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2006.07.20

写真集の作られ方 その1と大脱線

Cover001
これは、写真集の縮小、構成見本です。たくさんの人が見ているので、よれよれになってしまいました。もうすぐ2弾の原寸サイズができます。ツカ見本はまだです。

横木安良夫の写真集
「TEACH YOUR CHILDREN 1967-1975」が、
2006年12月出版されます。

サイズ A4変形
ページ数 320ページ
モノクローム 2色

表紙 装丁 ソフトカバー カラー
予価 未定

アートディレクター 装丁 原耕一 トラウト

●写真集発売に合わせ、前回と形を変えた、「TEACH YOUR CHILDREN 1967-1975」写真展もする予定です。場所未定

写真集「TEACH YOUR CHILDREN 1967-1975」 PHOTOGRAPHS BY ALAO YOKOGI の作られるまでを紹介します。

★そして、その1は、大脱線 長文です。

2006年1月10日から3月18日まで、東京アートフォトサイトギャラリー京都ギャラリーと続けて開催されました。
写真展の写真は、僕が写真をはじめた、1967年から1975年、18歳から26歳まで、すなわち写真学生時代と、アシスタント時代に撮った写真、僕がフリーのプロカメラマンとしてデビューする前のモノクロ写真です。
写真は、銀塩プリントではなく、ネガやプリントをスキャニングして、エプソンのPX5500によってデジタルプリントしました。

初めてギャラリーと契約して、写真を売るということにも挑戦しました。
まだ日本ではデジタルプリントを、きちんとギャラリーから販売するというしくみがあいまいな時代、銀塩プリントより、おもいきって、安く価格を設定して売ったのです。そのもくろみどおり、購入した半分以上の人が、今までオリジナルプリントを買ったことがないひとたちでした。
参考「前衛としてのオリジナルプリント販売」

実はこの写真展をするまえから、この写真を写真集にすることを計画していました。内容的にも、コーリティに的にも意味がある写真だと思ったからです。
しかしタレントの写真集だって売れないご時勢、大出版社に限らず、どの出版社も今や、こういう、純写真集(ファインアート・フォト・・・こんな単語はないかな)を作る、体力も、意欲も、発想もありません。
しかも僕には大きなハンディがあります。それは写真家としての年齢と、フィールドがアートではなかったという事実です。
僕は、文学で言えば、大衆文学、商業文学とおなじように、商業写真家というレッテルがあります。かつて僕が若かったころ、商業写真家こそポップアートの体現者、先駆者だったのです。しかしポップアートは、完全にビジネスに吸収され、いまやアートは、ファインアートの時代です。

商業写真家は、僕の写真家としてのキャリアを広げることにはなっていませんでした。
それは、一冊たりとも自分の純粋な写真集を出版したことがなかったからでしょう。
今の若い人で、自分の写真集を、作りたいとは思っても、そんなことに僕が興味がなかったなんて、信じられないことでしょう。
今や、「写真集」をつくることは、目的にさえなっています。そのために商業的な仕事をしていると公言する写真家もいます。
だから、自費出版はあたりまえ。最初は売れなくても、出し続けることによって評価され売れるようになれば、そのまま商業出版として、純作品として写真集が出版されることもあるようです。
それはタレントや特殊な題材ではなく、写真家個人の表現が、写真家自身が商品となる、それは写真家が一番望むものでしょう。

僕の最初の写真集は、「サイゴンの昼下がり」(新潮社刊)です。実は写真集のつもりだっけど、結局は半分が文字をしめています。その本は、最初は純粋に写真だけで構成するつもりでした。僕の知っている出版社すべてにプレゼンテーションしましたが、どこも写真集はできないと言われたのです。売れないというのです。
僕には自費出版する発想はありませんでした。今でも自費出版することに抵抗があるし、残念ながら長く生きて、かかえるものが多すぎる生活のため、そのようなことにどんなに意味があるにせよ、余力がないからです。それは、僕が若い頃から写真とう仕事に対するスタンスなのかもしれません。良い意味で、僕は商業主義的なことはいまでも好きです。多くの人に目を向ける、それが資本主義国家のダイナミズムだからと信じて育ってきてるからです。
90年代後半、ベトナムは空前のブーム直前でした。結局、文章と写真という、写真集というより、書籍としての写真集だったらと新潮社のフォトミュゼ編集長が乗り、フォトミュゼではない形で出版されました。すぐに売れたので、編集がプッシュしたけれど、営業がビジュアル本なのに損しなかったからと、増刷せず、結局本はなくなり、1年以上たってから、値段を2700円から3000円に上げて増刷しました。値段があがったのは、新潮社は、フォトミュゼを撤退し、しかも時間の空いた増刷分を出すには、そうせざるをえなかったらです。でも、もうそれじゃ売れる勢いはなくなっていました。日本の出版社は、商品を真剣に売るという発想がかけているような気がします。

