2004.12.25

猟奇的な彼女 チョン・ジヒョン

チョン・ジヒョン主演の「猟奇的な彼女」を見た。今頃見たわけで、テレビの吹き替えだったので、でたり入ったりしながら見ただけなので、きちんと見たわけではない。ただ主演のチョン・ジヒョンの魅力ははっきりわかった。ものすごく美人というわけではないが、今の日本の女優にないエネルギッシュな感じが、それでいて「品」を感じた。それは今の韓国のタレントたちに共通する、「品」のよさだ。
日本のタレントは、テレビのキャスターが育ちのよさと、「品」を売っているが、韓国の女優たちはその「品」のよさがほのかに感じられる。それは日本の芸能界と、韓国の芸能界のちがいかもしれない。
話は飛ぶが、ベトナム人は韓国人があまりすきではない。現在のベトナムには韓国の影響が強い。ホーチミン市の一番のデパートは韓国資本だし、かつて日本の車が多かったが、今やほとんど韓国の車、バスやトラックも含めて多くなっている。工場も多い。そんなわけで、ベトナム人は韓国企業、会社の労働者という立場ということもあるが、韓国人の人使いの荒さに少し驚いているようだ。そして何より、韓国人は、すぐかっとして感情的だという。
そういうところは今はやっている韓国映画からは想像できない。僕も韓国人というと、血気盛んというイメージがある。もっとも、在日の韓国人、朝鮮人の知り合いは、皆インテリで、日本人よりかえってクールな気がするが。
「猟奇的な彼女」では、根本的な笑いが、日本人とほとんど変わらないことが面白かった。それほど、日本と韓国は似た文化だということだ。
ただ韓国の男子には徴兵があって、そいうどうしようもない国家に対しての「忠誠」というか、現実があり、韓国の男はどこか現実的に見える。かえって、徴兵のない日本の男のほうが、暴力に対して、憧れがあるのだろうか。映画のなかで、武器を持った兵士がでていても、当然不自然な気がしない。そういうところが、映画を作る側としては、無理やりリヤリティを狙わなくても、そんなもの日常だから自然に扱える。
映画はとても面白かった。きちんとみてないのに、無責任だが、しかも吹き替えだ、なのにとても面白いと感じた。今まで韓国の映画を僕はぜんぜんみていない、不勉強だった、と思った。ビデオでも見ていない。遅ればせながらこれから見てみようと思う。一時期、香港や、台湾、中国の映画は続けて見ていたが、韓国がこれほど、楽しめる映画を作れるとは、驚きだった。単純に映像が、綺麗すぎるところもあるが、素直で好きだ。悪ぶったところもなく、芸術ぶったところもなく、自然で好感が持てた。
なにより、チョン・ジヒョンの魅力いっぱいだ。いったい日本だったら、誰だろうと考えたがあてはまる女優はいなかった。昔の女優にいたかもしれないが、今の女優にはいない。
韓国はヨンさまばかりではないことを、もっともぼくはヨンさま、もよくしらない。冬のソナタをみていない。それでもテレビでちらっとみた、この「猟奇的な彼女」を見て、「僕の彼女を紹介します」を絶対みてみたいと思った。
さっきベトナム人にとっての韓国人について語ったが、韓国人はすぐ怒るということだったが、それでは日本人はどうなのと聞くと、たいていベトナム人は日本人はやさしいから好きだという。あまりおこらないと。それでもどこか日本人の嫌いなところがあるだろうと聞くこと、、日本語通訳の女の子は、日本人旅行者をガイドしているときは、とても楽しく、うまくやれたと思ったのに、数日後、日本の旅行社からクレームがきて大問題になるという。その場でいえよ、と思うが、日本人はその場は不満でも、あまりクレームはいわないらしい。いかにも日本人らしいエピソードだ。


