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17 posts from January 2007

2007.01.31

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写真集「あの日の彼、あの日の彼女1967-1975」

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2007.01.30

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2007.01.29

30年前、あの日のゴールデン街

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人生の転機に立つ友人と飲んだ。学生時代からの友人だ。かつてはよく一緒に仕事をした仲だ。最近はあまりあうこともなく、年に数度飲むぐらいだ。
数日前、彼から連絡があった。「前いっていたことを、実行しようと思うんだ」
その日、夕方電話して新宿に行こうと言った。むかうさきはゴールデン街だ。かつて、30年以上前、若かった彼は、毎日のようにゴールデン街にかよっていた。仕事場が青山にあり、学生時代からアパートが西新宿にあったから、仕事帰りには毎晩のようにさまよったという。この界隈の多くの人と酔い、知り合りあった。
僕はゴールデン街には、かつてほとんど来たことがなかった。編集者や友人と酔って流れてくるぐらいで、自分からふらふらさまようなんて経験がなかった。だから新宿で飲むときはいつも彼と一緒だった。朝までやっているバーで知り合った女の子を、彼のアパートに連れ込んだこともある。遠い思い出だ。
そういう彼も、独立し、仕事が忙しくなり、事務所を青山に構えると、ゴールデン街からは遠ざかった。だからもう20年ぐらい来てないという。それに最近はめっきり酒が弱くなったという。
僕達は、腹がへっていたいので、ゴールデン街にある、僕お気に入りの好み焼屋に行った。酔いながら、僕達は今の現状や、展望、そしてすこしの昔ばなしをした。だいぶ酔い、じゃちょっと洒落たところに行こうと、医大通りにある、いきつけのバーに向かった。
ゴールデン街の路地を抜けるとき、「そういえばのあたりにあの店があったな?」と彼は言った。僕もときどき気にしていたけど、どこにあるのかわからなかった。もうなくなっていると思っていた。
すると彼は「あるよ」という。てっきり1階だと思っていたら、2階だったのだ。
狭い階段を上がると、思い出した、ゴールデン街のなかでは広い、記憶の片隅にかすかに残っていたインテリア。昔はもっと暗かったような気がした。
彼はすぐに店長に声をかけた。20年ぶりの再会だ。二人は、馴れ合ったように会話する。
僕がこの店にきたのは、30年ぐらい前。当然、常連だった彼が連れてきたということになる。僕も彼もまだアシスタントの時、20代前半だ。
するとカウンターのすぐ壁に飾ってある、額入りのハンフリーボガードの写真が目にとびこむ。
僕はこの写真を良く覚えていた。
すると突然彼が、「この写真、俺が開店祝いにプレゼントしたんだよ」という。
そんなこと店長もわすれていた。彼が、仕事で使った時の絵の複写だという。
「絵?」「そうだよよ、これはもともと絵なんだ」・・・・。それを複写した。
彼も、僕も、店長も、一瞬30年前の時間に引き戻された。
僕等はバーボンをロックであおった。そして長い沈黙があった。
無数の店があり、無数の人々が訪れ、無数の思い出ができる。何十年もたって、その店がまだあり、何十年ぶりに会話をする。店ってそういうためにあるんだなあ。
まるで、カサブランカみたいだ。
その後、目当てのバーにゆき、5時ぐらいまで飲んだ。
不思議な1月の夜だった。


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070126shinjuku800
2007年1月26日pm6:40 新宿 GRD 

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2007年1月23日pm6:40 六本木 GRD DtoH

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2007.01.28

アサヒカメラで清水穣を知った

2月号アサヒカメラ、竹内万里子のインタビューゲストに、清水穣氏がでていた。
アートに関して、きわめて不勉強だったので、なにしろ写真をアートとして気になりだしたのが、ほんの数年のことだ。だから僕は清水穣のことを、知らなかった。
そんな僕が文中の彼のひとことで興味を持った。いつも僕が漠然と考えていたことが、簡単にことばになっていたからだ。竹内さんの質問に答えた部分をちょっと引用する。
・・・清水さんはかつて、写真の存在論があるとしたら、それは撮られているものにも撮っている人にもなくて、撮られているものと現実の落差そのものにあるのではないか、という意味のことを書いていらっしゃった・・?。
清水 それは、バルトが言っている「第三番目のもの」と同じです。写されたものの個性でも、写したものの個性でもない。じゃあ何だろう。バルトは「プンクトゥム」であるとか「鈍い意味」であるとか、いろんな言い方をしてますね。・・略・・・まだこのさき、「リアル」なもの「語りえぬもの」と名づけて済ましてきた、・・・・・等々興味深い意見をたくさんいっている。ああ、こんなふうに写真を語っちゃう、写真研究者がいるなんて僕はビックリした。すぐに彼の最新の著作を調べたら「永遠に女性的なる現代美術」(淡交社)から出版されていた。Simizuminoruすぐに手に入れ読んだ。
あるある、この本は装填も簡素な本だが、もともと裏千家のお茶の雑誌に書いたエッセイらしい。だから文章もカジュアルで読みやすいが、ときどきドキリとすることばに出会うことになる。
例えば、モネの巨大な睡蓮の連作、いったいモネは何を描こうとしていたのか、当然蓮?光と色彩・・・の答えは「水面」だと言う。
はあ、「水面」か。その理由は、印象派の画家たちが、この時代「写真」を知ることによって、肉眼の目ではなく、カメラの目、映像を初めて知る。それに触発された結果だ。
(これは僕の感想だけれど・・清水さんが「映像」とう言葉を厳密にはどういう意味で使ってるかが、いまいち不明、もっと彼の本を読まなくてはならない。映像=・・・鏡のなかの世界・・・?。
モネに限らず、清水氏の意見はストレートで明快だ。それを説明すると、引用がながくなるので、実際に本を読んでもらうしかないが、読んでいて日本の写真の評論に抜け落ちたなにかがある。
僕はすっかり引き込まれた。この人は、写真のことをもっともっと書いてもらいたいと思った。
なことをいいながら、もうちょっと引用する。

