2005.03.20

横木安良夫Blogトピクス

今までのBLOGからトピックス
3月3日から12日まで、アメリカウエストコースとに行った。
超広角レンズのゆがみを取る方法?
横木安良夫 ベトナム撮影ツアー募集今年に6月に、ベトナム撮影ツアーを計画している。
ロバート・キャパIN SAIGONリチャードウイーランの伝記では、キャパは、1954年4月、日本滞在後、バンコクからハノイに行っていると書かれているが、実際はサイゴンから、ベトナムに入っている。
■「ロバート・キャパ最期の日」のBLOG
キャパ・イン・カラー写真展開催中 その1はここをクリック
●コダクロームについてのblog「僕のコダクローム」ポールサイモン
ロバート・キャパ写真展「ロバート・キャパ・イン・カラー」 その1に行く
●「僕のコダクローム 真行寺君枝」

●「僕のコダクローム 沢田研二」
「M7.3子供たちがみたもの」TOP 阪神大震災から10年、当時まだ幼く何も語らなかった彼等は今十代になり、震災について何を重いっているのだろうか。その本についてのブログ。
デジタルで撮れない大型カメラの世界 その1

2mフォトグラファー、小堀正一
ポラロイド195ランドカメラとネガつきポラロイドモノクロフィルムType665
怪獣映画「ゴジラ誕生50年だったな」
流行通信
40年以上も前のクリスマス
ベトナムのモデル1
ベトナムの女優写真
ベトナムNo.1の歌手、ミイ
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ベトナムのモデル2
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デジタルカメラで作る、本格的な写真集の作り方「デジで本」

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2005.02.22

キャパとコダクローム他

今までのBLOGからトピックス

ロバート・キャパIN SAIGON伝記では、キャパは、日本滞在後、バンコクからハノイに行っているが、実際はサイゴンから、ベトナムに入っている。
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2005.02.20

キャパ写真展、最終日 キャパ・イン・カラーその5

キャパ・イン・カラー写真展開催中 その1はここをクリック
●コダクロームについてのblog「僕のコダクローム」
日本橋三越でのキャパ・イン・カラーの写真展を、近くまで行く用件があり、再び見に行った。
日曜日、最終日とあり、会場は、超満員。写真を見るというより、人の背を見に行ったようなものだ。
デパートだからしかたがないとしても、6日間は短すぎる。まあ、ロバート・キャパの写真をこんなに多くの人が見たいと思っているのはなぜだろう。今日は、6時まで、5時半入場終了だそうだ。
キャパのカラー写真は新鮮だ。久しぶりに新鮮な写真展を見た。
50年前のカラー写真が、現代のものとして発表されたことが、新鮮なのだろうか。
今までのキャパとは違う面を見ることができる。キャパの写真をよく知らなかった人でも楽しめたと思う。
ある意味デジタル時代の恩恵だ。かつてだったら、ポジの雰囲気に忠実なプリントは難しかった。それが、デジタル時代になり、コダクロームの発色がかなり忠実に再現されている。
残念ながら、図版に、逆版写真があり、販売が2日目以降中止になり、手にいれられなかった人が多かったろう。
追って発売するようだ。マグナムサイドとしては、大変だったとおもうが、これだけの客が入る,ロバート・キャパは、やはり貴重な存在だ。
デパートではなく、きちんとした美術館で見せてもらいものだ。そのうちきっと東京以外でも見ることができるだろう。見る価値のある写真展だった。

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2005.02.16

キャパ・イン・カラー写真展開催中 その3

その1へ
キャパ・イン・カラーの写真展初日、神保町にある、マグナムのオフィスで、内輪のパーティが開かれた。ICPの館長ハーツ・ホーン氏、ディレクター、マーク・ルベル氏、写真家の細江さん、田沼さん、唯一の日本人マグナム会員の、久保田博氏がいた。三越の会場で、HARUKI、柊(この日のブログがある)、そして「ロバート・キャパ最期の日」の表4にある、キャパの書いた、カメラのイラスト、の持ち主である、編集者の小林秋生氏と、待ち合わせていた。小林氏には、ずっとキャパのサインと、50年前にキャパが訪れた、新宿ニコー(アルタ)裏にあった、みちくさという店を、日本の建築写真の巨匠、渡辺義雄先生が撮った写真を返却するのも目的だった。
capacamerarakugakihyou4
「ロバート・キャパ最期の日」
その後、我々4人で、マグナムでの内輪のパーティに乱入した。フロアーには、約30人ぐらい、ワインと、食べ物寿司が潤沢にならべてあった。
実は、昼食が軽くて、僕はすっかり腹が減っていた。いくらなんでも、僕一人ならいいが、3人も引き連れて、よそ様のパーティに行き、がつがつ食うのははばかれたので、僕等は、神保町で、牛丼をたべた。マグナムのパーティの食べ物がたくさんあったので、ハルキたちにいやみを言われた。でも、がつがつ食うのはよくないので、これでよいのだということになる。なんだかんだと、9時半ごろまでいて、新宿の、小林さんのおばあさんがやっていた、みちくさという文壇バーに行くことにした。今や客は60代、場所も西口に変わり、知らなければちょっと入りずらい雰囲気。
店は11:30まで、12時ぎりぎりまでいて、皆と別れ、ハルキと恵比寿に、山手線でゆく。居酒屋まで、なんやかやと3時までの飲んだ。
今日の朝、ブログを書いていていたらタカザワケンジ氏のトラックバックがあった。彼も昨日、キャパの展覧会にきていたという。
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ロバート・キャパ写真展開催中 その2

初日の、ロバート・キャパ写真展「Capa in Color」を見てきた。
日本橋三越は、昔母が好きでよく行ったものだ。三越の思いでは、エレベーターだった。40年ぐらいまえのことだろう。品のいい、エレベーターガールがいて、クランクのようなものを制御していた。
それは、ものものしく、まるで牢屋のような、ケージになっていた。
僕は、エレベーターに乗るのが楽しみでもあり、スリルだった。
それは、エレベーターに乗ると、階に停止する瞬間、体が持ち上がるような、浮き上がるような、そして胸がむかむかする、不思議な体験をすることだった。
三越のエレベーターの特徴(古かったのかな)だった。きっと、停止するスピードの調整が、今のエレベーターよりスムーズではなかったのだと思う。
そして三越大食堂でお子様ランチを食べるのが最高のイベントだった。

