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2006.10.19

写真集の作られ方Vol.02

写真集の作られ方 Vol.02  ちょっとヘビーな数ヶ月 Vol.01

0221
★「あの日の彼 あの日の彼女」TEACH YOUR CHILDREN
横木安良夫写真集  
文・角田光代(写真を見てショートストーリイを書いてもらいました)
A4変形(21X24.5cm) 352ページ 並製本 
定価 本体価格3800円+税
出版社 株式会社 アスコム
アートディレクター 原 耕一&トラウト


5月のParcoロゴスギャラリーのMINI写真展が終わったあと、僕は強く「TEACH YOUR CHILDREN 1967-1975」の写真集を出版することを望んだ。今しかチャンスはないような気がしたからだ。写真の売れ行きも予想以上だったことで、パルコのほうも好意的になり、次もなにかあれば、ロゴスでやってもいいような雰囲気があった。
原さんに紹介され、ある若い出版社にも行った。そこでは、写真の内容は興味を惹かれても、僕とはキャリアの違う、若い編集者が、世代の違う僕の本をやる、情熱は持ちづらいと言われた。編集会議にかけて、誰かやりたいものがいるかと聞いたとき、誰も手をあげなかったという。本に興味があっても、それが確実に利益になるのでなければ、編集者の熱意は大切だ。アートの本を作るとき、そこにキャリアや年齢の壁もある。アートの写真集は、僕のような年齢になって、突然初めてもかなり困難だ。年を重ねていても、新人だったらよいだろう。なまじっか名前があることは、ハンディもある。狭い出版業界では、僕はグラビアカメラマンだと思っている人が多い。違う位相の作品を作るには、そんな、さまざまな困難を打ち破る必要がある。僕のことを理解してくれる編集者が絶対に必要だ。情熱がなければ、写真集なんてできない。
そんなとき1月の写真展のとき、写真を買ってくれた古くからの知り合いの編集者が写真集をつくることに興味をしめした。確定ではないが、やってもいいという。
僕の論理は、なぜ無名のタレントDVDが1000枚とか2000枚しかプレスしないのに、作ることができるのか。僕の知る、DVDの制作費と写真集の印刷費は同じぐらいだった。同じリスクなら、写真集をやってもいいではないかと。僕は印税はいらいないと言った。別にそんな僕の理屈に共感したわけではないが、彼は作りたいと言った。
僕はすぐに、アートディレクターの原 耕一さんに、まだ確定ではないが、やってみたいという編集者がいるので、200ページぐらいで組んでもらうことにした。結局くみ上げると320ページぐらいになってしまった。大きさは原寸の2分の1だ。ページが多く、それはあくまで、見本であって最終的には、ページを減らすつもりでいた。
最初、原さんが組んでくれた写真は、僕にはすこしドロっとした少しヘビーなものに思えた。僕は、1967年ごろとった、横田基地のある福生の米軍ハウスがある、まるでアメリカの住宅街のような場面からはじめてもらいたかった。その時代は決して重くなかったので、洒落た時代になるように、構成しなおしてもらった。写真は組み方でずいぶんと印象がかわる。なぜアメリカで始めたかったかといえば、僕の時代は、すべての文化がアメリカだったからだ。今のようにアメリカがダサく見える時代と違う。「安保反対」と叫びながら、若者の多くは、アメリカ文化にあこがれていた。そういう時代の写真だからだ。
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↑たくさんの人に見てもらったので、ぼろぼろになってしまった。