写真が絵画に与えた衝撃、それは「映像」の一語につきるだろう。何も特別なことを意味しているわけではない。映像はどこにでもある。水たまりやビルの壁面、夜のガラス窓など、広い意味での「鏡」にさまざまな映像が映っている。ただ、人間だけが映像によってものを見ていないのだ。われわれの視角は脳による種種さまざま雑多な情報処理の結果だからである。つまり映像は(人間とは無関係という意味で)非人間的なものである。・・・・略・・・純粋な映像を画家たちは写真によってはじめて目撃したわけだ。
清水さんは、ゲルハルト・リヒターの「写真論 絵画論」の翻訳をしている。
是非これも読んでみようと思った。
清水穣は写真論を語るうえでとても貴重な学者だろう。しつこく言うが、もっともっとたくさん写真について書いて欲しいと思った。
その他の著作
白と黒で  写真とは
これもすぐに読むつもり。ぼんやりしていたら、写真は動いていた。

写真の日々が良かったと友人が言っていた。

関連 椹木野衣インタビュー

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2007.01.22

写真集「あの日の彼、あの日の彼女」書評etc.

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写真集「あの日の彼、あの日の彼女1967-1975」 書評・紹介・その他

写真集の詳細

●1月19日~3月3日まで、名古屋にて写真展を開催中です。

1970fusasayokota
1970 福生 横田基地周辺 東京

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2007.01.21

地平線までの距離 DtoH CReCo

DtoH (地平線までの距離 IN 浅草)★写真をクリックすると大きくなります。

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CReCo済みであります。 
RICOH GR Digital Jpeg


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横木安良夫写真集 「あの日の彼、あの日の彼女」
teach your children 1967-1975
文・角田光代

写真集詳細
★2006年12月15日発売 アスコム 定価税込み ¥3,990 
352ページ (写真324ページ) 大型本 モノクロダブルトーン ソフトカバー

横木安良夫HomePage

アマゾンにて購入できます。
天地21x24.5cm 

横木安良夫写真集「あの日の彼、あの日の彼女 1967-1975」文・角田光代詳細
書評・紹介・記事

●特装版
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BlitzInternationalにて、ネット販売をしています。
写真集に載っている写真のほとんどは、デジタルアーカイバルプリントとして販売しています。

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2007.01.18

名古屋で写真展とワークショップ

Dmnagoya
●1月19日(金)~3月3日(土)まで、名古屋に11月にOPENした、★ギャラリー・オーチャード・アート・フォト・サイト・名古屋で、12月に渋谷パルコで開催した★横木安良夫写真展「あの日の彼、あの日の彼女1967-1975」展を巡回開催する。
残念ながら、オープニングの明日僕は行けない。
そのかわり、2月10日と11日、★ワークショップをやることにしました。やさしいデジタルレタッチ、僕のやり方を★CReCo(クリコ)と呼んでいるが、それをEPSONのプリンターPX5500をつかって、実際にプリントするデモ・ワークショップというわけだ。きっと目からうろこ、こんな簡単なやりかたでいいの?と思うだろう。
今やフォトレタッチャーという新しい職業までできている。たしかに彼らの技術は素晴らしい。もちろん僕だって、広告の合成は彼等の手をかりなくてはできない。しかし、こと純粋に写真だけを考えると、所詮彼等は技術者でしない。どんなに素晴らしい合成ができても、それは写真の本質ではなく、どちらかというとデザインやイラストに近い。そんなこといったら、デザイナーやイラストレーターに怒られてしまう。そこには創作はなく、プロの仕事かもしれないが、オペレーターというのが本質だろう。
例えば空のグラデーション。完璧にやればやるほど、うそくさくなる。いやほんの少しの破綻が気になる。でも、写真は違う。写真とは現実を映しているけど、現実ではない。なにも現実を模倣しないほうが、ずっと魅力的になることが多い。等々・・・・。
僕のやりかたCReCoは、写真を自分の好きなような調子にすることを目的としている。それもできるだけ簡単にしたもので、もちろん印刷原稿にだってなる。実際僕は多くの場合原稿にしている。
そのあたり、ざっくばらんにやり方を紹介しようと思っている。
これは、モノクロに限らない。カラーだって同じだ。今月のに日本カメラ2月号、160ページでは、アーカイバルプリントとして紹介されている。
僕のサイトにも★CReCoの説明もある。
それから、ワークショップでは、写真を売ることや、買うことなどを話してみようと思う。
土曜のワークショップの後には、会場もしくは近くの居酒屋ででも、フリートークをしたいと思っています。

●写真展会場で、デジタルアーカイバルプリント、銀塩ニュープリント、そしてサイン入り写真集と下記に紹介している、特装版写真集も販売しています。

★今回の展覧会は、昨年12月のパルコの写真展を再現したもので、エプソンのベルベットファインペーパーでプリントした、デジタルアーカイバルプリントと、僕が1972年にプリントした(フジブロマイド)ビンテージプリント、そして2006年のニュープリント(レンブラント)の、3種類が展示してあります。それを見比べるのも楽しいと思います。そしてとくに、安価に設定した、デジタルアーカイバルプリントを、買ってみてください。
前衛としてのオリジナルプリント販売(長文)

写真展IN名古屋 (photo by Fukukawa)
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photo by YF

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横木安良夫写真集 「あの日の彼、あの日の彼女」
teach your children 1967-1975
文・角田光代

写真集詳細
★2006年12月15日発売 アスコム 定価税込み ¥3,990 
352ページ (写真324ページ) 大型本 モノクロダブルトーン ソフトカバー

横木安良夫HomePage

アマゾンにて購入できます。
天地21x24.5cm 

横木安良夫写真集「あの日の彼、あの日の彼女 1967-1975」文・角田光代詳細
書評・紹介・記事

●特装版
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BlitzInternationalにて、ネット販売をしています。
写真集に載っている写真のほとんどは、デジタルアーカイバルプリントとして販売しています。