そんな三越で、ロバート・キャパの写真展が開催されている。
昨日のブログにも書いたが、世界で最初のカラーフィルム、コダクロームで、キャパが撮ったものだ。
会場は平日だというのに、なかり混みあい、ロバート・キャパの人気を再確認させられた。
そして、会場に並べらカラー写真を見て、僕が想像していた以上に、50年以上、いや60年以上前のカラー写真は、素晴らしかった。ロバート・キャパ本人は、カラーが苦手だったといいながら、それはきっと露出などが難しかったからだとおもうが、どれもかなりしっかりとしたものだった。ロバート・キャパの名作は、すべてモノクロだが、キャパの撮影スタイルは決して、モノクロだけではないような気がした。
キャパの写真はカラーでも同じようにキャパの写真だった。いや、戦時の写真でも、モノクロとは違う世界が写っている。それはきっとキャパが、写真のなかに美的なもの構図的なものを持ち込む気がなかったからだと思う。
多くのキャパの写真(いわゆるキャパの傑作と呼ばれるものを除く)と同じように、その撮り方は、かなり直感的だ。目の前に存在する、ほんのちょっとの好奇心、ほんのちょっと違和感、ほんのちょっとの魅力を感じなら、キャパはシャッターを切っている。撮っているときの気持を想像すると、とてもリラックスしている。
だからこそ、さまざまなものが、ロバート・キャパの前に、飛び込んでくる。
僕はその撮影スタイルが、その間合いの撮り方が、好きだ。
キャパの時代、カラー写真は、まだニュースの速報性のシステムには入っていなかった。
キャパがカラーを撮ったのも、ライフのような速報性を求められる雑誌の依頼ではなく、今でいえば女性誌、一般誌のような、レディース・ホーム・ジャーナル誌のために撮っている。
キャパが撮った多くのカラー写真は、その後あまり評価されることなく、保管されていたが、モノクロの世界ではないカラーの世界で捕らえた、「世界」は、きっと本当は、キャパには世界がこういう風に見えていたんだ、と思えてしまうし、きっと、モノクロよりこちらのほうが、本当だったのだと思う。
この写真展は、単なる企画展というより、世界をジャーナリスティックな目で、初めてカラーで捉えた、写真家の目だいえる。そして、モノクロになった戦争の写真は、過去のできごとのように感じらるが、カラーは、今の時代、今行われてる戦争と、そして戦場で彼等が見る世界は、モノクロームではなく、カラーで眼前に広がっているのだと思えた。
写真に興味がある人は、是非見てもらい。戦争中の写真ばかりではなく、へミングウエー親子の写真、地雷を踏んで死ぬ直前に滞在した、日本での写真、インドシナ、とそれまでモノクロで紹介されていたものと違う、世界がひろがっていて、さまざまなことを考えさせられる。
コダクロームフィルムの発色のよさ。美しい空の色。カラーの美しさに、戦争という「悲惨さ」は、こんな美しい空のしたで行われているのだと思うと、感慨ぶかい。
それは、かつて僕が、初めてサイパンに行ったとき、その空の美しさ、海の美しさ、砂浜の美しさをまのあたりにして、その海に多くの死体が打ち上げられていたと想像したときに、モノクロ写真に写る、重重しい悲惨さではなく、現実はもっと美しい光景のなかに、悲劇は存在するのだと思った。
キャパのカラー写真を見ていると、そんなことを感じた。カラー写真は、美しい。きっとジャーナリストたちは、このカラー写真の美しさに抵抗感があるのだと思う。
カラーで撮ると、戦争さえもハッピーに見える。現実とは、時間と音と、臭いと、物理的な存在(自分の生命を脅かされる)を除いて、映像で表面をだけを見ると、多くの悲惨なものが、美しく見えてしまうという作用がある。
キューブリックの「博士の異常な愛情」のラストシーン、次々と爆発する、原爆、水爆の場面。あの光景は、恐ろしさと同時に、人間の感覚のどこかに、美しさを感じる部分があることを発見する。そしてジレンマにおちいる。
それは、9.11の、ツインタワーが崩れる瞬間の映像。純粋に映像だけで遠くからみると、あの破壊された瞬間は、絶対に美しくみえてしまう。(テレビは、アップすることを拒否することによって悲惨さを、見る側から奪ってしまった)
それは、人間のDNAに組み込まれた感覚だ。
物事は、表面だけをみても本質はわからない。なにより、そのなかから、本質を読み取ろうとするイマジネーションが一番大切だ。表面的に悲惨より、表面的には平和に見えること、そこからさまざまなことを、想像させる写真が、きっと真に写真の力だと思う。
そういう意味で、報道写真家、ロバート・キャパが撮った、そして見た、カラーの世界は、ジャーナリストの世界に対するアプローチも考えさせられる。
今回のすべてのカラープリントは、デジタルプリントだ。かつて、カラーポジ写真をプリントすることは、かなり難しかった。特にコダクロームのような、特別なフィルムからのプリントは、再現性がそこなわれた。しかしデジタルプリントは
コダクロームをそのまま、読み取り、かなり再現できていると思う。
日本で撮った写真のなかに数点、逆版(左右が逆になる)があり、それが問題になっているようだが、そんな枝葉末節なことは関係なく、素晴らしい写真展なので、見る価値があるし、考えさせられると思う。
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●コダクロームについてのblog「僕のコダクローム」

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2005.02.09

デジタルでは撮れない大型カメラの世界 その2

NAVI 2002年9月号 「Girls in Motion」
4x5オリジナル写真
リンホフテヒニカ4x5 プロビア +1増感 CC20G使用
ハンディストロボ使用 15分の1 f22
380girlsinmotionNo11rika-1
ブルセラブームの頃、高校生だったリカ。いろんなオッサンを見てきた彼女は、「おかしくって哀しいエロが好き」とくったくなく笑う」インタビュー瀧井朝世
rikaupleft
2000年10月から2003年5月まで、自動車雑誌NAVIで「Girls in Motion」というテーマで連載をしていた。自動車雑誌といっても、その連載は自動車とは全く関係ない。ただ、NAVIという雑誌は、自動車だけがテーマではない。自動車のある生活、時代を評論する雑誌である。ただ車の写真は、コマーシャリズムと結びつき、綺麗な写真ばかりがならぶことになる。僕はもっとその時代のリアルなものが、同時に存在することが面白いと思い、連載を始めた。
そこに登場した女性たち、14歳から28歳の女性(Girls)たちは、皆無名だ。数人、わずかに芸能界に携わっていた人も入っているが、どちらにしても無名であることには違いない。なぜ無名か。
僕はその頃まで多くの有名人を撮っていた。昔は有名人はとても遠い世界、ミステリアスな存在だった。しかし今の時代、タレントは少しもミステリアスではない。彼らの情報はあふれている。それに引きかえ、僕の年齢のせいもあるかもしれないが、いわゆる若い女性たちの生活や思考のほうがミステリアスに感じられた。(男もそうだけど)。
僕が年齢がいっているといっても、職業柄、若い人たちとの交流はある。しかし、彼等の話を聞くことは(真面目に)ほとんどない。一体彼等はどんな生活をして、どんなことを考えているのだろうか。(この連載の紹介の一部がある。いくつかしかUPしていないが)
無名の人間に4pもさくとは、ある意味事件でもあった。無名でも、特別な意味のある人間のことではない。ごく普通の女性ばかりだった。ところが、話を聞くと、知らないことばかりだ。いわゆるマスコミに登場する、人たちはそれはマスコミが望む人が登場する。特にテレビは、自分たちの主張、意見を、代弁してくれる、素人を探している。単純な引用ができないメディアだからだ。僕たちはそういう、情報に囲まれている。
この連載で決めたことは、きちんとしたキャスティングをしないということだった。それより、友人の紹介、登場したひとたちの紹介だけにした。その結果、ルックスはともかく、とてもみんなきちんとした人ばかりだった。いや、職業ややっていることは、さまざまだ。そして皆、真面目だった。きちんと自分自身のことを考えている。ここに紹介したリカもネットでは有名な子だ。そして彼女は確信犯だ。
残念ながら、編集長がかわり、このあまりにも車雑誌らしくない、連載は打ち切られた。せっかくこのシリーズによって、他の車や、ファッションの写真のページにリアリティを与えていたのに、また普通の商業誌になってしまった。なんてね。
さて、なぜ大型カメラか。見開きのページはいつも、風景のなかの少女だ。そしてもう1見開きは、右にインタビュー、左にその少女のアップ写真。背景に、説明はない。
この風景のなかの写真は、4x5特有、そして65mmというワイドレンズの世界だ。35mm、ブロニー、デジタルでは絶対に写らない世界だ。写真の世界観は、粒状性より、フォーマットで決まる。粒状性は二の次だ。そして大きなカメラになるほど、いわゆる写真ぽく写る。人間の表情、雰囲気を撮るのは、小さなカメラが適している。ディテールはないほうがいい。モノクロならばもっといいだろう。35mmは感覚的だ。
大型カメラは、存在感が写る。大型カメラを使った理由もそこにある。僕はこの無名な少女たちの表情を撮りたかったわけではない。そこに存在している感じが撮りたかったのだ。だから大型カメラを使用した。
背景のビルが、ゆがんでいるが、これは、65mmのような超ワイドの場合、背面のピントグラスでピントを合わせる。
特にリンホフテヒニカの場合ゆがみやすい。でも僕は気にしていない。若干微妙に、あおられているからである。それはそれで味のようなものである。

