2005.01.11

コダクロームとブラームス

キャパが撮ったカラー写真の写真展が、2月15日(火)から20日の日曜日まで開催される。
展示されるカラーフィルムのすべてがコダクロームだ。
コダクロームフィルム誕生は、1935年の16mm動画用から始まる。スチール用35mmのコダクロームは翌年の1936年から発売された。現在映画はネガフィルムを使う。使用するときは、写真で言えば印画紙に焼き付けるように、フィルムにプリントとして大量に複製する。
しかし開発された16mmのコダクロームはポジフィルムだ。ポジフィルムは基本的にオリジナルのフィルム自体を、編集して映写機にかけて見ることしかできない。(ポジポジで複製することはできる)基本的にはアマチュア用のフィルムといえる。しかしその鮮鋭度は、美しさは、一度プリントして使用するネガフィルムとは一線を引くものだ。(オリジナルをそのまま鑑賞するせいもある)。後にムービー用のコダクローム、8mmのようなアマチュア向けのフィルムとなる。
しかし、スチール写真は違う。そのまま印刷原稿にもなるからだ。だからスチール用のカラーフィルムとしては画期的であり、現在のフィルムと比べても遜色ない。おりしも35mmカメラ全盛時代、そして後に開発される、カラーフィルムをはるかに凌駕した性能だった。その後、コダクローム2(ASA25)、コダクローム64と進化(とも言えない、合理化か?)する。
僕が写真を学んでいた頃から、フリーになってしばらくの間まで、35mmは、高感度のフィルム以外僕はコダクローム2しか使用しなかった。粒状性、カラー濃度は抜群で(デジタルで言えば高画素だということだ)、発色は落ち着いていた。いや、落ち着いていたというのは違う、濃厚だった。日本の冬の発色は不満があったが、ハワイやアメリカ、光線の強い場所でのその色は、今のフィルムにはない素晴らしいものだった。面白いことに、ヨーロッパでは、あまりこのフィルムは人気がなかった。日本の冬と同じように、光が弱く、強烈な発色をしないせいだろう、ファッションカメラマンの多くは発色の派手な、エクタクローム(内式のE6現像は公開され、普通のプロラボで現像できた)を使用していた。
コダクロームは発色が地味だというのでは決してない。濃厚なのだ。
特にルーペで覗くと、エクタクロームとコダクロームは別世界だった。
当時僕は、サイズの大きいカメラ、6x6、6x7、4x5、8x10は、エックタ系の、EPR、エクタクロームプロフェッショナルを使用していた。K2は後にKM、KRと感度の高いものに変わってゆく。残念ながらコダクローム2を知っている僕にとって、ものたりないものだった。また、発色が安定せず、よい乳剤番号を手に入れるのが大変だった。35mmしかなかったコダクロームもブロニーサイズが発売され、増減感も可能になったが、結局成功しなかった。
そんなおり、幾たびか富士フィルムの挑戦が続き、ついに、コダクロームなみの粒状性を持った(E6現像)のベルビア、プロビアが発売された。そしてしだいに世界最初のカラーフィルム、コダクロームは衰退していった。それこそこの10年ぐらいの話だ。
ところで、コダクロームは外式といって、内式のエクタクローム系、ベルビアもプロビアも、現在のほとんどのポジカラーフィルムとは違う。簡単に言えば内式とは、発色乳剤がフィルムに塗られているものであり、コダクロームのような外式は、フィルム自体には、カラー発色乳剤が塗布されてはなく、後で染色するやりかただ。
ただ公開され設備の簡単な、内式の現像とは違い、外式の現像はコダックの特別な設備が必要だった。
ある意味コダクローム全盛時代は、コダックの寡占状態だったわけだ。かの東洋現像所でしかできなかった。時間もかかった。なによりも、印刷特性とマッチして、ある意味、完成されたフィルムだった。
ところで、このフィルムの発明には、なぜか音楽家ブラームスがかかわっているという、ItoKenji氏の「A Plaza of Cara Schumann」という素晴らしいウエッブサイトがある。是非それを読んで欲しい。なにしろ、コダクローム発明秘話がこんなに詳しく載っているサイトは見たことがない。脱帽。
※ItoKenjiさんにリンクした件を事後報告したところ、音楽と写真の巨大なサイトがありました。
音楽のページのトップ
写真のページのトップ
※映画の用のフィルムの記述は正確ではないかもしれない。
日本のカラーフィルム歴史はここをクリック
映画のフィルム

