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7 posts from October 2006

2006.10.27

写真集の作られ方Vol.03

横木安良夫写真集「あの日の彼 あの日の彼女」TEACH YOUR CHILDREN 1967-1975
の作られ方 VOL.03     VOL.01   Vol.02


出版物の制作は、いろいろあるが、写真集の場合でも、企画後撮影することもあるが、今回のような場合は、まず完成した写真ありきだ。作品じたいが企画なのだ。その作品をもとに、出版社に企画が持ち込まれることになる。正直、ここまでで90%以上のエネルギーが投入される。なにしろ、今の時代、このような純粋な写真集を作ってみようと思う出版社は少ないからだ。それは、前回のVOL.02で書いた。
ただ、出版物にするときの、写真のメリットは、かなり完成品に近い見本が作れることだ。それは構成してデザインすると、ひと目でその本の内容がわかるということだ。そのへんが文章の本と違う。欧米のビジュアル本は、各書店が、自分たちの目利きによって、本を取り揃えるので、ブックショーなどでこれから出版される、見本の本をみるだけで、瞬時に売れそうなのか分る。そういう意味で、海外の書店は、立派なビジュアル本が多いのだろう。
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間違いがあれば、(かつては誤植といった)、赤い字を入れて修正することになる。

さて、出版社が決まりると、次は具体的な制作にうつる。
今回の場合、写真の構成やデザインの骨子はすでにできていた。その状態で出版社にプレゼンしたからだ。
出版が決まった段階では、最終制作に移ることになる。
出版社側の条件のひとつに、取り扱っている「紙」から選ぶことだった。紙は印刷物コストのなかの大きな部分だ。各出版社、さまざまなルートから紙を仕入れる。力関係によっては、印刷所のいいなりということもある。(特に価格面)。幸い今回出版してくれるアスコムは、料理本など、さまざまなビジュアル本を作っている。通常から写真向けの紙を使っている。4種類提示された用紙は、微妙な違いで、どの紙もこれはいやだというのはなかった。写真集の性質上、あまり白い用紙、青みがかった白は排除してある。温かみのある紙がベストだと思っていた。
結局選んだのは、VマットJ2,110mg,写真集としては少し薄い紙だ。それでも352ページもあると、本文だけで2.45cmある。ソフトカバーなので、あまり厚い紙を使うと開きずらくなるので、このぐらいがちょうどいいだろうということになった。本のサイズは、A4変形、幅210mm高さが245mmだ。
10月x日 ツカ見本ができあがった。使用する紙、ページ数、サイズで、一点ものとして作ってもらう。これはどんな写真集でもやることだ。やはり本は、触って、持って、初めてイメージがわく。手に持って、その用紙のめくったかんじなんかも確かめる。本によって、手触り感はとても重要な要素だ。
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さっそくダミー用にレーザープリンターで出力したデザインされた表紙をつけてみる。
今や、プリントは印刷物と同じようなコーリティだ。限りなく、本番と同じようなできあがりだ。もう一度、手に持って重さや、感触を確かめる。こんなふうに、出来上がりを想像しながら、ページをめくり、手から身体、五感をフル動員して確かめる。ある意味至福なときでもある。
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10月x日 アスコムの編集者、凸版印刷の営業、技術者、アートディレクター原さんと僕で、原さんの事務所で打ち合わせをする。すでに出来上がっている、本文(写真部分)の入稿をするわけだが、そのまえに、テストプリントをしてもらうことにした。テストプリントは、同じ用紙を使った、写真集のなかから数カット選び、テストとして印刷する。写真集ではよくやることで、印刷所と、カメラマン、アートディレクター、編集者間で、どういう色調にするかのコンセンサスを取るためだ。
これは、デジタル以前、銀塩時代でも同じだ。それは、原稿と、印刷物は、全く違うしくみで、作られているからだ。今回は、モノクロのでも、ダブルトーン印刷だ。インクジェットでプリントした写真を見本にしても、そのとおりに印刷できるわけではない。インクジェットはなしろいまや、8色も使っている。それをたった2色のインクで再現する。そこにはきわめてプロフェッショナルなノウハウが使われている。
その微妙な色調、グラデーション、黒のしまりかた、ハイライトの残し方など、製版者が理解して、印刷物として再現することになる。それはある意味技術だけでは収まらない、感覚作業でもある。製版者が変われば、印刷物もかわるのは、当然だ。だから、印刷の場合は製版者は、かなり重要視され、技術者というより、アーティストの面もある。だから有名な製版者をわざわざ指定することもある。凸版だと、山本さんや甲州さんがスター製版者だ。
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今回、ページ数もあるので、あまり重々しい印刷にすることはさけたかった。印刷上の完全なハイライト(紙の色)から、完全な黒。その間の豊富なグラデーション。それをオフセット印刷で再現するわけだ。そこにはさまざま解釈がある。そのへんを、製版者と僕や原さんがいかに、共通認識を持つかが大切だ。
そのために、4カット選び、インクを変え、調子を変え、テストだししてもらうことにした。
その報告は、次ということで。

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2006.10.22

10.21新宿騒乱とGRDの誕生日

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今度の僕の写真集「あの日の彼 あの日の彼女」の時代、1968年10月21日、10.21 (じゅってんにいち)、そのとき僕は19歳だった。
その年世界中でスチューデントパワーの嵐が吹き荒れた。日芸でも、5月に学園は封鎖された。バリケードが築かれた。僕はその日机を運んでバリケードを作った。夜は、3時間交代で、歩哨にたった。それはもう、「気分は戦争」だった。でも実際は、僕等は末端の兵隊で、いつも知らない奴等に命令され、ざけんなよ、状態だった。そして6月になっても、7月になってもバリケードのなかには、何も起きなかった。このあたり、僕の写真と文の本「サイゴンの昼下がり」に書いたが、もう絶版でアマゾンぐらいでしかえないし、なんか値段も高くなっているし、誰も読めないとおもうので、ここを読んでください。一ノ瀬泰造の話です。
さて、なにも起きず、退屈で暑い教室は、ひとり抜け、二人抜け、結局僕も、恒例の夏休みの家族旅行にのこのこついてゆき、真っ黒になって、場違いな気になり、バリケードからでることにした。そして写真を撮り始めた。ああ、今思うと、なんであの、退屈なバリケードのなかの写真を撮らなかったのだろう。カメラを持つより、行動することだったんだ。フー、ナンセンスだと思う。でもべりケードのなかで、写真展があり、そういう写真をたくさん撮っていた人がいた。彼はその写真をどうしたのだろう。けっこういい写真があったな。
そして、僕は何かがあれば、写真を撮りに行った。上の写真は、10.21新宿駅構内だ。いまでもありありと覚えている。それも、一ノ瀬さんのことを書いた部分にあると思う。

