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2008.03.20

ヘアメイクアーティスト中村とも子さんが亡くなった

ヘアメイクアーティストの中村とも子さんが亡くなった
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●月曜日、3月17日 青山斎場で、ヘアメイクアーティスト、中村とも子さんの「お別れの会」があった。末期にはハワイマウイ島の家で、抗癌剤を服用することもなく、海で遊んだり、広々とした庭を眺めながら、最後の瞬間をご主人のダンさんと二人で安らかに過ごしたという。3月17日は、とも子さんの61回目の誕生日でもあり、東京青山斎場に多くのゆかりのある人が集まった。

●とも子さんは、この業界の、僕と同じぐらいの年代の人間だったら知らない人はいない、超有名なヘアメイクアーティストなのだ。ニューヨーク時代には、マドンナのデビュー作、ライクアバージンのビデオクリップのヘアメイクをしている。マドンナがどうしてもとも子さんとやりたいと押しかけてきたという。
●僕がとも子さんと最初に仕事をしたのは、いつだったろう。たぶん1976,7年、だったと思う。きっと広告かなにかの仕事であまりよく覚えていないが。
その頃の若い売れっ子ヘアメイクといえば、渡辺サブロー、野村真一、長谷泰雄、杉山佳男、広田千秋、矢野とし子、まだたくさんいたけれど皆僕と同じぐらいの年だった。
●とも子さんとは、その中でも最後に知り合ったぐらいだ。小柄なとも子さんは、撮影中いるのだかいないのだか、とても静かで、ときどきアハハと大笑いをするだけなのに、いつも撮影現場を、静かに支配していた。これは、比ゆ的な意味ではなく、とも子さんと一緒に仕事すると、皆彼女のマイペースな、あたたかい、ゆったりとした空気に飲み込まれてしまう。
●当時の僕は、多くのクリエイターに影響させられたが、とも子さんもその中の一人だった。
一番覚えているのは、1979年だったろうか、京都のある着物の作家のカレンダーを撮るのに、京都や琵琶湖周辺、そして静岡など3日間ぐらいかけて撮影したときのことだ。
●僕はフリーになった1975年、その翌年に、横尾忠則さんがディレクションをした、着物のカレンダーを撮っている。モデルは山口小夜子さんだった。
●実はその写真を撮るにあたって、僕には一つのイメージがあった。それは、かの有名な、ファッションフォトグラファー、ギイブルダンの着物の写真だ。
ギイブルダンの写真がもともと好きだったこともあるが、確か、着物メーカー三松のエディトリアル広告だったと思う、フレンチボーグに10ページぐらい発表された。1975年だったろうか、もっと前かもしれない。
●モデルは白人ともうひとりはヨーロッパで有名になり始めていた山口小夜子さんだった。ギイブルダンの写真は、それまでのコンサバなカタログ写真のような着物の写真ではなく、完全に現代のファッション写真だったことに。着物を撮ってもモードになるんだ、と僕はその時強く感じた。だから小夜子さんの着物のカレンダーを撮るときには、ぼくもモード写真としての着物の写真を意識して撮った。
●その僕がインスパイアされた、ギーブルダンの撮影のときの、着物の着付けと、ヘアを担当したのが、中村とも子さんだったのだ。だから僕は、とも子さんと、着物の撮影をすることが、楽しみだった。

●ロケハンを済ませ、準備万端で僕は、東京から呼んだモデルと、とも子さんを撮影の前日、京都に迎えた。僕はカレンダーの月ごとの撮影プランは考えていたが、小道具に関して、まだあやふやな部分があった。着物の撮影なので、小道具を集めてくれるようなスタイリストはいない。僕はとも子さんと京都の町を繰り出した。雑貨屋や土産屋をめぐりいろんな小道具を見つけた。そのとき、とも子さんも色々見つけてくれたが、何より、例えば僕がこれはどう、なって言うと、本当に心から、それ面白いって、褒めてくれる。そうなると、僕の気持ちはどんどん開放されて、たくさんのアイデアが沸いてくる。とも子さんと一緒にいると、自分の美的センスが優れているのじゃないかとか、思わされるし、色んなことに自信を持てるようになる。だから撮影はとても楽しかった。
京都の何池だったけな、そこで撮るとき、とも子さんはちょっと変ったメイクとヘアを作った。僕はその時、アイデアってこういうことなんだなと、彼女の柔軟な発想に驚いた。
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PHOTO BY ALAO YOKOGI 1979
●ロケをしていて、とも子さんが、メイク道具を特別丁寧に扱っていることに驚いた。使い終わった筆は必ず、丁寧に洗う。そんなこと、もしかしヘアメイクでは当然なのかもしれないが、撮影の前、撮影のあともゆったりと、準備し、ゆったりと片付ける。ロケだから結構歩くこともあるし、小柄なとも子さんは、ハアハア息をはずませることもある。でも、すぐにいつもの、とこ子さんの空気が流れ出す。

●1980年だろうか新進のモデルだった安珠さんと、着物の作品を撮るとき、とも子さんにお願いした。
その後二人はずっと、そして今迄まで、沢山の仕事をし、親友になっていた。

●とも子さんがニューヨークに行ってから僕は一緒に仕事をすることは、なくなった。彼女はいつのまにか世界的なヘアメイクになっていったのだ。
彼女が東京に戻ってきてからは、僕はファッション写真を撮ることがほとんどなくなっていたので、あまる接点はなくなっていた。10年ぐらいまえ、僕のスタジオ(以前住んでいたところは半分スタジオになっていた)で、パーティをしたときに来てくれた。
●とも子さんの名前は時々きいていた。でも、そんなせっぱつまった状態だなんて全然知らなかった。
お別れの会で、多くの知り合いに会った。仕事柄、華やかな集まりだった。
●ボン・イマージュ 赤坂さんの挨拶のあと、お別れの言葉は、友人代表として、とも子さんが大関美容室にいた時に知り合った、ヘアメイク 野村真一さん、彼はその後ニューヨークに渡り、日本に帰ってきたとき、一番の売れっ子になった、その後が、とも子さんが、プライベートメイクしていた、ダイエイの林文子さん、そして写真家 安珠さん、モデル 冨永愛さん。皆素晴らしいことばだった。
最後に、ご主人のダンさんが、「今日はとも子の誕生日です。HAPPY BIRTHDAYを歌いましょう」と皆で合唱した。
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●とも子さんの作品は、ボンイマージュのサイトのHAIR MAKE→中村とも子TOMOKO NAKAMURA で見られる。彼女の素晴らしい作品ごらんになってください。
ここでも、とも子さんを見ることができる。

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