「M7.3」 子供たちのみたもの4
「M7.3」 子供たちのみたもの 阪神大震災10年
6歳ー16歳 高校一年生 神戸市垂水区
本の中で使用した写真ではない写真を紹介する。
「M7.3」 子供たちのみたもののTop
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「M7.3」 子供たちのみたもの 阪神大震災10年
6歳ー16歳 高校一年生 神戸市垂水区
本の中で使用した写真ではない写真を紹介する。
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「M7.3子供たちがみたもの」
宙(おおぞら)出版より、2005年1月17日発売
定価:1400円 写真:横木安良夫 宙出版編
インタビューした、10代の男女のポートレイトの紹介 30人のポートレイトとインタビュー
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M7.3 子供たちの見たもの TOP 横木安良夫写真 宙出版 編
2005年1月17日発売
ISBN4-7767-9120-X 定価:1400円
宙(おおぞら)出版 03-5228-4060
インタビュー 宗田洋子 中江陽奈 装丁 名和田耕平
DTP 中里純子 編集 大垣陽子
「ただ生きるのが、楽しかった」
阪神淡路大震災から10年
神戸で生まれ育った10代は今
何を思って当時を振り返るののか?
小さな体で本能的に感じとった衝撃を
インタビュー取材にて再生、収録
「たくちゃんもう、学校こないんだよ」
「どこ行ったの?」
「転校はしてないよ」
「どこにいるねん?」
「たくちゃん死んじゃったよ」って。
今考えたら、話しているときにに気付けば良かった。
‥‥中略‥‥
ものごとを考えられる年頃になって思ったのは、
自分の好きな子が亡くなって
それだけでつらいのに、
その子の口から「死んじゃったんだよ」って
言わせてしまったこと。
後悔っていうか、もし今、
私の好きな人が亡くなって、
今の自分の口から死んじゃったって言うのは、
ものすごく、きつい‥‥。(7歳―――17歳 高校2年女)
―――本文より
僕は、この本の写真の部分を担当した。表紙の写真は10年前に僕が撮った写真だ。
今日、本の見本ができた。
静かな写真と、当時4歳から8歳、今14歳から18歳の少年少女のインタビュー、
そして今の彼らのポートレイト写真がたんたんと構成してある。
おりしもスマトラ沖大地震とその津波被害の今。それは近代の歴史上、最悪の天災。
そんなときに、この本がでた。
今、生きている、彼らは阪神大震災のときには、まだ何もわからない年齢だった。その彼らはここで記憶を手繰り寄せ、言葉を発した。
僕はこの本の、10年前と今の写真、そして最初の切り口、コンセプトにかかわった。
僕はインタビューに答えてくれた彼らのポートレイトを撮った。
しかしながら僕は、彼らの話は聞いていない。インタビュー中は席をはずしていたのだ。
それは、この本ができたとき、彼らのインタビューを初めて読み、彼らの言葉が僕の写真とどんなふうに共振するのかを知る、最初の読者でありたかったからだ。
今日僕は初めてこの本を読んだ。
若い彼らの素直なことば。とりたてて悲惨な話はない。
でも、写真を眺め、言葉を読んでいると、不思議な感慨を持った。
彼らの前向きなことば。あかるさ。それは、彼らが「生きた側」だからだ。
彼らがあの震災にあい、10年生きたからこそ、明るい言葉が多かったのだ。
一つ間違えれば、彼らひとりひとりの10年後は、なかった。
それは今回の津波で亡くなった多くの人々の、逆の意味の鎮魂なのだと思えた。
彼らは、生きていたからこそ、10才年を重ねられたのだ。
それが、この本の最初の読者である僕の、素直な感想だ。
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Canon20D EF50mmF1.4 Iso200 ノーファインダー撮影 三宮駅前 二点の写真とも、本のなかでは使用していないアザーカットだ。
Canon20D Tamron28-75f2.8 神戸アイランド
昨日、2005年、1月17日に宙(おおぞら)出版から出版される、M7.3阪神大震災10年 子供たちのみたものの、印刷の立会いをした。写真は50ページぐらいだし、版型も四六判と小さく、全部を見たわけではないので、あっけなく終わった。印刷の立会いは、写真集の場合はやることが多い。アードディレクター、編集者に任せてしまうことも多いが、やはり直接立ち会って、最後にすられる瞬間をみるのはためになる。
