ベトナムロケより帰国
結局ベトナムからは、一度もUPすることなく、帰国した。インターネット環境がないわけじゃない。ハノイやホーチミンのホテルはどこも無線ランが導入されていた。ベトナム北部の町、バクハのサイマルホテルは、以前と同じようにダイアルアップだったが、遅いもののかなりの時間使っても、市内電話扱いなので、安価だ。UPすることができなかったのは、やはり時間がなかったことにつきる。
今回の仕事は、4月22日発売の、G社発行のGという雑誌の、メンズファッションの広告ページと編集ページ、それに新聞広告のための撮影だ。詳細は4月ごろになれば紹介できるので、それまでお待ちください。そして前に書いたとおりサプライズもあるので、さしさわりのないところで、今回のロケについて、書きたいと思う。
3月1日、われわれは成田を出発した。
集結した総勢9人は男ばかりだ。
ドイツ人男性モデル、スタイリストM氏、ヘアメイクU氏、クライアントH氏(ブランドファッションのShop)、代理店M氏、G社編集ライターS氏、営業O氏、僕のアシスタントW、そして僕だ。ファッションの撮影で、男ばかりのむさくるしい集団なんて、めったにないし、こんなこと皆未経験で笑えた。それは今回の撮影がスケジュール的にハードなこともあり、男ばかりにしたといわけだ。スタイリストとヘアメイクの二人は超売れっ子だ。
ハノイの空港には、僕の本、「サイゴンの昼下がり」や「ロバート・キャパ最期の日」にも登場している、日本語通訳、ロケーションコーディネーターのチュンさんと、ベトナムプレスセンターのD氏が迎えにきていた。D氏に率いられたわれわれは税関をノーチェックで通過した。
ベトナムで正規に仕事する場合、プレスセンターの人間が同行することになる。簡単なインタビューだったら、日本語のできる、プレスセンター員もいる、しかし役人なので、難しい撮影はチュンさんのような、テレビや取材、などさまざまな経験のあるべテランコーディネーターに頼まなければ、ならない。彼は旅行会社とロケコーディネイションの会社を経営している。
僕とは1995年にライターである、サイゴンの日本語学校で教えたこともある、神田憲行さんに紹介され、もう12年もの付き合いだ。彼とはベトナムのさまざまな場所に行った。「ロバートキャパ最期の日」も彼がいなければ、書けなかった。写真家の外山ひとみさんにも信頼されている。なにより、かれはベトナムの歴史や文化についても詳しく、日本語の漢字はもちろん読み書きもできる。きちんとした取材が必要な人は、彼に頼むしかない。彼は取材記者のライセンスももっているので、僕たちは、今回のような10日程度の取材ならばビザなしでベトナムに入ることができた。彼はベトナム人としては珍しく、時間や約束にもきちんとしている。
1日夕方、ハノイのホライゾンホテルに着いた。早速、6、7日にホイアンのザ・ナムハイホテルで撮るベトナム女性モデルのオーディションをした。結局白いアオザイの似合う、撮影経験のないの20歳の女の子を選んだ。そこでチュンさんの共同経営者のGさん(女性)と再会した。彼女もロケに同行する。彼女の娘のAさん(22)はパリに2年留学して、今は結婚、妊娠中だった。
その晩はベトナム料理だ。
僕とアシスタント以外、全員ベトナムは初めてだった。まず本場のベトナム料理に挑戦、全員ベトナム料理に見せられた。男ばかりの食欲と、飲む酒の量は半端じゃない。まるで学生のようにはしゃいだ。といっても翌日の出発は午前5時、食後はホテルまで歩いて帰り、夜のハノイを感じるだけだった。
ことしのハノイは異常気象で暖かいという。3月いっぱいは、いつもだったら10度ぐらいだとうが、ことしは20度以上もある。(それにひきかえ、夏のハノイの暑さ、不快指数はサイゴンなんてものじゃない)
ホライゾンホテルの前の道路 ハノイ AM5時 夜の間雨が降っていた。
2日朝、4時に起きて、5時にトヨタコースターに全員のった。予定ではバクハまで8、9時間のつもりだったが、実は2年まえ、僕がバクハからハノイを車で移動したときは、マツダのMPVだったので、スピードが違った。峠でもかなり飛ばし、国道にでればカーチェイスさながらぶっとばした時間だった。ハノイ旅行社のマイクロバスは、そんな乱暴な運転はしない。だいたい30キロから、通常は4、50キロ、国道で最高70キロしかださない。峠道は20キロぐらいのスピード、休憩が食事を含めて3回、結局、バクハまでは11時間かかってしまった。つかれた。全員ぐったりとした。
