2005.01.13

M7.3-7 阪神大震災 復興はまだ終わっていない

今日の朝日新聞1月13日号の朝刊、 14面 オピニオン 私の視点 に経済評論家の内橋克人氏の論評が載っていた。◆阪神大震災 復興はまだ終わっていない
略 ‥‥震災10年のいま、国、自治体の素顔に峻烈な検証の目を注がなければならない‥‥震災時の笹山幸俊による神戸市制とは一体何だったのか‥‥数兆円に余る国の復興予算のうち被災者の生活再建に向けたのは4分の1、兵庫県は4兆数千億の予算措置を講じながら、生活救援対策は12,3%程度。それも貸付‥‥神戸市は2兆7千億‥‥生活支援は6%台‥‥「住宅は個人の資産。資産回復に個人補償は不可」との基本姿勢‥‥。少数派となった真の被災弱者の声は、「改革」「自己責任」論い明け暮れるこの国為政者らの耳に届くことはない。‥‥経済大国と生活大国は原理が違う。 ‥‥略
この意見は、神戸にゆくとある感慨を持つ。道路や、ビルや公共施設の復興、建造はめざましい。昔の神戸と比べると表面的にはぴかぴかになったようにさえ見える。しかし、長田の町に残る、歯が抜けたような空しい空間はなんなのだろう。その開いた空間は、震災以前にすでに計画されていた、効率的な都市計画による、あまった空間だろうか。いや違う。その空いた空間には多くの人々が住み、営んでいた痕跡なのだ。そしてそこにいた人々は、今そこに住むことができないのだ。いったい彼らはどこにいってしまったのだろう。そしてその空間をつぶすように建てられた住宅は、安手の建物が多い。それはコンクリートになったかもしれないが、やみ跡に立ったバラックと何が違うのだろうか。道路や公園は整備されても、そこで目論まれた、都市計画は、図面上のもので、街の景観は、あいかわらず貧相なものだ。いや、かつての活気がなくなった部分、街は死んでいるのかもしれない。入れ物は復興しても、中に住む住民、そしてこの土地に住むことができなくなった人々は、まだ深く傷を負っているのだろう。
僕が撮った、倒壊した高速がある。あのたった500mだけ、他の工法とは違う、ドイツ式工法で建設された高速道路、コンクリート一体型のそれは、なぜ震災後、何の検証もされることなく、たった1週間で完全に撤去してしまったのだろうか。
阪神大震災をあれだけ大きな被害にしてしまったのは誰なのだろうか。地震は天災であっても、その被害の多くは人災だ。地震の被害を拡大させた「加害者」が、地震の復興予算によって、一番潤ったのではないのだろうか。
‥‥復興住宅から家賃滞納を理由に「追い出し」の目にあった高齢者、失業者は100数十世帯を数える(私の視点)という。

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2005.01.11

2005ロバート・キャパ写真展

380capaincolor

Robert Capa in Color 
「ロバート・キャパ写真展 ロバート・キャパインカラー」
1935年、世界で初めてのカラーフィルム、動画用(16mm)コダクロームが開発された。そして翌36年スチール用が発売される。ロバート・キャパは、その翌々年の1938年には中国取材で早速そのコダクロームフィルムを使用している。
当時の感度は、ISO(ASA)10ぐらい。しかしその性能は素晴らしかった。それは後に発売されるエクタクロームと違い外式という染料で、後から色をつけるものだった。耐久性に優れ、しかも50年以上も前に撮ったカラーフィルムだというのに、いまだに美しさが保たれている。そればかりか、その後に発売されるいかなるフィルムよりも素晴らしいものだった。後に現在普通に出回っている、内式のカラーフィルムが発売されたが、そのフィルムでもロバート・キャパは多くの写真を撮っている。しかし残念ながらほとんど画像が変色して使用に耐えなくなってしまった。
ロバート・キャパは、発売されてまもなくの、コダクロームフィルムで1938年の日中戦争を撮影した。その写真は、ライフに発表されたが、残念ながらポジは紛失している。
2002年、ロバート・キャパがコダクロームで撮った大量の写真が、ニューヨークマグナムから発見された。
そのキャパの撮った、初公開のカラー写真を軸に、今回展覧会が開催される。
内容は、発見された、イギリス、チュニジア、シシリーの戦争中の写真、そしてへミングウエイ親子、死の直前の日本滞在、それに最後の土地、インドシナで撮影したカラー写真が展示される。
他に15点のキャパの代表的なモノクロ写真も展示されるという。
そのほかキャパが撮影中着ていた従軍記者用軍服(?)も展示される予定だ。
当時、カラーフィルムは広告などでは多く使用されていたが、速報性の必要な報道写真(ルポルタージュ写真)では、メディアのカラー対応の遅れなどもあって、あまり発表されていなかった。それでもロバート・キャパは積極的にカラーフィルムを使用している。
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コダクロームとブラームス