印刷は、特に写真集や書籍のような、大量に印刷されるものは、校正刷りと言って、デジタルやフィルムから版をつくり、校正刷りをだす。そこで初めて、データやフィルムや印画紙の情報が、最終的な紙(違う紙の場合もある)に刷られる。たいてい、二回でるのだが、それをデザイナーや編集が、全体的な調子、肌の調子などを、不具合を書き込む。今はコンピューターで調整しているが、かつては版を人間が手仕事で調整していた。
構成され、OKがでたら(それでも不満な点は最終的な印刷でちょうせいする)、本機での印刷だ。それまでの校正機とは違う機械、違う技術者がやることになる。大手になると外注で、校正ずりが唯一の共通の手がかりだ。
最終的な、印刷に立ち会うのは、校正がいくらよくても、本番がそのとおりに再現さるるとは限らないからだ。
そして印刷会社は、インクをあまりつかいたがらない。コストというより、インクをたっぷり使って印刷するとそれだけ
乾くの時間がかかるからだ。印刷はぎりぎりのスケジュールで進行している。
印刷に立ち会うのは、こちら側の意図を、最終的な技術者に伝える、最後の場であり、ある意味一番重要な場面だからだ。
本の見本が、正月あけにはできる。その時もう少し詳しく紹介する。
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流行通信、2005年2月号、500号記念号で、僕が撮った写真が、小さいけど紹介されている。1977年1月撮影
1975年9月にフリーになり、翌年の春、週刊プレイボーイに載った、当時の女性ロックグループ、ランナウエーズの写真を見て、助手の頃、一緒にインドに行った、横尾忠則さんから、着物のカレンダーをやらないかと、誘われた。横尾さんが、三宅一生のテキスタイルデザインをやった時だった。
Canon F1 MF FD24mmF2.8 kodachrom2 ISO25 サンパック3400正確に言えばそれが最初の僕が撮ったファッション写真だ。その写真やグラビアで撮ったタレントの写真を携え、渋谷にあった流行通信の編集部に1976年の暮れ売り込みにいった。編集長?だった林さんがすぐに気にいってくれて、翌月号から使ってくれた。その最初の写真6pのなかのいちまいが三宅一生さんの服を撮った、一番上の写真だ。
当時僕は、ファッションならば、日中シンクロだと思っていた。そのちょっとした非日常性と、服がはっきり映ることの両立だった。特別新しい手法ではないが、動きのあるものをブレないように撮るにはうってつけだった。しかし難点は、ちいさなストロボ、それも60分の1秒しかシンクロのついていない35mmカメラで撮るには朝や夕方しか撮れないことだ。500分の1秒までシンクロできる八セルブラッドは、大掛かりになる。なにしろ僕はCanonF1に、サンパックの積層ストロボをつけて、絞りもいいところ、f5.6ぐらいでオートで撮っていた。
流行通信の写真も、小夜子のカレンダーの写真も同じ手法だ。
昼間の日中シンクロには、バルカーのような大型ストロボが必要だ。初めての流行通信の撮影の時、雑誌は一日で4カットとる必要があり、しかたなく発電機とバルカーを持ち込み撮影した。背景は少し暗くなったが、あんまり僕は気に入らなかった。それより、ケイ便な35mmで撮った写真がやはり好みだった。
その頃のテクニックをおもいだしてみると、絞りはF4、レンズは24mmF2.8、コダクローム2、ISO25だったような気がする。サンパックのような携帯ストロボ、ガイドナンバーも25ぐらいだったろうか、積層でチャージタイム0で連射できた。ただコンパクトストロボの光は、青く、それに朝や夕方の撮影のため、CC10Rフィルターをかけていた。そのうえから、さらにシルクの黒いストッキング(紗)をかけた。そのころの僕は、なんでもかんでも黒いごくうすシルクのストッキングをかけて、取ることが多かった。それは、レンズの切れのよすぎがすきではなく、画像のトーンをそろえるためだった。しかしそのやりかた、広告をするようになって、紗をつかうことをやめた。雑誌と違い、広告では印刷コントロールでどうにでもなることを知ったからだ。
その後流行通信は、何年かやり、当時はファッション写真ばかり撮っていたが、しだいに広告に移り、そしてその後、ふたたびタレントの写真を多く撮るようになって、ファッションカメラマンとは言えなくなっていった。