毎年10月21日になるとだから思い出す。10.21は、自分の誕生日と同じぐらい重要な日だ。それが、昨日、GRDの誕生日だと知った。10月6日に選んだ、GRDカレンダーコンテストの今日は表彰式であり、GRDの誕生日だからだ。田中長徳氏は、その特別な日を皆に知らせた。キャンディっトフォトの日に、GRDは、誕生したのだ。もっともカレンダーはスナップ写真は選ばれなかった。カレンダーの特質状、また、肖像権について、クリアしていなかったこともある、そこがちょっと残念だが、とてもいいカレンダーになったと思う。来年も続けてい欲しいといいなさいと、木村恵一先生に言われた。ほんとうにそうだ。
ハービー山口氏も、とてもいいスピーチをした。それは彼の本で読んだことのあるエピソードだが、彼の役者のような語り口は、まるで演技するように話す、この話は何度きいてもいい。それはロンドンの地下鉄で、若い時代、好きだったパンク歌手が正面に座っていた。ハービーさんは、どうしても撮りたくなって、おそるおそる、撮っていいですかと聞いた。するとその歌手は、誰のことだろう・・・ニヤリと笑い、「いいよ」と答えたという。そして、「写真を撮りたいと思ったんだろう、だったら撮るんだよ、それがパンクだよ。髪の毛を逆立てるだけがパンクじゃない。撮りたいものを撮る。それがパンクな写真なんだ」・・・・・ヒエー、僕が思っていることと一緒だ。撮りたければ撮る。ハービーさんは優しいけど、でもハートはパンクなんだと再確認した。
Ricohparty
なぜか女性が、GRDの誕生日ケーキを吹き消した。彼女たちはウエッブをやっている?と酔った耳できいた。それから、GRDの特別版。限定1000台。空に浮かぶ雲と、天使をイメージしたカメラ。欲しい。きっとポケットから出して構えると皆ぎょっとして、いい顔するかもしれない。