さて、デジタルで撮れない大型カメラの世界と書いたが、デジタルのフォーマットも、これから大きくなる傾向はあるだろう。しかし、銀塩と、デジタルの大きな差は、コストパフォーマンスの問題がある。フィルムの場合、35mmと4x5、8x10と、フィルム面積あたりのコストパフォーマンスは、ほぼ同じだ。カメラの値段は、35mmだろうが、大型カメラだろうが、さしてかわらない。安い大型カメラがあるからだ。なにしろカメラ本体だけいえば、手製でもOKだ。
しかも、デジタル最大の弱点は、特に大型カメラでは、耐久性の問題だろう。銀塩時代、大型カメラは一生ものだ。いや極端に言えば、100年、200年たってもつかえる。デジタルは常に減価償却を考える必要がある。
デジタルカメラの性能と価格が安定しても、10年、いや5年たてばもっとあたらしいものがほしくなるだろう。
デジタルになり、フィルムがいらなくなったとしても、大容量のパソコンなり、それなりの投資が必要になる。
そして何より、受光部(撮像素子)、CCD、C-MOSが大きくなれば、コストばかりか、操作性に問題が生じる。
将来、ガラスではなく、フィルムのような、軽るく、薄く、柔軟性のある受光体が発明されれば、そのときこそフィルムが終焉するときかもしれない。銀塩時代のカメラにそのまま、装着できる受光体。35mmサイズから8x10まで。形状はフィルムと同じ。そのときこそ、銀塩時代の終わりかもしれない。
左側のUPの写真は、Contax645 プロビア 
デジタルで撮れない大型カメラの世界 その1


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2005.02.04

1999年のウラジオストク 今年も行こうと思う

vladivostok001
Eos5 EF24mm f2.8 RVP +1増感

1999年、20世紀最後の年に、極東ロシアの都市、ウラジオストクに行った。新潟から1時間半。日本から一番近いヨーロッパだ。今の季節は極寒でも、5月から9月いっぱいは、北海道のような素晴らしく気持のよい気候だ。ウラジオストクは、ソ連時代、軍港だったので、外国人は入ることができなかった。幻の土地だ。いったいどんなところか想像もできなかったので、その年行ってみる事にした。車で飛ばせば東京、新潟間は、4時間もかからなかった。
今、ウラジオストクニは多くの日本人も住んでいる。この6年間でどんなふうに変わったか興味がある。もっとも、6年前だって、ウラジオストクは都会だった。クラブがあったりして、おしゃれだった。そのときのウラジオストク・ナホトカ・レポートは、わりとちゃんとしているので見て欲しい。
ウラジオストクの情報は、「ウラジオストク通信」が充実しています。

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2005.01.29

セーラ・ローエル「僕のコダクローム その9」

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カラーフィルムが発明されて60年、そのコダクロームで撮った、ロバート・キャパの写真展が2月15日開催される。コダクロームとはどんなフィルムだったのだろうか。それは決して幻ではなく、ほんの少し前まで、プロカメラマンにとって特別なフィルムだった。そのフィルムについてのブログだ。
「僕のコダクローム その1」は、ここをクリック