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若いおまわりさん

今日の僕のブログ、ピンクレディ2で触れた、「もしもしベンチでささやく‥‥」の歌のタイトルは、
「若いお巡りさん」と友人に教えられた。
昭和31年、1956年
作曲 利根一郎 作詞 井田誠一 歌 曾根史郎

もしもしベンチで囁くお二人さん
早くお帰り夜が更ける
野暮な説教するんじゃないが
ここは近頃物騒だ
話の続きは明日にしたら
そろそろ広場の灯も消える

もしもし家出をしたのか娘さん
君の気持ちもわかるけど
国じゃ父さん母さんたちが
死ぬほど心配してるだろ
送ってあげよう任せておきな
今なら間に合う終電車

もしもしタバコをくださいお嬢さん
今日は非番の日曜日
職務尋問 警防忘れ
あなたとゆっくり遊びたい
鎌倉あたりはどうでしょか
浜辺のロマンス パトロール


昭和時代を感じさせるいい曲だ。警察官がナンパする歌。しかも現代と同じように、女がタバコを吸っている。タバコを吸う女ならばナンパできるのか。

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ピンクレディ 2

ピンクレディの続き補足
ピンクレディを初めて見たのは、1976年だ。ペッパー警部からだろう。僕は1975年にフリーになった。山口百恵の全盛時代だと記憶しているが、1975年は、岩崎宏実がデビューして新人賞を取った。僕は細々と(仕事が少なかっただけで、内容は恵まれていた)タレントを撮っていた。
前回も書いたがピンクレディをはじめて見たとき、アイドル写真と同じように健康的な色気を前面に打ち出したデュオだと思っていた。すでにキャンディーズが存在していたので、キャンディーはその名の通り、しかもナベプロなので、天地真理と同じように完全なアイドル路線だったが、ピンクレディはちょっと違う路線を狙っていたように思えた。
ただ曲は当時26歳の僕でも、へーと思うほど、耳に届いていた。あまりに時代が違うし、若い人は誰も知らないと思うが、僕が小学生のぐらいのときにヒットした、曲、タイトルは忘れたが、「やさしいおまわりさん」、だったかな、歌詞の内容は、♪もしもしベンチで囁くお二人さん、早くお帰り世が耽る、野暮な説教するんじゃないが、ここらは近頃ぶっそうだ‥‥。のおまわりさんが、ペッパー警部のような?気がしていた。なんて感想は僕だけだったろうか。
しかし作詞の阿久悠、作曲の都倉俊一は世代的に当然わかっているのだろう。
そしてSOSと、すぐにトップアイドル、トップ歌謡スターに上り詰めた。その後は国民的な歌手に、特に子供たちの人気は絶大で、今の30歳半ば以上の女性だったら誰でも振りを覚えているだろう。
キャンディーズとよく比較されたが、キャラの違いは当然としてサウンドが全く違っていた。
キャンディーズの3人の声は全員可愛らしく、そのため曲は単調だった。
ピンクレディは、顔に似合わずケイの野太い声がデュエットのハーモニーを大人っぽくしていた。
ある意味、ミイとケイは、容姿や歌とどちらも、ケイがリードしたいが、実際ピンクレディとしては、ケイはいつもミイの足を引っ張っているように見えた。いつもなげやりに見えた。シャイでしかもあの声のせいもあったろう。
僕は仕事ではアイドルを撮ることが多かったが、キャンディーズも、少年マガジンで撮った。彼女たち全盛時代、表参道の歩行者天国を走りぬけるように撮ったこともある。
ピンクレディは、前回書いたが、オリンピックキャンペーで撮影しただけだ。
実際その頃僕は、ほとんど洋楽を聞いていたので、仕事上だけで歌謡曲を聴いていたものの、なにしろ70年代は、日本の歌謡曲の全盛時代だったから、黙っていたって、テレビを見れば歌謡曲につかっていた。知りたいと思わなくてとも、だから知っているのだ。
キャンディーが解散したときは、全盛時代だったのでかなり盛り上がったが、いや解散することが決まって、初めてビッグになった。
ピンクレディはアメリカ進出失敗や、落ち目になっていたので、僕は解散コンサートを覚えていない。
まあ、そんなことに興味がなかったのだろう。もっと面白いことはたくさんあったしね。
もっとも僕は子供の頃から、歌謡曲が好きだったから、興味はないといってもインプットされているかな。
助手時代は、山口百恵、桜田淳子、と2泊0日のハワイにもいったことがある。僕の師匠は当時、日本のタレントたちを撮りまくっていたのでまるで芸能界にすんでいるような毎日でもあった。
フリーになったら、そんな生活はなくなり、しだいに僕はタレントを撮るより、ファッションや広告のほうに行くのだが、タレントの写真を撮ることは今でも好きだ。
ピンクレディの話から、飛んでいるが、昨日のキンスマを見て、歌手として今でも続けている人を見るとうれしくなる。演歌歌手は、営業をできるせいだろう、いきが長いがほとんどの歌謡曲の歌手は、消えてしまうとそれでおしまいだ。
今のように、歌手=アーティストとなれば、自分で音楽の方向性をつくれるので、固定ファンがつき、細々とでも活動を続けられる。しかし歌謡曲の歌手は落ち目になれば消えてしまう。続けることはたいへんだろう。
そういう意味でピンクレディの復活はうれしい。それも昔よりずっとパワフルになり、大人の仕事、表現となり、素敵だ。現代の作詞家、作曲家に新しい曲も提供してもらい、がんがん活動してほしいと思っている。昔僕が覚えている、ピンクレディより今のほうが百倍素敵だ。