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日本カメラ選評、深夜、新宿で沢渡さんと飲む

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10月19日 来年1月号から始める日本カメラフォトコンテンスト、カラープリンの部の写真を、人形町にある日本カメラに選びに行った。担当のY女史。初めてでしょう、皆模様眺めか、約3000枚の応募があるという。3000枚か、第一次、最初のセレクト、皆どのくらいかかるの?と聞くと、2時間から3時間ぐらいだという。そうか、10時半から初めて、はやくて12時半ぐらいか。写真はテーブルの上に5つぐらいの山になっていた。高さはそれぞれ30センチ。それにキャビネサイズの応募が100枚ぐらいだろうか。量を見て、ちょっとため息がでる。でも3000枚のなかから選ぶことに、別にプレッシャーはない。自分の写真ならば一日で、10000枚ぐらい見て選ぶなんて、特別なことじゃない。でも、こうやって全部がプリントされていると、やったことがないので、さあやるぞ、と気合を入れる。すでに裸になっている写真もあるが、透明や半透明のビニールに入っているプリントもあり、さまざまだ。できれば、透明ビニールに入れてもらいたいと思う。それに、やはりキャビネサイズは、不利だ。最低8x10、A4の大きさが欲しい。最初のセレクトでキャビネから選んだのは、たった1枚だった。集中して、どんどん見て、どんどん落としてゆく。一枚を見るのに1秒もかからない。ときどきはっとするような写真を見つけて、手が止まる。あとは、半透明のビニール入りの写真を出さなくては見られないので少しいらいらする。裏を見ることはない。男か、女か、年齢もわからない。最初のセレクトとはそういうものだろう。約1時間半。もう少しかかったかな。ハイスピードで選んだ。この集中力は、撮影に似ている。途中一回休憩しただけだ。約100数十枚選んだ。すごく巧いなと思ったひとたち、たぶんべテランだ。多い人は、20枚ぐらい応募してくる。それはなんでも多すぎ、組写真じゃないのだから。ひとり数枚にしてほしい。印象に残ったのは10名ぐらいだろうか。ここで昼食。近くの古くからある洋食屋さんでお弁当を食べる。コーヒーを飲み、1時半ぐらいから始める。
今度は、その100数十枚を、4つにわける。すごいくいい。よい。ひっかかる。まあまあ。そして落とし。金賞2点、銀賞8点、銅賞18点。金賞候補は、4点あった。その他、銀賞、銅賞合わせて、28点にしぼる。そこで裏を見てみる。年齢が高い。若い人で40代。50、60代、70代もいる。これが僕の知らなかった、日本のアマチュアたちか。
金賞候補4点を2点にしぼらなければならい。どれも内容、力量とも互角。ある理由で、2点に絞る。理由は、日本カメラに1月号でのお楽しみ。金賞を逃した2点をのぞくと、銀賞はあと6点。すぐに決まる。と、そのとき、風景が一枚も入っていない。どの写真もスナップや人物だ。理由はある。僕の好き嫌いばかりじゃない。風景写真は、どんなに綺麗でも、どこかで見た風景だ。もちろん見たこともないような、風景写真だったら当然入る。風景写真はいっけんとっつきやすい。だからアマチュア写真家は、皆撮る。でも、本当は、もっと深い。風景写真は簡単には撮れない。なぜなら、風景は圧倒的に本物がよいからだ。写真で風景を撮るのは、本当に難しい。難しいと思って、これぞというのがあるのなら、見てみたいし、金賞だって撮るチャンスがあるだろう。そう思って、もう一度、セレクトした写真のなかから人間が写っていない写真を数点選ぶ。なかなか良い写真だ。簡単には撮れない写真だろう。
終わったのが3時。とても順調に終わった。この評を、約1ヶ月の間に書かなくてはならない。ちかじか1日かけてかくつもりだ。
20日に、写真集のツカ見本ができることになったが、ADの原さんがその時間打ち合わせで、見本をみるのが夜の11時になってしまった。その日は、とても流動的で、夕方hanaさんが写真展をしている阿佐ヶ谷住宅に行こうと思っていたが、取りやめることになる。そしてもともと約束していた、S社のKと、青山二丁目の寿司屋で食事。カウンターだけのしゃれたすし屋、客は半分以上が女性だけ、美味。でも、興奮して話をしていて、味がよくわからなかった。彼はもとは、週刊Pにいたので、付き合いがながい。その後、8時半に編集部に戻りたいといっていたKを無理やり、新宿に連れ出す。バーN.文壇バーで有名な、風花の近く。そこの若いママのことは、Kも知っている。
すいていたので、ママと女の子と4人で話し込む。
途中、K社の編集Iが、店に電話をしてくる。翌日、会う約束だった。そうしたら急遽、今日になったけど、どうかという。沢渡さんと一緒だという。
客が数人きたのと、11時に広尾に行かなくてはならないので、
Kとでることにする。無理やり広尾まで送らせる。後半、ペースをおとしたが、結構飲んでいた。
11時につくと、ツカ見本があがっていた。紙を選び、細かい打ち合わせをして、12時ぐらいにでる。
この写真集の担当、Tと一緒に新宿に行く。そこでIと待ち合わせていたのだ。
僕の写真集の担当Tも以前沢渡さんにあったことがある。
僕は、今回の写真集の時代、1972年から1975年、篠山さんのアシスタントをしていた。当時、今の六本木ヒルズの敷地内に六本木スタジオがあった。スタジオの3階に、篠山さんと沢渡さんがオフィスとかまえていた。間に助手部屋と、暗室、機材室があった。それぞれに3人ずつ計6人のアシスタントがいた。暗室とそこは、共用だ。だから僕は、ある期間の沢渡さんの仕事をすべてみている。暗室担当が替わったときなど、プリントの調子を見てあげることもあった。「そんな焼きじゃだめだよ、沢渡はもっとこういう調子にしなければだめ」とかほとんどどっちの助手なのか分らない状態だ。そのことの、篠山さん沢渡さんは、大スターだった。写真家としてスターというより、メディアのなかでも、スターだった。まるで芸能界のようにキラキラしていた。
助手の間、沢渡さんと話したことはない。篠山さんは先生だったので、たくさん話した。
フリーになってから、スタジオで会っても、普通に挨拶するだけだった。撮影会の講師で何度か短い会話をした。
だから、きちんと会って話をするのは、初めてだった。少し、緊張した。
1時ぐらいにIと沢渡さんがやってきた。いろんな話をした。学生時代のこと、僕はまるで取材するみたいに、聞いた。大学時代はCanonのVT、(もしかしたらVL)を持っていた。35mmと135mm。同級生だった篠山さんはミノルタオートコードしかもっていなかった。カメラを貸すと、とても巧くて、すぐに自分のものにするのが早く、篠山さんは最初からものが違うと言った。・・・・・・などなど、結局5時過ぎまで飲んだ。僕は翌日10時におきて、打ち合わせがあったので、そこで帰ることに、他の皆はそこからゴールデン街にながれた。またこんど、話を聞こう。きちんと忘れないうちに何か書いておかないと。


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2006.10.19

写真集の作られ方Vol.02

写真集の作られ方 Vol.02  ちょっとヘビーな数ヶ月 Vol.01

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★「あの日の彼 あの日の彼女」TEACH YOUR CHILDREN
横木安良夫写真集  
文・角田光代(写真を見てショートストーリイを書いてもらいました)
A4変形(21X24.5cm) 352ページ 並製本 
定価 本体価格3800円+税
出版社 株式会社 アスコム
アートディレクター 原 耕一&トラウト


5月のParcoロゴスギャラリーのMINI写真展が終わったあと、僕は強く「TEACH YOUR CHILDREN 1967-1975」の写真集を出版することを望んだ。今しかチャンスはないような気がしたからだ。写真の売れ行きも予想以上だったことで、パルコのほうも好意的になり、次もなにかあれば、ロゴスでやってもいいような雰囲気があった。
原さんに紹介され、ある若い出版社にも行った。そこでは、写真の内容は興味を惹かれても、僕とはキャリアの違う、若い編集者が、世代の違う僕の本をやる、情熱は持ちづらいと言われた。編集会議にかけて、誰かやりたいものがいるかと聞いたとき、誰も手をあげなかったという。本に興味があっても、それが確実に利益になるのでなければ、編集者の熱意は大切だ。アートの本を作るとき、そこにキャリアや年齢の壁もある。アートの写真集は、僕のような年齢になって、突然初めてもかなり困難だ。年を重ねていても、新人だったらよいだろう。なまじっか名前があることは、ハンディもある。狭い出版業界では、僕はグラビアカメラマンだと思っている人が多い。違う位相の作品を作るには、そんな、さまざまな困難を打ち破る必要がある。僕のことを理解してくれる編集者が絶対に必要だ。情熱がなければ、写真集なんてできない。
そんなとき1月の写真展のとき、写真を買ってくれた古くからの知り合いの編集者が写真集をつくることに興味をしめした。確定ではないが、やってもいいという。
僕の論理は、なぜ無名のタレントDVDが1000枚とか2000枚しかプレスしないのに、作ることができるのか。僕の知る、DVDの制作費と写真集の印刷費は同じぐらいだった。同じリスクなら、写真集をやってもいいではないかと。僕は印税はいらいないと言った。別にそんな僕の理屈に共感したわけではないが、彼は作りたいと言った。
僕はすぐに、アートディレクターの原 耕一さんに、まだ確定ではないが、やってみたいという編集者がいるので、200ページぐらいで組んでもらうことにした。結局くみ上げると320ページぐらいになってしまった。大きさは原寸の2分の1だ。ページが多く、それはあくまで、見本であって最終的には、ページを減らすつもりでいた。
最初、原さんが組んでくれた写真は、僕にはすこしドロっとした少しヘビーなものに思えた。僕は、1967年ごろとった、横田基地のある福生の米軍ハウスがある、まるでアメリカの住宅街のような場面からはじめてもらいたかった。その時代は決して重くなかったので、洒落た時代になるように、構成しなおしてもらった。写真は組み方でずいぶんと印象がかわる。なぜアメリカで始めたかったかといえば、僕の時代は、すべての文化がアメリカだったからだ。今のようにアメリカがダサく見える時代と違う。「安保反対」と叫びながら、若者の多くは、アメリカ文化にあこがれていた。そういう時代の写真だからだ。
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↑たくさんの人に見てもらったので、ぼろぼろになってしまった。

