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2007.01.08

赤城耕一xNikonSxロバート・キャパ

Ginenshijosyugi
写真家、赤城耕一氏が昨年末、「銀塩カメラ至上主義」という本を、平凡社から上梓した。もともとは、アサヒカメラで連載していたものに、加筆したものだ。僕はカメラという機械にさほど夢中になるタイプではない。物より、撮るという行為が好きだからだ。よくクルマ好きより、クルマの運転好きというのがあるが、僕は典型的な運転好きだ。クルマだったらなんでもいい。矢作俊彦とイギリスに一緒に行ったとき、運転中毒と言われた。僕は誰にもハンドルを渡さず一日中猛スピードで運転した。そういう意味でぼくは、カメラ中毒ではなく、撮影中毒なのだ。

さて、「銀塩至上主義」赤城君の書くカメラの話は楽しく、ほんとうにカメラについて、これでもかというボキャブラリーの豊富さ、僕だったら、好きだ、とか、いいね、でおわってしまうところ、無限に言葉が沸いている。だからつい引き込まれる。もし若いときに、この麻薬のような本を読んでいたら、僕もカメラ好きになったかもしれない。
今やデジタル時代だ。僕も仕事のほとんどはデジタルカメラを使っているが、そんな今だからこそ、銀塩カメラを見直してみようという、ロマンティシズムと添い寝することの奨励本は、タイムリーだ。何よりクラシックカメラではなく、僕がずっとカメラマンとして、リアルに生きている時代のカメラがたくさん紹介されているので楽しい。ニコンF、アサヒペンタックスSP、キャノンA1などなど。そして僕が学生のときにつかっていた、写真集「あの日の彼、あの日の彼女」のデモの写真を撮ったレアカメラ、コーワSWまで紹介されているのが嬉しい。
そんなふうな記事をニヤニヤしながら、読んでいたらニコンSの章でちょっとはっとした。

ニコンSといえば、ぼくにとってはロバートキャパだ。木村伊兵衛もパリにいったときには、Sを使ったと言う。
そのロバート・キャパだが、1954年(昭和29年)4月13日、毎日新聞社の招待で日本に来たおり、理由はカメラ毎日創刊にあたり、日本を撮るという、いってみれば物見遊山の訪日招待だったわけだが、そこでキャパは優秀な日本のカメラやレンズ、フィルムと出会うことなる。なかでもニコンSはそうとう気に入ったようだ。彼の愛機、コンタックスⅡとデザインがそっくりで、いやいや性能はきっとコンタックスを越えていたのだろう、キャパは愛機として他にローライを持っていたが、それらにまけずおとらず、ニコンSで撮りまくっている。日本を日本のカメラとフィルムで撮るという条件つきの招待旅行だから当然だとしても、つかいながらすっかりニコンSを気に入ったようだ。
キャパはカメラばかりか、日本が断然気に入った。日本をピクトリアルパラダイス(写真の天国)と、はしゃぎ同行したカメラ毎日の編集者、金沢秀憲に、日本を撮った写真で写真集を作るといった。すでにタイトルまで考えていて、それが「THE EYE FORGET」だった。僕のブログのタイトルはそこからとっているというわけだ。
キャパがインドシナで地雷にたおれたあと、金澤は奔走して、その写真集をつくろうとしたが、そんなもの売れないと一蹴されたという。
なにしろ、日本ではまだ「ちょっとピンぼけ」が発売されるまえ、キャパが日本にきたとき、伝記にかかれているように、大スター扱いだったというのは、間違いだ。本当は、マグナムフォト会長来日として、写真業界だけでもりあがったというのが、真相だ。キャパが真に、日本で伝説になるのは、彼の来日に尽力した川添浩史が、キャパの死をしのんですでに絶版になっていたスライトリー・アルトフォーカスを、キャパの母親からもらいうけ、それを翻訳してから始まった。そして「ちょっとピンボケ」は、日本のジャーナリズムのなかんで、連綿と行き続けていた。スライトリーアウトオブフォーカスが再出版されたのは、2000年。ロバート・キャパは日本に来たために、死んだかもしれないが、「ちょっとピンボケ」という本によって、日本でずっと生きていたということになる。

