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●5月10日に、エイ出版社より、
「横木安良夫流スナップショット」を発売しました。詳細
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●さて、Blogに福岡に住むトモアキーニさんから、こんな質問をいただいた。
初めまして。福岡に住むトモアキーニといいます。(横木さんが管理人のミクシィのコミュにも参加しています)
僕も発売日と同時に横木さんの本を買いました。
僕は15年ほど前から写真を始めたんですが、ここ数年はスナップ写真をあまり撮らなくなりました。
それは正に肖像権が絡んでくるからです。
ですから今回の文庫本の肖像権に関する文章は特に興味深く拝読しましたが、一つだけ疑問に思ったことがあります。
「表現の自由がある、民主主義社会では、芸術やジャーナリズムは、法律に対して、戦う権利もあるということです。もし負けたとしても、ジャーナリスト、アーティストは、恐れることではないのです。」
と、↑のブログにおいても書かれていますが、僕のようなアマチュアが撮影している場合、それらの写真を「芸術やジャーナリズム」であると言い切れるのかな、ということです。
ましてや、自分をアーティストとは言い切れません。
(「アーティスト」は自己申告だと思っていますし。)
僕も横木さんが表紙で使われているような女性の身体の一部をノーファインダーで撮影したことがあります。
ですが、もし僕が表紙の写真とまったく同じような写真を撮ったとして、プロの写真家による写真と、僕のようなアマチュアが撮影したそれとでは、社会の見る目が違うのではないかなと思いました。
結局、アマチュアが撮った写真である以上は、それを「アート」であると説得する力は無いのではないかと思ったのです。
でもアマチュアにだって、表現の自由はあるはずなんですが。
横木安良夫の返事
僕は表現に関しては、プロもアマチュアも関係ないと思っています。
プロとは主に写真で食べている人で、意識的に表現として撮っている人はごくわずかです。僕としても、表現なんていわれると、こそばゆくなってしまう、プロとしての仕事は沢山あります。実際、写真を撮ることで生計を立てていることと、写真で表現を自覚的にしようとすることは、全く違うことです。
僕は、自分の表現としての写真(アートとしての写真)は、肖像権で訴えられて、もし裁判で負けて損害賠償を受け入れたとしても、自分が正しいと思うなら、また同じように撮り、発表することに、何の恐れもありません。それこそがアート(芸術)だからです。
(芸術とは何かをここで、語りませんが、自分が芸術だとおもえばいいし、芸術家は自称すれば、誰でもなれます。それを他者、社会が認めるかどうかだけです)
僕にしても、なんの意識をもたずに、撮ることだってたくさんあります。表現の意識はもたなくても、プロ写真家としてのプライドはあります。
それは表現者と言う意味ではありません。プロとは、僕は職人だと思っています。それは他の職種と同じだと思います。
表現としての写真のみで、生きている写真家もいます。学校の先生をしたり、もともと実家や配偶者が資産家であったり、もしくは赤貧をものともしない配偶者に恵まれていたり。
僕は残念ながら、そんな根性も、ラッキーにも恵まれていません。
しかも表現とはなにかと、意識的になったのは、この10年ぐらいです。
それに僕の場合、きわめてかってな言い分ですが、自分が積極的にコンセプトから関わった写真については、例えばコマーシャルでも、これは僕の表現だとおもったりもしているのです。このへんの境界線はかなりファジーです。
今の時代、プロのカメラマンとして生活することは、かつてよりずっと大変な時代です。こんな割の合わない仕事をせず、違う仕事で生計を立て、純粋に表現として写真を撮る方が合理的で、そんな写真家は世界を見ればたくさんいます。
話を戻しますが、プロとアマの違いがあるとするならば、プロ写真家の僕は、表現のためには、裁判だろうが、警察に突き出されようが、筋を通すことで、写真家として、社会生活者として、評価が下がるとはないと知っているからです。(意識的になりすぎると、仕事を狭めるというデメリットはあります)
アマチュアの場合、最悪の場合、そこまで戦う気持ちが持てるかでしょうか。
僕は、スナップをするならば、持つべきだとおもいます。
アマチュアだとしても、写真展を開き、写真集を作り、例えば常日頃、WEBで、少しずつでも自分の表現を認知されるように実戦すればよいことじゃないでしょうか。
今日初めて一眼レフを買った人が、僕の本の表紙と同じようなものを撮ったとしても、それはただ、興味本位としか思われないでしょう。運が悪ければ、警察につきだされ、チカン扱いされるかもしれません。
かつて戦前のことですが、いやそのもっと前から、
表現としての写真は、プロのものなんかじゃなかったのです。
プロは表現としての写真より、その新しい技術で、ビジネスにいそしんでいました。
すくなくとも、写真が発明されて100年間は、アマチュア写真家こそが世界の写真をリードしていたのです。
コダクロームという、からフィルムを発明したのも、アマチュアです。
アマチュアだから、趣味として撮ればよいのではなく、
アマチュアこそ、もっと自由に表現に関わるべきです。
芸術にプロもアマもありません。
趣味と言っている限り、アマチュアカメラマンであって社会的な評価はされないでしょう。
かっこつければ、アマチュアだって、いやまじめに、「写真家」Photographer と名のればよいのです。
写真で飯をくうだけが、写真家じゃありません。
自分に表現したいものがあるのなら、芸術家であり、
プロとかアマとかつけることなく、フォトグラファーでいいじゃないですか。
何を撮り、何を表現するかです。
そういう意味で、意識的なアマチュアの団体ができたらいいなと思います。
自由に写真を撮ることを、「表現の自由」をプロ写真家から奪還してください。
それには、ただ徒党を組むという意味ではなく、この困難な時代、
意識的な写真家として団結すればいいことではないでしょうか。
★もちろん、趣味として徹することも大切です。そんな場合は、楽しめる範囲で撮るにかぎります。表現することは楽しみから逸脱することもあります。