その小さなサイズの見本写真集は絶大だった。小さいながら、レーザープリントで刷られた表紙のついた、見るからに本のような体裁のそれを手に取ると、皆一ように興味を示してくれた。こんな写真集欲しいよね、と。きっとイメージがわきやすいのだろう、見積もりを取ってみるといいう編集者が何人かいた。
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ただ、最初に出版してくれると言った編集者は、そのページ数に驚いた。彼は150ページぐらいの写真集として見積もりをとっていた。でも、やはりその320ページの見本写真集は、説得力があった。彼はそれを自覚し、考えながらも、出してくれると言った。とはいうものの、僕は少し不安になった。その後、そのミニ写真集を何人に見せただろうか。僕は、再度、この体裁で出版できるのか、もう一度編集者に聞いた。機嫌がよかったのか、もう一度見積もりを取ってみるよと自信たっぷりだった。僕はそれにかけた。すでに7月になり、そろそろ12月に発売するなら、準備が必要だった。PARCOにも打診すると、写真集を出版するならと言うじょうけんで、12月には可能だと言った。そちらのほうはまだ時間的に余裕があったので、僕は他の出版社にも働きかけることにした。無理言って、原さんに原寸大の見本写真集を作ってもらった。
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それは本番の厚さの1.5倍もある立派なものだった。僕は、それを持っていくつかの出版社に回った。大手はけんもほろろだったが、小さな出版社はどこも興味をしめしてくれた。僕はさまざまな条件を提示した。初版にかんして印税はいらない。何しろ写真集の多くは自費出版か、もしくはかなりの部数を買い取るのが普通だからだ。僕は、デザイナーの分も自分で持つといった。その他印刷以外にかかる経費は全部自分で持ち出すと提案した。そのなかでひとつ出版社が興味をしめした。
その頃僕は、写真の序文を誰かに書いてもらおうと思っていた。僕と同世代ではなく、もっと若い作家。多くの友人が角田光代さんがいいという。僕は彼女の名前は知っていたし、直木賞作家、あと「空中庭園」の原作者であることも知っていた。でも読んでいなかった。すぐに手に入れ読んだ。僕の世代とは明確に違う価値観、それでいて、同じような不思議な懐かしい語り口にひきつけられた。彼女の写真にたいする、反応、感受性が素晴らしいと思った。なにより、彼女が1967年3月生まれだということ惹かれた。僕も3月生まれ、この写真集の始まりも1967年の春。ぼくは1967年の3月を覚えている。そんなときに角田さんは生まれた。これは偶然というより、必然なのだ。僕は彼女のメールアドレスを教えてもらい、メールをだした。時間が合えば書いてくれるといった。一ヶ月後僕は、新高円寺の駅前の喫茶店で待ち合わせた。そこでぼくは、彼女に自由に書いて欲しいと言った。この写真集を見て、この時代にすでに生まれて、生きていた、角田さんの視線で、フィクションを書いて欲しいと、大胆にも、ずうずうしくもお願いした。彼女は快諾した。そして約束の9月10日より、ずっとはやい、8月28日に、原稿が送られてきた。そのタイトルが、「あの日の彼 あの日の彼女」だった。僕ははっとした。僕の写真のなかからそんなことばを浮かびあがらせる、作家の才能に感服した。そして書いてある内容は、素晴らしかった。僕の写真を見てから読むと、なんだか涙がでそうだった。もうこれだけで、この写真集を作る意味を感じた。
角田さんのショートストーリーができて、本格的に写真集の構成やデザインの形が整った。

