横木安良夫写真展「SCRAPS 1949-2018」 10.1-12.31
横木安良夫写真展「SCRAPS 1949-2018」が六本木、俳優座楽屋口向かいB1にある、
Bar山﨑文庫で写真展が開催されています。
10月1日から12月31日までの長期ですが、途中写真の入れ替えも考えています。
Barといいながら、酒瓶は並んでません。そこにあるのはオーナーの山﨑氏の蔵書が並んでいる
だけです。そしてきちんと照明の整った白い壁のギャラリースペースが15mぐらい。立派なギャラリーで
Barにギャラリーがあるというか、ギャラリーにBarがついているようなものです。
通常写真展は、かしこまってさらりとみ、ちょっとじっくりと写真を見ている落ち着かないのが普通です。
ここでは、写真をリラックスしてみることができます。
写真を見るだけなら、入場は無料です。
もっとも、いっぱいやりながら見る写真は格別で、横木安良夫の写真を眺めながめながらといった
写真の見方は、ちょっとくせになるぐらい、楽しいものです。
営業はpm5-am3
Barなのでチャージ(¥1000)がありますが、
写真展に来たきたかたはpm5−8までに入ればチャージは無料です。
多種な酒があるわけではありませんが、オーナーが厳選した酒があります。
ビールは瓶のみ。(¥800) ワイン他は¥1000〜です。
SCRAPS 1949~2018 横木安良夫
そこから眺める風景は、蛇行した江戸川と対岸の河川敷、その先の堤防の背後にひろがる煙のフィルターに霞む町工場。それが無限に広がっている。天気のよい夕景はシルエットになった富士山が小さく見えた。ツツジが咲き乱れた急な崖を駆け下りるとすぐに川面にたどり着く。土砂を運んでいるのだろう、ポンポン蒸気船がひっきりなしに往来していた国府台台地の端に建つ保育園は兵舎を改造した木造の古い二階建てだった。室内は簡素でも広々として天井が高かった。室内には大きな積み木や西洋の樽など、当時の日本の玩具とは全く違うもので溢れていた。すべての玩具がアメリカのルーテル教会から寄付されたものだと大人になってから知った。ぼくはアメリカ製の玩具で一日中遊んだ。時々悪さをすると樽のなかに放り込まれた。泣きながら見上げると樽の丸いフレームから不気味な木目模様の天井が見えた。屋外は砂場と滑り台があった。時々カメラを持った人が現れて写真を撮った。ワシントンハイツの写真館から派遣されてきたらしい。それも後で知ったことだ。隣が一中で下校時間には、幼児たちの撮影が珍しいのか、生徒たちがフェンスに鈴なりになって一緒に写った。
クリスマスは大イベントだった。ぼくは4歳のときヨセフ、6歳の時に三賢人、博士を演じ「わたしは乳香をさしあげます」というセリフまで言った。この時賛美歌をたくさん覚えた。その幼稚園を経営していたのがエーネ・パウルスだ。ぼくたちはパーラス先生と呼んでいた。すでにその頃はシルバーの髪をなでつけた60歳すぎの品のいい初老の外国婦人だった。簡単な日本語を話したが、知らないことばも聞こえていた。ぼくはパーラス先生が戦後マッカーサーと一緒に日本にやって来たのだと思っていた。ところが大人になって調べると大正時代、20代で日本に宣教師として来ている。コロンビア大学を卒業し、社会の役にたとうと海外布教を望んでいた。行くべき候補は二つあった。ひとつはアフリカ、そしてもう一つが日本だった。アフリカは貧しく、日本女性の人身売買に心を痛めていた。パウルスの姉が九州で先に宣教師をしていたいので日本に決めた。姉の手伝いをしたのちに市川にやってきた。そこで教会を建て孤児院を作った。太平洋戦争末期には、オーストラリアに逃れた。日本の敗戦後、GHQの制止を無視して市川に戻ってきた。そして保育園や孤児院を作った。たとえ聖職者といえ、今思えばとんでもない偉人だったのだ。60歳の定年をもってアメリカに帰った。それからしばらくして保育園は(内容的には日本の幼稚園とは比べ物にならない設備だった)認可幼稚園となり、ごく普通の幼稚園になった。パーラス帰国後も孤児院や女性のための施設は今でも機能している。
