五味彬写真展 キヤノンギャラリー
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銀座 キヤノンギャラリーで、7月3日から9日まで 五味彬 写真展「YELLOWS Return to Classic」を開催している。
YELLOWS Return To Classic
キャノンギャラリー銀座2008年07月03日~09日
キャノンギャラリー名古屋2008年07月24日~08月06日
キャノンギャラリー梅田2008年09月25日~10月01日
作品内容:
Yellows1.0,2.0,20x20の中からUpのカットのみをAlternative Processでプリントした作品8x10 30点、4x5 20点
●さて、五味彬といえば、日本女性を人体標本のように、ストレートに記録した「YELLOWS」で有名な写真家だ。
Yellowsは、日本の女性の記録の面もあるが、撮影手法はそれぞれ違っている。最初のシリーズは、ポラロイドのネガつき4x5ポラロイドフィルムTYPE55で、その後、当時最先端のデジタルカメラ、コダックの120万画素のカメラ、そして、2000年代になって、CanonD60、そしてデジタルパックのリーフを使っている。それぞれ撮影した時期の、特徴的なカメラを使っている、裏カメラ史でもある。彼の、ワークショップでは、写真の歴史が語られ、なぜプラチナプリントなどが生まれたかが、レクチャーされた。
●デジタル時代になり、銀塩写真の今後が問題になっているが、実は、銀塩写真は、その気になれば、入手可能な薬品を使い、フィルムや印画紙だって制作することが可能なメディアなのだ。だから銀塩がなくなるなるぞ、だなんてじたばたすることではない。
デジタルの時代に、最新のカメラを使い、出力(プリント)を、100年以上もまえに完成したプラチナプリントというアーカイバルプリントで制作する意味は、デジタルと銀塩の連続性を意味しているのだろう。
(追記したため、文章の重複がありますが、ご容赦ください)
●五味は、日芸在学中から吉村側人さんのアシスタンをして、卒業後パリに渡った。小暮徹に紹介されたのは、当時飛ぶ鳥のローレンス・サックマンの助手だ。日本に帰ってきてからは流行通信を中心にファッション写真家として売れっ子だった。そんな彼のプロジェクト「YELLOWS」の写真のなかから顔のUPの写真をプラチナプリントに焼いたのが今回の写真だ。不思議と美しい小さなフレームにおさまり、端正にならんでいる。こういう写真を、キヤノンギャラリーで取り上げるのは素晴らしい。今やメーカーのギャラリーも、販促のためではなく、写真文化に寄与することに気づいているからだろう。今日はワークショップがあるらしいが、定員制で参加できるかは、不明。僕は夜の回には行ってみるつもり。
●実は、五味君とはもう30年以上まえからのつきあいだ。僕がフリーになったとき、まだ日大の学生だったら五味君をアシスタントとして使っていた。そういう意味では僕の最初のアシスタントだった。
彼は東京原宿出身だったので、あの頃僕も表参道の近くに、自宅件事務所があり、原宿は遊び場みたなところだったが、それまでの静かな原宿が、突然にぎやかになってきた時代だった。その写真を撮るためぼくはアサヒグラフに売り込み、原宿をドキュメンタリーした。そのとき、文章を五味君とその当時の彼のガールフレンドが書いてくれた。楽しい思い出だ。その取材の時、朝日の取材で僕が暴走族を集めていると公安から連絡があった。そんなつもりはなかったので、朝日とは関係なく僕個人で写真を撮るというこで、決着。ことなきをえたが、やはり暴走族は本当に原宿に集まってしまった。でも楽しい思い出だ。それはアサヒグラフに8ページにわたって載った。
五味はその後吉村則人さんのアシスタントになり卒業後、パリに行く。僕がパリのロケに行ったときは、集まってワイワイ酒を飲んだ。あの頃は、何度もパリに行った。
●ひとつこんなエピソードを思い出した。
それは、ある事件に遭遇したときのことだ。
パリの何処だか忘れたが、五味君を含めて10人ぐらい、当時付き合っていたガールフレンドと、中華料理屋に行った。大きな店だった。一番奥の席に陣取るフランス人の団体と向かい合うように、陣取った。料理を注文して、待っている時だった。