さて、大歓迎されたキャパは、日本に来て、その写真家生涯のなかで、こんなに写真を撮りまくったことがないというぐらい、シャッターを切っている。もしかしたら自由に写真を撮るなんて経験はなかったのかもしれない。金沢秀憲には、いささか乱射型だといわれている。
実は40歳になったキャパは、人生にも、仕事にも疲れていた。なにしろデビューは19歳、スター写真家になったのが20代なかば、イングリットバーグマンとつきあうなど、もう人生のさまざまなことをやりつくしていた。キャパは写真を撮ることに興味をうせていた。もう写真の時代じゃない。これからはテレビの時代、映像の時代だといった。長寿番組「世界の車窓」のアイデアは、そのときキャパが考えたものだと、聞いたことがある。(同じことを考えていてのかもしれない)

日本ですっかり写真を撮ることに夢中になってしまったキャパはタイミングよく、いや悪く、ライフ誌からインドシナ戦争、ベトナム取材行きを要請される。いわゆるベトナム戦争(対アメリカ)以前の時代、フランスがホーチミンの共産軍に負ける直前。まさにフランス軍の近代的な要塞、デエンビエンフー陥落が目前だった。
当時キャパは、マグナムの会長をしていたものの、仕事の内容はプロデューサーのようなものだった。理想に燃えて作った報道写真家の共同組合だったが、維持するにはかなりたいへんだった。やりたくない仕事もしなくてはならない。なにより、なによりも、キャパは個人的にも財政破綻をしていた。前年は腰痛で1年をぼうにふり、そのうえアメリカのパスポート剥奪という窮地にも追い込まれていた。赤狩りのころ、ソ連を取材したキャパはかなり不利な状況にいた。そのための弁護士費用がかさんだ。
そんなときに、渡りに船、日本からの贅沢な招待だ。そこでは勘違いかもしれないが大スター扱いされ、たくさんの写真を撮り、キャパは精神的に再生した。やはり自分は写真だと思ったのだ。
そんなときのライフ誌の仕事だ。当時ライフと言えばNO.1のグラフマガジンだ。ただキャパはライフでは、初期に、「崩れ落ちる兵士」でスターダムにのしあがったものの、ライフと契約していた時期、国籍の問題もあり、やりたい仕事はできなかった。そこに懇願されるように、ライフから戦場にゆく仕事が来た。キャパはもう二度と戦争の写真は撮らないと皆にいっていた。ロバート・キャパ戦争写真家失業中と冗談で名刺をくばったくらいだ。
そんなキャパが、新たな自分を表現できるライフの仕事を、簡単に断ることは、できなかった。いやいあや、ふたたび写真をやる気になっていたキャパにとって、当然、ライフの要請は、幸運が来たと心のすみに思ったはずだ。
友人達は皆反対した。普通だったら絶対に断る仕事、でも時期が悪かった。キャパは写真を撮る楽しさを、日本でフル充電してしまったので、その新しいチャレンジに乗ってしまったのだ。
キャパは新しい、ロバート・キャパを見せたいという意識があったのだろう。
キメなくてはならない仕事、ところが、日本滞在半ば、5月1日に日本をたち、バンコック、そしてサイゴンで、足止めをくい、軍用機でハノイに入ったときに、ディエンビエンフーは陥落してしまった。キャパはその取材に乗り遅れたというわけだ。
陥落後、ディエンビエンフーの前線の町であるラオスのルアンプラバンに行き、ぞくぞく帰還する負傷した兵士をフィルムに収める。
しかし、それだけでは、ライフの仕事としてまとまった記事は作れない。そこで、フランス軍と共産ベトナムがまだ緊張関係だった紅河デルタを取材することにする。ハノイでまだ意気軒昂な、フランス軍司令官コーニーと懇意になり、さまざまな情報も仕入れていた。キャパは数年まえに、スチールを担当した、ジョゼッペ・デ・サンティス監督の映画、「にがい米」からタイトルをいただて、今度のルポルタージュのタイトルは「苦い米」にしようと周囲に語った。
キャパは、マグナムでは、プロデューサーだった。仕事を取ってくることでは天才だった。企画力だ。それまでの、感覚的ばかりの写真ではなく、撮影のまえから、きちんと構成を考えながら撮る。そういう年齢でもあり、キャリアをつんでいた。そのことに、かなり確信を持っていた。
ひとつに、戦争をカラーで撮るプランがあった。フィルムはコダクロームⅠ、ISO10(もしくは12)だ。キャパはコダクロームと出会ってから、カラーで戦争を撮っている。もちろんそれには、発表する場、雑誌が必要だが。すでにそういう雑誌があったわけだ。たぶん、ライフでもカラーを発表するつもりだったのだろう。