僕は、Nude写真と、ファッション写真が好きだ。ファッション写真とはNUDE写真も含まれていると思っている。ファッションは裸の肉体を包み込むもの。どちらかにかたよってもつまらないからだ。それに写真が逃れることのできない「時代性」、「肉体という普遍性」、「モデル個人という一回性(存在としての個人)」が、一番写真にとってダイナミックな場所だからだ。
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ベトナムの映画監督、レ・ホアン監督の「ダンシングガール」に出ていた、女優。ちょっと名前紛失。そのうち見つける。この映画は、ミ・ズエンもでていた。
モデルや女優を撮るとき、演出くさくならないように気をつけている。カメラの前というより、「視線の前」の瞬間を捕らえたいと思っている。ちょっとした偶然を取り入れることが、リアルさを呼び込む。
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ベトナム、ホーチミン市郊外にあるゴルフ場。Tシャツで行ったら、襟のあるシャツを買わされた。
日本カメラ1月号に「私はコレで撮る!」という特集がある。そこに僕が載っています。NikonD70にタムロンの28-75mmF2.8をつけて、来年はCanon20Dで撮ると、周囲に目配りをしたことを言っています。でも実際本当のことだからいいか。実際そうやって撮っている。日本カメラ編集長が変わって、ちょっと雰囲気が変わった。手で持った、手触りも違う。ちょっとノリが軽快になったようだ。
渡部さとる氏の、「東京風景写真」が掲載されている。彼の本でみたことのある、4x5を2枚使った印象的な作品だ。カラー14ページの特集。こんなところも、ちょっと日本カメラ変わったのかなと思わせる。新しい編集長は、このまま思ったとおりの編集方針を貫いてほしい。
去年の夏開催した「サイゴンの昼さがり94-03」の写真展にきてくれて、カンボジアの写真を撮り続けている遠藤俊介氏が、2月号のアサヒカメラに3ページ掲載されるときメールがあった。そのとき少しばかりアドバイスをしたことが、役にたってくれたかなと思うとうれしい。彼はカンボジアについてのさまざまな活動もしている。
20日には、「デジで本」が発売される。写真集のつくりかたばかりではなく、写真の撮り方も書いてあるので読んでください。
さて、月初めにベトナムに行き、ユニチカのキャンペンガール、村上恵梨嬢を撮ったことを書いたが、そのときビデオもまわした。それが今日大筋、編集が終わり見た。機材は普通の家庭用のデジタルビデオだ。編集は、超プロフェッショナルの、K氏とW氏に頼んだ。スチール写真も挿入された、かっこいい作品にしあがっている。その編集をみていて、デジタルの進歩、編集技術の進歩、それが普通のパソコンでできる時代になり、イヤ本当になんでもできる、音楽だって、つくれちゃう‥‥。そう思うとなんて、写真てシンプルなメディアだなと思う。映画やビデオ音楽は、空間と時間の芸術だ。そこには、多種多様な技術が挿入されている。かつては本格的な編集室でやっていた作業が、簡単にできる。それでも、DVDはまだまだ情報量が少なく、進歩の余地はまだまだある。
それに引き換えなんて写真はアナログ、アコースティックなんだろう。デジタルだなんだかんだいっても、さして銀塩とは違いがあるようには思えない。モノクロの暗室技術と、デジタルの作業に根本的な作業の差はない。メカニックにかんしても、ビデオ、テレビ、映画業界のように、プロフェッショナルな技術は、それほどあるとは思えない。だからこそ写真が面白いのだろう。なんでもできて、かえってますます複雑になる、映像業界。でもそれから比べると、写真てなんてシンプルなんだと思ってしまう。
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新風舎のインタビューです
2004年12月 執筆前夜
横木 安良夫 さんインタビュー (全4回)
取材・文/小山田桐子 撮影/新城孝
第1回
ゼロからひとつの世界を作り上げるクリエイターの仕事。ゼロが1になる瞬間ともいえる、一文字目を書き付けるその時に至るまで、プロは何を考え、何をしているのか。プロの創作の秘密に迫るインタビュー、今回はカメラマンとして活躍されながら、話題のノンフィクション「ロバート・キャパ 最期の日」を刊行するなど、精力的に執筆活動も展開している横木安良夫さんにご登場いただいた。第1回ではカメラマンを志すまでについてうかがう。