その小さなサイズの見本写真集は絶大だった。小さいながら、レーザープリントで刷られた表紙のついた、見るからに本のような体裁のそれを手に取ると、皆一ように興味を示してくれた。こんな写真集欲しいよね、と。きっとイメージがわきやすいのだろう、見積もりを取ってみるといいう編集者が何人かいた。
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ただ、最初に出版してくれると言った編集者は、そのページ数に驚いた。彼は150ページぐらいの写真集として見積もりをとっていた。でも、やはりその320ページの見本写真集は、説得力があった。彼はそれを自覚し、考えながらも、出してくれると言った。とはいうものの、僕は少し不安になった。その後、そのミニ写真集を何人に見せただろうか。僕は、再度、この体裁で出版できるのか、もう一度編集者に聞いた。機嫌がよかったのか、もう一度見積もりを取ってみるよと自信たっぷりだった。僕はそれにかけた。すでに7月になり、そろそろ12月に発売するなら、準備が必要だった。PARCOにも打診すると、写真集を出版するならと言うじょうけんで、12月には可能だと言った。そちらのほうはまだ時間的に余裕があったので、僕は他の出版社にも働きかけることにした。無理言って、原さんに原寸大の見本写真集を作ってもらった。
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それは本番の厚さの1.5倍もある立派なものだった。僕は、それを持っていくつかの出版社に回った。大手はけんもほろろだったが、小さな出版社はどこも興味をしめしてくれた。僕はさまざまな条件を提示した。初版にかんして印税はいらない。何しろ写真集の多くは自費出版か、もしくはかなりの部数を買い取るのが普通だからだ。僕は、デザイナーの分も自分で持つといった。その他印刷以外にかかる経費は全部自分で持ち出すと提案した。そのなかでひとつ出版社が興味をしめした。
その頃僕は、写真の序文を誰かに書いてもらおうと思っていた。僕と同世代ではなく、もっと若い作家。多くの友人が角田光代さんがいいという。僕は彼女の名前は知っていたし、直木賞作家、あと「空中庭園」の原作者であることも知っていた。でも読んでいなかった。すぐに手に入れ読んだ。僕の世代とは明確に違う価値観、それでいて、同じような不思議な懐かしい語り口にひきつけられた。彼女の写真にたいする、反応、感受性が素晴らしいと思った。なにより、彼女が1967年3月生まれだということ惹かれた。僕も3月生まれ、この写真集の始まりも1967年の春。ぼくは1967年の3月を覚えている。そんなときに角田さんは生まれた。これは偶然というより、必然なのだ。僕は彼女のメールアドレスを教えてもらい、メールをだした。時間が合えば書いてくれるといった。一ヶ月後僕は、新高円寺の駅前の喫茶店で待ち合わせた。そこでぼくは、彼女に自由に書いて欲しいと言った。この写真集を見て、この時代にすでに生まれて、生きていた、角田さんの視線で、フィクションを書いて欲しいと、大胆にも、ずうずうしくもお願いした。彼女は快諾した。そして約束の9月10日より、ずっとはやい、8月28日に、原稿が送られてきた。そのタイトルが、「あの日の彼 あの日の彼女」だった。僕ははっとした。僕の写真のなかからそんなことばを浮かびあがらせる、作家の才能に感服した。そして書いてある内容は、素晴らしかった。僕の写真を見てから読むと、なんだか涙がでそうだった。もうこれだけで、この写真集を作る意味を感じた。
角田さんのショートストーリーができて、本格的に写真集の構成やデザインの形が整った。