さて、商業カメラマンとしてのレッテルを持っていた僕は、「サイゴンの昼下がり」の文章を書いたことにより、今度は何を気まぐれか、突然書くことに目覚めてしまうのです。
僕はそれまで、カメラ雑誌の短い文や、プレゼン用の文章を書いたことはありました。実は子供の頃から「文字」を書くのはそれほど好きなほうじゃなかったようです。机に座ったじっとしていることができなかったこともあります。
特に子供のころは、原稿用紙恐怖症、ほとんど升目に文字を埋めた記憶がありません。きっと僕が鉛筆で書いた文字がとても醜く、その文字を見ていると吐き気がするぐらいでした。僕は僕の字が嫌いだったからです。
まあ、何より文章を書くことは、自分を見つめること。僕はそれより、外界を眺めること、経験することが好きだったというだけのことかもしれません。
写真家として独立した頃、いやサイゴンの昼下がりを書くまで、写真と文章は水と油だと思っていた。僕は、写真について、文章を書くこと、言葉で語ることを強く拒否していたのです。
写真はことばにならないことを伝えたい。言葉になることは、言葉でいえばいい。
でも、結局、ことばがなければ、伝わらないことがたくさんあることを知りました。
それは、ただ写真を鑑賞するのだったら、ことばは不要でも、何かを伝えたいと思うと、やはりことばが必要だからです。

一度書いてしまうと、それこそ堰を切ったように僕の言葉は爆発しました。
いや正確には書いてません、打っているのです。ワープロを。
あれほど、文章を書くことに集中できなかった人間が、機械であるワープロ(途中からパソコン)には、かなり持続力がありました。それに僕は、楽器をやっていたので、最初からブラインドで覚えたこともあるかもしれません。
2003年に、「熱を食む、裸の果実」(講談社刊)「ロバート・キャパ最期の日」を2004年、と続けて出版することになります。
小説のほうは、さんざんでした。なにしろ最初に決まっていたK書店では90%以上OKがでていたのに、2002年末の最後の会議で、編集はまったく問題ないと言っていたのに、ひとりの取締役が大反対して、おじゃんになってしまったのです。出るということで、その数ヶ月すべてを注いでいたのに、2003年の正月明け、僕は唖然とし、そして絶望しました。
結局ぼくは友人の講談社の編集者Tに泣きつきました。そして紹介してもらった編集者Aが読み、気に入ってもらい無事出版されたのです。
内容的にも、ベトナムを舞台とした、写真を撮られる側、モデルである女性から見た視線で書いた、風変わりなそれも刺激的な内容でした。いくつか書評がでましたが、あまり話題にはならなかったし、残念ながら講談社もプッシュはしてくれませんでした。まあ、そんなことはいいとして、・・。写真をやっているひとだったら、写真家の心理と、撮られる側の心理、視覚的描写が絶対に参考になるので読んでください。少しエッチです。

そして翌年、「サイゴンの昼下がり」のなかででロバート・キャパが地雷に倒れた場所を特定できず、キャパ没50年を前に、探すという決意を忘れた頃、2003年の暮、やばい、時間がないと思い、2004年5月25日、その日までにキャパの土地を探し出すと決め、その年の前半はキャパの本を書くことに没頭しました。そしてなんどもベトナムに通い、ようやく出版にこぎつけたのです。
この本はかなり話題になりました。
なにしろ、新聞や雑誌に30本ぐらい書評が載った。それもかなりほめられたのです。しかし増刷されたものの、それ以上売れることはありませんでした。ノンフィクションとして書いたのつもりでしたが、なぜか書店では写真コーナーにしか置かれなかったのです。
表紙が洗練されすぎ、書店がノンフィクションとして認識しないからだとか、写真家が書いた、写真の家の本という、出版業界のなかでは、軽く見られたのかもしれません。