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ピンクレディ キンスマ

クリスマスイブ
キンスマで、ピンクレディをやっていた。今のミイとケイ(増田けいこ)は、輝いていた。
1970年代、ピンクレディは忽然と登場した。最初の記憶は、レコード大賞新人賞?だったろうか。垢抜けないチープな二人が、ペッパー警部を歌った。曲も歌も安手でも、でもデュエットという、ザ・ピーナツから始まり、コマドリ姉妹?、‥‥。といった歌謡曲音楽時代にどこか衝撃的なニュアンスはあった。それは男性グラビア雑誌のような、少しエッチな、雰囲気があったからだ。何より二人の声のトーンが大人ぽかった。その理由が、ケイの低音だったことはあとで気がついた。
お色気路線だったピンクレディが、名曲「渚のシンドバット」以降、急速に子供向けになって、僕は興味が失せた。国民的スターになって子供たちのアイドルとなり、まい今で言えばモームス(パワーその百倍ぐらいあったが、何しろ日本の歌謡曲時代の全盛期、今と違う)だろうか。
UFO、サウスポーは、それぞれ未知との遭遇、王貞治ホームラン世界新、といった時事ねたを拝借していたな。
その頃僕はフリーの写真家で、オリンピックか、何か忘れたが、何かの協賛で、1970年代後半だからなんだろう、まあいいとして、彼女たちを撮影した。撮影時間正味30分。場所は今や六本木ヒルズの建つ場所にあった、六本木スタジオの第一スタジオ。電通の仕事だったような気がするが覚えていない。しかも広告だったので、ポジも全部渡していて、何も残ってはいない。探せばポラロイドぐらいでてくるだろうか。二人に直接あって、ケイは元気がなかった。テレビで見ても、ミイはいつもはつらす、ケイはいやいやというイメージだった。
そのうち彼女たちはアメリカでデビューして、ビルボード40位以内に入り、(宇多田より立派)番組で水着になり風呂にはいり、しかも彼女たちの事務所が大問題を起こし、消えた。いや解散した。いやどうしたのだろう。
今日、キンスマで、増田けいこが当時のことを振り返り、恋人と事務所との確執を語っていた。恋人とは、当時を知る人は誰でも知っていること、野口五郎のことだ。
そのころ僕はピンクレディのことにすっかり興味はなく、あんまり覚えていない。
ピンクレディは結局、落ちぶれて解散したと記憶していた。
数年後、ミイを撮る機会があった。沢田ケンジの、アートディレクター衣装担当の早川タケジの衣装で(すけすけの極彩色)、文藝春秋の「エンマ」という雑誌で撮ったことがあった。一生懸命彼女もやってくれた。
今、ピンクレディは2年間だけ限定で再結成。40過ぎた大人の女はいいものだ。
なにより二人とも本当に楽しんでやっている。踊りは若いころよりずっとうまくなった。二人とも、努力し、トレーニングを持続していた成果だ。歌もずっとよい。きっと、かつてのピンクレディ時代には、自分たちがやっている実感がなかったのだろう。今は違う。
あの時代の日本の歌謡曲の、フィクションさ、はなんとも懐かしい。
歌に限らず、今のアートは皆どこか現実的だ。でも、歌謡曲全盛時代のメッセージは、本物らしさを前面に押しださないため、かえって普遍的なものが表現できている。作詞あくゆう、作曲、都倉俊一、二人とも本気で作っている。その潔さ。
日本の芸能や芸術、ファッション、音楽はどれもすべてが流行だ。はやっているもの以外は消えてゆく運命。でも違うと思う。良いものはそれぞれ残っていって欲しいと思う。
写真もそうだ。日本にファッション写真はない。モード雑誌はない。なぜならそのとき流行の撮り方以外はなくなってしまうからだ。ヨーロッパのように、アナクロな撮り方をする写真家が今でもボーグに載っている。それは流行ではなく、個性だからだ。
日本は懐メロといういいかたがある。美空ひばりも、ピンクレディも、山口百恵も、グループサウンズもどれもこれも、昔のヒット曲は懐メロだ。でもFENで1964年のヒット曲と紹介されたとき、それは懐メロではなく、その時代の音楽だと紹介される。時代が違うだけで、懐かしさとして整理されることと、現代につながる時代の音楽とは扱いかたが違う。
ピンクレディは、2年といわず、ずっと活動を続けて欲しい。ザ・ピーナツが復活することがありえないのだから。