そのころ、ロゴスギャラリーでは、12月に写真展をするかどうか、最終の決断が迫られていた。僕はもういちど、最初の出版社に、本当に出す意思があるのか、聞いた。もちろんわかっているという。結局僕は賭けのようなつもりで、最悪は、数百部買い取る形の条件の出版社でもやることに決めた。僕にとってもかなりリスキーだが、もう動き出していた。
結局、12月1日に間に合うように、写真集をだし、12月1日から13日まで、パルコパート2B1ロゴスギャラリーでやることに決めた。ただ、プレスリリーは9月半ばが締め切りだった。いやな予感はあたっていて、もちろんいくつかの保険をかけておいたが、最初の出版社の編集者とは連絡を取れなくなった。僕は、もう完全に観念して、かなりのものを負担するつもりで、それでも決して自費出版ではないので、腹をくくった。
そんなとき、僕はそのころ、毎晩のように朝までの飲んでいた。決めたものの、いろんなものが動きだし、気持ちは重かった。また、地獄を見るかなと思ったのだ。そしてその出版社にそれでお願いしますとは、いいだせないでいた。
そんなとき、僕はTとう編集者のことを思い出した。彼にはこの写真集のことを、1年以上もまえに話したことがあった。でも、彼は、うちの会社はタレントの写真集はつくるけど、アートの本は全然興味がないんだよね、と言った。それに彼はその出版社に入ってすぐだったので、何もわからないと言った。そんなことより何かいい企画あると聞く。
Tは前の会社では、男性誌の編集長をやっていた。
彼は、1968年生まれだ。僕とは19違う。彼はまえのE出版社で、なぜか26歳で編集長になっている。その後3つの雑誌の編集長になる。大手の出版ではないとしても、得意な経歴だ。僕は彼と2つの雑誌をやった。若く生意気だったが、キャリアがあまりに違うため、途中から説教するのはやめて、自由にやらせた。彼は写真が好きになり、その後僕とやらなくなっても交流は続いていた。そんな彼が、転職した。そこが㈱アスコムだった。そこの取締役である、H氏は、もとはB社で男性誌の編集長をしていた。そのまえは、TとなおなじE社にいた。そんな関係で、Tは、アスコムに引き抜かれていたのだ。
僕は電話をした翌日、写真集の見本を持って、アスコムに行った。Tに会うためだ。まずTに打診してから、H氏に会うつもりだった。ところがちょうどそこにH氏もいた。僕はすぐに、見本写真集をH氏に見せた。とても興味深げだった。そして、「見積もりを取ってみれば」と言った。それは実は驚くべきことだった。H氏に僕はいままでいくつかの、企画を持っていったことがある。でも、そこでまずは「うーんどうだろう、営業に聞いてみるよ」といって、結局はそれ以上進展することはなかった。それが、Tに、「見積もりを取ってみよう、このままでもそんなにかかることはないだろう」と言ったのだ。僕は心底驚いた。そのとき、そんなつもりで来たわけではなく、まずはTに見てもらい、それからだと思っていたからだ。その後見積もりまでは、順調だった。しかし、印刷経費はクリアーできたとしても、どういうルートでその写真集を売るのかというところで、壁にぶちあたった。アスコムではそういうノウハウがなかったからだ。・・・・。
結局二転三転して、アスコムから正式にGOがでたのは、10月12日だった。もちろん内部的なことは、ここでは語れないし、語るべきことでもないと思う。
さて、無事、商業出版物としての写真集がでることになった顛末だ。
なんでこんなことを書いたかというと、アートとしての写真集は、それだけ日本ではなりたちずらい状況だということを、わかって欲しかったからだ。アスコムという、いつもは料理やNHKの本や、韓国スターの本を作っている出版社がこの本を出せるかというと、ビジュアル本を常につくっている、その仕組みにあることは事実だ。ただ、彼等は常に、最低1万部以上の本を出すことを義務づけられている。今回は、僕やTの熱意がつたわり、
たまたま、Tが前の仕事が終わったばかり、時間に余裕があったという偶然が重なり、それはこの本を作るための、「必然」だったのかという、まるで平原綾香ジュピターの歌詞のように、♪意味のないことなど、おこりはしない♪という思いだった。

●ここで僕が学んだことは、2つ。
写真は、見ればすぐにわかるメディアだ。つくりたい写真集の完成形に近い、表紙まわり、構成をした見本の本をつくる。すると、かなりの人が、興味をしめす。ぽんと、写真だけを持っていっても、説得力が弱い。まとめる力、自分の写真を、相手にわかってもらう努力が必要だ。今は簡単に、見本を作れる時代。
●そしてもうひとつは、情熱的に興味を持ってくれる、編集者と出会うことだ。それには、作品を作って、多くの編集者に会うことだ。


横木安良夫写真集 「あの日の彼 あの日の彼女」TEACH YOUR CHILDREN 1967-1975
12月1日発売 12月1日~13日 渋谷PARCO Part2 B1 Logos Gallery 写真展

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●さてこの先のスケジュールは、あくまで予定
10月20日 つか見本
10月23日 本文(写真ページ入稿) 328ページ 
10月30日 入稿 カバー・帯、表紙、
10月31日 出校
11月6日 初稿
11月13日 再稿
11月17日 下版
11月20日 下版
11月21日より印刷
11月24日 折
11月25日 製本
11月28日 納入

この途中経過を、写真を交えながら紹介してゆきます。

番外編 過去の関係Textです。
************************
●2006年7月x日 写真集の作られ方 (大脱線の巻き)
写真集について、書店の人はどう思っているのだろう。
過去の、Blogのトピックス
前衛としてのオリジナルプリント販売