ユーミンの「オリーブ」など様々なミュージシャンのレコードジャケットを手がけるなど様々な分野の第一線で活躍を続けるカメラマン、横木安良夫さん。 03年、横木さんは「熱を食む、裸の果実」で本格的な作家デビューを果たした。写真という言葉を用いないメディアで長らく活躍していた横木さんが、小説を書こうと思ったのはなぜなのか。
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一ノ瀬泰造のお母さん、信子さんから新作、「一ノ瀬泰造戦場より愛を込めて!」が届いた。紫色の横長の分厚いコンパクトな写真集。泰造がカンボジアで行方不明になった1977年、日本の外務省からフィルムが梱包された荷物が届いた。白黒フィルム376本、カラーフィルム45本、キックボクシングを撮った6本、使用残のカラーフィルム54本。
――私はこの時の感激を一生忘れないだろう。当時の私の日記をみると、この日から3日間空白になっている。何しろ、それからというものはネガを光に透かしてながめて終日過ごしているのだから。――(一ノ瀬信子)
まだそのときは、泰造の死を信子さんは確認していない。そのときの興奮が、いっさつにまとまっているのが本書だ。モノクロのコンタクトプリンと再現した写真と、あらたに発表する、その隙間に存在していた多くの写真。
キャパのコンタクトプリントが興味深かったように、やはり一ノ瀬のコンタクトも、一枚の写真とは違ったメッセージがある。写真とはなんと不思議なものなのだろう。一ノ瀬の全部のコンタクトプリントをみてみたくなった。もちろん一ノ瀬は戦争カメラマンだけれども、戦闘ではない、平和の時間の一ノ瀬の写真もやはり魅力的だ。1973年3月3日のサイゴン動物園での白いアオザイ姿の女学生たちのスナップ。たしかカラーで撮った、ずぶぬれの、そして下着の透けた写真を一ノ瀬は撮っている。僕はあの写真が大好きだった。そして今回その前後の写真が発表されている。そして恋人だろうか、レ・フォンを撮った幾つかの写真。みているとなんか胸がジンとしてしまう。今彼女はどこにいるのだろうか。
サイゴン、戦争博物館に、ベトナム戦争で活躍した多くカメラマンの作品とポートレイトが展示してある。そこにひときは目立つ、銃弾の貫通したニコンFの写真がある。それこそ一ノ瀬泰造のカメラだ。本当に不思議だ。いとも美しくニコンはひしゃげている。そしてこのときは、一ノ瀬は死ななかった。
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キャパの写真を見ていて、いつも感じることだが、そのアングルの低さだ。それはたぶんキャパの写真の多くが、ローライフレックスを使用していて、そのウエストレベルのアングルが基本だからだろう。キャパは子供を撮るときは当然として、少しでも余裕のあるときは、腰のアングルだ。ローライのような二眼レフカメラの、ウエストレベルアングルは自然でも、35mmカメラは通常、アイレベル(立った状態の目の高さ)になる。撮影中のキャパや、残された記事には、キャパがすばやく、片ひざをつくアングルになり、安定した状態で撮影することが多いと書いてある。それは、あたかも、銃を撃つときの、ニーイング、と同じだ。戦場カメラマンであるキャパは、銃を撃つそのスタイルを当然のように受け入れていたのだろうか。それとも戦場では呆然と立って、構えることは危険だから、普段から片膝で構えるのが普通なのだろうか。キャパはたいてい右ひざをついて構える。だからキャパのズボンは右のほうが膝がでていてよれている。キャパの写真がどこか、対象と同じ位置に立っているように見えるのは、キャパのアングルが低いせいだろう。同じスナップの名手ブレッソンは、自分の目の位置、アイレベルから多くの傑作を作り出していた。
カメラのアングルはそれぞれ意味がある。ように見える。35mmカメラを使えばたいてい、アイレベルだからその身長に規定される。背の高いカメラマンと低いカメラマンでは捕らえる世界が違う。車椅子のカメラマン、短躯、普通、長身、巨人。それぞれ捕らえる、世界の関係性が違っている。昔ある著名なカメラマンが、高さ10センチもあるロンドンブーツが流行し、それをはいたとき世界が変わったといった。それほどアングルとは、カメラマンの一つの思想でもあるのだ。政治家だったら見上げるように撮る。そうすると偉い人、信用に足るように写るからだ。女性を可愛く撮るには、上から撮る。女性はカメラを見上げるようになる。目は大きく開き、かわいらしく従順に写る。女性を撮るばあいファッション写真は下から撮ることが多い。女性が世界を支配するよう、フェミニズムな感じがする。子供撮ればわかりやすが、大人からの目、子供の目の位置、子供より低いアングル。そのどれもが同じ子供でも、違って捕らえることができる。