そのころ、ロゴスギャラリーでは、12月に写真展をするかどうか、最終の決断が迫られていた。僕はもういちど、最初の出版社に、本当に出す意思があるのか、聞いた。もちろんわかっているという。結局僕は賭けのようなつもりで、最悪は、数百部買い取る形の条件の出版社でもやることに決めた。僕にとってもかなりリスキーだが、もう動き出していた。
結局、12月1日に間に合うように、写真集をだし、12月1日から13日まで、パルコパート2B1ロゴスギャラリーでやることに決めた。ただ、プレスリリーは9月半ばが締め切りだった。いやな予感はあたっていて、もちろんいくつかの保険をかけておいたが、最初の出版社の編集者とは連絡を取れなくなった。僕は、もう完全に観念して、かなりのものを負担するつもりで、それでも決して自費出版ではないので、腹をくくった。
そんなとき、僕はそのころ、毎晩のように朝までの飲んでいた。決めたものの、いろんなものが動きだし、気持ちは重かった。また、地獄を見るかなと思ったのだ。そしてその出版社にそれでお願いしますとは、いいだせないでいた。
そんなとき、僕はTとう編集者のことを思い出した。彼にはこの写真集のことを、1年以上もまえに話したことがあった。でも、彼は、うちの会社はタレントの写真集はつくるけど、アートの本は全然興味がないんだよね、と言った。それに彼はその出版社に入ってすぐだったので、何もわからないと言った。そんなことより何かいい企画あると聞く。
Tは前の会社では、男性誌の編集長をやっていた。
彼は、1968年生まれだ。僕とは19違う。彼はまえのE出版社で、なぜか26歳で編集長になっている。その後3つの雑誌の編集長になる。大手の出版ではないとしても、得意な経歴だ。僕は彼と2つの雑誌をやった。若く生意気だったが、キャリアがあまりに違うため、途中から説教するのはやめて、自由にやらせた。彼は写真が好きになり、その後僕とやらなくなっても交流は続いていた。そんな彼が、転職した。そこが㈱アスコムだった。そこの取締役である、H氏は、もとはB社で男性誌の編集長をしていた。そのまえは、TとなおなじE社にいた。そんな関係で、Tは、アスコムに引き抜かれていたのだ。
僕は電話をした翌日、写真集の見本を持って、アスコムに行った。Tに会うためだ。まずTに打診してから、H氏に会うつもりだった。ところがちょうどそこにH氏もいた。僕はすぐに、見本写真集をH氏に見せた。とても興味深げだった。そして、「見積もりを取ってみれば」と言った。それは実は驚くべきことだった。H氏に僕はいままでいくつかの、企画を持っていったことがある。でも、そこでまずは「うーんどうだろう、営業に聞いてみるよ」といって、結局はそれ以上進展することはなかった。それが、Tに、「見積もりを取ってみよう、このままでもそんなにかかることはないだろう」と言ったのだ。僕は心底驚いた。そのとき、そんなつもりで来たわけではなく、まずはTに見てもらい、それからだと思っていたからだ。その後見積もりまでは、順調だった。しかし、印刷経費はクリアーできたとしても、どういうルートでその写真集を売るのかというところで、壁にぶちあたった。アスコムではそういうノウハウがなかったからだ。・・・・。
結局二転三転して、アスコムから正式にGOがでたのは、10月12日だった。もちろん内部的なことは、ここでは語れないし、語るべきことでもないと思う。
さて、無事、商業出版物としての写真集がでることになった顛末だ。
なんでこんなことを書いたかというと、アートとしての写真集は、それだけ日本ではなりたちずらい状況だということを、わかって欲しかったからだ。アスコムという、いつもは料理やNHKの本や、韓国スターの本を作っている出版社がこの本を出せるかというと、ビジュアル本を常につくっている、その仕組みにあることは事実だ。ただ、彼等は常に、最低1万部以上の本を出すことを義務づけられている。今回は、僕やTの熱意がつたわり、
たまたま、Tが前の仕事が終わったばかり、時間に余裕があったという偶然が重なり、それはこの本を作るための、「必然」だったのかという、まるで平原綾香ジュピターの歌詞のように、♪意味のないことなど、おこりはしない♪という思いだった。

●ここで僕が学んだことは、2つ。
写真は、見ればすぐにわかるメディアだ。つくりたい写真集の完成形に近い、表紙まわり、構成をした見本の本をつくる。すると、かなりの人が、興味をしめす。ぽんと、写真だけを持っていっても、説得力が弱い。まとめる力、自分の写真を、相手にわかってもらう努力が必要だ。今は簡単に、見本を作れる時代。
●そしてもうひとつは、情熱的に興味を持ってくれる、編集者と出会うことだ。それには、作品を作って、多くの編集者に会うことだ。


横木安良夫写真集 「あの日の彼 あの日の彼女」TEACH YOUR CHILDREN 1967-1975
12月1日発売 12月1日~13日 渋谷PARCO Part2 B1 Logos Gallery 写真展

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●さてこの先のスケジュールは、あくまで予定
10月20日 つか見本
10月23日 本文(写真ページ入稿) 328ページ 
10月30日 入稿 カバー・帯、表紙、
10月31日 出校
11月6日 初稿
11月13日 再稿
11月17日 下版
11月20日 下版
11月21日より印刷
11月24日 折
11月25日 製本
11月28日 納入

この途中経過を、写真を交えながら紹介してゆきます。

番外編 過去の関係Textです。
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●2006年7月x日 写真集の作られ方 (大脱線の巻き)
写真集について、書店の人はどう思っているのだろう。
過去の、Blogのトピックス
前衛としてのオリジナルプリント販売

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Comments

>この写真集の始まりも1967年の春。ぼくは1967年の3月を覚えている。

京都で写真展を見せていただいたときは気にしていなかったのですが、僕も67年3月生まれです。
発刊までの追い込みがんばってください。できあがりを楽しみに待っています。

Posted by: でんきがま | 2006.10.21 07:08 AM

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