さて、コダクロームで撮った作品だが、今回はセーラ・ローエルという、一世を風靡したモデルのことを書く。僕が撮影したときは、まだ16歳ぐらいだったろうか。最初は週刊プレーボーだったと思う。やはり1978年頃のことだ。GOROとかでも活躍していた。今で言えば、バイリンガルのアイドルだ。その後、激写もやっているて、DJもやっていた。
2年ほどまえ、今や井上陽水の奥さんである、「八月の濡れた砂」を歌った、石川セリのひさびさ(10年以上)のライブで、セーラを見かけた。少し立ち話をした。すっかりマダムになっていた。かっこよかった。僕がもうそうとう年が
いっているので、彼女がそうなるのも当然だろう。
彼女はローティンの頃から、モデルだった。もっとちいさいときからやっていたろうか。ただ小さいときはそれほど可愛いと思わなかった。面長で、悪く言えばちょっと馬づらだった。子供としては。ところが15,6ぐらいから俄然美しくなった。それはもう、きらきらしていた。全盛期の宮沢りえみたいなものだ。(なんていって最近の若いひとは宮沢りえの絶頂期を知らないという)。子役や、子供のモデルが、幼児時代、10歳ぐらいまで可愛くても、可愛くなくなることはよくある。そして逆にある年齢になると、突然輝く子がいる。アイドル顔は10代で輝くけど、大人になると光を失う。それより子供の頃は、なんだか大味な子が、二十代半ばに輝きだす。面白いものだ。
1978年頃、僕はまだ広告はそれほど多くはやっていなかった。ファッション広告といった単発物はやったが、シリーズというかレギュラーでの広告の仕事はしていなかった。それが、あるきっかけでコーセー化粧品のキャンペーンをやることになった。
その頃の広告は、ある意味日本の広告の全盛時代であるが、紙媒体とテレビテレビコマーシャルは、別々に制作されていた。モデルは一緒でも、アイデアや内容は別のことが多かった。当時コーセー化粧品には、独立した宣伝部があって、キャスティングは電通が絡んでいたが、紙媒体は宣伝部による、別進行だった。
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当時、資生堂のキャンペーンは、一ヶ月以上のロケハンと、本番1月といった、かなり贅沢なスケジュールが組まれていたが、だからこそあのような素晴らしい広告が作れたのだ。憧れた。コーセーはキャンペーンといってもそんな贅沢はできなかった。それでも、僕のような新人のカメラマンがキャンペーンを任されることはたいへんなことだった。
当時、コーセーには、佐藤耕造というアートディレクターがいた。なかなか優秀な人で、気が合い多くの仕事をした。
このときはエスプリークいう新製品の広告だった。
値段はまだ決まらず、なるべくシンプルな表現にしたいとのことだった。化粧品は、内容は一緒でもいくらで売るのかによって、コマーシャルの展開、パッケージ、入れ物がかわる。
当時僕は、沢田研二を手がける前で、基本的にはスタジオでは、バルカーの一灯撮影に凝っていた。バックからもサイドからもなにもない、たった一灯だけの撮影だ。ただそのころ僕はブロニーで撮ることが多かった。雑誌が多かったからだ。ところが、当時ポスターは皆35mmで撮影するように言われた。B倍のポスターもだ。当然フィルムはコダクロームだ。このときはKRを使用した。それだけコダクロームは印刷に適合していたのだ。実際はブロニー、EPRで撮ったカットもあったが、やはりコダクロームで撮ったほうがあがりがよかった。
レンズは、細いセーラの体が、ボリュームがでるように、スタジオだったが、FD200mmF2.8を使用した。絞りはたぶんf8かf11ぐらい絞っているだろう。場所は麻布スタジオだ。今は古臭いスタジオだが、その頃は最新のスタジオだった。スタイリストは、伊藤佐智子 ヘア 矢野トシコ メイク コーセーだった。
当時、化粧品のポスターをたった一灯のライトで撮ることはまれだった。正面ライティング、押さえに銀レフを下に使っている。ただそれだけだった。
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この仕事が成功して、5年間ぐらいコーセーのキャンペーンをやった。
そのどれもを、35mmのコダクロームを使用している。
コダクローム25、KMが綺麗なときは、それを使ったことがある。乳剤のよいときのKMは、かつてのKⅡのような素晴らしい発色をした。
その頃いくつかのコマーシャルフィルムのカメラマンもやった。当時、スチールのカメラマンがムービーをまわすことが流行っていた。今でも多くのコマーシャルをスチールのカメラマンが撮っている。
コーセーの仕事がなくなったのは、コーセーの宣伝部の力が弱まり、かわりに電通がキャスティングなどハンドリングするようになってからだろうか。
そのきっかけになる仕事があった。僕がコーセーの仕事がなくなるきっかけだ。そしてムービーカメラマンの声がかからなくなったきっかけだ。
僕はフリーになってすぐに、仕事に恵まれ、順風満帆だった。コーセーとも長く仕事をしていた。
コーセーのある夏のキャンペーンで、カリブ海にあるボナール島でロケをすることになった。モデルの名前は忘れたが、ハワイの16歳ぐらいの美しい少女だった。
なぜそんな島に行ったのかというと、当時、セブンスターの広告で、三角形の氷山が何重にも並ぶ写真があった。
実はそれは塩の山で、そのボナール島というところにあるという。
暮れから正月にかけての仕事だった。ぼくはそのとき初めて、スチールとムービーの両方をやることになった。
スタイリストはその前の夏のキャンペーンを一緒にやった高橋靖子さんのところをでたばかりの、中村のんだった。
ところがそれでもスケジュールがあわず、アシスタントが変わりにつくことになった。最初からいやな予感だった。
キャンペーンにきちんとスタイリストがつかないという変則的な撮影だ。なにしろ拘束は2週間以上あったこともある。制作は東北新社だったが、電通しきりだと思う。場所が決まらず、モデルが決まっただけのおせおせでの見切り発車だった。
スチール隊が先に乗り込んだ。後にムービーがくることになっていた。といってもカメラは僕だが。
CMのプロデューサーは、われわれと一緒だった。たよりなかった。
スチールとムービーを同じカメラマンが撮ることとは、かなりの負担だ。しかも過酷の撮影の場合はなおさらだ。
ニューヨーク経由で、ボナール島に着いたとき、そしてコンテにある、塩の山を見たとき愕然とした。
カリブ海の猛暑、炎天下、塩の山は鋭利なガラスのような高さが20mぐらいの連山だった。写真でも見れば美しくとも、そこに上るのは至難だった。単純に絵から決められた、撮影場所だ。いやそれはいいだろう。仕事とはそういうものだ。はしごを、線路のように塩の結晶の山に敷き、山頂まで上った。特別怖いことはないが、猛暑とそして、そのガラスのような塩の上に、非情にもモデルは横たわることになった。東京で書かれた、絵コンテにそうなっているからだ。
たしかに、目論見どおり、背景に塩の山が連なり、絵コンテそのままの絵が撮れることになった。
絵としては成功だった。
しかしだ。モデルはその、鋭利な塩の結晶の上に横たわらなければならない。
見えない部分はタオルを敷くとしてもカメラから見える部分は直接体や腕、足を乗せなければならない。痛い。本当にいたいのだ。でもコンテにはそうなっているから、我慢するしかない。そして炎天下。スチール撮影で僕は、その塩の山頂で、16歳の、全く日本語を知らない少女と向かい会うことになる。時折雲がかかり、そのまま待つことになる。何しろ、その上に横たわるには、一度下りたら再び上るのに時間がかかってしまう。
僕は、モデルと向かいあった。35mmカメラでさまざまな表情、さまざまなポーズを撮った。UP、ひき、立て位置、横位置、光を変えて‥‥。レンズを換える。
もちろん痛いのはわかっている。でも、君はモデルだ。それに、こんな非情なコンテを書いたのは僕ではない。雪の上に寝転んでいるような、いい気分の表情が欲しいなんて、そんなのあまりに無理だよと思いながらも、もっと優しい顔をしろ。もっときもちよさそうに。‥‥。そうして僕と彼女は次第に険悪になっていった。
彼女は、日本語を解さない、16歳の少女だ。僕はとてもサディスティクな気持になっていた。そのほかのカットも一週間ぐらいかけてとった。そして無事、スチールが終わった。
そんな彼女の心をほぐすほど、僕には英語力はない。いや、日本語を話したとしても、あまりにもやらなくてはならないことがあるし、僕だって必死だった。でも、とにかく、スチール撮影は無事終了した。東京に戻ってから見ても文句なかった。
本当はもう、僕も彼女もこの状態から開放してほしかった。しかしこれから、ムービー部隊がくる。
そして僕は、クレーンに乗り、カメラを覗く。
彼女はつかれきっていた。それでも頑張った。だれがいったいこんなコンテを書いたのか。ムービーはモデルにとってさらに過酷なことは当然だった。それでもとにかくムービーの撮影も無事終了した。モデルは本当に頑張った。
ラッシュを、途中のニューヨークでみることになった。
そのとき僕は、ニューヨークに残り、2週間ほど滞在することにしていた。当時のガールフレンドを呼んでいた。飛行機代はもちろん僕が払ったが、航空券の手配は、東北新社に頼んだ。彼女も一緒にラッシュを見た。
風景の場面で、僕のパンが少し早く、少しフリッカーがでていた。だからなんだというのだ。たいした問題ではない。
ポスターも、CFも上がりに特別問題があったわけじゃない。
しかしはっきり言って、この仕事のやり方には不満だった。最後にギャラで少しもめた。いやおおいにもめたかもしれない。誰かに、モデルともめたの?と言われた。もめてないよ。だれかが吹聴しているようだった。
たしかにモデルとは大変だったかな。子供だったし。しかしグラビア撮影ではない。グラビアだったら、カメラマンにモデルとの関係はかなり責任がある。しかし広告の場合、大勢のスタッフがいて、カメラマンだってそのなかの、ひとりなのだ。モデルばかりとコミュニケーションするわけにはいかない。実際は、モデルはプロだとう前提になっている。そしてCFだったらもっと、カメラマンは、スタッフの一人だ。僕は演出もしていない。モデルはもっと遠いところにいる。しかも僕の考えたコンテではない。過酷な場所での、絵に描いたもちのようなところで、皆ガンバって仕事をしたのだ。それなのに、僕はさんざん悪口を言われた。ムービー最悪。よくわからん大勢の人間と仕事をする怖さをしった。
僕が仕事を終えた後、ガールフレンドを呼んだことが不評だったのだろうか。手配はしてもらったかもしれないが、何しろ帰りの便をあわせる必要があった。でも旅費は僕が払ったんだよ。当時僕は32歳ぐらいだったろか。生意気だったかもしれない。怖いものはなかった。ざけんなよと思った。
何があったかしらないが、その後、僕にコマーシャルフィルムの仕事は全くこなくなった。やられた。
いや、それがコーセーの最後の仕事だったろうか。1982年ぐらいの話しだ。
話は違うが、コーセーの冬のキャンペーンを撮るため、夏の白根山、山頂で撮影中の、1979年8月1日、父親が倒れた。母親からホテルに電話があったのだ。しかしたいしたことないから、仕事は続けないさいと言った。仕事がおわってから飯田橋にある警察病院に行くと、半身麻痺していた。リハビリを頑張ったが、1981年の8月2日永眠した。
なんかしんみりした話になってしまったが、コダクロームから、コーセー化粧品と、ちょっと苦い思いでを思い出してしまった。
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2005.01.26

カラーフィルム60年、「僕のコダクロームその4」

1935年、世界最初のカラーフィルム、コダクロームが発売されて、ことしはちょうど60年。
「Kodachrome」Poul Simon♪
ロバート・キャパは、1938年の中国取材ですぐにコダクロームを使った。そのフィルムは紛失したらしい。今回50年以上前に撮ったロバート・キャパのカラー写真の写真展が開催される。そのどれもがコダクロームで撮影されいている。50年以上たってもまだその画像は美しい。僕もずいぶんと撮影した。しかし今では支持するカメラマンも少ないようだ。このカラー写真の歴史に燦然と輝いたフィルムについて、語りあってみたいと思います。
コダクロームを使っていた、そんなカメラマンは年齢が高いかもしれない。今の若い、コダクロームという素晴らしいフィルムを知らない、人たちのためにも、話を聞かせてください。
コメント、トラックバック、もしくは、BBS、もしくは僕にメールでもよいので、その印象、思い出など教えてください。個人的な思い出でも結構です。
「僕のコダクロームその1」
コダクロームの、開発秘話のサイト「カラーフィルムとブラームス」ケンさんのホームページ
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「僕のコダクロームーその3」

1970年代前半、ポールサイモンの歌に「僕のコダクローム」という曲があった。来月2月15日から20日まで、日本橋三越で、「キャパ・イン・カラー」という写真展が開催される。50年以上前、キャパが撮影した、コダクロームというカラーフィルムで撮影した写真展だ。まったく退色していない、世界最初のカラーフィルム。コダクロームは、僕の世代のカメラマンにとって、格別なフィルムだ。そんな話題の3回目。1回目はここをクリック。
友人である、写真家の赤城耕一氏が、トラックバックが文字化けするとのことで、コダクロームについてメールをくれた。以下赤城さんのメールより。