まあ、それはいいとして、さて、なんでこんな話を書いたかというと、僕のその2年間、あまり写真に気持ちが入っていなかったからです。そのため、どういう因果関係があるのか、写真の仕事が激減しました。唯一ベトナムの写真ぐらいでしょうか。
追い討ちをかけるように、ベトナムの取材ブームは去り、僕のフィールドだった男性誌は、出版不況をモロにくい、ぼんやりしていると仕事が全くなくなりそうになったのです。

(ちょっとここから脱線)おおいに脱線します。

男性誌が崩壊する予感はとっくにあっりました。男性誌があおる、社会のなかの消費される「性」は、確実にインターネットによって取って代われていたからです。
まして、いつのまにか、日本でも完全NUDE(ヘアだけではなく、性器もみえる)が、映画や出版ではきわめてきつい規制下にあるのに、なぜかポルノが解禁されたからです。これは大事件です。

欧米では1970年代には、完全NUDE(ヘアも性器も)は、映画や雑誌で解禁されています・・・ポルノショップに行けばポルノもあるのです。・・・ところで、欧米ではNUDEとポルノは違います。性器が見えても、それはNUDEです。裸だったら自然に見えるものだからです。ポルノとは性行為のことです。日本はそこが同一視あいまい化されています。・・・・・

いまや、インターネットは、全世界(一部を除く)完全にポルノが解禁されました。
新聞も雑誌もそのことを書きませんが、なぜだろうというより、どっちにしても歯止めがかからないからでしょう。マスコミで話題にすると、若年層がさらに、Pornoを見ることになるからでしょうか。いや、実は絶対にからくりがあるはずです。
そのくせ、洋書の芸術本の性器をあいかわらず消していることもあるという、ちぐはぐ。
僕はポルノが解禁されてよいと思っています。表現の自由においてです。
それはTPOの問題で、子供たちが目につくるところで、売るべきではないとは思っています。もっとも、「ポルノまがい」は、テレビでも雑誌でも日本では超鷹揚なのだけれど。
この辺は、道路交通法?と何か構造が似てるな・・・。

かつて欧米では、ポルノは、ポルノショップと美術館ではOKだったのです。日本では、猥褻物陳列罪、公序良俗になんとかといって、NUDEとポルノを同一視しています。国家が性を管理している時代のなごりでしょう。だからポルノショップもなければ、美術館でもNOという、表現の自由を全く無視した、非文化国家のままでした。

それがなんと、インターネット時代になって、
ポルノが解禁されました。
ネット上では完全解禁です。Googleで「Porno」とか「アダルト」等々、検索すればポルノ解禁が知らない間に実行されたことがわかるでしょう。
そして日本発信のポルノサイトのなんと多いことか。さすが歌麿の国!

いや、もうネット上じゃ規制なんてできないんだよ。世界は、すべてガラス張り。それは商業と欲望と少しの自意識の混沌状態。
ついには、欧米のポルノのTPO規範も、日本の全面猥褻物陳列罪も無意味になった。

いまやネットは無政府状態です。グローバルの実践道場です。だからネット情報としては、世界は平等になりました。東西も南北も、先進国も、途上国も、子供だろうが、老人だろうが、さまざまな人たちの間で、あらゆる情報を得ることができるようになったのです。
殺人の依頼だってできるのです。
まあ、そのうちいろいろ法律もできるだろう。特に犯罪やPornoに関しては、さまざまな規制がされてゆくと思います。げんにすでに規制をしている国は多いし、国家がやらなくても、そういうサービスが普通になるでしょう。
 
(まだ、ちょっと脱線中です・・・)

なぜ男性誌が売れなくなったか。いや出版が壊滅しているか。それは言われるとおり、ネット社会が出版を壊滅させたのです。(まだ壊滅とはいえなけれど、日本の出版はかなり打撃です。元気なところは、広告と、キャラクターで勝負です。出版はまだまだコンテンツを持っているからでしょう)
男性誌は、PORNOサイトに壊滅されられました。