キャパが撮ったカラー写真の写真展が、2月15日(火)から20日の日曜日まで開催される。
展示されるカラーフィルムのすべてがコダクロームだ。
コダクロームフィルム誕生は、1935年の16mm動画用から始まる。スチール用35mmのコダクロームは翌年の1936年から発売された。現在映画はネガフィルムを使う。使用するときは、写真で言えば印画紙に焼き付けるように、フィルムにプリントとして大量に複製する。
しかし開発された16mmのコダクロームはポジフィルムだ。ポジフィルムは基本的にオリジナルのフィルム自体を、編集して映写機にかけて見ることしかできない。(ポジポジで複製することはできる)基本的にはアマチュア用のフィルムといえる。しかしその鮮鋭度は、美しさは、一度プリントして使用するネガフィルムとは一線を引くものだ。(オリジナルをそのまま鑑賞するせいもある)。後にムービー用のコダクローム、8mmのようなアマチュア向けのフィルムとなる。
しかし、スチール写真は違う。そのまま印刷原稿にもなるからだ。だからスチール用のカラーフィルムとしては画期的であり、現在のフィルムと比べても遜色ない。おりしも35mmカメラ全盛時代、そして後に開発される、カラーフィルムをはるかに凌駕した性能だった。その後、コダクローム2(ASA25)、コダクローム64と進化(とも言えない、合理化か?)する。
僕が写真を学んでいた頃から、フリーになってしばらくの間まで、35mmは、高感度のフィルム以外僕はコダクローム2しか使用しなかった。粒状性、カラー濃度は抜群で(デジタルで言えば高画素だということだ)、発色は落ち着いていた。いや、落ち着いていたというのは違う、濃厚だった。日本の冬の発色は不満があったが、ハワイやアメリカ、光線の強い場所でのその色は、今のフィルムにはない素晴らしいものだった。面白いことに、ヨーロッパでは、あまりこのフィルムは人気がなかった。日本の冬と同じように、光が弱く、強烈な発色をしないせいだろう、ファッションカメラマンの多くは発色の派手な、エクタクローム(内式のE6現像は公開され、普通のプロラボで現像できた)を使用していた。
コダクロームは発色が地味だというのでは決してない。濃厚なのだ。
特にルーペで覗くと、エクタクロームとコダクロームは別世界だった。
当時僕は、サイズの大きいカメラ、6x6、6x7、4x5、8x10は、エックタ系の、EPR、エクタクロームプロフェッショナルを使用していた。K2は後にKM、KRと感度の高いものに変わってゆく。残念ながらコダクローム2を知っている僕にとって、ものたりないものだった。また、発色が安定せず、よい乳剤番号を手に入れるのが大変だった。35mmしかなかったコダクロームもブロニーサイズが発売され、増減感も可能になったが、結局成功しなかった。
そんなおり、幾たびか富士フィルムの挑戦が続き、ついに、コダクロームなみの粒状性を持った(E6現像)のベルビア、プロビアが発売された。そしてしだいに世界最初のカラーフィルム、コダクロームは衰退していった。それこそこの10年ぐらいの話だ。
ところで、コダクロームは外式といって、内式のエクタクローム系、ベルビアもプロビアも、現在のほとんどのポジカラーフィルムとは違う。簡単に言えば内式とは、発色乳剤がフィルムに塗られているものであり、コダクロームのような外式は、フィルム自体には、カラー発色乳剤が塗布されてはなく、後で染色するやりかただ。
ただ公開され設備の簡単な、内式の現像とは違い、外式の現像はコダックの特別な設備が必要だった。
ある意味コダクローム全盛時代は、コダックの寡占状態だったわけだ。かの東洋現像所でしかできなかった。時間もかかった。なによりも、印刷特性とマッチして、ある意味、完成されたフィルムだった。
ところで、このフィルムの発明には、なぜか音楽家ブラームスがかかわっているという、ItoKenji氏の「A Plaza of Cara Schumann」という素晴らしいウエッブサイトがある。是非それを読んで欲しい。なにしろ、コダクローム発明秘話がこんなに詳しく載っているサイトは見たことがない。脱帽。
※ItoKenjiさんにリンクした件を事後報告したところ、音楽と写真の巨大なサイトがありました。
音楽のページのトップ
写真のページのトップ
※映画の用のフィルムの記述は正確ではないかもしれない。
日本のカラーフィルム歴史はここをクリック
映画のフィルム