キャパが、低いアングルをいつもえらんでいるのは、きっと無意識ではないのだろう。キャパのコンタクトプリント、それも最後のモノクロの1ロールを見ると、なぜわざわざ低いアングルから撮ったのかの、わからいない写真がある。アイレベルで撮ってもかわらないと思えるのに、きっと何かしらの意図があるのだろう。いや、きっとキャパは通常は、片膝をついた、ウエストレベルのアングルが、ごく普通のアングルなのだろう。何も考えなければ、すぐに片膝ついてとるのかもしれない。
同じ文章をキャパのBlogにも書いた。
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写真とインタビュー 写真:横木安良夫
今日は在日の集まり。R子は、司会進行をした。震災当時は7歳だった。チマチョゴリは年に数回着るという。これは母親の着ていたもの。
16歳から19歳の約30人の男女を撮影している。
「M7.3」~子供たちが見たもの 宙出版 1月15日発売予定
「M7.3子供たちが見たもの」
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写真:横木安良夫 宙出版 2005年1月15日発売予定
1995年1月 神戸長田地区
2004年12月 同じ場所
新潟中越地震の被害がなまなましい今、来年1月17日で阪神淡路大震災被災から10年になる。僕は10年まえ、数日後の神戸に取材に行った。その後、神戸救済のポスター制作にもかかわった。震災については多くの本が出版されて、多くのことが語り継がれている。WEB上にもたくさんのことがら、書き込まれている。
僕の娘は今、5歳、今月には6歳になるが、あの時その幼い年齢でいったい震災をどうかんじていたのだろうか。かつては客観視することも、言葉もなかったかもしれないが、今ハイティーンになって、人生の新たな出発点に立ち、どんなふうに感じているのだろうか。そのインタビューと、ポートレイトの写真と文の本が、1月15日、宙(おおぞら)出版から発売される。写真は僕が撮っている。大人たちが見たものと違った「阪神大震災」の記録だ。
タイトル「M7.3~子供たちのみたもの」
「M7.3子供たちが見たもの」
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1925年建設された、サイゴン(現在のホーチミン市)の歴史的なホテル、マジェスティクホテルは、例えば日本人で言えば開高拳や、写真家の沢田教一など多くのジャーナリストや作家が宿泊し、屋上のバーに集った有名なホテルだ。
僕が初めてベトナムを訪れた1994年は改修中で泊まることができなかったが、翌年1995年には念願かなって宿泊した。館内で何度も撮影をしているが、年々、サイゴン川の大型船の往来や(特に深夜)、バイクや車の騒音で、何日も連泊すると、うるさくて眠れない状態が続き、最近は宿泊することがなくなっていた。
ところが、この有名なマジェスティクホテルに、ロバート・キャパも泊まっていたという事実を僕は突き止めた。
1954年4月、キャパは毎日新聞社、カメラ毎日創刊の招待イベントとして日本に滞在していた。日本各地を撮影するといったかなり自由な、そして歓待された旅だった。それは約6週間の充実した撮影旅行の予定だった。
ところが、旅の半ばの4月28日、アメリカのグラフ雑誌ライフより、同じ東洋の戦場、フランス植民地だったベトナムの取材を急遽依頼された。キャパは悩む。しかし結局インドシナ、ベトナムに5月1日旅立つことになる。
キャパはまずバンコクに向かう。この辺のくわしいことは、「ロバート・キャパ最期の日」を読んでもらうとして、僕はそれまでの定説だった、キャパの伝記に書かれている、東京からバンコクに向かい、そこでベトナム入国のビザを取るために1週間以上もバンコクで足止めをくらったと書いてあることにつねづね疑問を感じていた。バンコクから直接ハノイに、ディエンビエンフー陥落の翌日、5月9日にハノイに到着したと書かれているのだ。