さて、キャパは、ニコンSがお気にいりだった。ベトナムでコンタックスと2台を使うことになる。
実は、赤城君のニコンSの章に、Sには2タイプあって、初期型はフィルムフォーマットが24x32であり、後に24x34になったと書いてあった。コンタックスⅡは、通常のライカ版、24mmx36mmだ。
ニコンとしては、24x32のフォーマットだと、40枚ぐらい撮れるので、得だと考えたようだが、主なカメラ消費国であるアメリカではすでに、マウントする機械が導入されていたので、ニコンフォーマットだと、事故がおきたらしい。結局2mm広げ、あとはフィルム送りで調整することにした。そのため、コマ間が広がることになった。
僕はキャパの本(ロバート・キャパ最期の日)を書いているときに、カメラについてはかなり調べたのでフォーマットサイズについて知っていたが、ロバート・キャパが使っているニコンSは果たしてどのフォーマットかということを実際に、検証することをすっかり忘れていた。

1954年5月25日、キャパ最後の日、キャパが地雷を踏む直前、最後に撮った写真は、いったいどのカメラで撮ったというのだろうか。そのことが、僕のなかで、ずっとひっかかっていた重大問題だった。
キャパが最後に撮った写真はカラー写真だ。そう伝記にかかれている。
Capalastshotcolor11_2
キャパが最後に撮ったカラー写真。カメラはニコンS.レンズは35mmのワイドレンズだ。(ロバート・キャパ最期の日より転載)。この写真を写真家ならば、不思議と感じるはずだ。それはなぜか高いアングルだ。カメラのアングルは地平線を見るとよくわかる。キャパは、荒地のなか、何かの上から撮っている。キャパは戦車の上から、最後の写真、モノクロとカラーを撮っている。その直後、ドアイタンの要塞が爆発した。振り返ったキャパは、そこに理想的な、ラストショット、ルポルタージュ「にがい米」の最後を飾る写真、その光景に遭遇した。キャパは、戦車から飛び降り、ニコンSについた35mmレンズを、走りながら50mmにつけかえた・・・・・
Capalastshot11
モノクロは、コンタックスⅡ、レンズは50mm。

カラー写真はどうみても、ワイドレンズ35mmで撮られている。その直前のモノクロ写真は標準50mmで撮っている。しかし、以前にも書いたが、地雷で吹き飛ばされ、投げ出された、レンズにドロのついたニコンSには、ワイドではなく50mm標準レンズがついている。現在それは、キャパの写真を大量にコレクションした、富士美術館に、コーネルキャパがお礼として寄贈したらしい。
さて、その日、最後の写真、自伝には、ニコンSにはカラーフィルムが入っていたと書いてあり、コダクロームⅠが装填されていたわけだが、なんどでもいうが、それはどうみてもワイドレンズなのである。遺された、富士美術館にあるニコンSと50mmレンズでは矛盾してしまう。
僕は「ロバート・キャパ最期の日」のなかでは、しかたがなく、カラーフィルムを入れたニコンSで、最後の写真を35mmワイドレンズで撮ったあと、土手に上りながら、50mmにレンズ交換したのだと、書いた。
しかし書いた後で、もしかしたらニコンには、50mmF1.4がついていて、実はモノクロフィルム、ダブルエエックスが入っていたんじゃないかと、怪しんでいたし、最近まで実はそう確信していたのだ。
それが、赤城君の本を読んで、もしかしてと、おもい、キャパの最後の日のコンタクトプリントを調べることにした。
それは以前、見せてもらったコンタクトプリントのコピーがマグナム東京にあるからだ。
キャパ最後の日に、撮った写真は、モノクロベタが5まい、5本分だ。
他に、コダクロームⅠで撮られたカラー写真があるが、20カットぐらいしか公開されていない。発表されているカラー写真を含めて検証すると、実はとても興味深いことが分った。
その日、1954年5月25日、朝、コンタックスⅡには、コダクロームが入っていた。ニコンSにはダブルXモノクロだ。ニコンのフォーマットが24x34なので、コンタクトプリントを見ると明白だった。コマとコマの間が、広い。コンタックスは狭い。それは明白に違っていた。
Cpimg_0577
この写真は、コンタクトプリントを見ると、ニコンSで撮られている。レンズは35mmワイドだ。