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2007.01.16

驚きのガチンコ広告 Canon x EPSON

コマーシャルフォト2月号(玄光社)を見ていて、驚いた。EPSON MAXART K3、インクジェットプリンターと、Canon iPF5000インクジェットプリンターの広告が酷似しているからだ。どちらも外人モデルのクローズアップ。産毛まで美しく、克明に表現されている。
これはガチンコ広告?比較広告?それとも・・・・。
もともとのこれに良く似たアプローチは、ずいぶん前からシグマSD14の広告でやっている。うーーーーーーん。絶句。ともかく、どちらがよいか、コマーシャルフォト誌で、確認してもらえばいいが・・・・といっても、それはあくまで印刷されたもの。どちらもすごいレベルなことは、間違いないが、・・・・・。

Epson_1

Canon

Sigma


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2007.01.14

横木安良夫TOPICS INDEX 2007

Topphoto1
1976年 山口小夜子 Kodacrome 64 ALAO YOKOGI PHOTOGRAPHS

■写真集「あの日の彼、あの日の彼女」関連
写真集「あの日の彼、あの日の彼女1967-1975」詳細 
写真集、写真展関連INDEX
teach your children 1967-1975
11月23日 写真展とスポッティング
11月9日 横木安良夫写真展情報
写真集、偶然写りこんでいる有名人・・・。他
偶然捕らえられた、1968年9月12日の重信房子
1974年、増水する渋谷川
角田さんとの写真展トークショー
安珠トークショー
VS田中長徳、VS藤代冥砂トークショー
渋谷パルコ、横木安良夫写真展初日
田中長徳について
写真集の作られ方
アサヒカメラ、日本カメラ、CAPA
銀塩プリントをした。
書店の人はどんなことを思っているんだろう。


■RICOH GRD 関連
DtoH 地平線までの距離  これは、GRDで撮影するプロジェクトだ。
GRD誕生日と、1968年の新宿騒乱
GRDブログにぼくが登場しています。
モノクロ日和の日
GRD作品2006年12月30日
GRDのストラップ

2005年12月17日 GRD ファーストインプレッション

2005年12月9日 リコーGRデジタル モノクロ撮影 その1
DtoH大竹海岸
DtoH「波」大竹海岸
DtoH 沖縄

■最新blog
日本カメラ選評と、沢渡朔
小説現代、矢作俊彦と沖縄にゆく


■コダクローム関連
コダクローム終焉と誕生
●コダクロームについてのblog「僕のコダクローム」ポールサイモン

●「僕のコダクローム 沢田研二」

■ロバート・キャパ関連
ロバート・キャパ最期の土地が消えた
赤城耕一と、ニコンSと、ロバート・キャパ
ロバー・キャパ最後の土地が、韓国資本の靴工場になる。 「ロバートキャパ関係」strong>●
ロバート・キャパIN SAIGON
リチャードウイーランの伝記では、キャパは、1954年4月、日本滞在後、バンコクからハノイに行っていると書かれているが、実際はサイゴンから、ベトナムに入っている。
■「ロバート・キャパ最期の日」のBLOG
キャパ・イン・カラー写真展開催中 その1はここをクリック
●「ロバート・キャパ最期の日」本の紹介
●ロバート・キャパ最期日の書評など
1954年4月13日、日本到着から5月25日地雷を踏むまでのロバート・キャパの足取り
ロバート・キャパ写真展「ロバート・キャパ・イン・カラー」 その1に行く
●ロバートキャパのピンボケ写真と、僕のピンボケ写真

ETC
1955年千葉県市川市立国府台小学校 新一年生と5年生のクラス会 写真
今日は、一ノ瀬泰造の命日だ

■横木安良夫オフィシャルホームページ関連
WORKS 横木安良夫仕事
CONTENTS
ALAO YOKOGI PHOTOGRAPHS
GIRLS 横木がプライベートで捕らえた、女性たちの写真GIRLS IN MOTION  JR大塚駅前
ガールズ イン モーション クルマ雑誌で連載していた、シリーズPROFILE
阪神大震災の写真

■デジタルカメラ関連
2000年に書いたデジタルカメラ論と、インプレッションCFカードの事故、そしてレスキュー
■写真撮影関連
nifty.com/the_eye_forget/2006/02/post_bf58.html">スタジオライティングプロの現場
デジタルで撮れない大型カメラの世界 その1
超広角レンズのゆがみを取る方法?

■銀塩、デジタルプリント関係
写真のトリミングとフレーミング そしてCReCoEPSON PX5500 インクジェットプリンター カラー性能
 日本カメラ2月号 銀塩写真デジタルモノクロプリント

■「ポラロイド関係」
ポラロイド195ランドカメラとネガつきポラロイドモノクロフィルムType665


■肖像権関係
11月11日肖像権と写真展
マニュピレーション 肖像権関係 その2
後姿 その1 いまやスナップ撮影では、後姿を撮ることが多い。肖像権の問題もあるし、これからますます後ろ姿を撮ることがさかんになるだろう。
マニュピレーション肖像権関係 
その2
●盗撮、盗み撮り、キャンデットフォト、スナップ写真 その1
●盗撮、盗み撮り、キャンデットフォト、スナップ その2


●2006年2月TOPICS
TOPICS

スタジオライティングプロの現場
東京ビルヂング
表参道ヒルズ 30年前の写真を交えて
2月6日 写真いついて
恵比寿写真倶楽部 撮影会 佃
外山ひろみさんのブログ
阪神大震災 11年目の1月17日
東京都写真美術館 「発掘された不滅の記録 1954-1975」ベトナム

日本経済新聞に写真展写真が紹介される。写真展 オープニングパーティ
写真展 1974年 神宮球場 長島と王
1月10日 写真展「TeachYourChildren1967-1975」初日
1月6日 写真展の設営 
銀塩デジタル、ハイブリット・モノクロプリント
写真展「TeachYourChildren1967-1975」コンタクトプリント
12月15日 GRD GUERRERO NEGRO MEXCO
12月9日 六本木 バーガーインがなくなった。