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2006.10.15

写真集の作られ方 Vol.01

写真集「あの日の彼 あの日の彼女」TEACH YOUR CHILDREN 1967-1975が
どのようにできたのか、その作られ方を紹介します。

まずVol.01は、2006年1月から3月まで、そして5月に開催した写真展までのいきさつを・・・・。

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●2005年×月x日 
ある日僕は、突然オリジナルプリント売るって、どんな世界なのか考えはじめたのです。
そこにはさまざまな疑問がありました。インターネットで調べているうちに、アート・フォト・サイトというBLITZインターナショナルが運営しているサイトがあり、かなり踏み込んだ意見を持っているようなので、電話をしてみました。
そこに福川氏というギャラリストがいたのです。そして偶然というか、以前会ったことがある人物でした。
彼が10数年前、代官山でBlITZギャラリーを運営していたときに、友人から紹介されたのです。
でも、その頃BLITZは、海外の作家を取り扱う、少しスノッブな雰囲気のギャラリーで僕は全く興味がなく、隣のビルにあったにも関わらず、それから一度も会うことがありませんでした。
そんな彼が、「写真を売ることに興味があるのですか?」と言うのです。Aでも、「芸術写真を売っているんでしょう?」F「いや、アート写真を売っているのです・・・・?」彼のサイトには、アート写真について書いてあります。わかったような、わからないような。それでもオリジナルプリントを売ることに興味を持った僕は、明確な意見を持った彼と会うことにしました。
●2005年x月×日 
会って、福川氏の言うことを僕は理解し、なにより共感したのは、「彼は日本の作家を日本のマーケットで売りたい」というのでした。
今の時代、日本では売れないもの、認められないものを、海外に持っていっても意味がないというのです。・・・・正直僕は、日本の作家をギャラリーは積極的に市場の活発な海外で売って欲しいと思いました。もっと正直に言えば、彼が僕の写真を海外に紹介して欲しいと思ったのです。なぜって、日本には、オリジナルプリントを買う人なんて、ごく一部、写真市場は皆無、それだったら、やはりアメリカじゃないですか・・・・。
すると福川君は、日本に市場がないのではなく、まして日本人がアートとしての写真(僕の理解としては、ギャラリーを通じでアート市場に参加する作品)を買わないのではなく、単純に、売るべく、日本人の作品がない、きちんと売る意識で作品を作っている日本の作家がほとんどいないだけです、といいきったのです。
彼は意見は、これだけ文化の発達した日本に、アートを分らない人しかいないのではなく、彼等が買いたいと思う写真がない、一番わかっていないのは、市場、買う側ではなく、意識の低い、写真家自身だというのです。
そう、たしかに、僕もそのひとりでした。
アート市場は、多様です。美しい風景や、花を壁に飾りたいひとばかりじゃないのです。いまや世界はあらゆる価値観に囲まれています。写真が欲しいというひとも、多様です。それなのに日本の写真家はアートというと、皆同じようなものばかりを撮っていて、本当に求められている、ニーズに答えていないというのです。
わかったような、わからないような。
そういわれたとき、僕は、一番ぼく自身が裸の、ああこれこそ自分だなという写真は、スナップ写真だと思ってましたのでそのことを言うと、福川氏は、その写真家が背負っているすべてのものの反映が作品だから、別に写真のジャンルにはこだわらないといいうのです。見るだけの写真だけではなく、写真を欲しいと思わせるのは、その作家の世界観、ライフスタイルに共感がなければ、絶対に心が動かない、ということでした。心が動かなければ、安価なポストカードだって買わないというのです。
僕は、自分自身のことを考えました。1967年、最初に始めたのがスナップです。1975年の9月にフリーの職業写真家になったあとも、ずっとスナップを撮っていました。アート写真というのは、自分そのもの、それを長く発信すること、僕はなんだから心づよくなり、自分の写真を本気で見直すことにしたのです。
●2005年x月x日
僕は、これまでプリントしたものや、カラーのポジ、仕事ではなく、自分の個人的な、主にスナップ写真や、仕事だとしても、かなり自由に撮ったもの、販売するためには、いくら自分の気に入った写真でも、肖像権が問題になる、タレントの写真は除くという基準で、写真を選びました。これまでもかなりスキャニングしてストックしいていたのですが、それから毎日、毎日、時間を見つけ、8X10、4x5からハーフサイズ、ポラロイドまで、パソコンに取り込みました。
●2005年4月x日
それを、Canonの9100iで、A4サイズにプリントしてみたのです。全部で500カットぐらいになったでしょうか。
時代は1970年ぐらいから2005年までの写真です。ちょうとその頃、キンコーズのリング製本というのを知り、それを構成して、ジャンル別に10冊ぐらいのファイルにしました。
●2005年5月x日
そこから再構成して、僕は、2冊、約200点のファイルをつくりました。それをアートフォトサイトの福川氏に見せたのです。彼はとても面白いので、2006年最初に、写真展をやろうということになったのです。
手始めに、7月8月に、アートフォトサイトのグループ展に、1974年、稲村ガ崎で撮った、サーファーとそのガールフレンドの写真4点を出展することにしました。その写真とプラスした1970-1975年の写真は、アサヒカメラ9月号に、Teach Your Children1970-1975として、発表しました。そのときの見本プリントは、ライソンのペーパーで、Canon9100でプリントしました。グループ展のプリントは、友人のEpsonPXG5000で、プリントしました。ただ、どちらにしても、モノクロ黒のコントロールが難しく、ちょっと暗い気分でした。

●2005年5月x日
僕はその頃そのファイルをいろいろな人に見せました。もちろんほとんどが編集者、デザイナーです。
そんな時、アートディレクターの原耕一さんが、僕の初期のモノクロ写真が面白いといってくれたのです。
それだけで、纏めたらどうかといいました。
そうだとしても、その時代、学生の頃から独立するまでの写真は、すでに過去にプリントしてあるもの以外は、膨大に未プリントのままです。
タイミングの悪いことに、僕はその2年前に、銀塩の暗室をなくしました。経済的な理由です。そのため、すっかりデジタルに移行していました。デジタル以前、仕事は90%以上カラーでしたが、デジタルになって、スナップ写真もカラーになっていました。もっともカラーのスナップは面白く、それまでの仕事はカラー、作品はモノクロという図式が僕のなかでくずれていきました。だから、もうモノクロ銀塩写真をやらなくていいや、と決意していたのです。まさか、こんなふうにアート写真、オリジナルプリントをギャラリーで販売することのなんて、考えてもいなく、もっと早くその意識になっていれば、事情は違ったかもしれません。
●2005年5月x日
昔の写真、今回の写真集の写真ですが、その写真をプリントするには、しかもかなりの枚数です、暗室がなくなっているので不可能でしたが、ふと、ポジからはスキャニングしているので、モノクロのネガからスキャンしたらどうかと思ったのです。あまり、モノクロネガ、しかも35mmのネガをスキャンするなんて、聞いたことがありせんでした。僕はそれまで、印画紙にプリントした写真のみをスキャニングしていたのです。それに僕の持っていた35mm専用のスキャナーは古く、やってみたらモノクロのネガは思ったようにはいかなかったのです。
そこで、KonicaMinoltaのDimageScanElite5400、2を買いました。やはり35mmは専用機が絶対にいいからです。そして、Scanしてみて、僕はこれはいけると思いました。
●2005年7月x日
僕は、写真を始めた1967年からプロになる1975年までの、ネガから約600点ぐらいをスキャンしました。
それは、かつては、気にも止めなかったような、写真がたくさんありました。それこそ学生時代、1967年から1970年ぐらいまでは、作品としてほとんどプリントしていなかったからです。この写真は僕が若いときに撮ったものですが、選んでいるのは、もう長年写真をやっている、今の僕です。セレクトの基準は違うというよりは、ああ、なんでこんなに、いい写真を見逃しているのかなというのが、感想でした。それはその時代に、流行っていない写真だったからでしょう。セレクトしてプリントしているうちに、もしかしたら僕は、写真家として違う道もありえたかもしれないと思ったのでした。
●2005年8月x日
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(ファイルの表紙の写真は、あとで入れ替えました)
プリントした枚数は、約400点。キンコーズのリングファイル4冊になりました。それを僕は多くの人に見せたのです。皆、とても興味を持ってくれました。ただ、誰もこれが写真集になるということには、自費出版ではないかげり無理だろうといいました。まして300ページぐらいの写真集だったら、もっと無理だというのです。
僕としては、写真集になればいいなと思っていても、現実的ではないことは知ってました。どちらにしても、アートフォトサイトギャラリーで、2006年春に、企画写真展をして、そこで写真を売ることが、そのときの目標でした。
●2005年10月x日
ちょうどそのころ、Epson MaxArt5500を知りました。僕のスキャンしたネガを、フォトショップでいろいろ手をいれ、それを僕はCReCo(クリコ、Creative Control)と呼んでいます。
そのプリンターに出会う前は、ライソンのペーパーを使って、友人の顔料系のプリンターで、写真展をしようと思っていました。
しかしデジタルモノクロプリント、エプソンは、ピエゾグラフとよんでいますが、PX5500だったら銀塩写真に負けないコーリティの作品ができると確信したのです。
●2005年11月x日
僕はEpsonPx5500を手に入れ、猛然とデジタルプリントを始めます。ペーパーは、Velvet Fine Art Paperが気に入りました。
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●2006年1月10日
ALAO YOKOGI PHOTOGRAPHS TEACH YOUR CHILDREN 1967-1975写真展「Teach Your Children 1967-1975」 目黒のアート・フォト・サイト・ギャラリー、Blitzインターナショナルで2月25日まで、開催されました。PX5500で、デジタルプリント大小さまざまにプリントして、壁面いっぱに張ったのです。
1月22日には、大雪にもかかわらず、多くのかたが、訪れてきました。ちょっとした評判で驚いたものです。.