たしかにキャパは、バンコクのオリエンタルホテルから母ユリアに手紙を書いている。そこから9日、ハノイに到着して、マグナムに連絡するまでの約10日間、いったいキャパは何をしていたのだろうかという疑問だった。ベトナム北部デルタ地帯や、ディエンビエンフーは戦闘状態だとしても、タイのバンコクからフランス内独立国カンボジア、そしてサイゴンまでならば陸路だって移動可能だ。それなのに一週間以上も、バンコクにキャパが滞在した根拠はなんなのだろうか。日本の滞在中のイベント満載のハードのスケジュールに疲れて、バンコクでのんびりとビザが発行されるのを待っていたとでもいうのだろうか。この一週間を僕はずっと幻のバンコク滞在と位置づけていた。どうかんがえたってミステリーだ。
しかしある日それが氷解した。「ロバート・キャパ最期の日」のゲラ校正をしているとき、インドシナにおける、キャパの約40本のコンタクトプリントを見る機会があったのだ。そしてそこに、一葉の特別なコンタクトプリントをみつけた。それは、絶対にハノイでは撮ることのできない景色、サイゴンを知っている人間だったら容易に発見することができる景色だ。そのコンタクトの約30コマの写真のなかに、あきらかにサイゴン川を高いビルの位置から撮影している写真があったからだ。さらにくわしくみると、ドンコイ通り(カティナ通り)から、遠くにコンチネンタルホテルが写っている写真を発見した。サイゴン川を撮るアングルには、マジェスティクホテルがある。ロバート・キャパは室内でも撮影している。床のタイルは、現在はまったく失われているが、かつてはマジェスティックの床の模様だ。
続きは、ロバート・キャパ最期の日、ブログへ
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今、三島にいる。明日(正確には今日だ)の朝、こだまで名古屋までゆき、それからのぞみで新神戸に行く。これは1月17日までに、阪神淡路大震災の本を出版する、その取材のためだ。来年で震災10年、僕がそのときに撮った写真と、そのときまだ小学生になったばかりの子供たちは、今はやハイティーンになっている。今の彼らというより、今思い出してみて、あのとき震災とは彼らにとってどういうものだったのかを、インタビューしてみる。僕は、かつての写真と、今のハイティーンになった彼らのポートレイトを撮るつもり。まだその本のタイトルは決まっていないけれど、しかもまったく時間のない仕事。
来年1月には、震災10年をはさんで、ライブ写真展をするつもりだ。それは僕一人ではなく、8人ぐらいの神戸のカメラマンと一緒に神戸の、特に永田周辺の人々の写真を撮り、その写真を街にはりつけ、モデルになってくれたひとたちにプリントするつもりだ。10年たった今、いったい彼らはどんな表情をしているだろうか。おりしも新潟中部地震、地震はいつでも、どこにでも起こる。
「M7.3子供たちが見たもの」
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デジで本(デジタルカメラで作る本格的な写真集)という、HOW TO 本の表紙ができました。
まだ、これは完成系ではありません。手直しが入ると思います。この本の、プログもつくります。発売は12月中旬の予定です。
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このブログの、「The Eye forget 」とは、ロバート・キャパが、1954年4月、日本に滞在したおり、日本は「ピクトリアル・パラダイスだ」(写真の天国)と叫び、「TheEyeForget」という、タイトルの写真集をつくりたいと言ったことから、取っている。
残念ながらキャパは、日本での取材の途中仏領インドシナ(現在のベトナム)に行き、1954年(昭和29年)5月25日、フランス軍に従軍して、ベトナム北部、ハノイ南東80キロ、ナムディンからタイビンに向かい、ドアイタンの要塞から、タンネ(現在のキエンスオン)の前哨基地に向かう途中、左に曲がった堤防にのぼり、地雷を踏んで死んでしまった。
結局、日本での写真集、「TheEyeForget」は作られることはなかった。
このプログは、いままであった横木安良夫のサイトのDigtalDaybyDayの続きとして移行する。
ただ、今までよりは少し内容を、考えて書くようにする。今のところコラムのようなものにしようと思っている。
「ロバート・キャパ最期の日」(東京書籍)について、のブログは別に作る。「ロバート・キャパ最期の日ブログ」
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