ベトナム取材コーディネイトの杜国忠(ド・クォク・チュン)
ライトペインティング TwilightTwistトワイライト・ツイストについて。
フィルム感度って何?ISO ASA DIN SEKONIC STUDIO S 入射光式露出計
明るい部屋の謎
不許可写真その5
すがやあゆみ写真展 障害はブランドだ!
不許可写真その2
フルサイズデジタルと、アスペクト比
肖像権侵害とEos5D
肖像権侵害 その5
肖像権侵害 路上スナップ35万の支払い命令
銀塩式デジタルプリント日本カメラ11月号 デジタル写真直感レタッチ(クリエーティブ・コントロール)
危険な遊具
アサヒカメラ10月号
高田渡 ぐわらん堂 1974年
後姿 その2
Eos5D発売 35mmフルサイズデジタルなんていらない!?
岩根愛 グループ展
1970年 船橋無線送信所跡
千葉県市川市、国立国府台病院 1970年
写真展 Teach Your Children 2006年1月
●茅ヶ崎パシフィックホテル その1
1967年 市川駅
あゆの恋 ネットアイドル すがやあゆみ
写真の粒子、ノイズ
写真お見せ方、コンポジット
TeachYourChildren
●盗み撮りについて
写真ジャンルの羅列です
ART PHOTOGRAPHS & NEWS 写真プリント販売について、考えるサイト
写真の粒子について Grain その1
その2
●粒子のあるデジタル写真
アート・フォトって何! ギャラリーブリッツにて
アートフォト、インテリアフォト

●デジタル写真で何ができる その1

その2
その3
オリジナルプリント販売について
オリジナルプリント販売とは? その1


その3
エミリーブロンテ 「嵐が丘」 の舞台で、かつて撮った写真
●EosKissDigital Nを 6歳の娘に奪われた その1
●デジで本 アサヒカメラで評論
3月3日から12日まで、アメリカウエストコースに行った。

●なぜオーバーランするの JR西事故

「阪神大震災関係」
「M7.3子供たちがみたもの」TOP 阪神大震災から10年、当時まだ幼く何も語らなかった彼等は今十代になり、震災について何を重いっているのだろうか。その本についてのブログ。
「写真関係」
2mフォトグラファー、小堀正一

「そのほか」
怪獣映画「ゴジラ誕生50年だったな」
流行通信
40年以上も前のクリスマス
ベトナムのモデル1
ベトナムの女優写真
ベトナムNo.1の歌手、ミイ
タム

ベトナムのモデル2
ピンクレディ キンスマ
ピンクレディ2
若いお巡りさん
横木安良夫のHomePage
横木安良夫のプロフィール 詳細をUPしています
デジタルカメラで作る、本格的な写真集の作り方「デジで本」


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2007.01.11

1955年(昭和30年) 新一年生 千葉県市川市立国府台小

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千葉県市川市立国府台小学校 昭和30年(1955年)4月、新一年生。 (写真をクリックすると大きくなります)

前回のBLOGでは、1954年、ロバートキャパが地雷に吹き飛ばされた年の話をした。
その翌年、1955年、昭和30年は、僕が小学校に入学した年だ。
昭和27年に、真間小学校から別れてできた新しい小学校だ。
まだなんの歴史もなく、ころのころは体育館もなかった。季節はたぶん4月だろう。
この頃になると、国府台は新しい住宅地がたくさんでき、路地は子供達であふれていた。
この翌年には、人数がおおくなりすぎ、学区が変わりふたたび真間小に通うよなった生徒もいる。
このクラスの何人かは真間小に行った。
ただ、学力の差は歴然、歴史ある真間小は、教育熱心、
それにひきかえ国府台小学校はとてものんびりとしていた。
天気がよいと、よく授業をやめにして、すぐとなりにあった三角山に散歩にいった。
そんな時代だ。
顔ぶれをみると、ほんと50年前、戦後まもなくといったかんじで、
まだまだ貧しいかったんだなんと思う。
後に擁護学校にゆく生徒も一緒だった。
朝鮮部落もあった。引揚者は、今の一中のグランドあたりに、いくつも兵舎を改造した住宅があった。
医科歯科の住宅や校舎、病院もあった。
里見公園の正面庭園も、高いコンクリートの塀がめぐらされていた精神病院だった。
江戸川の花火、里見公園の桜、式場病院、このあたりは病院だらけだった。
写っていないが、この写真の右の方角に三角山という標高20mぐらいの山があった。
当時その周りは雑木林と畑で、軍の射撃場跡、銃弾をよくみつけた。
ちなみに、ぼくは後列、右から10番目、木によりかかる、ぼやっとした体の大きな子供。
多動症ぎみで、授業中よく教室を歩き回っていた。
担任の根岸先生には良く殴られていた。
ところで、1955年というと、映画「バックートゥーザフューチャー」1 で、
マーティが訪れたフィフティーズの時代だ。最高に豊かなアメリカがあった時代。
日本はこんなだった。

アルバムを見ていたら、1960年昭和35年、3月18日の、
クラス会のときの記念写真があった。だいぶもう、豊かに時代になっていたのだろう。
皆着るものが違う。この年は、60年安保、樺ミチコさんが、国会前で死んだ年だ。
Kounodaisyo1960march18
一番上左から 青木順子 ○ 石井?
その前、左から、米本隆、 成井、 鬼頭直樹、 高橋 矢島? 白川、三浦、原田、石橋、湯浅、郡司洋子、高千穂?、水野
3段目 渡辺、高橋、本名貞治、大槻俊夫、椎名、行田僚平、矢島、上田茂美、富山、○、○、田中君子、○、小栗
2段目 森裕行、木島、松本、目黒、大平登、横木、藤原先生、鶴野れいこ、島田ひろみ、本郷、白石?、村田さなえ、○
河邊、高橋勇、田島、○、森俊雄、坂崎、富岡千恵子、石井民子、田島、大里寿美子、小林?