3月生まれの僕は、小学校に入ると問題児になっていた。なにしろ保育園で3歳から6歳まで毎日遊び回っていた。小学校の教室の椅子に縛り付けられることが耐えられなかった。実はよく覚えていないのだが。しょっちゅう廊下に立たされいつも先生にビンタされた。ある時、顔に手のあとがあることに驚いた、新聞記者だった父の友人の通信局長が、民主主義時代に暴力なんてけしからんと教育委員会に訴えると大騒ぎになった。母親は僕の悪行を知っていたのでただでさえ肩身が狭いうえに学校で深刻な問題になり、迷惑だったという。その先生はそれが原因ではないそうだが、翌年違う小学校に転勤になった。その頃の僕は風景として教室を歩き回来回っていたことは覚えていても、自分の心の中は覚えていない。
先日低学年の時、仲良くしていた、Y子に会った。70歳とは思えないほどしゃんとしていて美しかった。顔の輪郭はそのままちょっとジョージアオキーフに似ていると思った。彼女は高校卒業後、バイトしてお金をため、貨物船でアメリカに渡った。2年と3日アメリカに滞在した。そのときパーラス 先生のところに遊びに行った。自給自足する生活の手伝いをしたという。ぼくをビンタした先生を、Y子は悪くいわなかった。彼女の祖父が経営していた姉ヶ崎の海の家によく遊びに来て一緒に遊んだという。Y子は寡黙だった。母親が特別おしゃべりだったのでそれがいやだった。美人で運動神経がよく、男勝り、勉強もできた。ぼくはY子が好きだった。少し落ち着いた3年性の夏休み11時ごろ出勤する父親と顔を合わせるのがいやで、朝6時に起きては毎日Y子が寝ているのをたたき起こした。午前中一緒に遊ぶ。彼女の家の周りはまだ住宅もなくかっこうの遊び場だった。彼女に言わせると、低学年の時のぼくは、とても困った存在だったらしい。暴力的で落ち着きがなく、彼女は何度も噛まれたという。彼女の母親は、ああいう子は寂しいのだから、嫌わないで優しくしなくては、と言われそれを守った。しかたがないので優しくしたらしい。彼女に懐いていたぼくは、実は彼女寛容さの成果だと知り驚いた。好意の逆だったのだ。その後、Y子は複雑な人生を力強く生きた。波乱万丈、その人生を聞くといつも人のために生きている。今は94歳と102歳の両親の介護に振り回されているという。幼かったぼくは彼女の寛容の中で生きていた。Y子は40代後半で二種免許を取りタクシードライバーになった。離婚し今は2回目の結婚をしている。いまでも週に何回か昼間だけタクシードラバーをしているといった。運転が好きだからだという。売り上げは気にせず、自分の好きなところを毎日ドライブしていると言う。
小学校3年になり落ちついたころ、テレビの創世期から生活の一部になる。その頃ドラマはほとんどがアメリカのホームドラマだった。「デズニーランド」「名犬ラッシー」「名犬リンチンチン」「ララミー牧場」「ローハイド」「パパはなんでも知っている」「パパ大好き」「スーパーマン」「ルート66」「ちびっこギャング」「ガンスモーク」「ビーバーちゃん」「うちのママは世界一」「ボナンザ」数え上げたらきりがない。
ぼくは幼年時代も小学校時代も民主主義より、アメリカ文化に洗脳された。当然テールフィンのアメ車にあこがれた。中学時代はアメリカを忘れたかわりに秋葉原の電気部品街をぐるぐるさまよっていた。ところが高校時代吹奏楽部に入り、フルートとピッコロを担当して、毎日アメリカの、ジョン・フィリップ・スーザの曲を暗譜し演奏した。「忠誠」「エルキャピタン」「士官候補生」「星条旗よ永遠なれ」「ワシントンポスト」「雷神」「美中の美」などなど、もちろん名曲だけれど、なぜアメリカの軍隊の曲をあれほど演奏したのか不思議だ。もちろん「軍艦マーチ」も「君が代行進曲」も「分列行進曲」も演奏した。