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2004.12.23

ベトナムのモデル2 身長174センチ

身長174センチのモデルは、ベトナムではとても大きいほうだ。たいていベトナムのモデルは165センチから170センチぐらいしかない。
thanhanlsize
タイン・ハンの大きな写真

2002年4月27日
朝6時に起きて、6時半出発。先日ミトウに行ってもらった、タイン・ハンが行っている、総合大学の中にある大学受験のための予備校のようなところに行く。授業を受ける様子の撮影。終わったら友達二人も同行してくれることになる。バスでヘアメイクの店に、アオザイをピックアップ。その後、サイゴンでファッションデザインをやりながら、カフェバーも経営している沢村たかゆき氏の店で撮影。彼は一週間前ぐらいに開かれた、ベトナムファッショウイークに参加していた。新聞にも彼の記事が紹介されていた。そこでミトウに行ったときに来たアオザイをもう一度着てもらう。彼女はまだ撮影に慣れていない。どちらかというと、動き回っているほが綺麗だ。その後、韓国資本の、ダイヤモンドプラザにある、ダイヤモンドデパートで、やはり友達3人と一緒撮影した。ちょうど階上の映画館がオープンしたとあって、デパートの入り口はいつにもまして混雑していた。化粧品売り場には資生堂やコーセーも、入っていた。日本のデパートの1Fの化粧品売り場と同じような雰囲気だ。エスカレーターで6階のゲームセンターやボーリング場、プールバーがあるフロアで撮影。その後、皆でイーボーという台湾料理屋で食事をした。週末だからだろうか、いつもはない点心‥‥飲茶があった。外務省のTさんが全てオーダーしてくれた。全員で11人。ふかひれスープ、クンシンサイ、ナスとひき肉の炒め物、マーボー豆腐、大根もち、えーと名前を忘れた、軟らかい米の皮で巻いた海老、よく飲茶ででるやつだ、それのビーフ、それで全部かな、ビールとジュースと最後にデザート、合計約9000円。ずいぶん安いと思った。