こどもの記憶力ってすごい。!
僕は先生の左どなり。えらそうに真ん中にいた。
こうみると、けっこう女の子は可愛かったんだなあって思う。担任は藤原先生。
今、僕は人の名前をさっぱり覚えられない。
ところがこの5年2組のクラスメイトのほとんどの名前を覚えている。
なんたることか。
この頃僕はもてもてで、三角関係にあった。
二人の子、ITとTMに告白されたわけだ。女の子たちはませていていつも3人一緒にデートした。
でも僕はやはり本当のことを言って、好きなほうを選んだ。
休みの日は朝早く迎えにいって、自転車をふたりのりした。
ところが東京から転校生がやってきた。Kだ。小柄だったけどグッドルッキング。
自転車もよかった。僕達はすぐに意気投合したが、6年の終わりごろ、彼にガールフレンドを奪われた。
精神病院だった場所が里見公園の正面庭園になったばかりのころ、
ぼくはKの自転車の後ろに座る、ITをみつけた。僕は完全にふられた。
中学に行くまでの春休みは、失恋状態だった。
僕は東京の学校に越境通学した。そんなある日、
小学校時代、裕福で国府台で唯一自家用車を持っていたそれはたしかヒルマンだった、
マドンナからはがきをもらった。彼女は学芸会でバレエを踊った。
いつも綺麗なふわふわのセーターを来ていた。
皆でむしったこともある。むかつくくらい先生のお気に入りだった。美しい彼女は、
クラスのなかの遠い遠いマドンナだった。一度席がちかかったことがある。
僕たちはゲームをした。負けたら握手する。僕ははじめて彼女の手を握った。
しっとりとやわらかな、とても上品な手だった。いつもいいにおいがした。
でも遠い子だった。そんな彼女から、はがきがきたのだ。
好きだったと書いてあった(そう僕は思い込んだ)。でも、学校も違い、
僕は急に女の子と口がきけない年齢になっていた。バスで彼女とあっても話すことはなかった。


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横木安良夫写真集 「あの日の彼、あの日の彼女」
teach your children 1967-1975
文・角田光代

写真集詳細
★2006年12月15日発売
 アスコム 定価税込み ¥3,990 
352ページ (写真324ページ) 大型本 モノクロダブルトーン ソフトカバー

横木安良夫HomePage

アマゾンにて購入できます。
天地21x24.5cm 

横木安良夫写真集「あの日の彼、あの日の彼女 1967-1975」文・角田光代詳細

●特装版
Tyctokuso1000_1
BlitzInternationalにて、ネット販売をしています。
写真集に載っている写真のほとんどは、デジタルアーカイバルプリントとして販売しています。

2007年1月19日~3月3日まで、オーチャード・ギャラリー・アート・フォト・サイト・名古屋で「Teach Your Children1967-1975}」あの日の彼、あの日の彼女展を開催します。


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2007.01.08

赤城耕一xNikonSxロバート・キャパ

Ginenshijosyugi
写真家、赤城耕一氏が昨年末、「銀塩カメラ至上主義」という本を、平凡社から上梓した。もともとは、アサヒカメラで連載していたものに、加筆したものだ。僕はカメラという機械にさほど夢中になるタイプではない。物より、撮るという行為が好きだからだ。よくクルマ好きより、クルマの運転好きというのがあるが、僕は典型的な運転好きだ。クルマだったらなんでもいい。矢作俊彦とイギリスに一緒に行ったとき、運転中毒と言われた。僕は誰にもハンドルを渡さず一日中猛スピードで運転した。そういう意味でぼくは、カメラ中毒ではなく、撮影中毒なのだ。

さて、「銀塩至上主義」赤城君の書くカメラの話は楽しく、ほんとうにカメラについて、これでもかというボキャブラリーの豊富さ、僕だったら、好きだ、とか、いいね、でおわってしまうところ、無限に言葉が沸いている。だからつい引き込まれる。もし若いときに、この麻薬のような本を読んでいたら、僕もカメラ好きになったかもしれない。
今やデジタル時代だ。僕も仕事のほとんどはデジタルカメラを使っているが、そんな今だからこそ、銀塩カメラを見直してみようという、ロマンティシズムと添い寝することの奨励本は、タイムリーだ。何よりクラシックカメラではなく、僕がずっとカメラマンとして、リアルに生きている時代のカメラがたくさん紹介されているので楽しい。ニコンF、アサヒペンタックスSP、キャノンA1などなど。そして僕が学生のときにつかっていた、写真集「あの日の彼、あの日の彼女」のデモの写真を撮ったレアカメラ、コーワSWまで紹介されているのが嬉しい。
そんなふうな記事をニヤニヤしながら、読んでいたらニコンSの章でちょっとはっとした。

ニコンSといえば、ぼくにとってはロバートキャパだ。木村伊兵衛もパリにいったときには、Sを使ったと言う。
そのロバート・キャパだが、1954年(昭和29年)4月13日、毎日新聞社の招待で日本に来たおり、理由はカメラ毎日創刊にあたり、日本を撮るという、いってみれば物見遊山の訪日招待だったわけだが、そこでキャパは優秀な日本のカメラやレンズ、フィルムと出会うことなる。なかでもニコンSはそうとう気に入ったようだ。彼の愛機、コンタックスⅡとデザインがそっくりで、いやいや性能はきっとコンタックスを越えていたのだろう、キャパは愛機として他にローライを持っていたが、それらにまけずおとらず、ニコンSで撮りまくっている。日本を日本のカメラとフィルムで撮るという条件つきの招待旅行だから当然だとしても、つかいながらすっかりニコンSを気に入ったようだ。
キャパはカメラばかりか、日本が断然気に入った。日本をピクトリアルパラダイス(写真の天国)と、はしゃぎ同行したカメラ毎日の編集者、金沢秀憲に、日本を撮った写真で写真集を作るといった。すでにタイトルまで考えていて、それが「THE EYE FORGET」だった。僕のブログのタイトルはそこからとっているというわけだ。
キャパがインドシナで地雷にたおれたあと、金澤は奔走して、その写真集をつくろうとしたが、そんなもの売れないと一蹴されたという。
なにしろ、日本ではまだ「ちょっとピンぼけ」が発売されるまえ、キャパが日本にきたとき、伝記にかかれているように、大スター扱いだったというのは、間違いだ。本当は、マグナムフォト会長来日として、写真業界だけでもりあがったというのが、真相だ。キャパが真に、日本で伝説になるのは、彼の来日に尽力した川添浩史が、キャパの死をしのんですでに絶版になっていたスライトリー・アルトフォーカスを、キャパの母親からもらいうけ、それを翻訳してから始まった。そして「ちょっとピンボケ」は、日本のジャーナリズムのなかんで、連綿と行き続けていた。スライトリーアウトオブフォーカスが再出版されたのは、2000年。ロバート・キャパは日本に来たために、死んだかもしれないが、「ちょっとピンボケ」という本によって、日本でずっと生きていたということになる。

