地平線までの距離 その3 九十九里

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九十九里に行った。英語ではHorizonは、地平線にも水平線にも使う。日本では地平線を見ることはなかなか難しいが、水平線ならいつでも見える。水平線の場所がたった5キロ先だと思うと感慨ぶかい。

「DISTANCE TO THE HORIZON」スライドショー どうぞごらんください。

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2006.07.13

地平線までの距離 その2

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2007

Distance to the Horizon  地平線までの距離 スライドショー

★Hawaiiのラジオ局を聞きながらどうぞ。

ListenNowをクリック!

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2006.07.07

地平線までの距離 Distance to the Horizon

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Distance to the Horizon  地平線までの距離 スライドショー


●ロバート・フランクの写真集 「Americans」のなかに、
ルート66で撮った縦位置のモノクローム写真がある。

緩やかな起伏のある荒涼とした平原を、一直線に地平線まで続く荒れたアスファルトの道路。

そこに、かすれたセンターラインと光を反射して白くひかるタイヤのあと。嵐のまえぶれだろうか、地平線を黒い不穏な雲が覆いつくそうとしている。

写真家にとって、地平線とはカメラのアングル、どの高さから撮ったかという物理的な証拠なのだ。それは例えば、自分の身長に支配される、自然なそして宿命的な高さであったり、かつてロバート・キャパがひざをついたおきまりのローアングルだったり、もしくは何かの上に乗って撮ったのだと言う事実は、地平線を見ればひと目でわかる。

実は、地平線までは無限に遠いようでいて、地球上では計算上、地面から160cmのアングルだとすると、たった4.5キロさきにある。ということは、歩いてもほんの1時間でたどり着ける距離だ。もちろんその場所に行けば、また再び地平線は4.5キロ先に遠のいてしまうのだが。これは地球が平面ではなく球形であるということから導き出された計算上の距離なのだ。

実際は、地上には起伏があり、数百キロさきの山までもが見える。かつて、僕ははじめてカリフォルニアに行ったとき、ロケハン中、高いところから今いる場所を見下ろしたいと思った。あの前方の、いちぶの曇りもない山の斜面から撮りたいと思った。そしてクルマを飛ばした。ところが一時間近く走っても一向に山は近づいてこない。地図を見たらそのなだらかな山は100キロ以上もさきあったのだ。

地上、2.5cmのアングル。蟻の目というよりは、小さな亀の目のアングルぐらいだ。いってみればCameRaの目。不思議なことにほんの2.5cm地上から離れただけで、計算上地平線は500m先に存在する。地面が本当に平面だったらの話なのだが、思ったよりずっと遠くまで存在している。


地上2.5cmから見た世界は、スウィフトのガリバー旅行記の「巨人の国」の世界だ。ここに住んでいる巨大な人間たちは、そばで見れば生命体としてダイナミックに息づいていても、パースペクティブのさき、遠く離れてしまえば皆寂しげに、地平線に消えてしまう。


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2006.07.04

Distance to the Horizon スライドShow

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Distance to the Horizon」~地平線までの距離~のスライドショーです。
ご覧になれないかたは、最新のFLASHをダウンロードしてください。

音楽はついていません。お好きな曲をかけながらみてください。
写真は35点です。撮影はすべて、RICHO GRデジタルです。
僕は、映画パリテキサスのサントラ、ライクーダーをかけながら見ています。
スローな曲だったらなんでもあうでしょう。
なんどもリフレインして見ることができます。
どうしてもBGMというかは、ハワイのラジオはどうでしょう。. LISTNE NOWをクリックすれば聞けます。
おしゃべりもはいりますが、それがまたよいので。

FENでもあれば最高なんだけどなあ。でもニュースしかやってないようなので。

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2006.07.02

DISTANCE TO THE HORIZON

「DISTANCE TO THE HORIZON」~地平線までの距離~

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画像をクリックしてください。

◆◆僕が、RICOH GRDを使い出した理由は、春に開催した写真展「Teach Your Children 1967-1975」の写真、ネガやプリントをスキャニングして、モノクロデジタルプリントを作っているときにある。
僕は、かつて銀塩フィルム時代、仕事で使うメインのカメラは中盤カメラだった。
35mmカメラにしても明るい単焦点レンズのみを使っていた。理由はワイドレンズ以外、開放付近で撮ることが多かったからだ。ピントの浅い写真が好きだからだ。少しでも絞ると、レンズの性能があがるなんて、なんの興味もなかった。高価な明るいレンズを絞って撮るなんて、なんてばかばかしいと思う口だった。それなら安いレンズで十分だからだ。開放付近といったそのレンズの限界が写真を魅力的にすると、信じているからだ。
デジタルカメラ時代になり、初期は受光素子がフルサイズではなく、APSサイズしかなかった。僕は激しく拒否反応があった。その理由が被写界深度があまり深くないことだった。
どうせ中途半端な気持ちだったので、それに少しスタイルを変える意味でも、各種ズームレンズ使いだした。
ただAPSサイズを使っているうちに、実は35mmフィルムカメラより、カジュアルに撮れることを知った。早いシャッターを切れば、振り回しても、撮れるし、ノーファインダーで撮ることもより自由だった。それはデジタル時代になって、なにか懐かしささえ感じていた。