食後一回ホテルに戻り、2時にタイン・ハンさんの家に行く。彼女は2001年、PhuNuという雑誌のモデルコンテストで優勝した。賞金は50,000,000ドン、日本円にして約45万円だ。価値としては600万から800万もあろうか
thanhhangshop

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ベトナムNO.1歌手 ミイ・タム

mytamphuNu
はがれたポスター、うらぶれた感じだが、実際は町中にミイタムのポスターが貼られた。雑誌の表紙もどれもがミイタムだった。田舎の男の子の部屋にもミイタムのポスターがある。彼女は男ばかりか、女の子にも人気がある。広告でも人気がある。
今やベトナムNO.1の歌手ミイ・タムは、先日見たテレビでは、まるで昔の美空ひばりのように貫禄があった。現代のベトナムのポップシーンをリードする、いってみれば、宇多田ひかる、あゆ、年齢は違うが、そのうちに似ると思うがあややをミックスして、でも貫禄がつき、美空ひぼりのようになったMyTamだ。ベトナムでは、CDは、初版プレスでおしまいになる。なぜならその後はすべて市場にコピーがでまわるからだ。だから歌手はレコードでは成功できない。そのため、彼らは日々ライブ活動をする。ワンステージ1000ドル以上、ベトナムの生活水準から考えたら、とんでもなくリッチだ。ライブする劇場やライブハウスは多く、特にライブハウスは、小屋のおおきさもちょうどよく楽しめる。通常10組ぐらいの前座があり、その後真打、ミイタムが登場して約1時間弱、歌い、踊りまくる。ベトナムは、メディアは発達しているないが、ライブはかなりいけている。ベトナムに行く機会があったら是非訪れて欲しい。熱気がすごい。

mytamyoko
これは、2002年に撮影したもの。サイゴン川のフェリー乗り場。スーパースターが突然あらわれて、周囲はいきをのんでいた。

ベトナムの今のスーパースター、ミイ・タムを撮影した。中心街にある、彼女がダナンから出てきたときに、間借りしていたおばさんが住むアパートに行った。アパートといっても、天井の高い多分仏領時代に建築されたであろう、ビルの4階にある広い間取りだ。今まで僕が見たサイゴンのアパートのなかで一番立派だった。エレベータが壊れていて階段を使った。彼女の家は今ニュータウンに建築中だということだった。撮影はそのアパートで始まった。ピアノやギターで弾き語りをしてくれた。現代的でシャープでかっこいい少女だった。取材中鼻歌のように歌を歌ったり、動き回ってとてもキュートだった。薄紫色の紗のような生地のちょっと変わったアオザイを着て、サイゴン川のフェリーに乗って撮影した。とっても気さくな気のつく素敵な子だった。お昼もおばさんと一緒に作ってくれた。食後、コンサートのダンスのレッスンに行った。歌ばかりか、とてもダンスも上手かった。練習というより振りのすり合わせてといったところで、3,40分で終わった。その後、ある作曲家の歌のレッスン。先日はライブハウスだったが、今度は劇場でのライブだ。楽しみだ。
MY TAMはベトナム中部の都市、ダナンの出身、八人兄弟。6歳からバレーを始め、10歳で賞をとる。そのころ劇団に入る。ギターをならい十代前半でかずかずの賞をもらう。16歳でオーディションで一番になり、有名な作曲家に師事する。
家族や親戚に歌関係の人間はいないので、本格的に勉強するために、親戚を頼ってホーチミン市にくる。その後歌の勉強を本格的に始める。最初はクラシックを学び、ポピュラーに転向する。その後数々の賞をもらう。2000年、新聞社主催の歌謡コンテストに優勝して、上海アジア歌謡祭で賞をもらいブレークした。作曲もする。4月26日ホアビン劇場でライブをする。そのライブの取材もする。
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2003年、二回目の撮影のときには、人ごみに囲まれるのはいやだと条件をだされた。そのため、ビルの屋上で撮ることにした。それでも日本のタレントだったらなかなかまわりが許しくれないような場所だった。