さて、大歓迎されたキャパは、日本に来て、その写真家生涯のなかで、こんなに写真を撮りまくったことがないというぐらい、シャッターを切っている。もしかしたら自由に写真を撮るなんて経験はなかったのかもしれない。金沢秀憲には、いささか乱射型だといわれている。
実は40歳になったキャパは、人生にも、仕事にも疲れていた。なにしろデビューは19歳、スター写真家になったのが20代なかば、イングリットバーグマンとつきあうなど、もう人生のさまざまなことをやりつくしていた。キャパは写真を撮ることに興味をうせていた。もう写真の時代じゃない。これからはテレビの時代、映像の時代だといった。長寿番組「世界の車窓」のアイデアは、そのときキャパが考えたものだと、聞いたことがある。(同じことを考えていてのかもしれない)

日本ですっかり写真を撮ることに夢中になってしまったキャパはタイミングよく、いや悪く、ライフ誌からインドシナ戦争、ベトナム取材行きを要請される。いわゆるベトナム戦争(対アメリカ)以前の時代、フランスがホーチミンの共産軍に負ける直前。まさにフランス軍の近代的な要塞、デエンビエンフー陥落が目前だった。
当時キャパは、マグナムの会長をしていたものの、仕事の内容はプロデューサーのようなものだった。理想に燃えて作った報道写真家の共同組合だったが、維持するにはかなりたいへんだった。やりたくない仕事もしなくてはならない。なにより、なによりも、キャパは個人的にも財政破綻をしていた。前年は腰痛で1年をぼうにふり、そのうえアメリカのパスポート剥奪という窮地にも追い込まれていた。赤狩りのころ、ソ連を取材したキャパはかなり不利な状況にいた。そのための弁護士費用がかさんだ。
そんなときに、渡りに船、日本からの贅沢な招待だ。そこでは勘違いかもしれないが大スター扱いされ、たくさんの写真を撮り、キャパは精神的に再生した。やはり自分は写真だと思ったのだ。
そんなときのライフ誌の仕事だ。当時ライフと言えばNO.1のグラフマガジンだ。ただキャパはライフでは、初期に、「崩れ落ちる兵士」でスターダムにのしあがったものの、ライフと契約していた時期、国籍の問題もあり、やりたい仕事はできなかった。そこに懇願されるように、ライフから戦場にゆく仕事が来た。キャパはもう二度と戦争の写真は撮らないと皆にいっていた。ロバート・キャパ戦争写真家失業中と冗談で名刺をくばったくらいだ。
そんなキャパが、新たな自分を表現できるライフの仕事を、簡単に断ることは、できなかった。いやいあや、ふたたび写真をやる気になっていたキャパにとって、当然、ライフの要請は、幸運が来たと心のすみに思ったはずだ。
友人達は皆反対した。普通だったら絶対に断る仕事、でも時期が悪かった。キャパは写真を撮る楽しさを、日本でフル充電してしまったので、その新しいチャレンジに乗ってしまったのだ。
キャパは新しい、ロバート・キャパを見せたいという意識があったのだろう。
キメなくてはならない仕事、ところが、日本滞在半ば、5月1日に日本をたち、バンコック、そしてサイゴンで、足止めをくい、軍用機でハノイに入ったときに、ディエンビエンフーは陥落してしまった。キャパはその取材に乗り遅れたというわけだ。
陥落後、ディエンビエンフーの前線の町であるラオスのルアンプラバンに行き、ぞくぞく帰還する負傷した兵士をフィルムに収める。
しかし、それだけでは、ライフの仕事としてまとまった記事は作れない。そこで、フランス軍と共産ベトナムがまだ緊張関係だった紅河デルタを取材することにする。ハノイでまだ意気軒昂な、フランス軍司令官コーニーと懇意になり、さまざまな情報も仕入れていた。キャパは数年まえに、スチールを担当した、ジョゼッペ・デ・サンティス監督の映画、「にがい米」からタイトルをいただて、今度のルポルタージュのタイトルは「苦い米」にしようと周囲に語った。
キャパは、マグナムでは、プロデューサーだった。仕事を取ってくることでは天才だった。企画力だ。それまでの、感覚的ばかりの写真ではなく、撮影のまえから、きちんと構成を考えながら撮る。そういう年齢でもあり、キャリアをつんでいた。そのことに、かなり確信を持っていた。
ひとつに、戦争をカラーで撮るプランがあった。フィルムはコダクロームⅠ、ISO10(もしくは12)だ。キャパはコダクロームと出会ってから、カラーで戦争を撮っている。もちろんそれには、発表する場、雑誌が必要だが。すでにそういう雑誌があったわけだ。たぶん、ライフでもカラーを発表するつもりだったのだろう。

さて、キャパは、ニコンSがお気にいりだった。ベトナムでコンタックスと2台を使うことになる。
実は、赤城君のニコンSの章に、Sには2タイプあって、初期型はフィルムフォーマットが24x32であり、後に24x34になったと書いてあった。コンタックスⅡは、通常のライカ版、24mmx36mmだ。
ニコンとしては、24x32のフォーマットだと、40枚ぐらい撮れるので、得だと考えたようだが、主なカメラ消費国であるアメリカではすでに、マウントする機械が導入されていたので、ニコンフォーマットだと、事故がおきたらしい。結局2mm広げ、あとはフィルム送りで調整することにした。そのため、コマ間が広がることになった。
僕はキャパの本(ロバート・キャパ最期の日)を書いているときに、カメラについてはかなり調べたのでフォーマットサイズについて知っていたが、ロバート・キャパが使っているニコンSは果たしてどのフォーマットかということを実際に、検証することをすっかり忘れていた。