ベトナム北部少数民族の町といえば、有名なのはサパだ。サパには、ビクトリアホテルというチロリアン風の豪華ホテルもある。そのホテルに泊まるならば、夜のハノイを出発する、豪華寝台車、ビクトリアエキスプレスに乗って中国国境に接した街、ラオカイまで深夜に10時間走り、早朝到着、そこからバスで1時間半で、秘境サパだ。本当に10年まえまではSAPAはたしかに秘境だった。悪路をジープやバイクで行き来していたという。有名なのは、週末のラブ・マーケットだ。合コン、昔ふうに言えば歌垣だ。大国中国の周辺に住む少数民族は、かつての日本も含めて、文化に共通点がある。たしかに昔は、中国から見れば、周辺の民族はどれも少数民族だったのだろう。夜這いも、通い婚もある。1995年ごろ、写真家の外山ひとみさんは、バイクで訪れたという。猛者だ。すげー。
僕がサパを訪れたのは2002年と2003年だ。2002年にSAPAから足を伸ばし、バクハを訪れ、ぼくは感動した。世界で一番美しい衣装を着た、民族だと思った。しかもこの衣装は、ハレの服ではない。日常生活もかわらない。かつては着替えることもなかったという。ほんの数年まえまでは、物々交換、市場で何がしかのものを売って、何がしかのものを買う、ある意味自給自足のような生活をしていた。でも、いまや、彼等も街で買い物をするお金を得ている。衣装もスカート部分以外は、今回聞くと買ったりするそうだ。前回は皆、自分で作ると言っていたのに。確実に時代は動いている。
BacHa(バクハ)だ。そこは花モン族の住む町だ。毎日曜日に、サンデーマーケットが開かれる。2002年の秋は2泊しただけだったが、2003年には1週間滞在した。ホテルは同じくサイマルホテルだ。バクハ唯一の5階建てホテルだ。2003年秘境のコックリー市場にも足を伸ばした。そこで日本人カップルと出会い、バクハに誘った。
今回は、花モン族の女性たちと、男性ファッションを組み合わせたいと、クライアントE社のH氏の要望から始まった仕事だ。実はH氏とは、2002年にベトナム少数民族を撮ったときに、CanonのSタワーのオープンギャラリーで開催した写真展のときからのおつきあいだ。そのときの写真が印象的で、いつかこれでファッション写真をと撮りたいとひそかに暖めていたという。実にこれには、明確な伏線がある。
それは、初めて僕がベトナムを訪れた1994年、今回のクライアントE社のH氏の上司、M女史と僕は、ベトナムでファッション写真を撮った。それは、小説家矢作俊彦の、角川書店より出版された、野生時代の別冊のバーニーズニューヨーク東京の広告ページを矢作俊彦をモデルに一緒につくったといいう関係だ。当時M女史はバーニーズの東京に宣伝部にいた。
1994年のメンバーは、M女史、矢作俊彦以外に、当時NAVIの編集長だった、現エンジン編集長、鈴木正文とアートディレクターの松原健、角川の編集だった根本だ。サイゴンの昼下がりの表紙の写真はこのメンバーで始めてベトナムを訪れたときに撮っている。彼らは全員、サイゴンツーリストのビルにいて、この撮影の瞬間を見ていないが、あの女性が道路を横断している場所はサイゴンツーリストのオフィスからほんの数十メートルも離れていないというわけである。
1994年10月 右側のグリーの建物がサイゴンツーリストだ。
ファッションSHOP、Eを立ち上がるときに関わったのが、M女史、今回のH氏は彼の部下だった。
・・・・・てなわけで、今回の仕事は1994年から始まった、ロングストーリーの続きということになる。
4年ぶりに訪れたバクハは、街全体はさほどかわっていないが、平日のせいか街で民族衣装を着ている姿がほとんどないことにちょっと不安になった。4年まえだったら、ちらほらいたからだ。
不安になりながら、夕方、バスで山のなかをロケハンした。街から離れ、広々とした見渡せる段段畑の、風景のなか斜面に張り付くように、原色の民族衣装を着た、女性たちが働いていた。その時間そろそろ仕事から帰るところだろう、舗装された道路に数人ずつグループになって歩いている姿にであった。よかった。変わっていない。翌3日はむらの長老を撮影したり、働いている彼女たちを撮影した。
