今、インド、ブッダガヤにいる。
今、インドのラージギルにいる。朝4時。4時半に近くの山に登り、日の出を撮影する。その後ホテルで朝食、クルマでブッダガヤに向かう。インドは35年ぶりだ。まだアシスタントの時代、篠山さん、横尾さん、青画廊の青木さんの3人プラス、ガイドのサニーさんと1973年の年末から新年にかけて約3週間、インド全土そしてネパールまで回った。まだ若かったその時の印象は、スペクタクルで、最貧から、最富裕なものまで、ないものはないといった、誕生から死までがあからさまで、動物と人間が一体化した、現代と過去、時間という悠久の流れまでが混然とした、宗教、欲望、などなどあらゆるものが現出している場所だった。アンバサダーというぼろぼろのクルマ(今でも走っているが、35年前もじゅうぶんボロだった)に乗り、興奮はしだいに沈静に向かい、路傍の死体をみても、驚くことなく、あ、人が死んでるな、ときっと香辛料には、沈静作用があるのかなと思ったほどだ。篠山さんに、20代でインドを経験すること、見ることはとても意味があると言われた。たしかにあのとき、僕20代半ばだった。そして今僕は60歳だ。人生も、最終コーナー、まだまだ元気だけれど、いつ「終わる」かは、わからない。人生をへて、さまざまな経験をして、デリーの朝をパトナに向かうため、空港に向かって走っているとき、かつての、若かったころの、興奮はなかった。あの頃、外国と言えば、ハワイやアメリカやヨーロッパしか知らず、アジアといっても香港ぐらい、日本にいて、十分想像の域だったので、インドを目にしたとき、体験したとき、世界はなんでもありなんだと思った。インドの町、デリー、アグラ、アジャンタ、ゴア、ボンベイ、ジャイプール、ベナレス、カルカッタ、まだまだいろいろ訪れたが、移動して町をみるたび、インドの印象は違った。そこで僕が感じたことは、日本人の偏狭な視野で、ものごとを決めつけないことだと知ったことだ。頭を空っぽにして、そのあるがままを、受け入れる、感じることで、デリーはこうだ、ゴアはこうだ、と感想をあわてて、言うより、その存在を、そのまま感じることが大切だと、20代なかばで僕は知った。それはそれから、僕の写真を撮ることのKeywordで、世界中いろいろ回って、ひたすら、僕なりに感じ、受け入れる旅だった。今回35年ぶりにインドをみて、かつてのような興奮はない。インドさえすでに、知っている世界だからだ。それは、かつてインドに来たことがあるということではない。インドはアジアにあり、その後僕は、多くのアジアの国を見て、経験して、そこにはインド的なものがあふれていて、今思うに、この興奮はインド的だったのだと思ったことだ。1994年、初めてベトナムを訪れた時、その喧噪、混沌は、その根本がインド的なものだったのだと、今回来て気づいた。35年前、きたときは12月から1月にかけてだったので、さほどインドが暑いと思わなったが、今回のインドは猛烈に暑い。ただ暑いだけなら、ベトナム、ハノイの6月の、不快暑さは、僕の最悪だけれど、その暑さとは違う、じりじりと、日差しの強い暑さだった。今日は、仏教の聖地、ブッダガヤだ。仏陀が、悟った土地、お寺はたくさんあるけれど、住民はいまや全員ヒンズー教徒だ。そのなかにある、仏教の聖地。スジャータという村があり、修行中の仏陀が、断食中、村の美しい娘、スジャータに、もてなされたミルク(?)のようなもの。断って、彼女を気づつけるのではなく、彼女たのためにそれを受け入れる。
極端に修行、より、もっと違うもの、もっと中道的なもの、仏陀はそれに気づいたといわれいてる。そのスジャータ村に行った。なんでもない平和な、小さな村。子供達はカメラを向けるとよろこんで被写体になる。……明日は6時起き。そろそろ部屋に帰って寝よう。
この仕事はテレ朝で、10月1日からはじまる、番組。そのうち詳しく発表できると思う。
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Comments
横木さん、C社のHです。
以前から、貴ブログを拝見しております。
稚拙なMyブログ(ボログ!?)
http://blogs.yahoo.co.jp/merit0007
にも、お気に入り登録させていただいております。
インド亜大陸には人の数だけ神がおられて、だから、人の生死は日常的な神話のようにしてそこにある。。。
来月から始まる番組が静かな大ブレーク?しますように。
Posted by: eye POWER | 2009.09.23 01:07 PM