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2007.09.04

オーパの写真家、高橋曻が亡くなった。

Takahashinoboru

●今日の午後、突然訃報が飛び込んできた。
開高拳の「オーパ」の写真家、高橋曻(たかはしのぼる)さんが9月3日、亡くなったという。
今年ほど、多くの死にめぐりあったことはない。そういう年なのだろうか・・・悲しい。

高橋さんとは、30数年前、篠山紀信氏の弟子時代に一緒だった。
年齢は、一緒、学年はひとつ下だ。
北海道出身の彼は、酔うと、いや酔わなくても、
よく北島三郎の「函館の女」を歌った。伸びのある美声だった。
六本木スタジオから、篠山事務所に入った。
彼が先に入ったので、助手として、そして写真家として僕の先輩ということになる。
僕が、アシスタントになったとき、高橋さんはいなかった。
いたのは、まだ1年も経験のないアシスタント(写真家宮城谷好是さん、現在名古屋ミヤスタジオ)が当時21歳ぐらだったろうか、一人で、寝る間もなくきりもみしていた。
実は、高橋さんは休みを貰ったとき、埼玉に住むお兄さんのマツダロータリーコスモというスポーツカーで事故を起こし、足を骨折して長期離脱していたのだった。
数ヶ月後、高橋さんは帰ってきた。そのとき、宮城谷さんと高橋さんの立場は、逆転した。実質上、宮城谷さんがチーフになったというわけだ。
ぼくは二人の先輩に挟まれていた。よくいえば、可愛がられた。(年齢的にはほぼいっしょなので、複雑な関係だ。正確に言えば僕が一番年上だった)
僕にとって、二人のチーフができてしまった。それでも、僕は仕事のやりかたを全て宮城谷さんから習っていたので、僕にとってチーフは宮城谷さんだった。
三人のアシスタント体制は、万全だった。一日に7本もの撮影もなんなくこなした。
伊豆は当然として、京都での撮影は、事務所のクルマで前乗りした。
夜、遅くなると、大体毎日遅かった、高橋、宮城谷の順に事務所のクルマで送り、東松原に住んでいた僕は、路上駐車(当時は煩くなかった)し、それで出社した。

海外ロケから戻った日は、(海外はたいてい助手はひとりだ)、
残った二人と慰労会のように、恵比寿の炭焼き、なまえはなんだっけな、
恵比寿スタジオからさらに100mぐらいいった右側。思い出した、板門店だ。
そこに二人の韓国人の姉妹(高校生ぐらい)がいた。そこでビールを飲み焼肉を食べた。
当時の食ざかり、3人で5000円以上は食べたろうか。1972、3年の話だ。
当時のマネージャーだった、中尾さんが、そんな日は、食事して帰っていいわよ、と言うからだ。
それが最高の楽しみだった。
篠山さんは海外ロケが、多いので、そういうことは、しょっちゅうあった、もしかしたら日本一恵まれた助手達だったかもしれないし、実際そうだったのだろう。

宮城谷さんが、先にフリーになり、高橋さんがチーフになった。
僕はセカンド、サードアシスタントは、宮口君だった。(七人の侍の剣豪、宮口精二の息子)
助手時代から、ぼくは高橋さんと特別仲がよかったわけじゃない。
セカンドになったときには、もうかなり僕も仕事ができたので、よく高橋さんとぶつかった。
それでも約2年間、同じ釜の飯を食った「同志」だった。

高橋さんは料理も上手かった。炊き込みごはんが絶品だった。
歌が上手くて、料理が上手い。粘り図よい。そんなところが、開高さんに可愛がられたところかもしれない。

彼がフリーになりオーパで華々しくデビューしたときは、まぶしかった。
写真家としてプロ中のプロ、粘りづよく、妥協を許さない。
男らしく、そしてきわめて繊細だった。
そんなところも、開高さんとあったのだろう。

尊敬する開高さんのところに、行ってしまった。
最後に会ったのは、ミッドタウンのフジフィルム200人展のパーティだったろうか
元気そうだった。二言三言話をした。

合掌。

●葬儀  渋谷区西原2-42-1 代々幡斎場 03-3466-1006

通夜   9月7日  pm5時半受付、6時~

告別式  9月8日  am9:30 受付 10:00~

●追記
高橋さんの本を読んでいたら、開高さんも58歳でなくなっていた。高橋さんも58歳だった。
なんで、そんなことまで追いかけているんだよ。ほんとうに。
でも、人生心底、尊敬する男に出会い、その男のまわりにで仕事し、高橋曻は幸せだ。
でも、そんな開高さんがなくなってから、たしかにちょっと元気じゃなくなったな、と思っていた。
だからって、おなじ年齢で逝ってしまうなんて。早すぎるよ。

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