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.12.25

ピンクレディ キンスマ

クリスマスイブ
キンスマで、ピンクレディをやっていた。今のミイとケイ(増田けいこ)は、輝いていた。
1970年代、ピンクレディは忽然と登場した。最初の記憶は、レコード大賞新人賞?だったろうか。垢抜けないチープな二人が、ペッパー警部を歌った。曲も歌も安手でも、でもデュエットという、ザ・ピーナツから始まり、コマドリ姉妹?、‥‥。といった歌謡曲音楽時代にどこか衝撃的なニュアンスはあった。それは男性グラビア雑誌のような、少しエッチな、雰囲気があったからだ。何より二人の声のトーンが大人ぽかった。その理由が、ケイの低音だったことはあとで気がついた。
お色気路線だったピンクレディが、名曲「渚のシンドバット」以降、急速に子供向けになって、僕は興味が失せた。国民的スターになって子供たちのアイドルとなり、まい今で言えばモームス(パワーその百倍ぐらいあったが、何しろ日本の歌謡曲時代の全盛期、今と違う)だろうか。
UFO、サウスポーは、それぞれ未知との遭遇、王貞治ホームラン世界新、といった時事ねたを拝借していたな。
その頃僕はフリーの写真家で、オリンピックか、何か忘れたが、何かの協賛で、1970年代後半だからなんだろう、まあいいとして、彼女たちを撮影した。撮影時間正味30分。場所は今や六本木ヒルズの建つ場所にあった、六本木スタジオの第一スタジオ。電通の仕事だったような気がするが覚えていない。しかも広告だったので、ポジも全部渡していて、何も残ってはいない。探せばポラロイドぐらいでてくるだろうか。二人に直接あって、ケイは元気がなかった。テレビで見ても、ミイはいつもはつらす、ケイはいやいやというイメージだった。
そのうち彼女たちはアメリカでデビューして、ビルボード40位以内に入り、(宇多田より立派)番組で水着になり風呂にはいり、しかも彼女たちの事務所が大問題を起こし、消えた。いや解散した。いやどうしたのだろう。
今日、キンスマで、増田けいこが当時のことを振り返り、恋人と事務所との確執を語っていた。恋人とは、当時を知る人は誰でも知っていること、野口五郎のことだ。
そのころ僕はピンクレディのことにすっかり興味はなく、あんまり覚えていない。
ピンクレディは結局、落ちぶれて解散したと記憶していた。
数年後、ミイを撮る機会があった。沢田ケンジの、アートディレクター衣装担当の早川タケジの衣装で(すけすけの極彩色)、文藝春秋の「エンマ」という雑誌で撮ったことがあった。一生懸命彼女もやってくれた。
今、ピンクレディは2年間だけ限定で再結成。40過ぎた大人の女はいいものだ。
なにより二人とも本当に楽しんでやっている。踊りは若いころよりずっとうまくなった。二人とも、努力し、トレーニングを持続していた成果だ。歌もずっとよい。きっと、かつてのピンクレディ時代には、自分たちがやっている実感がなかったのだろう。今は違う。
あの時代の日本の歌謡曲の、フィクションさ、はなんとも懐かしい。
歌に限らず、今のアートは皆どこか現実的だ。でも、歌謡曲全盛時代のメッセージは、本物らしさを前面に押しださないため、かえって普遍的なものが表現できている。作詞あくゆう、作曲、都倉俊一、二人とも本気で作っている。その潔さ。
日本の芸能や芸術、ファッション、音楽はどれもすべてが流行だ。はやっているもの以外は消えてゆく運命。でも違うと思う。良いものはそれぞれ残っていって欲しいと思う。
写真もそうだ。日本にファッション写真はない。モード雑誌はない。なぜならそのとき流行の撮り方以外はなくなってしまうからだ。ヨーロッパのように、アナクロな撮り方をする写真家が今でもボーグに載っている。それは流行ではなく、個性だからだ。
日本は懐メロといういいかたがある。美空ひばりも、ピンクレディも、山口百恵も、グループサウンズもどれもこれも、昔のヒット曲は懐メロだ。でもFENで1964年のヒット曲と紹介されたとき、それは懐メロではなく、その時代の音楽だと紹介される。時代が違うだけで、懐かしさとして整理されることと、現代につながる時代の音楽とは扱いかたが違う。
ピンクレディは、2年といわず、ずっと活動を続けて欲しい。ザ・ピーナツが復活することがありえないのだから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.12.23