コダクロームII(ISO/ASA25,1961)→KⅡ
コダクロームプロフェッショナルタイプA(タングステンISO/ASA40,1961)→KPA
コダクロームX(ISO/ASA64,1962)
発売となってました。当時の東洋現像所の現像受付開始が63年みたいですね。それまでは海外に郵送現像してたとか。
改良版が出たのが74年でコダクローム25と64が登場してます。76年にコダクローム40(タングステンタイプ)が出ました。
で後にプロフェッショナルタイプとして、コダクローム64プロ(1984)とコダクローム25プロ(1985)が出てます。
ブローニーが出たのは1987年で、当方も発表当時の記憶ではみなさんもう4×5はイラナイとか言ってましたね。でも使ってみたところ、発表会のサンプルみたいな色が出なくて、失望した記憶あります。ポジを探してみたんですが、捨
てちゃってました。
同じ年にコダクローム200プロも出ましたが。当方は『アサヒグラフ』なぞの撮影取材でけっこう使いましたが、高感度ながらもメリハリのあるシャープネスがあって、重宝しました。
それで最後に1988年にコダクローム200プロが出て、その後新製品はないです。
現在東京では堀内のみ現像可能で、増感(+1/2,+1,+2の3種類のみ)も可能みたいです。これはステップがおおまかなんで、ちょっと辛いですね。
横木さんもおっしゃってましたけど、当方はじめてコマーシャル用のコダクロームの原判を見たとき、(たしか小西海彦さんの)向こうが見えないような真っ黒(という印象でした)だったのでびっくりした記憶あります。印刷で無理やり上げるということですが、けっこう勇気あるなーと感じました。
キャパと横木さんの話を読んでいたらもものすごく久しぶりにコダクロームが
使いたくなりました。買いに行ってきます。
(赤城耕一)

以下横木
東洋現像所でコダクロームの現像ができるまえは、香港、もしくはハワイでの現像だったとおもう。当然僕の時代は、すでに東洋現像だ。最初のコダクローム(ASA10)が、1935年、少しずつ改良されたのでしょうが、1961年というと、東京オリンピック前。このときにコダクロームⅡ(ASA25)が発売されたわけです。
僕より上のカメラマンたちは、きっと僕なんかよりずっと、KⅡにたいしておも入れがあったと思うし、使い倒していたのでしょう。コダクロームXは、僕は使ったことがありませんし、あったのかなあ。(そういえば、KXというのがあったような記憶がわずかにあるけど‥‥)
タングステンタイプのKPAは、何度か使ったけれど、僕はあまり好きになれませんでした。
KPAが好きなのは、昔僕のアシスタントをしていた、小野麻早というカメラマンがいましたが、彼は今でもこのフィルムを使っていると言ってたような気がします。
1974年に、コダクローム25、KMと64のKRが発売ですか。やはり、変わり目のときだったのでしょう。
ということは、僕はアシスタント時代がKⅡで、独立してからは、KRとKMを使っていたことになります。
84年PKRが発売され、きっとそのフィルムを使っていたとのでしょうが、遠い昔のことで、忘れました。この頃僕は、メインがブロニーサイズで、35mmはKRを使ってました。
その後は、前のブログに書きましたが、ベルビア、プロビアに以降して、コダクロームは忘れてしまいました。今ではなんおフィルムがあるのか、しらないような状態です。
赤城さんが、書いてましたが、コダクロームの超アンダーな、原稿というのは、ほんとうに伝説的ですが、本当に僕も驚きました。というのも、たしかにコダクロームは、アンダー気味の綺麗なフィルムですが、広告の原稿に使われた一部のカメラマンの原稿は、本当にライトテーブルでは、ただ真っ暗としかいえないような写真でした。しかしスライドプロジェクターにかけると、そして暗闇でみると、その光の階調の美しさ、ドラマチックさは、見たことのないものです。
僕はそんな極端なアンダーはありませんでした。それというのも、当時、広告の全盛時代、雑誌や写真集の印刷と違い、一点一点、分解し製版して印刷するので、とても自由度があったということでしょう。きっと、失敗から始まったと僕は睨んでますが。そうだとしても、そのアンダーのなかに、潜在している絵は、やはりコダクロームのものだったのでしょう。
ブロニーのコダクロームも僕はテストしたし、仕事でも少し使って、すぐにやめた記憶があります。

コダクロームについて、思い出があれば、個人的なことでもトラックバック、もしくはメールください。
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「僕のコダクロームその2」

コダクロームの思い出がまだあった。僕のコダクローム1の続き。
コダクロームⅡ、ケイツウは、ASA25(ISO)しかなかった。今思うと使いづらいように思えるが、実際は35mmで使っていたので何の不便さも感じなかった。その頃僕は、CanonF1,FD50mmf1.4、100mmf2.0、200mmf2.8、24mmf2.8のレンズで何でも撮っていた。
コダクロームは、現像の増減感もできない。助手時代、35mmの撮影ではポラロイドを撮ることはなかった。35mm用のポラホルダーがまだなかったからだ。心配だったらハッセルのポラを持っていった。しかし通常、海外でのコダクロームの撮影には、ポラは持ってゆかなかった。なにしろ先生が、ポラを切らない。それは自然光ばかりか、携帯ストロボ(そんないいかたがあったかなぁ)を使ってでもだ。当時はまだオートストロボの性能が未完成で、ナショナルP型というマニュアルのストロボを使っていた。ガイドナンバーは、32ぐらいだったろうか。距離によって露出をかえた。
だからコダクロームでの撮影はどきどきものだった。なにしろ、現像が上がってくるまでできあがりがわからない。しかも、E6現像のフィルムだったら、テストをだし、それを見て本番を流すが、コダクロームは、現像の調整ができないので、一発で流す。紙の箱に入った、紙マウント、それをあけるときの緊張感はなかった。
しかし、不思議と露出は、ほとんど間違いなかった。
そのわけは、当時のアシスタントとは、露出計がなくとも、光を見て、すぐに露出がわかったからだろう。
写真家の渡部さとる氏が、その著書で、感度分の16ということを言っている。
世界中どこで露出を計っても、順光の風景の露出は、感度分の16、ISO100だったら、100分の1のF16ということだという。
それと全く同じようなことを、僕は思っていた。それは露出計を計る前から、コダクロームⅡ(ASA25)で撮るとき、順光の露出は125分の1F8(=25分の1,f16)だと決めていた。
コダクロームで撮ると、人物など撮っても、コダクローム特有のこってりとした、写真が撮れた。(コダクロームⅡはアンダーぎみの露出が美しかった。)
そして日陰だったら、3段開けの、125分の1のf4もしくは2.8(明るさによって)。
サイド光の場合、顔のハイライトとシャドーのバランスを見て、一段から2段絞りをあける。逆光は、2.5から3段あけ。レフをつかったら2段開け、と一見大雑把だがすぐに決められた。
実際、露出計を使わなくても、それで十分計測できた。だからメーターを見るより、そのときの光の状態を見極めるのが、適正露出をはじきだす、わざだった。日中の屋外での撮影だったら、メーターは確認の道具ともいえた。
だから、昔の助手とカメラマンの関係は、助手が完璧なオート露出計状態だった。なにしろ撮影者が何を撮ろうとしているかは、現在の進化した側光機器でも、わかりはしないことを制御した。先生がいったいどういうフレームで撮っているのかを意識していたのだ。だからこそ昔は助手をやる意味があったのだと思う。写真家の仕事を、アシスタントも実際に参加していたのだ。今みたいに、メーターとにらめっこしてみても、なにもならない。実際の光を見ることが重要だ。顔のアップと、全身と、風景では露出が違うことが、わかることだと思う。
雲がかかったりしても瞬時に変える。雲がかかると、何段落ちだと瞬時に補正する。背景の明るさでも、露出を変える。人物の肌色でも露出は違う。暗めに撮りたいのか、明るめに撮りたいのか。さまざまな組み合わせを考える。
その助けをしたのが、セコニックのスタジオSのような入射光式の露出計だった。その辺においといて、針の動きだけで、すぐに光の違いがわかる。なによりも、実際にそこにどのくらいの強さの光が当たっているかを測るのだ。そこでわかることは、世界中どこでも日中の明るさはさほど差がないことがわかる。ヨーロッパでも、ハワイでも、太陽の光の違いはほんのわずかだ。
デジタルのように、数字の末尾まで表示されると、それにふりまわされる。正確な露出が絶対的なものに思える。しかし実際の適正露出は、撮ったカメラマンのイメージのなかにあるものだ。それは、オートの露出計で測ることはできない。
そんなわけで、昔のアシスタントは、露出を計るのが、今の人より数倍早かった。
コダクロームの話が、露出の話になってしまったが。
コダクロームへの意見、情報があったらトラックバックしてください。
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2005.01.23

