遠い昔も、あの時は今だった。パーレットの時代1937年~1952年
パーレット
先日、「¥3000で、写真売りましょ!買いましょ!展」を開催した、目黒のギャラリーコスモスで、興味深い写真展が開催されている。
ギャラリーコスモス、コスモスインターナショナルの新山さんのお父さん、新山清さんの、パーレットで撮った写真集と、それを記念して写真展が開催されている。
11月4日(火)~11月16日まで。am11-pm7
写真集に掲載された写真を、2週に分けて、全編展示しまています。
50年以上、いや70年前のネガから、現代のバライタ紙(レンブラント)にプリントしています。
プリンター:加藤法久氏
プリントの美しさを見るだけでも勉強になるでしょう。
もちろん被写体は、かつての日本の風景や人物です。
でも、少しも古びていない、感覚。見る価値があります。
ギャラリーコスモス 新山洋一氏のあいさつ
父新山清がこの世を去って、光陰が数多くの時世時節を写し出しては過ぎ去っていきました。
私が24歳の初夏、1967年5月13日、57歳の若さでの突然の死でした。父と共に過ごした日々よりも、別れてからの方がはるかに多くなってしまった今になっても、父との思い出は褪せる事がなく鮮明に胸をよぎります。そこにあるのは、何時も、写真家、アマチュア写真の指導者としての姿です。死の前日の遅くまで写真をチェックしていた後ろ姿、私のニケ月半に及ぶインド・東南アジア旅行への出発の折、「見送りは多忙で無理」と言っていたのにもかかわらず、横浜埠頭でカメラのシャッターを切っていた姿等々、涙を誘います。
死別した当時、私は貿易の仕事をしており写真のことには無知でしたが、錚々たる写真家をはじめ父を知る皆様から、遺作集編纂のありがたいお申し出があり、それぞれの方から追悼文を賜り、一年後に完成することができました。ここで知ったのも、父の写真対するひたむきな情熱でした。
このような想いが、30歳になって私を写真の世界に入る決意をさせてくれました。父が残してくれたネガ、紙焼き、コンタクトプリントを見るにつけ、戦前・戦後のあの時代に、写真を撮り続けていた情熱とエネルギーが伝わってきて、私を励まし奮い立たせてくれ、今日の私を支えてくれています。
ギャラリーコスモスを立ち上げた5年前から、毎年5月の命日を挟んで「新山清の世界」のテーマで作品展を開催しています。あらためて新山清の写実を見てみますと、風物を造形的なものを中心にありのままの姿で捉え、その時代を写し採ろうとする姿勢に貫かれています。それには高級機種のカメラは必要なく、写真の好きなアマチュアの誰でもが使用できるカメラが使われています。捜影、現像、紙焼きを通してテクニックを駆使して出来上がった作品には、強調されたドキュメントなどではなく、時代そのものの息吹が映しだされています。
この「新山清の世界」は、主観写真の大家オットー シュタイナート氏の理解と共感を得ることとなり、彼の開設したドイツ エッセンのFOLKWANG MUSEUMに3点の写真が収蔵されています。この美術館主催で1984、1985にアメリカ、ドイツ、ベルギー、スエーデン等、7ケ所で開催された「SUBJEKTIVE FOTOGRAFIE」images of the50’s 写実展にも作品が選ばれています。
2006年9月ドイツの取引先 MONOCHROM社の Dieter Neubert社長のご好意により、ベルリンの同社のギャラリーで写真月間として開催することができました。この写真展がKichen夫妻の目に留まり、ベルリンのKICKEN-GALLERYで「オットー シュタイナートと新山清」の2人展が開催されました。多くの方々の目に高い評価をうけることができました。
このようなことが重なり、没後40年を目前にして、写真集第1弾を刊行する決断をいたしました。「バーレット時代」と名づけ、昭和9年頃から28年頃までの写真のなかから、バーレットカメラを中心とした写実、一部にはセミーパール、セミマスミーでの写実も同時代ということで範疇に入れ編集いたしました。
撮影時の正確な年月や場所等が不明なものも多く、量も莫大なもので、選択には苦慮いたしました。私一存の選択・編集によるもので、いろいろご意見等お有りとは思いますが、ご了承ねがえれば幸いです。
制作に当たりご協力やご援助たまわった日本カメラ社の牛島博能氏、装丁の水木喜美男氏、翻訳の崎山弘美氏、プリンターの加藤法久氏、㈱富士フィルムイメージングの山崎康生氏をはじめ、ご協力戴いた皆様方に心より御礼申し上げます。
平成20年11月吉日
新山洋一
☆新山清氏は、アサヒペンタックスに勤めている1967年、目黒駅前にて、異常者に突然刃物で刺されなくなった。
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