僕が若い頃、「Teach Your Children 1967-1975」を撮っているころ、特に1967年から1972年までの学生時代、僕はほとんど2台のカメラでスナップしていた。アサヒペンタックスSPと、コーワSW28mmだ。
特にコーワは、カメレオンの目のような小さなファインダーがついているだけで、距離計はなし、目測で距離をあわせ撮っていた。ISO(ASA)400もしくは800のTriX。距離は3mにあわせ、絞りはf16.いってみればパンフォーカスの世界だ。そのカメラで僕はデモの写真やさまざまな動きのある被写体を走り回って撮っていた。

Rr1109842

そんなことを思い出しているとき、GRDが発売された。
GR1は使っていたので、カメラとしての性能、大きさは以前から気に入っていた。
ただデジタル版はCCDがあまりに小さく、35mmのような細かいテクニックが使えないと、ただのおもちゃカメラだと、ほとんど興味がなかった。
それが、その写真展のプリントを制作中、多くの写真が、パンフォーカスだったことに気がついた。どれもがコーワSWで撮った写真だ。
ふと、デジタルカメラもモノクロで撮ったらどうだろうか、と閃いた。
GRDをモノクロで撮影するのなら、パンフォーカスでもいいじゃないかと。
奇しくもSWもGRDも広角28mmワイドレンズだった。
いてもたってもいられず、GRDを手に入れた。それからぼくはモノクロばかりを撮った。

●しかしそれはあくまで、ぼくにとっては、若い時代の35mmモノクロフィルムカメラとその撮影方法の代用だったのだ。
デジタルでいかに昔のような暗室作業ができるのか、僕はCReCoという銀塩時代と同様の暗室テクニックをほどこすことによって、銀塩写真と同等か、それ以上の写真を作ることに力をそそいでいた。

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そんなふうに、デジタルモノクロについて、方向性が定まると、
それならGRDでしか撮れない、デジタルカメラでしか撮れない写真とはどんなものだろうと考え始めていた。それもカラー写真でだ。

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GRDの大きな特徴は、CCDが小さいことだ。
そのメリットはなんだろう。1/1.8inchというと、それはもう8mmフィルムぐらいの大きさだろうか、それは決定的に被写界深度が深いことだ。基本的に背景はぼけない。
ただいろいろ撮っているときに、クローズアップで撮ると、背景が美しくぼけることを知った。
35mmサイズのようなカメラと、クローズアップの写り方が決定的に違っている。個性的だ。僕は今まで見たことが無かった世界だ。
●GRDでしか撮れない世界とは、クローズアップの世界だった。
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クローズアップ世界、「蟻の目」といえば、写真家 栗林彗だろう。昆虫カメラマンだ。銀塩時代に高深度レンズを開発して、それ数々の昆虫のクローズアップを撮った。もっともデジタル時代になり、高深度という意味では、栗林の努力はデジタルカメラによって、すらりと飛び越えられ、深度の深いクローズアップはいとも簡単に撮れるようになった。
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そんなわけで、GRDの個性は、クローズアップと思い、蟻の目というより、亀の目、実際GRDは、蟻というよりは地上2.5cm亀の目に近い、それこそゴジラではなく、キャメラ「CameRa」だ。
その写真はガリバーの巨人の国の世界だ。
と思い、撮っているうちに、気づいたのことは、今一世を風靡している、写真家、本城直季の「small planet」にちょっと似ているということに気がついた。
本城は大型カメラの逆あおりをつかうことによって、まるでミニチュアジオラマを接写レンズで撮ったような世界を作り上げる。それは神の目、鳥の目だ。ガリバーから見た、小人の国の世界。
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実はその撮影方法のアイデアは本城のオリジナルではない。
昔からそのやりかたは知られていたし、実際は本城よりもずっとまえに同様の、写真集も海外で出版されていた。ただここでは、誰がオリジナルなのかということを言いたいのではない。そういうテクニックはもともと知られていたし、ある意味誰でも思いつくことでもあるからだ。
ただ、本城の写真は、光線の選び方、構図、配色のセンスとも、先人の写真よりずっと魅力的だった。
多くの人が彼の写真に共感するのは、その撮影方法のアイデアがオリジナルかどうかではなく、かれが描きだしたビジョンが他の写真家より明確で、一歩進んでいたからだろう。

まあ、そういう意味で、その正反対の「蟻の目」というコンセプトは決して、栗林彗だけのものではない。
だからその手法で何を描くかがやはり問題なのだろう。
僕のGRDの写真は、本城の写真が「Small Planet」といい、小人の国の写真ならば、GRDのクローズアップ写真は、「Big Planet」、巨人の国の写真なのだ。

タイトルは、「DISTANCE TO THE HORIZON」に決めた。

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「地平線までの距離」
●地球上で自分の立つ位置から見えている、地平線はいったいどのくらいの距離があるのだろう。
日本で地平線を見ることは、ないがアメリカに行くと地平線をいつも意識する。
計算式がある。

160cmの高さだと、約4.5キロさきにある。
2.5cmの高さだと、地平線までの距離は500mぐらいだ。

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