出版の壊滅理由は、簡単です。それは単純な「情報」を(有料で)売っていたからです。そのほとんどすべてが情報誌だったからです。情報は、ネット社会では無料です。民放テレビ情報が無料なのと同じです。
それでも女性誌がまだなりたっているのは、カタログ情報はまだ紙媒体に有利だからでしょう。まだまだ紙媒体の広告、特に女性の購買欲をあおる広告は、有効です。女性誌とは欲望を最大に膨張させるシステムです。
そして例えばCanCamのように、テレビにたよらず、自前のスターを作るといった、努力がある雑誌はネットには負けていません。
しかし多くの雑誌は、単純情報を売っていただけです。単純な情報ではない、出版なりに工夫した雑誌や本はこれからも、売れてゆくでしょう。それはネットにはできないことだからです。

おまけにもう少し脱線。

出版業界にいて、出版を愛するからこその意見です。

日本の出版の最大の弱点は、再販制度です。そこには自由競争はありません。新聞もその恩恵にあずかっているので、これはなにかしらの外圧がないかぎり当分はなくならないでしょう。良い面もありますが、これは既得権の問題だからです。
今のように大きな変動期には、これを放置しては抜本的な対処はできないと思います。
その核心は、新規参入者、大手と弱小に経済的、商業的にきわめて大きなハンディがあるということです。
日本の本屋と世界中にある書店のなにが違うか。
世界中どこを探しても日本のような本屋はありません。これほど雑誌と漫画が本屋を占領している国はありません。海外に行って本屋を見てください。日本は書店ではなく、雑誌店です。
実は、雑誌を出し続けることは、弱小、新参出版社には、無理とはいわなくても、かなり絶望的に不利なのです。

これは文化的な違いではありません。
理由は再販制度にあると思います。

このままだったら、ほとんどの雑誌はフリーペーパーに取ってかわるかもしれません。
広告で成り立っている雑誌、そこにオピニオンがない雑誌は、フリーペーパーと内容がかわらないからです。そしてフリーペーパーは、流通や書店を黙殺しています。
そしてアマゾンのような、インターネット。
まあ、ほっておいても、変わってゆくかもしれません。
きちんとした書籍、海外にあるような、ビジュアル書籍が出版されないのは、日本の出版界の仕組みにあることは、事実でしょう。


(ここで脱線はやめましょう。)

●さて、僕の本題、写真集を出版することについてです。
僕は、2003年、2004年と書くことに夢中になり、写真に情熱を感じていませんでした。そのため、経済は壊滅し、おちおちできなくなったのです。まあ、原因は他にもたくさんありますが。

●そこで、僕はもういちど原点に戻ろうと思いました。それはやはり僕にとって、一番は「写真」ということです。

2年間、文章を書くことによって、僕は写真を撮るだけではなく、考えるようになりました。そして今一番写真家にとって、大切なことは、なんだろうと思ったとき、
「オリジナルプリントを売ること」と自分の純「写真集」を作ることと結論したのです。

まずは、ギャラリーとはなんだろうと、そのとき初めて勉強を始めました。
僕は写真は依頼があって撮ったり、自分から企画して撮り、なんらかのメディアに載せて発表するといった発想しかなかったのです。
★「前衛としてのオリジナルプリント販売」
そこで、BLITZ アート・フォト・サイト・ギャラリー福川氏と出会いました。

●その辺のことは、★「前衛としてのオリジナルプリント販売」に書いてあるのではしょるとして、2006年1月からAPSギャラリーで個展をし、写真を販売しました。

僕は、何をするかにあたり、原点に戻り、未発表だった、初期の写真を展示販売することにしたのです。それは今の時代にとても有効な写真だと思ったからです。時代性がなければこういうことはしなかったでしょう。そして何より、僕は、僕の写真の原点から始めようと思ったのです。


前述したとおり、その写真展は好評のうえ、終了しました。デジタルプリントはコーリティも評価され、低価格に設定したので予想どおりの好結果になりました。そこで写真を買いたい人たちがたくさんいることを知ったのです。

そして、終了後本格的にこの写真を写真集にしようと奔走します。
アートディレクターの原耕一さんにも、全面協力してもらいました。

やはり、そこで、出版社はとの問題がありました。僕は商業的には名前があっても、いわゆる純「写真集」の作家としては、認められていないからです。それに、僕は新人じゃありません。編集部の誰が熱意を持って担当してやってくれるというのでしょう。若い彼らは、やはり若い人とやりたい。しかたがありません。

そのほか、折半するならばという、半自費出版的な誘いもありました。

・・・続く


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