ベトナムNO.1歌手 ミイ・タム

mytamphuNu
はがれたポスター、うらぶれた感じだが、実際は町中にミイタムのポスターが貼られた。雑誌の表紙もどれもがミイタムだった。田舎の男の子の部屋にもミイタムのポスターがある。彼女は男ばかりか、女の子にも人気がある。広告でも人気がある。
今やベトナムNO.1の歌手ミイ・タムは、先日見たテレビでは、まるで昔の美空ひばりのように貫禄があった。現代のベトナムのポップシーンをリードする、いってみれば、宇多田ひかる、あゆ、年齢は違うが、そのうちに似ると思うがあややをミックスして、でも貫禄がつき、美空ひぼりのようになったMyTamだ。ベトナムでは、CDは、初版プレスでおしまいになる。なぜならその後はすべて市場にコピーがでまわるからだ。だから歌手はレコードでは成功できない。そのため、彼らは日々ライブ活動をする。ワンステージ1000ドル以上、ベトナムの生活水準から考えたら、とんでもなくリッチだ。ライブする劇場やライブハウスは多く、特にライブハウスは、小屋のおおきさもちょうどよく楽しめる。通常10組ぐらいの前座があり、その後真打、ミイタムが登場して約1時間弱、歌い、踊りまくる。ベトナムは、メディアは発達しているないが、ライブはかなりいけている。ベトナムに行く機会があったら是非訪れて欲しい。熱気がすごい。

mytamyoko
これは、2002年に撮影したもの。サイゴン川のフェリー乗り場。スーパースターが突然あらわれて、周囲はいきをのんでいた。

ベトナムの今のスーパースター、ミイ・タムを撮影した。中心街にある、彼女がダナンから出てきたときに、間借りしていたおばさんが住むアパートに行った。アパートといっても、天井の高い多分仏領時代に建築されたであろう、ビルの4階にある広い間取りだ。今まで僕が見たサイゴンのアパートのなかで一番立派だった。エレベータが壊れていて階段を使った。彼女の家は今ニュータウンに建築中だということだった。撮影はそのアパートで始まった。ピアノやギターで弾き語りをしてくれた。現代的でシャープでかっこいい少女だった。取材中鼻歌のように歌を歌ったり、動き回ってとてもキュートだった。薄紫色の紗のような生地のちょっと変わったアオザイを着て、サイゴン川のフェリーに乗って撮影した。とっても気さくな気のつく素敵な子だった。お昼もおばさんと一緒に作ってくれた。食後、コンサートのダンスのレッスンに行った。歌ばかりか、とてもダンスも上手かった。練習というより振りのすり合わせてといったところで、3,40分で終わった。その後、ある作曲家の歌のレッスン。先日はライブハウスだったが、今度は劇場でのライブだ。楽しみだ。
MY TAMはベトナム中部の都市、ダナンの出身、八人兄弟。6歳からバレーを始め、10歳で賞をとる。そのころ劇団に入る。ギターをならい十代前半でかずかずの賞をもらう。16歳でオーディションで一番になり、有名な作曲家に師事する。
家族や親戚に歌関係の人間はいないので、本格的に勉強するために、親戚を頼ってホーチミン市にくる。その後歌の勉強を本格的に始める。最初はクラシックを学び、ポピュラーに転向する。その後数々の賞をもらう。2000年、新聞社主催の歌謡コンテストに優勝して、上海アジア歌謡祭で賞をもらいブレークした。作曲もする。4月26日ホアビン劇場でライブをする。そのライブの取材もする。
mytamtate
2003年、二回目の撮影のときには、人ごみに囲まれるのはいやだと条件をだされた。そのため、ビルの屋上で撮ることにした。それでも日本のタレントだったらなかなかまわりが許しくれないような場所だった。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2004.11.10

The Eye Forgetについて

このブログの、「The Eye forget 」とは、ロバート・キャパが、1954年4月、日本に滞在したおり、日本は「ピクトリアル・パラダイスだ」(写真の天国)と叫び、「TheEyeForget」という、タイトルの写真集をつくりたいと言ったことから、取っている。

残念ながらキャパは、日本での取材の途中仏領インドシナ(現在のベトナム)に行き、1954年(昭和29年)5月25日、フランス軍に従軍して、ベトナム北部、ハノイ南東80キロ、ナムディンからタイビンに向かい、ドアイタンの要塞から、タンネ(現在のキエンスオン)の前哨基地に向かう途中、左に曲がった堤防にのぼり、地雷を踏んで死んでしまった。
結局、日本での写真集、「TheEyeForget」は作られることはなかった。

このプログは、いままであった横木安良夫のサイトのDigtalDaybyDayの続きとして移行する。
ただ、今までよりは少し内容を、考えて書くようにする。今のところコラムのようなものにしようと思っている。

「ロバート・キャパ最期の日」(東京書籍)について、のブログは別に作る。「ロバート・キャパ最期の日ブログ日記

| | コメント (0) | トラックバック (0)