写真展は、その後京都ギャラリーでも開催しました。
なにより、デジタルプリント(ピエゾグラフ)A3ノビを、特注額込みで、18900円で売りました。なんとしても、コレクターではない、普通の写真ファンに買ってもらいたかったからです。それは目論見どおり、初めて写真を買う人が大半でした。全部でこれまでに70数枚売れています。
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●2006年5月x日
その写真が売れたことで、ブリッツインターナショナル(アートフォトサイト)の、福川氏に、毎年パルコpart2ロゴスギャラリーで開催している、恒例のイベント販売、写真集、レアブックコレクション、で、あいている壁面を使い、ミニ写真展をしないかと誘われました。それがミニ写真展「DayDreamBeliver」です。そこで、やはり福川君と、練り、思い切った低価格で写真を売ることにしたのです。それは、8x10、(画像イメージはキャビネぐらいです)ピエゾグラフプリントを一枚6000円、額入りで8000円にしました。それはもう実験です。それは、半分以上がカラー写真でした。5500のカラーも僕は満足しました。それまでの、銀塩デジタルプリント(ラムダ)よりも、惹かれました。なにより、フィニッシュまで、カラープリントをコントロールできることに、将来性を感じました。ただ、ロゴスギャラリーでこれまで、写真が売れたことが一度もないというのです、弱冠の手抵抗もありました。なにしろ目標にたっせず、貸ギャラリーではなく、売り上げが必要で、結果、惨憺たるものだったそうです。ですから、実はかなり不安視、というより、レアブックのほうで実績があるから、まあいいか、やってみればという雰囲気でいた。
結局、2週間の期間中、66枚が売れ、今までに80枚ぐらいが売れています。
その結果コーリティの高い、オリジナルプリントを買う層が、決してコレクターではない人たちの間に、確実にあることを知ったのです。
そういう意味で日本には、アート写真の市場がないのではなく、福川氏の考えは立証されたかたちになりました。僕は、市場の確立していない、日本では、今、海外では、このぐらいの価格だということを無視しました。
それより、この写真好きだな、と思ったとき、いくらだったら買うか、欲しいと思った人が、「欲望に負ける価格」とはいくらくらいなのか、と考えたのです。もちろん、その価格で生活できることはないでしょう。でも、スタート価格としては、何しろ僕は、コンテンポラリーアートの写真家としては、実は新人だと思っているからです。
だから、多くの人に、リーズナブルな価格のピエゾグラフで、オリジナルプリントを所有する喜びを知って欲しいと思ったのです。
そして不思議なことに、一枚のプリントを買った人は、やがて他の写真も、そして銀塩のプリントも欲しくなるのです。それこそが、資本主義社会の不思議、知ることによって、知られることによって、購買意欲が沸く経済原理の実践です。・・・僕はようやく、アートを売り側、買う側のヒントをつかんだ気になったのです。
だから、日本人は、写真なんか買わない、ということは、ありえないのです。結局買いたいものがない、というのが結論でしょう。
福川氏と組んだPARCOでの写真展の、まあまあ、の成功が、この写真集「あの日の彼 あの日の彼女」を本気で出版する強い動機になったことは、事実です。
なにより、コマーシャルでもなく、有名人が写っているわけでもなく、美しい風景写真でもなく、花の写真でもない、この日常的なスナップ写真を買う人たちが、確実にいると知ったことが僕にとって大きな収獲でした。
そこで、僕は、これをどうにか写真集にできないかを、さぐりだしたのです。

Vol.02では、写真展を終えて、写真集をつくり、決定するまでの顛末を書きます。


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番外編 過去の関係Textです。
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●2006年7月x日 写真集の作られ方 (大脱線の巻き)
写真集について、書店の人はどう思っているのだろう。
過去の、Blogのトピックス
前衛としてのオリジナルプリント販売


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2006.10.14

書店の人はどう思っているんだろう。

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■2006年12月1日、「あの日の彼 あの日の彼女」TEACH YOUR CHILDREN 1967-1975横木安良夫写真集が、出版されることになりました。