CGと写真と遅い新年会

友人の、写真家HARUKIの家で、遅い新年会をする。大きなテーブルを囲み、約15人わけもなく騒ぐ。テーブルの上には、日本酒、ワイン、シェリー、焼酎、ビール、ジュース、他につまみ、焼き鳥、餃子、崎陽軒のシュウマイ、うに、ソーセージ、から揚げ、生ハムとチーズ、スペインのサラミ、サラダ等々、まだまだ食いきれない量。実はそのあと、なべでもしようと材料を買い込んでいたが、皆、つまみ等を持ち込んだので、なべまでたどりつけなかった。この様子は、「カメラまいにち」blogに紹介されると思うので、割愛。
そこで、HARUKIの先輩である、古賀信明氏に会う。彼は、日本のCG界の第一人者、特に映画や広告のスペシャルエフェクトを多く手がけている。最近の映画では、篠田正浩監督、スパイゾルゲの上海の昔の町並みを、CGで再現している。パンをしながら映し出され、そこに歩く人々が写っている。それこそ実写で撮ることは、不可能な場面だ。そういう彼の作品や、制作過程の紹介されたDVDを見せてもらった。
今や、ハリウッドの映画に限らず、再現できないものはない状況だ。しかし時間と金さえあればなんでもできわけではなく、たとえば水の表現は難しいという。
いろいろな話をしたが、お互い酔っていたので、話がかみ合ったかわからないが、話していて、GGの世界の問題点と、写真の問題点がどこか共通しているような気がした。
CGはすべてを外側から描く世界だ。同じ人間を描いても、例えば実写だったら、その役者の存在と演技で人に何かを訴える。しかしCGには、内面は存在していない。そこに命を吹き込むというか、アニメに心を吹き込む作業と同じように、人間の存在ではなく、存在しているように「見える」ことに力が注がれている。
そこには、日本のアニメーションの歴史と強く結びついている。例えば現在のディズニーのアニメは、実際の役者を素材にシミュレートして、表情などを写し取り、それをCGに再現する。ある意味とても、科学的な再現方法だ。
もちろんそのやり方は日本でも多く採用されているが、日本には違ったやりかたがある。それはアニメの手法だ。アニメはもっと動きを省略し、デフォルメしている。現実を克明に、写し取っても、リアルにはならない。そこには、デフォルメし省略ほうが、見る側にリアリティを感じさせる(というようなことを言っていたと思う)。日本のアニメ(例えばジブリ)とディズニーのアニメの大きな違いは、日本のアニメは伝統的な省略がある。観客は、動きのスムーズさに、感動するのではなく、表現された内容に感動するしリアリティを感じる。
そんな話を聞いていて、今の日本の写真界の主流である、あまりにも個人的な、内面主義の作品が幅を利かせるこの時代、半径数メートルの表現ばかりで、いいのかなと思えてくる。
日常の記録は重要だけれども、日常のなかから何を発見するかが、重要で、ただ日常や現実が表現されていても、だから何だと思う。
実際、荒木経惟氏の初期の写真、特に写真時代の頃の写真は、当時の広告や、多くの表現の主流だった、フィクションをテーマにするより、ずっと現実的な、なまなましいものを撮っていながら、それはまるでうそ臭い、偽者まるだしの写真に見えた。逆のアプローチだ。(広告写真とは、フィクションをいかに、本物らしく見せる作業だ。)
荒木は彼の日常を撮っていながら、決して、日常の再現をしていたわけじゃない。それは荒木経惟の見たものという、偽の現実を見せてくれたのだと思う。
ところが、今、荒木の子供たちの多くは、どこか、その日常を、その日常のまま提示して満足しているような気がする。
日常に暮らしたければ、日常に暮らせばいいだけの話だ。それを何も写真で再現する必要はないと思う。写真は日常を越えられるわけではない。それならば、なぜ日常をカメラで撮るのかといえば、肉眼では見えない、または経験することのない日常を、カメラという機械によって、異界としての日常を垣間見ることができるからだ。
‥‥見事なCGの偽世界を見せられて、この先さらにCGが進むと、果たし写真はどこにゆくのかと思う。現実を撮ることと、そこに再現された、映像、画像との差は、これからどんなふうになるのだろう。現に、合成された写真と、実写の差は、言われなければわからないようになってきた。北朝鮮の素朴の合成写真は、ただ稚拙なだけだ。
実は、もう境界線は限りなく薄くなっているし、重なりあっている。
そこには、実はという、「ことば」がなければ、わからないものになりつつあるのだろうか。
実際は荒木はそのために、かなりのことばを屈指した。荒木にことばがなければ、荒木の意図は伝わらなかったと思う。
さて、古賀の作品を見ていろいろ考えさせられたが、写真家である僕にとって、今考えられる、他のメディアとくらべて、唯一の写真の優位性は、一人でできて、しかも短時間でできるということしかないかもしれないということだ。
極端に言えば数万分の1秒でも完成させることができるということかもしれない。写真はスピードがすべてのメディアを凌駕するのだろう。もちろんテレビの生はもっと早いが、それは表現ではないからだ。たれ流しであり、選択をしていない。(それも表現のひとつともいえるが)
簡単に言えば、写真は、思いついたらすぐにできるということだろう。その断片を、重ねることによって、それが1年かかろうが、10年かかろうが、よいのだけれど、撮るという断片は、とてもカジュアルなメディアなのかもしれない。

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2005.01.19

鎮魂を込めて 菊の写真

災害被害に鎮魂を込めて菊の写真
380kikucover
850x567pixelの写真
EosKissDigital EF50mmf1.4 Jpeg-Large-fine AWB ISO200

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2005.01.15

「M7.3」-8子供たちのみたもの 阪神大震災10年

明後日、1月17日は、阪神淡路大震災から10年。
明日の夜神戸に行き、17日は、神戸の崩壊した高速道路の場所で、10年目を迎える予定。
そこからすぐに、このブログにアップしてみたい。実況というわけだ。
17日は一日、神戸で撮影する予定。
インタビュー集「M7.3、子供たちが見たもの」が完成した。日曜日には書店に並ぶと思う。是非ごらんください。
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M7.3 子供たちが見たもの のTOP

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2005.01.11

2005ロバート・キャパ写真展

380capaincolor

Robert Capa in Color 
「ロバート・キャパ写真展 ロバート・キャパインカラー」
1935年、世界で初めてのカラーフィルム、動画用(16mm)コダクロームが開発された。そして翌36年スチール用が発売される。ロバート・キャパは、その翌々年の1938年には中国取材で早速そのコダクロームフィルムを使用している。
当時の感度は、ISO(ASA)10ぐらい。しかしその性能は素晴らしかった。それは後に発売されるエクタクロームと違い外式という染料で、後から色をつけるものだった。耐久性に優れ、しかも50年以上も前に撮ったカラーフィルムだというのに、いまだに美しさが保たれている。そればかりか、その後に発売されるいかなるフィルムよりも素晴らしいものだった。後に現在普通に出回っている、内式のカラーフィルムが発売されたが、そのフィルムでもロバート・キャパは多くの写真を撮っている。しかし残念ながらほとんど画像が変色して使用に耐えなくなってしまった。
ロバート・キャパは、発売されてまもなくの、コダクロームフィルムで1938年の日中戦争を撮影した。その写真は、ライフに発表されたが、残念ながらポジは紛失している。
2002年、ロバート・キャパがコダクロームで撮った大量の写真が、ニューヨークマグナムから発見された。
そのキャパの撮った、初公開のカラー写真を軸に、今回展覧会が開催される。
内容は、発見された、イギリス、チュニジア、シシリーの戦争中の写真、そしてへミングウエイ親子、死の直前の日本滞在、それに最後の土地、インドシナで撮影したカラー写真が展示される。
他に15点のキャパの代表的なモノクロ写真も展示されるという。
そのほかキャパが撮影中着ていた従軍記者用軍服(?)も展示される予定だ。
当時、カラーフィルムは広告などでは多く使用されていたが、速報性の必要な報道写真(ルポルタージュ写真)では、メディアのカラー対応の遅れなどもあって、あまり発表されていなかった。それでもロバート・キャパは積極的にカラーフィルムを使用している。
ロバート・キャパ・イン・カラーのTopPageへ

