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2007.01.28

アサヒカメラで清水穣を知った

2月号アサヒカメラ、竹内万里子のインタビューゲストに、清水穣氏がでていた。
アートに関して、きわめて不勉強だったので、なにしろ写真をアートとして気になりだしたのが、ほんの数年のことだ。だから僕は清水穣のことを、知らなかった。
そんな僕が文中の彼のひとことで興味を持った。いつも僕が漠然と考えていたことが、簡単にことばになっていたからだ。竹内さんの質問に答えた部分をちょっと引用する。
・・・清水さんはかつて、写真の存在論があるとしたら、それは撮られているものにも撮っている人にもなくて、撮られているものと現実の落差そのものにあるのではないか、という意味のことを書いていらっしゃった・・?。
清水 それは、バルトが言っている「第三番目のもの」と同じです。写されたものの個性でも、写したものの個性でもない。じゃあ何だろう。バルトは「プンクトゥム」であるとか「鈍い意味」であるとか、いろんな言い方をしてますね。・・略・・・まだこのさき、「リアル」なもの「語りえぬもの」と名づけて済ましてきた、・・・・・等々興味深い意見をたくさんいっている。ああ、こんなふうに写真を語っちゃう、写真研究者がいるなんて僕はビックリした。すぐに彼の最新の著作を調べたら「永遠に女性的なる現代美術」(淡交社)から出版されていた。Simizuminoruすぐに手に入れ読んだ。
あるある、この本は装填も簡素な本だが、もともと裏千家のお茶の雑誌に書いたエッセイらしい。だから文章もカジュアルで読みやすいが、ときどきドキリとすることばに出会うことになる。
例えば、モネの巨大な睡蓮の連作、いったいモネは何を描こうとしていたのか、当然蓮?光と色彩・・・の答えは「水面」だと言う。
はあ、「水面」か。その理由は、印象派の画家たちが、この時代「写真」を知ることによって、肉眼の目ではなく、カメラの目、映像を初めて知る。それに触発された結果だ。
(これは僕の感想だけれど・・清水さんが「映像」とう言葉を厳密にはどういう意味で使ってるかが、いまいち不明、もっと彼の本を読まなくてはならない。映像=・・・鏡のなかの世界・・・?。
モネに限らず、清水氏の意見はストレートで明快だ。それを説明すると、引用がながくなるので、実際に本を読んでもらうしかないが、読んでいて日本の写真の評論に抜け落ちたなにかがある。
僕はすっかり引き込まれた。この人は、写真のことをもっともっと書いてもらいたいと思った。
なことをいいながら、もうちょっと引用する。

写真が絵画に与えた衝撃、それは「映像」の一語につきるだろう。何も特別なことを意味しているわけではない。映像はどこにでもある。水たまりやビルの壁面、夜のガラス窓など、広い意味での「鏡」にさまざまな映像が映っている。ただ、人間だけが映像によってものを見ていないのだ。われわれの視角は脳による種種さまざま雑多な情報処理の結果だからである。つまり映像は(人間とは無関係という意味で)非人間的なものである。・・・・略・・・純粋な映像を画家たちは写真によってはじめて目撃したわけだ。
清水さんは、ゲルハルト・リヒターの「写真論 絵画論」の翻訳をしている。
是非これも読んでみようと思った。
清水穣は写真論を語るうえでとても貴重な学者だろう。しつこく言うが、もっともっとたくさん写真について書いて欲しいと思った。
その他の著作
白と黒で  写真とは
これもすぐに読むつもり。ぼんやりしていたら、写真は動いていた。

写真の日々が良かったと友人が言っていた。

関連 椹木野衣インタビュー

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Comments

清水氏の著作は「不可視性としての写真」がおすすめです。一般には流通していないようで、まだ入手可能かわからないのですが、、、ともかく大変感銘を受けました。

Posted by: 通りすがりのものです | 2007.02.11 03:55 AM

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