●それは、とてもうれしいことです。自分でも拍手喝采、「幸運」だったとか、人との出会いでここまでこぎつけたとしか言えません。
というのも、出版にこぎつけるまでの紆余曲折、障害、等々、・・・・アートの写真集は現在、簡単に出版できる状況ではないからです。
●現在大手の出版社は、アートとしての写真集をほとんど出版していません。かつては、文化活動として出版した時代もありましたが、今はそんな時代ではないのでしょう。
----写真集というとタレント写真集というニュアンスが感じられます。実際日本に流通している写真集のほとんどは、タレントやヌード系の本でしょう------
純写真(fine photo)としての、写真集を今、出版しようと思ったら、自費出版にするか、作家がかなりの部数を買取りするしか不可能でしょう。
●写真集を作るには、かなりのコストがかかります。当然、撮影にかかった費用やプリントの費用を除外したとしても、デザイン代、印刷代、製本代と、文字系の書籍から較べれば、かなり割高、ものによっては数倍にもなります。
例えば、その写真集がブレークして、何万部も、何十万部も売れるなんてことは、タレントの写真集やエンターテイメント系の写真集以外ありえないでしょう。
そういう意味では、もっと少ない投資で、もしかしたら何百倍にも、化ける可能性のある活字系の書籍は、今のしくみでは有利でしょう。雑誌のように出し続けることのできる仕組みができています。
そういう意味では、アートの写真は、最大売れても数千部でしょう。出版社が敬遠するのもうなずけます。

●実は、アートとしての写真集は、コストが高いから、出版が困難なわけではありません。

答えは簡単、売れないからです。
売れない理由はいろいろあるでしょう。
つまらない。高い。ひとりよがり。
価値がない。・・・・だから退屈なものがアートだと思い込んでいる。

●もちろんそういう一面もありますが、実はそんな理由ではないと思ってます。
なぜ売れないか。
それは、買いたいと、そんあものを欲求したとしても、おいそれと、売ってないからです。
正確に言えば、買いたいと思う場所が、少ないからです。
コンビニで、アートの本を買う人はいません。そんな気分じゃないからです。
アート買う、鑑賞するには、それなりの気持ちの高ぶりが必要です。

日本の書店は、そんな高額の商品を売る、イメージ作りがほとんどありません。
そして、何よりも、日本の特殊な販売制度があることもあります。

再販制度には、かなり有効な面もあります。価格の安定や、専門書などの安定供給です。
デメリットは、書店それぞれの自由度がない点です。全国画一的です。

●海外の書店と、日本の書店がどうちがうかというと、日本の書店はかなりの面積で雑誌を売っています。
それも数え切れないさまざな種類の雑誌があります。これは世界中にどこにもありません。
それは、日本の特殊な文化ではなく、制度の問題です。
再販制度の最大のメリットは、大部数、低価格、スピードです。
その膨大な量の雑誌、そして書籍を、効率的に流通、販売するしくみです。
それは新しい情報をそれも膨大に、瞬時に受け手に届ける、素晴らしいシステムでした。

しかし、今なぜ出版構造不況になっているかというと、その役目が、携帯電話やインターネットに変わろうとしているからです。かつては、雑誌の独壇場でしたが、今やかなり悲観的です。

●本のなかで、一番再販制度に向いていないのは、部数の少ない、価格の高いビジュアル本です。ビジュアル本のなかに、アート系の写真集を僕は分類しています。

●ところが、海外の書店のことをまた語りますが、海外の書店は、まるで洋書屋(?)のように、ビジュアル本であふれています。もっとも日本のようにたくさんの書店はありません。ささえているのは英語圏という商圏が大きいこともあるでしょう。
●海外の書店では、20ドルから30ドル、40ドルのハードカバーのビジュアル本がたくさんあります。
これは聞いた話ですが、BOOKフェアのようなところで、書店がこれから出る本を買いつけすることができるからだというのです。
●ビジュアル本の最大のメリットは、現物見本を手に取ればそれが売れるかどうか、すぐに判断できるからでしょう。それは販売する書店側の自己責任です。ですから出版社は、どんな小さなところでも、自分たちで発行部数が読めます。そういう意味では、小さな出版社が時間をかけて本をつくることが可能なのでしょう。

●もっとも、出版社より書店自体の体力が必要かもしれません。
書店は在庫をかかえこまなけらばならないからリスキーです。
かつての日本には、そこらじゅうに小さな書店がありました。しかしいまや交通の発達した時代、本や雑誌を買う人は圧倒的に大型書店で買うことになったのです。
全国津々浦々、新聞や、郵便のように書店がある意味がなくなっています。メインの雑誌だったらコンビにのほうが便利でしょう。

●いまや、インターネット時代になり、世界はグローバル化し、情報は限りなく安く、無料になりつつあります。スポンサーつきの情報を伝達するならフリーペーパーで十分です。
そういう意味で、これからの書店はある種、方向転換しなければならないと思います。取次ぎによって配本されたものだけでは、やっていけないでしょう。
これからは、情報としての本ばかりではなく、存在物としての書籍をどうやって売ってゆくのか、新しい仕組みを作る時代なんだと思います。

●日本は、このビジュアル本を売る仕組みがまだできていません。
体力があり意識の高い書店がアート本のコーナーを持ち始めていますが、実際はごくわずかです。
日本全体を見ても、100店舗はないでしょう。実際はその半分もないかもしれません。
書店の人たちに、価値のある本を、写真集、捨てることのできない、見たら中古店に持ってゆく気のおきない、愛着を持てる本に、目を向けてもらいたいと思っています。
アート本、写真集とはそういう本です。
そういう意味で、僕のこの写真集は、書店でもきちんと売って欲しいって願ってます。

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2006.10.12

横木安良夫写真集 あの日の彼 あの日の彼女

2006年12月1日 発売

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横木安良夫写真集「あの日の彼 あの日の彼女」
Teach Your Children 1967-1975

●同時に、12月1日(金)から13日(水)まで、
渋谷パルコPart2B1ロゴスギャラリーにて、
写真展「TEACH YOUR CHILDREN 1967-1975 ~あの日の彼 あの日の彼女~を開催します。
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★「あの日の彼 あの日の彼女」TEACH YOUR CHILDREN
横木安良夫写真集  
文・角田光代(写真を見てショートストーリイを書いてもらいました)
A4変形(21X24.5cm) 352ページ 並製本 
定価 本体価格3800円+税
出版社 株式会社 アスコム
アートディレクター 原 耕一&トラウト

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