あーなんでそんなことを気づかなかっただろう。
そう、そう、もうひとつ疑問点があるが、それはコンタックスⅡとニコンSは、レンズを共用することができるらしい。とうことだ。
しかし、キャパは50mmと35mmそれぞれ、ニコン、コンタックスともに持っていたようだ。それはキャパが写っている写真を見ると、(日本で撮られたものだが)コンタックスは、50mm、35mmとも専用のレンズが装着されている。ということは、キャパはニコン用にも、50mmと35mmを持っていることになる。
そして、最初の3本は、ニコンSにモノクロをいれ、コンタックスⅡはカラーを入れている。
ということはキャパはこのときの、メインカメラはニコンSなのだ。
Dsc_0014
↑カンセ橋のたもとが、深くえぐられ、道路は分断されてしまった。ここで隊列は数時間、立ち往生することになる。キャパは司令官に昼食を誘われるが、断り懸命に写真を撮っている。

そして、その後、ドンキトンの要塞の爆破を撮るために、ニコンにカラーを入れている。コンタックスはモノクロを入れた。なぜわざわざカラーとモノクロをニコンとコンタックス、キャパはカメラを入れ替えたのだろうか。
きっとキャパは、コンタックスⅡより、ニコンSを信頼していたのだろう。だから、最後に、ドンキトンの要塞を撮るとき、それはライフのために、カラーで撮ることをメインと考えていたのかもしれない。
これは、僕の想像で、このあたりの心理は「ロバート・キャパ最期の日」に詳しく書いたが、キャパがなぜ、地雷を踏んだかという理由でもある。それは、「幻のラストショット」を撮るために地雷を踏んでしまったという仮説。
今回、わざわざカラーとモノクロを撮るため、カメラをチェンジしていることは、かえって僕は僕の仮説を強固なものにした。やはり、キャパは、いつもと同じように、今までの天才戦争写真家であったように、おあつらい向きの、最高の「絵」が、まさに遭遇する瞬間だったのだ。その写真を撮るために、キャパは、ニコンのワイドレンズをはずし、50mm標準レンズにつけかえ、ドアイタンの要塞爆破の瞬間を撮影しようとして、地雷を踏んでしまった。

この辺は、もっとしっかりと検証しなくてはならない。
Img_0331
右上の写真、遠くに見えているのが、ドアイタンの要塞だ。この要塞を爆破する予定になっていた。キャパはこの場所を撮る前から、カラーはニコンSに変えている。コンタックスⅡは、モノクロを入れた。キャパはライフの記者、ジョン・メクリンにこの要塞の爆破の写真を撮ったら、僕のフォトストーリーは完成すると、と言った。
それなのに彼は、爆破をまたずに、先に行くという。しばらくゆくと、ふたたび臼砲で攻撃され、クルマからおりて土手にかくれた。落ち着いたところで、キャパはふたたび先にゆく。メクリンとルーカスはまだ危険だと思い土手にかくれていた。どのくらい時間がたったろう、西の方角に爆発音と黒い煙があがった。ルーカスは叫んだ。「この絵ををキャパは撮りたいっていってたのに」ルーカスは、タイミングを逃したキャパを責めるように叫んだ。
しばらくして、二人はキャパが地雷に吹き飛ばされたと知る。