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2004.12.28

中野のトキノン

fakeoff昨日の夕方、英知出版のキッスイ編集長、田中信一と神楽坂で焼肉を食いながら飲んだ。彼とは、彼がデラベッピン編集長時代、いやビデオボーイ編集長時代に(彼は28歳で編集長だった)仕事をした。一番の楽しい仕事はFakeOffという単発の別冊を一冊作ったことだった。その後、編集の山田くんと合流した。10時ごろ、田中編集長は、六本木へ、僕と山田君は、柊君の待つ中野にゆく。そこにカメラとんかつ屋、「tokinon 50 f1.4」があるという。写真雑誌Capaにも紹介されている。柊君は、某、労働組合の記者であり、カメラマンでもある。彼は全国を飛び回り、食べ物屋にかぎらず、何でも知っている。そこに元英知編集者、今は新婚でエディトリアルデザインをしている、中野在住の大駒君が合流。とんかつ、牡蠣フライ、餃子、さきイカを食べる。1時過ぎまでいて、解散。柊君が、カラオケに行こうといい、男二人で?と思ったが、3000円歩っきりのキャバクラみたいなカラオケで、へーと思ったが、満員で断念。中野、恐るべき町だ。楽しそう。昭和が生きている。

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2004.12.25

猟奇的な彼女 チョン・ジヒョン

チョン・ジヒョン主演の「猟奇的な彼女」を見た。今頃見たわけで、テレビの吹き替えだったので、でたり入ったりしながら見ただけなので、きちんと見たわけではない。ただ主演のチョン・ジヒョンの魅力ははっきりわかった。ものすごく美人というわけではないが、今の日本の女優にないエネルギッシュな感じが、それでいて「品」を感じた。それは今の韓国のタレントたちに共通する、「品」のよさだ。
日本のタレントは、テレビのキャスターが育ちのよさと、「品」を売っているが、韓国の女優たちはその「品」のよさがほのかに感じられる。それは日本の芸能界と、韓国の芸能界のちがいかもしれない。
話は飛ぶが、ベトナム人は韓国人があまりすきではない。現在のベトナムには韓国の影響が強い。ホーチミン市の一番のデパートは韓国資本だし、かつて日本の車が多かったが、今やほとんど韓国の車、バスやトラックも含めて多くなっている。工場も多い。そんなわけで、ベトナム人は韓国企業、会社の労働者という立場ということもあるが、韓国人の人使いの荒さに少し驚いているようだ。そして何より、韓国人は、すぐかっとして感情的だという。
そういうところは今はやっている韓国映画からは想像できない。僕も韓国人というと、血気盛んというイメージがある。もっとも、在日の韓国人、朝鮮人の知り合いは、皆インテリで、日本人よりかえってクールな気がするが。
「猟奇的な彼女」では、根本的な笑いが、日本人とほとんど変わらないことが面白かった。それほど、日本と韓国は似た文化だということだ。
ただ韓国の男子には徴兵があって、そいうどうしようもない国家に対しての「忠誠」というか、現実があり、韓国の男はどこか現実的に見える。かえって、徴兵のない日本の男のほうが、暴力に対して、憧れがあるのだろうか。映画のなかで、武器を持った兵士がでていても、当然不自然な気がしない。そういうところが、映画を作る側としては、無理やりリヤリティを狙わなくても、そんなもの日常だから自然に扱える。
映画はとても面白かった。きちんとみてないのに、無責任だが、しかも吹き替えだ、なのにとても面白いと感じた。今まで韓国の映画を僕はぜんぜんみていない、不勉強だった、と思った。ビデオでも見ていない。遅ればせながらこれから見てみようと思う。一時期、香港や、台湾、中国の映画は続けて見ていたが、韓国がこれほど、楽しめる映画を作れるとは、驚きだった。単純に映像が、綺麗すぎるところもあるが、素直で好きだ。悪ぶったところもなく、芸術ぶったところもなく、自然で好感が持てた。
なにより、チョン・ジヒョンの魅力いっぱいだ。いったい日本だったら、誰だろうと考えたがあてはまる女優はいなかった。昔の女優にいたかもしれないが、今の女優にはいない。
韓国はヨンさまばかりではないことを、もっともぼくはヨンさま、もよくしらない。冬のソナタをみていない。それでもテレビでちらっとみた、この「猟奇的な彼女」を見て、「僕の彼女を紹介します」を絶対みてみたいと思った。
さっきベトナム人にとっての韓国人について語ったが、韓国人はすぐ怒るということだったが、それでは日本人はどうなのと聞くと、たいていベトナム人は日本人はやさしいから好きだという。あまりおこらないと。それでもどこか日本人の嫌いなところがあるだろうと聞くこと、、日本語通訳の女の子は、日本人旅行者をガイドしているときは、とても楽しく、うまくやれたと思ったのに、数日後、日本の旅行社からクレームがきて大問題になるという。その場でいえよ、と思うが、日本人はその場は不満でも、あまりクレームはいわないらしい。いかにも日本人らしいエピソードだ。


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2004.12.23

ベトナムのモデル2 身長174センチ

身長174センチのモデルは、ベトナムではとても大きいほうだ。たいていベトナムのモデルは165センチから170センチぐらいしかない。
thanhanlsize
タイン・ハンの大きな写真

2002年4月27日
朝6時に起きて、6時半出発。先日ミトウに行ってもらった、タイン・ハンが行っている、総合大学の中にある大学受験のための予備校のようなところに行く。授業を受ける様子の撮影。終わったら友達二人も同行してくれることになる。バスでヘアメイクの店に、アオザイをピックアップ。その後、サイゴンでファッションデザインをやりながら、カフェバーも経営している沢村たかゆき氏の店で撮影。彼は一週間前ぐらいに開かれた、ベトナムファッショウイークに参加していた。新聞にも彼の記事が紹介されていた。そこでミトウに行ったときに来たアオザイをもう一度着てもらう。彼女はまだ撮影に慣れていない。どちらかというと、動き回っているほが綺麗だ。その後、韓国資本の、ダイヤモンドプラザにある、ダイヤモンドデパートで、やはり友達3人と一緒撮影した。ちょうど階上の映画館がオープンしたとあって、デパートの入り口はいつにもまして混雑していた。化粧品売り場には資生堂やコーセーも、入っていた。日本のデパートの1Fの化粧品売り場と同じような雰囲気だ。エスカレーターで6階のゲームセンターやボーリング場、プールバーがあるフロアで撮影。その後、皆でイーボーという台湾料理屋で食事をした。週末だからだろうか、いつもはない点心‥‥飲茶があった。外務省のTさんが全てオーダーしてくれた。全員で11人。ふかひれスープ、クンシンサイ、ナスとひき肉の炒め物、マーボー豆腐、大根もち、えーと名前を忘れた、軟らかい米の皮で巻いた海老、よく飲茶ででるやつだ、それのビーフ、それで全部かな、ビールとジュースと最後にデザート、合計約9000円。ずいぶん安いと思った。

