木村泰司「名画の言い分」
面白い本を読んだ。「名画の言い分」木村泰司 集英社
アマゾンで見ると、売れてる。
先日カーラジオから、木村泰司なる美術史家と称する人物が西洋美術について語っていて、「西洋美術とは見るものではなく、読むものだ、感覚的にあれこれいうものではなく、見るには教養が必要だ」と、しごくまともなことを言っていたので、興味を持った。
ネットで調べると、そのルックスと言動、上昇志向の高い、美術史紹介ビジネスマン、上流階級コンプレックス等々あまり良いことは書いてなかった。それでも、ラジオでの話は面白かったので、本を買った。
さて、これから後は、僕の戯言の寄り道なので、ちょっとつきあってもらうとして……。
戦後(太平洋戦争、もう歴史上のことだ)、敗戦日本は大きな挫折を味わった。いってみれば、西洋社会とガチンコ戦争をして負けた。明治維新は、江戸時代をのんびりすごしていた、ドメスティックな国日本が、今以上に、グローバル化に目覚めた時だ。だから近代国家として西洋を素直に取り入れた。そうしないと中国のように植民地になってしまう脅迫観念があったのかもしれない。江戸時代という文化的には発展した時代をへて日本はすんなりと、西洋を学んだ。もともと、中国や、朝鮮文化をそのまま、受け入れ、それを進化、爛熟させるという素地があったので、西洋文明もすんなりと、まずそのまま取り入れる。そして幸か不幸か国力はじき世界に追いつく。いくつかの戦争に勝ち、そしてアジアの覇者になりかけた。
でも、結局、決定的に負けた。自信喪失だ。
その時、戦勝国、自由主義、資本主義の覇者アメリカは、日本を拡大する共産主義の防波堤として考えた。そして、ブッシュが信じているように、天皇とういう神?を信じている自由主義化がむずかしいと思われていてた日本を、アメリカ文化のアジアの実験場にした。(乱暴な意見ですみません。簡単に言えばの話です)。
団塊の世代(このことばは、僕らが若かった時にはなかった言葉だ。1976年、堺屋大一の小説で作られた)は、言ってみれば、アメリカ文化にレイプされて生まれた日本文化との混血児だ。混血の血は事実で、あがらえない。いや、それこそ仮想の父親アメリカに、猛烈に憧れた。だからどっぷりとアメリカ文化に侵された。僕の若いころ、マクルーハンのホットだとかクールだとういう「フィーリング」、感覚に惹かれた。いまや「教養の時代」じゃない。「感覚」「感性」の時代だ。文化的なアイデンティティが分裂した人間にとって、とてもいいフレーズだった。
日本人は知らないもの異物を感覚的に消化することにたけているとも言える。
ちなみに団塊の世代のよりずっと前の世代、ま、言ってみれば戦前に若者だった世代は、アメリカにレイプされた世代だ。彼らが、そのことで深く「傷」ついていることは、想像できる。
さて、アメリカという国は、歴史が短い。そのため、新しいビジョンに寛容な国だ。というより新しいビジョンを作ろうとやっきになった。芸術だってそうだ。芸術こそ、歴史だ。いくらヨーロッパの歴史と張り合っても、いかに頑張ってもそんなもの勝ち目がない。なにしろ、黙っていると、ギリシャ、ローマ時代までさかのぼった教養を持ち出される。
話はぶっとぶが、そこでアメリカは美術で言えば、現代美術なのだ。
現代美術の始まりとは、印象派だ。アメリカや日本で印象派が人気なのは、歴史を学ばなくても、教養がなくても理解できる美術だからだ。(しかも印象派には日本の浮世絵という東洋美術にも影響されている)
現代美術とは、それまでの西洋美術にたいしてアンチだ。いや、現代美術とはギリシャ、ローマから始まった、そして今でも生産され続ける、すべての美術に対しての、引用でありそして批評する運動なのだ。だから常に新しい視点、論理が必要だ。
そうなると、18世紀に写真が発明されて、じき美術から独立し、再び現代美術に写真が取り込まれようとしている今、アートとしての写真は、西洋美術の論理からは逃れられないということになる。
さて、木村泰司の「名画の言い分」の何が面白かったのかといえば、戦後日本の「無教養主義」がついに来るところまで来て、これから「ネオ教養主義」「ポスト教養主義」の時代になりつつあるのかなと思えたことだ。
戦後、日本の若者は教養主義を捨てた。エリートであるべき東大生でさえエリートでなくなりアイドルを追いかける時代になった。東大生も大衆の一部になって、消費社会で遊んだ。なぜなら大衆という無限のエネルギーは経済社会を左右するからだ。
大衆は、コマーシャリズムに洗脳され(テレビを見み、雑誌を見み)日夜、物を買うことを挑発される。例えば、六本木ヒルズやミッドタウン。あのような巨大な建物は、人間が気持ちよくすごす空間ではない。あの場所に行くと、物が欲しくなり消費したくなる構造物なのだ。
さて、日本の美術をささえているのは、暇とお金のあるおばさんたちたちだ。余裕があり、物だけではなく「教養」も欲しいと思っている。「韓流」という傍流もあるが。
そこに現れたのが、木村泰司だ。タイミングがいい。
「西洋美術は教養なのだ」と。教養なくてし、これからのグローバル社会を生きてゆけない。なんてことは言ってないが、そんなことをいいたいのだろう。
そこである作家がいったことを思い出した。教養は、これから生きる上でかなり重要になる。
それは、これからますます格差社会になり、教養を身につけなければ、敗者になる可能性が高くなるからだ。
なぜ、文学作品を読むべきか。それは社会で負けないためだと……。
考えてみれば、印象派の美術に関しては、本もたくさんあり、日本人も少しは知識がある。しかしそれ以前の絵画は、チンプンカンプン。神話画、宗教画にいたってはそれこそ、日本人として何の役にたつのと、興味がわかない。それにあたしゃキリスト教徒じゃない。
でも木村は言う。日本人の好きな、印象派はそんな西洋画から生まれたのだと。そうい歴史や意味を知らずに語れないと。
たしかに、歴史のある文化的なものは、素養、教養がなければ面白くない。バレエだって、歌舞伎だって同じだろう。パッと見、おもしろくてもすぐに飽きてしまう。
僕にとって、木村泰司の本の面白さは、「西洋美術」のなかで退屈きわまりないと思っていた、宗教画、の見方をちょっと教えてくれたことだ。いかに僕が無学で教養がないのかわかる。
だからカソリックの時代、美術も文化も停滞した時代だと思っていた。でも宗教画も神話画も単純ではなく、さまざまに時代とともに変化している。
西洋絵画には、主張と目的がある。それはコマーシャルと一緒だ。それは現代美術に通ずる。
木村泰司が、彼の言説で、いくら稼ごうがかまわない。しっかり稼いでもらいたい。オカルトでビジネスすることよりずっと健康で、建設的だ。
そして「ネオ教養主義」(いんちき臭さも含めて)、のリーダーになってほしい。
本は面白かった。星★★★★★