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2004.12.29

スマトラ沖地震による津波

スマトラ沖地震の津波の被害者が、5万人を越した。一口に5万人といっても、ぴんとこない。日本は昔から地震のたびに津波があり、関東大震災のおりにも津波が発生してかなりの被害があったという。TSUNAMIは、すでに世界共通語にさえなっている。それにしても、もし津波に遭遇したらどうするかを、常に考えておかなくてはならないとは。海辺のリゾートのに行ったら、ホテルの非難口を探すように、津波にもし遭遇したら、どこに逃げるかを考えておかなくてはならないのだろう。これからさらに、多くの死者がでて、そして伝染病が発生するかもしれない。アジアのリゾートは数年前に、バリ島での爆破テロ、ベトナムの鳥インフルエンザ、そして今回の津波と災難続きだ。いやほんとうにイラクで戦争なんてしているばあいじゃないよ。21世紀になって、世界はなんだか騒がしい。NHKで人類創生の話をやっていて、それこそ地球誕生46億年、生物(有機物)誕生は40数億年前には存在したのではないかといわれている。その後7,8回にわたる、隕石(小惑星)の衝突、そのたびに地球の生物は壊滅されたけれど、ある種のバクテリアのようなものが、生き延びそして現在の人類まにつづいている。という。人間のような高等な生物の誕生はまれなのかもしれないが、どろどろだった地球がさめ、海ができると数億年で、生命体が誕生するなんて、宇宙の摂理のなかではわりとありふれていることなのかもしれない。有機物と無機物の境界線は実はさほど大きくないのかもしれない。それより、進化することのほうが、驚異的なのだろう。バクテリアのようなものから、人類までの進化にはかなり偶然性があるのだろう。何度かの小惑星衝突がなければ、今の人類は存在しないのかもしれない。その番組で小惑星が地球に衝突する場面を、コンピューターグラフィックでやっていた。衝突して、地球の近くは蒸発する。どこかその再現アニメをみたばかりで、津波の映像を見ると、奇妙な感じがした。地球が滅亡するような、スケールではないが、自然の摂理は、人間社会とは違いサイクルで進行しているのだと感じた。いや、実際は、人間の力が特に破壊する事に関しては、地震や津波なんか以上に、地球を破壊しているのかもしれない。

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2004.12.06

「M7.3」子供たちのみたもの 阪神大震災10年

写真とインタビュー  写真:横木安良夫
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今日は在日の集まり。R子は、司会進行をした。震災当時は7歳だった。チマチョゴリは年に数回着るという。これは母親の着ていたもの。
reikanagataIMG_4948.jpg 16歳から19歳の約30人の男女を撮影している。 
「M7.3」~子供たちが見たもの 宙出版 1月15日発売予定 
「M7.3子供たちが見たもの」

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M7.3子供たちのみたもの 震災10年

写真:横木安良夫 宙出版 2005年1月15日発売予定

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1995年1月 神戸長田地区
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2004年12月 同じ場所
新潟中越地震の被害がなまなましい今、来年1月17日で阪神淡路大震災被災から10年になる。僕は10年まえ、数日後の神戸に取材に行った。その後、神戸救済のポスター制作にもかかわった。震災については多くの本が出版されて、多くのことが語り継がれている。WEB上にもたくさんのことがら、書き込まれている。
僕の娘は今、5歳、今月には6歳になるが、あの時その幼い年齢でいったい震災をどうかんじていたのだろうか。かつては客観視することも、言葉もなかったかもしれないが、今ハイティーンになって、人生の新たな出発点に立ち、どんなふうに感じているのだろうか。そのインタビューと、ポートレイトの写真と文の本が、1月15日、宙(おおぞら)出版から発売される。写真は僕が撮っている。大人たちが見たものと違った「阪神大震災」の記録だ。
タイトル「M7.3~子供たちのみたもの」
「M7.3子供たちが見たもの」