1954年5月25日、キャパ最後の日、キャパが地雷を踏む直前、最後に撮った写真は、いったいどのカメラで撮ったというのだろうか。そのことが、僕のなかで、ずっとひっかかっていた重大問題だった。
キャパが最後に撮った写真はカラー写真だ。そう伝記にかかれている。
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キャパが最後に撮ったカラー写真。カメラはニコンS.レンズは35mmのワイドレンズだ。(ロバート・キャパ最期の日より転載)。この写真を写真家ならば、不思議と感じるはずだ。それはなぜか高いアングルだ。カメラのアングルは地平線を見るとよくわかる。キャパは、荒地のなか、何かの上から撮っている。キャパは戦車の上から、最後の写真、モノクロとカラーを撮っている。その直後、ドアイタンの要塞が爆発した。振り返ったキャパは、そこに理想的な、ラストショット、ルポルタージュ「にがい米」の最後を飾る写真、その光景に遭遇した。キャパは、戦車から飛び降り、ニコンSについた35mmレンズを、走りながら50mmにつけかえた・・・・・
Capalastshot11
モノクロは、コンタックスⅡ、レンズは50mm。

カラー写真はどうみても、ワイドレンズ35mmで撮られている。その直前のモノクロ写真は標準50mmで撮っている。しかし、以前にも書いたが、地雷で吹き飛ばされ、投げ出された、レンズにドロのついたニコンSには、ワイドではなく50mm標準レンズがついている。現在それは、キャパの写真を大量にコレクションした、富士美術館に、コーネルキャパがお礼として寄贈したらしい。
さて、その日、最後の写真、自伝には、ニコンSにはカラーフィルムが入っていたと書いてあり、コダクロームⅠが装填されていたわけだが、なんどでもいうが、それはどうみてもワイドレンズなのである。遺された、富士美術館にあるニコンSと50mmレンズでは矛盾してしまう。
僕は「ロバート・キャパ最期の日」のなかでは、しかたがなく、カラーフィルムを入れたニコンSで、最後の写真を35mmワイドレンズで撮ったあと、土手に上りながら、50mmにレンズ交換したのだと、書いた。
しかし書いた後で、もしかしたらニコンには、50mmF1.4がついていて、実はモノクロフィルム、ダブルエエックスが入っていたんじゃないかと、怪しんでいたし、最近まで実はそう確信していたのだ。
それが、赤城君の本を読んで、もしかしてと、おもい、キャパの最後の日のコンタクトプリントを調べることにした。
それは以前、見せてもらったコンタクトプリントのコピーがマグナム東京にあるからだ。
キャパ最後の日に、撮った写真は、モノクロベタが5まい、5本分だ。
他に、コダクロームⅠで撮られたカラー写真があるが、20カットぐらいしか公開されていない。発表されているカラー写真を含めて検証すると、実はとても興味深いことが分った。
その日、1954年5月25日、朝、コンタックスⅡには、コダクロームが入っていた。ニコンSにはダブルXモノクロだ。ニコンのフォーマットが24x34なので、コンタクトプリントを見ると明白だった。コマとコマの間が、広い。コンタックスは狭い。それは明白に違っていた。
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この写真は、コンタクトプリントを見ると、ニコンSで撮られている。レンズは35mmワイドだ。

あーなんでそんなことを気づかなかっただろう。
そう、そう、もうひとつ疑問点があるが、それはコンタックスⅡとニコンSは、レンズを共用することができるらしい。とうことだ。
しかし、キャパは50mmと35mmそれぞれ、ニコン、コンタックスともに持っていたようだ。それはキャパが写っている写真を見ると、(日本で撮られたものだが)コンタックスは、50mm、35mmとも専用のレンズが装着されている。ということは、キャパはニコン用にも、50mmと35mmを持っていることになる。
そして、最初の3本は、ニコンSにモノクロをいれ、コンタックスⅡはカラーを入れている。
ということはキャパはこのときの、メインカメラはニコンSなのだ。
Dsc_0014
↑カンセ橋のたもとが、深くえぐられ、道路は分断されてしまった。ここで隊列は数時間、立ち往生することになる。キャパは司令官に昼食を誘われるが、断り懸命に写真を撮っている。

そして、その後、ドンキトンの要塞の爆破を撮るために、ニコンにカラーを入れている。コンタックスはモノクロを入れた。なぜわざわざカラーとモノクロをニコンとコンタックス、キャパはカメラを入れ替えたのだろうか。
きっとキャパは、コンタックスⅡより、ニコンSを信頼していたのだろう。だから、最後に、ドンキトンの要塞を撮るとき、それはライフのために、カラーで撮ることをメインと考えていたのかもしれない。
これは、僕の想像で、このあたりの心理は「ロバート・キャパ最期の日」に詳しく書いたが、キャパがなぜ、地雷を踏んだかという理由でもある。それは、「幻のラストショット」を撮るために地雷を踏んでしまったという仮説。
今回、わざわざカラーとモノクロを撮るため、カメラをチェンジしていることは、かえって僕は僕の仮説を強固なものにした。やはり、キャパは、いつもと同じように、今までの天才戦争写真家であったように、おあつらい向きの、最高の「絵」が、まさに遭遇する瞬間だったのだ。その写真を撮るために、キャパは、ニコンのワイドレンズをはずし、50mm標準レンズにつけかえ、ドアイタンの要塞爆破の瞬間を撮影しようとして、地雷を踏んでしまった。

この辺は、もっとしっかりと検証しなくてはならない。
Img_0331
右上の写真、遠くに見えているのが、ドアイタンの要塞だ。この要塞を爆破する予定になっていた。キャパはこの場所を撮る前から、カラーはニコンSに変えている。コンタックスⅡは、モノクロを入れた。キャパはライフの記者、ジョン・メクリンにこの要塞の爆破の写真を撮ったら、僕のフォトストーリーは完成すると、と言った。
それなのに彼は、爆破をまたずに、先に行くという。しばらくゆくと、ふたたび臼砲で攻撃され、クルマからおりて土手にかくれた。落ち着いたところで、キャパはふたたび先にゆく。メクリンとルーカスはまだ危険だと思い土手にかくれていた。どのくらい時間がたったろう、西の方角に爆発音と黒い煙があがった。ルーカスは叫んだ。「この絵ををキャパは撮りたいっていってたのに」ルーカスは、タイミングを逃したキャパを責めるように叫んだ。
しばらくして、二人はキャパが地雷に吹き飛ばされたと知る。