キャパはなにをしていたか。キャパは、目の目の前に広がる、ライフのための戦争ルポスタージュ「にがい米」のラストショットを撮る寸前だったのだ。それは、反共のアメリカの雑誌、ライフにどうどうと載せることができる、きわめて象徴的な写真だった。西の空にもうもうと上がる煙。まるで敗走するように、そこから逃げす、フランス軍。それはキャパにとってあらたな戦争写真家キャパの誕生だったはずだ。
しかしキャパはその「幻のラストショット」を、撮ることなく地雷を踏んで死んだ。
Capalastshota
下が、キャパが最後に撮ろうとした写真の想像図だ。

ロバート・キャパ最期の日BLOG

ちょっと支離滅裂に、思いつくまま書いたが、キャパについてのこの話は今度きちんとまとめたいと思う。

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今日、ふと思ったけれど、なぜ「あの日の彼、あの日の彼女1967-1975」という、昔の写真を出版したのかというと、やはりこれは、「ロバート・キャパ最期の日」を書いたことが引き金になっているかもしれない。
それは、それは2004年、キャパ没50年の正月から、キャパの命日である5月25日までになんとしても、キャパの最期の土地を解明したいと思ったところからはじまる。なぜ、キャパはあれほど、もう戦争写真は撮らないといいながら、インドシナに行ったのか。行く必要もないのに、いくから死んだ。キャパの伝記を読んでいると、ヒーローの悲しい死、まるでイージーライダーのラストシーンのような、無意味な死に思えてしまうが、僕は日本でであれほどキャパがいきいきと写真を撮ったことを思うと、決してそれは無駄死にではなく、キャパが力強くも求めた場所にいき、そして死んでしまったのではないかと思えていた。
2004年は僕にとってキャパ一色だった。毎日、国会図書館に行き、当時の新聞や雑誌を眺めていた。僕にとって1954年はうる覚えだ。でも確実に、キャパの同じ空気を吸っていたことも事実だ。僕は1954年のすべてを知りたかった。そうしたら偶然、毎日グラフに、僕は1981年に64歳でなくなった、自分の父親を見つけた。警視庁記者クラブ一日といった、軽いタッチのルポルタージュにどうみても、父の年か思えないような男が写っていたのだ。地下の売店で、ネクタイを買いながら、「これ給料払いね」とコメントもついてる。すぐに国会図書館から母に電話したら、そのことを覚えていて、自慢げに毎日グラフを見せられたといった。きっとまだ6歳の僕にもみせたかもしれない。父親はロバートキャパのことを知っていた。「ちょっとピンボケ」を教えてくれたのも父だった。
僕は、昭和29年ばかりか、その後、1967年までのカメラ雑誌を全部見た。1967年ぐらいからは、リアルタイムで読んでいるが、そのまえは断片的にしかしらなかったからだ。1964年以降のカメラ毎日の革新。それにはほんとに驚いた。そして・・・・・僕の写真集につながる。この写真を群をみなかったら、僕は今回の写真集をまとめるなんてことはしなかったかもしれない。

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横木安良夫写真集 「あの日の彼、あの日の彼女」
teach your children 1967-1975
文・角田光代

写真集詳細
★2006年12月15日発売 アスコム 定価税込み ¥3,990 
352ページ (写真324ページ) 大型本 モノクロダブルトーン ソフトカバー

横木安良夫HomePage

アマゾンにて購入できます。
天地21x24.5cm 

横木安良夫写真集「あの日の彼、あの日の彼女 1967-1975」文・角田光代詳細

●特装版
Tyctokuso1000_1
BlitzInternationalにて、ネット販売をしています。
写真集に載っている写真のほとんどは、デジタルアーカイバルプリントとして販売しています。

2007年1月19日~3月3日まで、オーチャード・ギャラリー・アート・フォト・サイト・名古屋で「Teach Your Children1967-1975}」あの日の彼、あの日の彼女展を開催します。


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Comments

赤城さんの本を今日書店で見つけて買ってきたので、これから読もうとおもいます。

Posted by: でんきがま | 2007.01.21 10:11 PM

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Tracked on 2007.01.08 12:40 PM

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