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2004.11.29

ロバート・キャパとサイゴン 1

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1925年建設された、サイゴン(現在のホーチミン市)の歴史的なホテル、マジェスティクホテルは、例えば日本人で言えば開高拳や、写真家の沢田教一など多くのジャーナリストや作家が宿泊し、屋上のバーに集った有名なホテルだ。
僕が初めてベトナムを訪れた1994年は改修中で泊まることができなかったが、翌年1995年には念願かなって宿泊した。館内で何度も撮影をしているが、年々、サイゴン川の大型船の往来や(特に深夜)、バイクや車の騒音で、何日も連泊すると、うるさくて眠れない状態が続き、最近は宿泊することがなくなっていた。
ところが、この有名なマジェスティクホテルに、ロバート・キャパも泊まっていたという事実を僕は突き止めた。
1954年4月、キャパは毎日新聞社、カメラ毎日創刊の招待イベントとして日本に滞在していた。日本各地を撮影するといったかなり自由な、そして歓待された旅だった。それは約6週間の充実した撮影旅行の予定だった。
ところが、旅の半ばの4月28日、アメリカのグラフ雑誌ライフより、同じ東洋の戦場、フランス植民地だったベトナムの取材を急遽依頼された。キャパは悩む。しかし結局インドシナ、ベトナムに5月1日旅立つことになる。
キャパはまずバンコクに向かう。この辺のくわしいことは、「ロバート・キャパ最期の日」を読んでもらうとして、僕はそれまでの定説だった、キャパの伝記に書かれている、東京からバンコクに向かい、そこでベトナム入国のビザを取るために1週間以上もバンコクで足止めをくらったと書いてあることにつねづね疑問を感じていた。バンコクから直接ハノイに、ディエンビエンフー陥落の翌日、5月9日にハノイに到着したと書かれているのだ。
たしかにキャパは、バンコクのオリエンタルホテルから母ユリアに手紙を書いている。そこから9日、ハノイに到着して、マグナムに連絡するまでの約10日間、いったいキャパは何をしていたのだろうかという疑問だった。ベトナム北部デルタ地帯や、ディエンビエンフーは戦闘状態だとしても、タイのバンコクからフランス内独立国カンボジア、そしてサイゴンまでならば陸路だって移動可能だ。それなのに一週間以上も、バンコクにキャパが滞在した根拠はなんなのだろうか。日本の滞在中のイベント満載のハードのスケジュールに疲れて、バンコクでのんびりとビザが発行されるのを待っていたとでもいうのだろうか。この一週間を僕はずっと幻のバンコク滞在と位置づけていた。どうかんがえたってミステリーだ。
しかしある日それが氷解した。「ロバート・キャパ最期の日」のゲラ校正をしているとき、インドシナにおける、キャパの約40本のコンタクトプリントを見る機会があったのだ。そしてそこに、一葉の特別なコンタクトプリントをみつけた。それは、絶対にハノイでは撮ることのできない景色、サイゴンを知っている人間だったら容易に発見することができる景色だ。そのコンタクトの約30コマの写真のなかに、あきらかにサイゴン川を高いビルの位置から撮影している写真があったからだ。さらにくわしくみると、ドンコイ通り(カティナ通り)から、遠くにコンチネンタルホテルが写っている写真を発見した。サイゴン川を撮るアングルには、マジェスティクホテルがある。ロバート・キャパは室内でも撮影している。床のタイルは、現在はまったく失われているが、かつてはマジェスティックの床の模様だ。
続きは、ロバート・キャパ最期の日、ブログ

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2004.11.20

神戸、阪神大震災

今、三島にいる。明日(正確には今日だ)の朝、こだまで名古屋までゆき、それからのぞみで新神戸に行く。これは1月17日までに、阪神淡路大震災の本を出版する、その取材のためだ。来年で震災10年、僕がそのときに撮った写真と、そのときまだ小学生になったばかりの子供たちは、今はやハイティーンになっている。今の彼らというより、今思い出してみて、あのとき震災とは彼らにとってどういうものだったのかを、インタビューしてみる。僕は、かつての写真と、今のハイティーンになった彼らのポートレイトを撮るつもり。まだその本のタイトルは決まっていないけれど、しかもまったく時間のない仕事。
来年1月には、震災10年をはさんで、ライブ写真展をするつもりだ。それは僕一人ではなく、8人ぐらいの神戸のカメラマンと一緒に神戸の、特に永田周辺の人々の写真を撮り、その写真を街にはりつけ、モデルになってくれたひとたちにプリントするつもりだ。10年たった今、いったい彼らはどんな表情をしているだろうか。おりしも新潟中部地震、地震はいつでも、どこにでも起こる。
「M7.3子供たちが見たもの」