キャパはなにをしていたか。キャパは、目の目の前に広がる、ライフのための戦争ルポスタージュ「にがい米」のラストショットを撮る寸前だったのだ。それは、反共のアメリカの雑誌、ライフにどうどうと載せることができる、きわめて象徴的な写真だった。西の空にもうもうと上がる煙。まるで敗走するように、そこから逃げす、フランス軍。それはキャパにとってあらたな戦争写真家キャパの誕生だったはずだ。
しかしキャパはその「幻のラストショット」を、撮ることなく地雷を踏んで死んだ。
Capalastshota
下が、キャパが最後に撮ろうとした写真の想像図だ。

ロバート・キャパ最期の日BLOG

ちょっと支離滅裂に、思いつくまま書いたが、キャパについてのこの話は今度きちんとまとめたいと思う。

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今日、ふと思ったけれど、なぜ「あの日の彼、あの日の彼女1967-1975」という、昔の写真を出版したのかというと、やはりこれは、「ロバート・キャパ最期の日」を書いたことが引き金になっているかもしれない。
それは、それは2004年、キャパ没50年の正月から、キャパの命日である5月25日までになんとしても、キャパの最期の土地を解明したいと思ったところからはじまる。なぜ、キャパはあれほど、もう戦争写真は撮らないといいながら、インドシナに行ったのか。行く必要もないのに、いくから死んだ。キャパの伝記を読んでいると、ヒーローの悲しい死、まるでイージーライダーのラストシーンのような、無意味な死に思えてしまうが、僕は日本でであれほどキャパがいきいきと写真を撮ったことを思うと、決してそれは無駄死にではなく、キャパが力強くも求めた場所にいき、そして死んでしまったのではないかと思えていた。
2004年は僕にとってキャパ一色だった。毎日、国会図書館に行き、当時の新聞や雑誌を眺めていた。僕にとって1954年はうる覚えだ。でも確実に、キャパの同じ空気を吸っていたことも事実だ。僕は1954年のすべてを知りたかった。そうしたら偶然、毎日グラフに、僕は1981年に64歳でなくなった、自分の父親を見つけた。警視庁記者クラブ一日といった、軽いタッチのルポルタージュにどうみても、父の年か思えないような男が写っていたのだ。地下の売店で、ネクタイを買いながら、「これ給料払いね」とコメントもついてる。すぐに国会図書館から母に電話したら、そのことを覚えていて、自慢げに毎日グラフを見せられたといった。きっとまだ6歳の僕にもみせたかもしれない。父親はロバートキャパのことを知っていた。「ちょっとピンボケ」を教えてくれたのも父だった。
僕は、昭和29年ばかりか、その後、1967年までのカメラ雑誌を全部見た。1967年ぐらいからは、リアルタイムで読んでいるが、そのまえは断片的にしかしらなかったからだ。1964年以降のカメラ毎日の革新。それにはほんとに驚いた。そして・・・・・僕の写真集につながる。この写真を群をみなかったら、僕は今回の写真集をまとめるなんてことはしなかったかもしれない。

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横木安良夫写真集 「あの日の彼、あの日の彼女」
teach your children 1967-1975
文・角田光代

写真集詳細
★2006年12月15日発売
 アスコム 定価税込み ¥3,990 
352ページ (写真324ページ) 大型本 モノクロダブルトーン ソフトカバー

横木安良夫HomePage

アマゾンにて購入できます。
天地21x24.5cm 

横木安良夫写真集「あの日の彼、あの日の彼女 1967-1975」文・角田光代詳細

●特装版
Tyctokuso1000_1
BlitzInternationalにて、ネット販売をしています。
写真集に載っている写真のほとんどは、デジタルアーカイバルプリントとして販売しています。

2007年1月19日~3月3日まで、オーチャード・ギャラリー・アート・フォト・サイト・名古屋で「Teach Your Children1967-1975}」あの日の彼、あの日の彼女展を開催します。


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2007.01.03

謹賀新年2007 横木安良夫

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新年おけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。よこぎあらお

昨年は,1月の写真展「Teach your children1967-1975」から始まり、12月の写真集と写真展「あの日の彼、あの日の彼女1967-1975」まで、ひとつのテーマで突っ走っていた、とても充実した1年だった。もっともこれから、この写真集が売れなくてははじまらないので、まだ続いていることは事実だが。それに、1月19日からは、名古屋のオーチャード・ギャラリー・アート・フォト・サイト・名古屋で、同展の巡回展をする。まだまだ終わらない。写真集はまとめ、そして出版するとそれで今までは終わりだったが、なにしろ純粋な僕の写真集は始めてのことだ、ある意味これからが本番なのかもしれない。そのへん写真家は、かっこうつけてあとはどうにでもなれって思いがちだが、本当はこの写真集を理解してもらうためには、さらなる活動が必要なのだと思う。
さて、年賀状。この写真を使った。モノクロばかり見ていたので、カラーにしたかったし、あまり正月ぽいものはさけたかった。この写真は2002年2月、ブラジルのリオデジャネイロのカーニバルの翌朝、コカパバーナの海岸だ。カメラはEos5.レンズは24mmf1.4 フィルムはプロビアだ。地球の裏側ブラジルは今、夏だ。きっとたった今だって、コカパバーナの海岸はこんなふうに紺碧だろう。年賀状だから、a happy new year 2007と入れたが、文字の位置がちょっとしたすぎるかな、でももうすでに2007年だ。波に乗ってそばまでやってきたという感じ。

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横木安良夫写真集 「あの日の彼、あの日の彼女」
teach your children 1967-1975
文・角田光代

写真集詳細
★2006年12月15日発売 アスコム 定価税込み ¥3,990 
352ページ (写真324ページ) 大型本 モノクロダブルトーン ソフトカバー

横木安良夫HomePage

アマゾンにて購入できます。
天地21x24.5cm 

横木安良夫写真集「あの日の彼、あの日の彼女 1967-1975」文・角田光代詳細

●特装版
Tyctokuso1000_1
BlitzInternationalにて、ネット販売をしています。
写真集に載っている写真のほとんどは、デジタルアーカイバルプリントとして販売しています。

2007年1月19日~3月3日まで、オーチャード・ギャラリー・アート・フォト・サイト・名古屋で「Teach Your Children1967-1975}」あの日の彼、あの日の彼女展を開催します。

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