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2004.12.21

ベトナムのモデル

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ちょっとわけあり、かつてデジタルで撮った、ベトナムの写真を選んでいる。そこで、僕が一番ベトナムで気に入っているベトナムのモデルの写真がでてきた。名前はヴァン・クインちゃん16歳。(当時現在18歳)
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彼女は、まだ高校生モデルだ。あまりプロ意識があるとは思えない。かつてベトナムのモデルは、ミスコンテスト出身者がほとんどだった。だから美しいだけではなく、勉強もできるし、家柄もよかったりした。ところが、ニューウエーブ、ヴァンちゃんは、しっかり撮影に6時間遅れてきた。しかも、ホーチミン市からチャウドックまで、約バスで5時間かかるロケ地にゆくてはずだった。朝6時集合、7時になってもやってこない。電話してもつながらない。もちろん携帯の番号にもかけている。コーディネイターのチュンさんに、段取りの悪さをクレームする。二人のモデルを撮るつもりだったので一人だけ乗せて、出発。チュンさんには彼女に変わるモデルを探して連れてくる段取りを取ってもらう。10時ごろ、新しいモデルを見つけたと連絡が来たやさき、ヴァンちゃんと連絡が取れたという。寝坊。けろっとしているという。チュンさんはかんかんに怒っているが、柳に風。チュンさんは新しく段取りしたモデルにしたいというが、ヴァンちゃんは僕がファッション誌からみつけて気に入っていたので、彼女をやはりつれてきて欲しいと伝える。しぶしぶチュンさんは、段取りした新しいモデルをキャンセルして、夕方チャウドックに連れてきた。
あってもあやまるでもない。でも可愛くて憎めない。にこにこしている。彼女は携帯のメールを時間さえあればやっている。何をやってるのときくと、今チャウドクに来ていると友達に送ったという。明日の夜の約束。レストランで大勢で食事。あーまるで日本の子といっしょだ。チュンさんは、こういうモデルは使いたくないという。でも、いいんだよ。だからかわいいんだと、僕は言った。ヴェトナムのモデルはいい子が多いので、新人類(ふるいことば)は、新鮮だった。
でも感覚も、スタイルもよく、日本だったら人気がでるな、いやいやベトナムでもかなり人気らしいが、こんな調子だからいつもでモデルをやっているかわからない。もうやめてしまったろうか。
ちなみに彼女は、友達の紹介でモデルになったという。将来はの夢は。「うーんわからない」「今日のことしかかんがえていない」とは、さてさて、といったところか。


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2004.11.22

明日からベトナム 村上恵梨

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明日の朝、6時集合、午前中のベトナム航空で、ホーチミンに行く。今回は久しぶりにベトナムで女性を撮る。ユニチカの2年連続キャンペンガール、村上恵梨だ。この2年間、ずっと北ベトナムばかり、久しぶりのホーチミンだ。とても楽しみだ。写真集とDVD、両方とも僕が撮影する。というか、DVDとスチールを一体化して撮ってみたいと思っている。まだ明日の準備が終わっていない。ブログをやっているひまなんかないのに、ついつい。気分転換。上の写真はフィッティングに、スタイリストの事務所に来た、村上嬢。

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2004.11.12

デジで本

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デジで本(デジタルカメラで作る本格的な写真集)という、HOW TO 本の表紙ができました。
まだ、これは完成系ではありません。手直しが入ると思います。この本の、プログもつくります。発売は12月中旬の予定です。

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