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2004.11.19

写真は真実を写すのか

合成写真から発した、写真についての考察―――写真は真実を写すか

北朝鮮の合成画像について、前回に書いたが、そこで指摘したとおり、写真は真実や事実を写しているわけではないということを書く。
写真は英語でPHOTOGRPHだ。直訳すれば、光の画だ。かつて写真を「光画」と読んでいたグループもあった。それがなぜ、写真、真を写すという言葉になったのか、勉強不足の僕は知らない。ところが写真については、日本語に「撮影」という言葉がある。これこそ、写真の本質をついている言葉だ。影を撮る。影を写す。例えばよく晴れた冬の日中、外にでて、足元を見れば、自分の影が地面に伸びている。さて、その影を見て、自分の事実が映っているなんて思うだろうか。あくまで自分の影が地面に映っているだけで、自分ではない。手を使えば、影絵で、狐にも、犬にも、鳥にもなれる。それはしょせん影なのである。写真は現実に存在するもの(そこのところは疑わない前提で)が、なんらかの光によって、照らされて反射されたものが、最終的にフィルムや印画紙に定着したものだ。例えば、地面に感度の低い大きな印画紙を広げ、自分の影をその印画紙に落とす。
そしてじっとすること数分、太陽の影以外の部分は、強く感光して色が変わる。いってみれば日光写真だ。そこには、影の部分は白く、そのまわりが変色している。それが写真の原理なのだ。その影をみて、自分が映っていると思う人はいないと思う。あくまでそれは「自分の影が定着している」にすぎない。写真の原理は影を感光させることにある。
さて、もう一つの写真の原理、カメラオブスキュラ、暗箱、ピンホールカメラがある。ピンホールカメラはご存知のように、レンズを使わず、針で開けた穴が結ぶ画像を、フィムルや印画紙に定着させたものだ。この原理を人類はかなり昔から知っていたと思う。なぜならぼくは、幼児のとき、誰にも教えてもらっていなのにすでに知っていたからだ。
かつて、戦後、我が家は安普請の県営住宅だった。6畳、4畳半、一坪の台所、半畳の便所、一坪の玄関しかない小さな木造住宅だった。土地は50坪あり、今の東京の住環境からはずっとよかった。(後に増築)。ある日の朝、日曜日だったかもしれない、家のものはまだ誰も起きていない。そとは天気がよかったのだろう。雨戸の隙間から光が漏れていた。ふと窓を見ると、僕はそのとき大発見をしていたのだ。
当時、間伐材を使っていたからだろうか、物資の少ない時代、家屋の材料である木材は節穴だらけだった。寝るとき天井を見ると、その節穴がさまざまなものに見えて、怖かった記憶がある。雨戸には無数の小さな穴があった。
その朝、真っ暗な部屋から、引き戸のすりガラスを見ると、そこに何かぼんやり写っている。それもひとつや二つではない。なかにはかなりはっきりと映っているものもあった。よく見るとそれは、さかさになった自分の家の庭ではないか。垣根のさきに、なにやら動いているものもある。それはフルカラーでとても美しいものだった。僕はその後、それを朝みるのが大好きだった。
しかしたいていは、母親のほうが早く起きてしまうので、見ることはできない。
僕は小学校2年生からカメラを持っていたが、その暗箱の原理を、写真と結びつけることはなかった。使っているカメラはブラックボックスで、同じものだとは思えなかった。だいたい写真もモノクロしかもたことがなく、その現象が写真そのものだと思ったのは、高学年になり、二軒隣の写真屋さんが持っていた、二眼レフカメラのファインダーをのぞいたとき、その像が同じものだと知ったのだ。(たぶん成長して科学的に考えられるようになっていた)。暗箱の、ピンホールの描く像の発見は、自慢ではなく、きっと太古から、人間はとっくに知っていたのだろう。条件さえあえば、どこでも再現される自然現象だからだ。僕の家にしても、生まれたときからそんなふうに天気がよければ毎日見えていたことになる。
さて、暗箱(暗室)カメラオブスキュラは、昔からあったとしても、やはり科学技術が発達した19世紀になってはじめて、写真は生まれた。感光剤の発明、発見だ。それまでの像が、感光剤を塗った、ガラスや紙に定着して初めて写真となったわけだ。しかし最初はモノクロだった。光の濃淡が定着できただけだ。その像は陰影だ。明るさ、暗さのグラデーションが定着した。
それがしだいに、鮮明にそして、カラーになり、現代の写真になった。しかし、根本は存在するもののから反射した光と影を、定着したものにすぎない。それはやはり「影」なのである。「影」は、決して現実とは違う。写真が現実を映しているわけではない、「現実の影を写している」のだといつも意識していなければならない。そうすれば、安易に、写真を信じすぎることも、信じないといった極端なこともないだろう。