時間を戻すと1960年安保闘争で皆が「安保反対」と叫んでいるのを知り、初めてアメリカは日本を支配する悪だと知った。それでもアメリカはお父さんだった。文化的には、ぼくはアメリカと日本の文化的混血児だった。だから大学に入り写真をはじめて、福生にある横田基地を訪れた時、その周辺にひろがっていた米軍ハウスは記憶のなかのアメリカの実存だった。モルタルの白い住宅は質素でも、その中にある、巨大な冷蔵庫や子供の玩具は当時の日本からは想像できないリッチさだった。だから福生には何度も通った。でも無邪気な子供たちの父親がベトナムに行っている想像力をぼくは持ち合わせなかった。
よく年1968年、70年安保直前、世界中で若者が動きだした。その前からビートルズなどの若者文化が世界をリードし、ヒッピーが世界中に跋扈し、東京では新宿東口にフーテンがうごめいていた。世界中でスチューデントパワーが爆発した。ぼくも大声で「安保反対」を叫んだ。江古田では5月に座り込みが始まり、生まれてはじめてデモに参加して大通りを解放した。5月のある日、大衆団交が終わると皆で学校をバリケード封鎖した。夜は戦争ごっこよろしく机を積み上げた正面ゲートに3時間交代で歩哨をする。僕はなんの権利も存在感もない一兵卒。デモとカンパに明け暮れ、少しも写真を撮らなかった。暑くなり冷房もない教室に籠城する学生たちは日に日に減って行った。8月父親が恒例の家族旅行にぼくを呼んだ。千葉の興津海岸ですっかり真っ黒になりバリケードに戻るとすでにぼくのいどころはなくなっていた。そしてぼくはバリケードからでて、写真を撮り始めた。それまでもデモに参加していたのに一枚も写真を撮っていない。僕はコットンパンツにスニーカー、Tシャツ姿でカメラはアサヒペンタックスSPとコーワSWを持ち、フィルムはトライXをポケットにと軽装だ。プレスのカメラマンは皆ヘルメットを被っていた。僕は石が飛んで来ても自分に当たるとは思っていなかった。なにしろ19歳、怖いもの知らず。
10.21には新宿の駅構内にいた。投石されたホームにいると代々木方面から機動隊が押し寄せてくる。万事休す。新大久保側にもいる。絶体絶命。その時新宿ステーションビルに小さな明かりが一つ見えた。そこにめがけて皆走る。皆頭から飛び込んでいる。僕もダイビングした。そこは男子トイレだった。助かった。西口では装甲車が燃やされていた。そのころ、共産主義は悪ではなく、資本主義よりましだと思っていた。そして大人は敵だと思い込んでいた。
大学を卒業して、縁あって日本で一番有名で、忙しい、一番の実力者だった写真家のアシスタントになった。そこにいる大人たちは皆、敵ではなく優秀な大人だった。
世の中にこんなふうに自由な雰囲気の大人がいることを初めて知った。
そして僕は1975年に独立してフリーの写真家となった。3年8ケ月の怒涛のアシスタント生活からひとりになって、何をしていいのかわからなくなっていた。
そしてプロの写真家となり43年さまざまな写真を撮った。
その原風景は、子供時代にあるのだろう。いまでもクリスマス降誕劇の部屋の空気感を覚えている。
それにしても支離滅裂な写真の羅列、どう見てもスクラップだ。もちろんスクラップとなった写真はこの100倍、1000倍はあるだろう。セレクト外の話ではない。
一度はぼくが選んだ、好きだと思えた写真の一枚一枚だ。
その一枚は、他者にとっては、写真のフレームの外を想像することはできても現実は知らないはずだ。
撮ったぼくはその写真の外側を知っている。
でも写真は、外側に付随したものを捨て去る表現。
もしそうだとしても写ってはいないフレームの外側にも、
かつてそこにあったという想像が、写真のロマンチックな本質なのかもしれない。
BY PHOTO CAMP
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