●突然パンパンと、耳をつんざく花火のような音がした。若い男が大声を上げて店の中をテーブルを掻き分け、突っ走ってくる。誰かに追いかけられているようだ。入り口に背を向けていた僕は振り返った。追いかけるてくる男は拳銃を持っている。僕はとなりに座っていたガールフレンドと一緒に、テーブルの下にもぐりこんだ。皆、同じようにもぐりこむ。逃げてきた男は、料理が一杯にならんだ、奥の団体のテーブルに駆け上がった。皿の割れる音、料理はめちゃくちゃ、男は料理の上で大声を張り上げながら、わめいている。そして再び銃声。(正確には伏せていたので僕には音しか聞こえない)やばい。テロかな、それとも喧嘩かなと、生きた心地がしなかった。すると、あっという間に二人は店からでていってしまった。唖然とする僕たち一同。呆然とした奥の団体は、服がぐしょぐしょに汚れている人もいる。日本だったら大変なことだ。警察だ。事件だ。
ところが、経営している中国人はたいしておどろいた様子もなく、服が汚れた客と冷静に話しているだけで、そして何事もなかったかのように料理を片付けている。客は怒った態度もせず、たんたんとしている。
騒ぎが収まったが、店主は僕らに謝ることもなかった。
席にもどって、僕らは今おきたことを、興奮して話し合った。まるで映画のワンシーンのようだった。この店へのいやがらせじゃないのかと誰かが言った。僕には銃声に聞こえたが、いやたしかに一人は銃を持っているように見えたが、あやふやだ。でもたしかに銃の音はした。ただの火薬の音だろうか。
店の実害は、服が汚れた客と、料理だけだ。いや僕らのワインも被害にあった。でも、そんなことたいしたことはないのだろう。こんなことに慣れていない僕はからだがぶるぶる震えてきそうだった。本当に思い出すと恐怖だった。
そのあと、何ごともなかったかのように、僕らは食事した。
さては、何かのイベントだったのか。まさか。
食べながら、あのテーブルにもぐりこんだ瞬間、ガールフレンドをかばうこともなく、さっさと下にもぐりこんだという物もいて、小さなウイットのあるののしりあいがあった。五味君は恐怖のあまり椅子から動けず一部始終をみていたとう。実はカップルのなかの一人、五味君の友達のある男はガールフレンドを置いて、席から逃げ出した。その行為ばかりは、冗談で済まず、それが原因かどうかわからないが、しばらくして別れたという。僕は、運よくガールフレンドをかばうようにもぐりこんだので、皆にいじめられることはなかった。……。そんなことを、五味君のことを書いていて急に思い出した。たしか1980年ぐらいのことだったと思う。
●さて、五味君とはこの5年ぐらい会っていなかった。実は1999年に僕のウエッブサイトを作ったとき、僕のホームページのTOP「ALAO YOKOGI PHOTOGRAPHS」のフラッシュは、五味君に作ってもらったものだ。
なにしろ、彼は10年以上まえにはすでにフラッシュを使いこなしていた。当時そんな写真家なんて彼ぐらいしかいなかった。
その頃から、バンタンデザイン研究所で写真を教えて、今でも続いている。
来年からバンタンで新しいプロジェクトを始めると言っていた。
そして、2011年には「YELLOWS」を又撮ると言った。
昨晩は、パーティだった。そのご、銀座の高級?焼き鳥チェーン店で12時ぐらいまで二次会。
●つづき
土曜日、夜はふたたび五味君と一緒だった。彼のワークショップのあと、近くの居酒屋で、田島一成君ほかバンタンと工芸大の学生と飲む。そこに、宮下マキさんが合流。五味君と宮下さんと一緒に新宿のBarに行く。
そのBarで五味君が作った、一年間しか発行されなかった 幻の雑誌「Sh・I・N・C」のことをインタビュー。「YELLOWS」の写真を表紙につかったその写真雑誌はかなり先鋭的だった。今の40代前後の活躍する、写真家の多くが通過している。
ネットで調べても、あまり検索にかかってこないが、実は日本の現代写真史上、そのうち再評価されることになるだろう。
バンタンのプロジェクトから、発展して、どうせならもっと自由度の高いことを二人でやろうということになった。
そうしてShINCをReStartすることになったというわけなのであります。
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