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北朝鮮合成写真2

北朝鮮の合成写真について、今日も朝からワイドショー報道されている。写真と合成について再び書きたい。まだ一部報道機関は、写真は真実をうつすものだとの前提で議論しているような気がするからだ。写真の合成。修正(レタッチ)を、ほどこされていない写真は、昔から世の中にほとんど流通していない。例えば、葬式写真は切抜きが当然だ。新聞に載っている顔写真などは、同じように周りの余分な部分は、昔から修正している。いや、昔は新聞の印刷が悪かったから、原稿にレタッチを加えるのは、当然だった。今年5月に都美術館で開催された、ロバート・キャパ展では、実際ロバート・キャパが撮って、毎日新聞に掲載されたオリジナルが展示してあったが、モノクロ写真の輪郭には、どうみても絵としかおもえないほど書き込まれている写真が展示してある。そういう修正は、かつての新聞では当然だった。それより、戦時中は、軍の言われるまま、多くの写真を捏造した。数機しか空に飛んでいない飛行機をその何十倍も飛んでいるようにみせたり、船を大艦隊に見せたり、と今では客観的報道というマスコミは、かつてそうやって大衆を欺くさきぼうをかついでいたのだ。そういう反省があるとは思えないのに、まるで写真に手を加えるという、現在では日常的な行為だけをとやかく言うことはナンセンスだ。だいたい自分たちが報道している、番組自体構成された、事実の合成であることを忘れているのだろうか。
現代では、修正などしなくても、コンパクトデジカメは、肌色などは美しくあがるように調整されている。インクジェットプリンターも、肌をできるだけ綺麗にしようとしている。前回も書いたが、商業写真で修正されていない写真は一枚もない。化粧品に限らず、雑誌の表紙、人間の肌があんなに美しいわけはないでしょう。タレントのプロポーションがあんなにいいわけないでしょう。スタイルの調整なんてごく初歩のレタッチだ。
通常のレタッチと、意識的な合成に境界線はない。まあ唯一かろうじて信じられるのは、きちんと署名の入った、撮影者の特定された、写真ぐらいだろう。撮った本人が保証するということしかできない。もちろんそれでも捏造はあるのだが、だからかろうじて信じらる。撮った人間は、個人としてさらされる責任があるからだ。
めぐみさんの写真に関して、こことここが合成だと指摘することは、謎ときとして面白いけど、マスコミによる、写真は真実が写っているみたいな、言い方はしらけてしまう。
写真は、ストレートな写真でも、世界中の99.99‥‥%を排除する作業なのだ。真実はもともと0.1%も写っていればラッキーなのだ。写真家はそのわずかな真実を信じて撮っているだけなのだ。

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2004.11.18

北朝鮮合成写真

北朝鮮の、めぐみさんの写真が合成写真だということが話題になっている。北朝鮮はこういうことをする国家だと、マスコミは声だかに言うが、かつての日本の報道機関は、太平洋戦争中に、軍の統制下、多くの合成写真を生み出し、国民を欺いていた。そのおさきぼうを、新聞はかついでいた時代がある。実際はテレビは、報道じたいが、映画と同じように、モンタージュをするメディアだ。あんまり合成、合成というと、なんだからしらけてしまう。今の時代、写真の合成なんて、日常のことだ。広告などは、合成をしない写真のほうが、珍しいぐらいだ。北朝鮮も、見ればすぐにわかるような写真なのだから、プライバシー保護の(?)のために、不要な人は削除してあると最初から言えばよいことなのに、隠すからよけいにこじれてしまう。写真が真を写すなんて、幻想は権力者と、マスコミの人間が大衆に言っているだけで、写真は決して真実を写しているわけじゃない。

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