そして、翌、4日は、まちにまったサンデーマーケットの日、今回の撮影のメインイベントだ。
実は、街の中心にある、市場はさまがわりしていた。それは以前からあった市場のコンクリートの建物、一部はフランス領時代のものもあるのだが、それは壊されていた。そしてその横にかつての10倍ぐらいのスペースが市場の敷地とない、今やバラックのような仮設小屋が広がっていた。それにはいささかがっかりしたが、そのためかなりの花モン族が集結しているものの、こつてのような足の踏み場もないようなことはなくなっていた。ガイドのチュンさんは、フランス時代の建物まで壊すなんて、わかっていないと憤慨していた。
きっと数年後はさらに、さまがわりしているのだろう。いまや、バクハはサパについでの人気スポットだ。訪れた人は誰しも驚くだろう。僕のように昔のほうがよかったなんて、永遠の愚痴、観光客のエゴでしかない。現実にここい住んで生きている人間にとって、豊かなになることは、悪いことではない。確実に変化するこをはしかたがないことだろう。そうだとしても、カメラを向けたときの花モン族の女性が、以前にもませいて、好意的だったことが印象的だった。彼等は確実に以前より生活が楽になっているのだろう。
さて、時代の変化、実は、ここに問題があった。撮影のコンテでは、大勢の花モン族の女性の前に、白人男性モデルを立たせて撮るつもりだった。だから市場のたつ朝、撮影場所ともくろんだ場所で待っていても、かつてのように大集団で10キロも20キロもさきから歩いてくる集団がいなくなっていたのだ。予定では歩く彼らに声をかけ、峠にある小高い場所で記念写真のように撮るつもりだったのだ。朝の撮影で、5,6人の集団はいても、夕方の本当に、かつてのように彼女たちを捕らえることができるだろうか。いまやバクハでもバイクがかなり多くなった。初めて訪れた2002年では、レンタルバイクでさえ、さほどなかったのにだ。この急速な文明化は、驚くほどだ。このサンデーマーケット、彼らの楽しみである百年以上もつづいている、彼の習慣が、そして僕が感動した、10キロも20キロも山道をあるく姿が消えるのも、まじかなのかなとちょっと感傷的にもなった。偶然をたよるわけにもいかず、僕は市場でモデルになる女性たちを探した。
そのなかで、10歳ぐらいの女の子たちがいた。一人の子が、カメラを向けてもどうどうとして、そして少しはにかみ、とてもキュートだった。僕は通訳のチュンさんを呼んで彼女がどこから来たのか聞いてもらった。きっとグループで来ているはずだ。ところが彼女はベトナム語をまったく理解しない。モン族の言葉しかわからないようだ。ぼくは彼女たちの写真を撮りそれだけであきらめた。しばらく市場を撮影していて、再び彼女たちのところに戻ったら、大人たちを一緒だった。僕はふたたびチュンさんを呼んだ。
そのなかに、花モンの衣装を着ていない、帽子をかぶった聡明そうな、歯ならびの美しい少女がいた。高校生らしい。(驚いたことに花モン族のなかには、驚くほど美しい歯を持った女性がいる)。チュンさんが聞くと、家はここから20キロぐらいのところ、今は学校の寄宿舎生活をしている。チュンさんは彼女のに質問した。このグループは10名ぐらいだそうだ。皆知り合い、親戚らしい。僕は彼女に、皆で写真のモデルになってくれないかと、頼んだ。峠までバスで僕たちと行き、帰りは送り届けるという約束だ。とても頭のよい彼女は、皆を説得してくれた。そして彼女も学校に戻り、花モンの衣装に着替えてくれるという。そして友達も一人連れてきてくれることになった。
午後2時、バクハの市場の入り口で待ち合わせ、僕たちは峠に向かった。
そのときの写真は、発表されてからのお楽しみ。やはり広告写真の段取りに偶然はない。偶然は写真を撮るときと、そしてこんなふうにモデルに出会うといった、偶然が醍醐味だ。いやもうこれは、意味のある、僕が1994年のベトナムからはじまる、必然の結果だ。
そして撮影は無事終了した。写真は発表されたときのお楽しみ、とてもよい写真が撮れた。
翌日は、実は、朝3時出発だった。予定では5時出発だったが、戻ったハノイで取材とファッション撮影の予定があり、ファッションを夜ではなく、夕方撮ることになり、結局、ハノイに2時に必着ということになった。そのため、出発をはやめることになった。ドラバーががんばってくれて、ハノイに到着したのは、12時過ぎと予定よりかなり早かった。
夕方、メトロポールのエントランスで撮り、夜は日本食と日本酒を飲んだ。ベトナムでの日本食は格別だ。
翌朝は、すこしゆっくりして、11時にホテルをで、飛行機でダナンまで飛んだ。
ダナンは、5年ぐらいまえに来た。4回目のだったと思う。そこからホイアンのホテルにバスで向かったが、街はさまがわりしていた。海岸沿いに、広い道路ができていた。途中、2回訪れたことのある、フラマリゾートの前を通った。その道路上に今回のまだプレオープンの豪華リゾートホテル、ザ・ナムハイがある。すべてコテージ、どの部屋からも海が見える。部屋は新婚じたて。広い部屋の中心にベッドがあり、すぐそばにバスタブ、うーん、そしてバックヤードとして、シャワールームとトイレ、クローゼット、洗面所、テラスはもちろん、室内にも海を臨む、ソファーなんで書いても翌分からないと思うが、とにかく豪華。
夜はホイアンの旧市街で食事。ここを訪れるのは3回目。でもこんなに観光化されてからは、初めて。今一番の人気スポットということもうなずける。夜はとても異国情緒、ロマンチックだ。かつてここには、日本街があり、今でも日本橋という屋根の橋がある。
ナムハイに、2泊して、8日は昼にダンナを立ち、やっとホーチミン市、サイゴンに着いた。
サイゴンに着いて感じたことは、年々、中国風になっているということだ。特に新しい、ホテル、海外資本のホテルはインターナショナルで、無国籍だが、例えばマジェスティックのようなホテルは、センスがガクンと落ちた。なにしろ、エントランスには、今年の干支、コンクリートでできた2匹の豚の像のお出迎えだ。ここはたしか、国営サイゴンツーリストが経営している。だからこの有名なコンチネンタルホテルに泊まる人は、かつてのフランスの香りを望むべくもなく、がっかりするだろう。ただ、客室はよいし、サービスも悪くない。いやいや、更なる不満は、かつて開高健、沢田教一、など、ベトナム戦争時代、このマジェスティックのバーに集い、その日の、その日の、失敗談、武勇団を語ったその場所が、夕方のビッフェレストランになり、センスは最悪になったことが、悲しい。それもこの数年でのことだ。誰かきちんとしたコーディネータなりを入れないと、これから悲惨なことになるだろう。
しかもこの屋上のバーで撮る予定にしていたので、この惨状をみて唖然とした。でもここで撮るしかない。夜のビッフェ、の前、その1時間ぐらいで、背景のじゃまなテーブルを脇によせ、それでもどうにか撮影できた。いや予定通りのできだった。それにしてもどうしてこうなっちゃうんだろう。
僕がはじめて訪れた、1994年のサイゴンのあの植民地風、フランスミックスしたセンスはどこにいったのだろう。外国人がプロデュースする植民地風の店はもちろん、そのセンスを守っているけれど、ベトナム人は中国風、そしてサイゴンを無視した、完全インターナショナルなつまらないグローバルデザインに、席捲されたら、サイゴンの魅力は半減してしまう。なんて、最初に訪れた1994年を引きずる、ただの旅行者である僕のセンチメンタリズム、エゴイズムでしかないのだろうか。
1994年ニャチャン この安っぽい色づかい、大好きだった。
たとえば、もうとっくに変わってしまった、ベトナムのリゾート、ニャチャンは、かつての、安っぽい植民地風から、いまや立派にバリ風の海岸になっているじゃないか。(もっともベトナム中部は海洋民族チャンパだ、彼らはヒンズー教に近く、バリと同じ文化圏だ)。
夜、サイゴン在住の写真家大池さんと、池田さんじ会った。大池さんは僕の写真集「あの日の彼、あの日の彼女」を、直接買いたいとのことで、もっていった。日本円、千円札4枚、送料込みでお渡しした。
今回の取材の話は、そして例のサプライズとともに、今回の旅は、本にするつもりだ。
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