食後一回ホテルに戻り、2時にタイン・ハンさんの家に行く。彼女は2001年、PhuNuという雑誌のモデルコンテストで優勝した。賞金は50,000,000ドン、日本円にして約45万円だ。価値としては600万から800万もあろうか
thanhhangshop

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ベトナムNO.1歌手 ミイ・タム

mytamphuNu
はがれたポスター、うらぶれた感じだが、実際は町中にミイタムのポスターが貼られた。雑誌の表紙もどれもがミイタムだった。田舎の男の子の部屋にもミイタムのポスターがある。彼女は男ばかりか、女の子にも人気がある。広告でも人気がある。
今やベトナムNO.1の歌手ミイ・タムは、先日見たテレビでは、まるで昔の美空ひばりのように貫禄があった。現代のベトナムのポップシーンをリードする、いってみれば、宇多田ひかる、あゆ、年齢は違うが、そのうちに似ると思うがあややをミックスして、でも貫禄がつき、美空ひぼりのようになったMyTamだ。ベトナムでは、CDは、初版プレスでおしまいになる。なぜならその後はすべて市場にコピーがでまわるからだ。だから歌手はレコードでは成功できない。そのため、彼らは日々ライブ活動をする。ワンステージ1000ドル以上、ベトナムの生活水準から考えたら、とんでもなくリッチだ。ライブする劇場やライブハウスは多く、特にライブハウスは、小屋のおおきさもちょうどよく楽しめる。通常10組ぐらいの前座があり、その後真打、ミイタムが登場して約1時間弱、歌い、踊りまくる。ベトナムは、メディアは発達しているないが、ライブはかなりいけている。ベトナムに行く機会があったら是非訪れて欲しい。熱気がすごい。

mytamyoko
これは、2002年に撮影したもの。サイゴン川のフェリー乗り場。スーパースターが突然あらわれて、周囲はいきをのんでいた。

ベトナムの今のスーパースター、ミイ・タムを撮影した。中心街にある、彼女がダナンから出てきたときに、間借りしていたおばさんが住むアパートに行った。アパートといっても、天井の高い多分仏領時代に建築されたであろう、ビルの4階にある広い間取りだ。今まで僕が見たサイゴンのアパートのなかで一番立派だった。エレベータが壊れていて階段を使った。彼女の家は今ニュータウンに建築中だということだった。撮影はそのアパートで始まった。ピアノやギターで弾き語りをしてくれた。現代的でシャープでかっこいい少女だった。取材中鼻歌のように歌を歌ったり、動き回ってとてもキュートだった。薄紫色の紗のような生地のちょっと変わったアオザイを着て、サイゴン川のフェリーに乗って撮影した。とっても気さくな気のつく素敵な子だった。お昼もおばさんと一緒に作ってくれた。食後、コンサートのダンスのレッスンに行った。歌ばかりか、とてもダンスも上手かった。練習というより振りのすり合わせてといったところで、3,40分で終わった。その後、ある作曲家の歌のレッスン。先日はライブハウスだったが、今度は劇場でのライブだ。楽しみだ。
MY TAMはベトナム中部の都市、ダナンの出身、八人兄弟。6歳からバレーを始め、10歳で賞をとる。そのころ劇団に入る。ギターをならい十代前半でかずかずの賞をもらう。16歳でオーディションで一番になり、有名な作曲家に師事する。
家族や親戚に歌関係の人間はいないので、本格的に勉強するために、親戚を頼ってホーチミン市にくる。その後歌の勉強を本格的に始める。最初はクラシックを学び、ポピュラーに転向する。その後数々の賞をもらう。2000年、新聞社主催の歌謡コンテストに優勝して、上海アジア歌謡祭で賞をもらいブレークした。作曲もする。4月26日ホアビン劇場でライブをする。そのライブの取材もする。
mytamtate
2003年、二回目の撮影のときには、人ごみに囲まれるのはいやだと条件をだされた。そのため、ビルの屋上で撮ることにした。それでも日本のタレントだったらなかなかまわりが許しくれないような場所だった。

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2004.12.21

ベトナムのモデル

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ちょっとわけあり、かつてデジタルで撮った、ベトナムの写真を選んでいる。そこで、僕が一番ベトナムで気に入っているベトナムのモデルの写真がでてきた。名前はヴァン・クインちゃん16歳。(当時現在18歳)
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彼女は、まだ高校生モデルだ。あまりプロ意識があるとは思えない。かつてベトナムのモデルは、ミスコンテスト出身者がほとんどだった。だから美しいだけではなく、勉強もできるし、家柄もよかったりした。ところが、ニューウエーブ、ヴァンちゃんは、しっかり撮影に6時間遅れてきた。しかも、ホーチミン市からチャウドックまで、約バスで5時間かかるロケ地にゆくてはずだった。朝6時集合、7時になってもやってこない。電話してもつながらない。もちろん携帯の番号にもかけている。コーディネイターのチュンさんに、段取りの悪さをクレームする。二人のモデルを撮るつもりだったので一人だけ乗せて、出発。チュンさんには彼女に変わるモデルを探して連れてくる段取りを取ってもらう。10時ごろ、新しいモデルを見つけたと連絡が来たやさき、ヴァンちゃんと連絡が取れたという。寝坊。けろっとしているという。チュンさんはかんかんに怒っているが、柳に風。チュンさんは新しく段取りしたモデルにしたいというが、ヴァンちゃんは僕がファッション誌からみつけて気に入っていたので、彼女をやはりつれてきて欲しいと伝える。しぶしぶチュンさんは、段取りした新しいモデルをキャンセルして、夕方チャウドックに連れてきた。
あってもあやまるでもない。でも可愛くて憎めない。にこにこしている。彼女は携帯のメールを時間さえあればやっている。何をやってるのときくと、今チャウドクに来ていると友達に送ったという。明日の夜の約束。レストランで大勢で食事。あーまるで日本の子といっしょだ。チュンさんは、こういうモデルは使いたくないという。でも、いいんだよ。だからかわいいんだと、僕は言った。ヴェトナムのモデルはいい子が多いので、新人類(ふるいことば)は、新鮮だった。
でも感覚も、スタイルもよく、日本だったら人気がでるな、いやいやベトナムでもかなり人気らしいが、こんな調子だからいつもでモデルをやっているかわからない。もうやめてしまったろうか。
ちなみに彼女は、友達の紹介でモデルになったという。将来はの夢は。「うーんわからない」「今日のことしかかんがえていない」とは、さてさて、といったところか。


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2004.12.17

新風舎 インタビュー 横木安良夫

新風舎のインタビューです

2004年12月 執筆前夜

横木 安良夫 さんインタビュー (全4回)
取材・文/小山田桐子 撮影/新城孝


第1回

ゼロからひとつの世界を作り上げるクリエイターの仕事。ゼロが1になる瞬間ともいえる、一文字目を書き付けるその時に至るまで、プロは何を考え、何をしているのか。プロの創作の秘密に迫るインタビュー、今回はカメラマンとして活躍されながら、話題のノンフィクション「ロバート・キャパ 最期の日」を刊行するなど、精力的に執筆活動も展開している横木安良夫さんにご登場いただいた。第1回ではカメラマンを志すまでについてうかがう。

ユーミンの「オリーブ」など様々なミュージシャンのレコードジャケットを手がけるなど様々な分野の第一線で活躍を続けるカメラマン、横木安良夫さん。 03年、横木さんは「熱を食む、裸の果実」で本格的な作家デビューを果たした。写真という言葉を用いないメディアで長らく活躍していた横木さんが、小説を書こうと思ったのはなぜなのか。

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2004.12.14

ベトナム、サイゴンにいる

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なぜか、ベトナム2泊4日の取材中、ホーチミン市にいる。今回のホテルはソフィテル・プラザ・サイゴンだ。旧大統領官邸とサイゴン動物園を結んだ途中、アメリカ大使館のはす向かいにある。このホテルに泊まるのは初めてだ。部屋は可もなく不可もなく。ただ中心街からは少し離れている。今回ベトナムを訪れて10年、初めて市内観光をした。なかでも大統領官邸は、始めてきた95年に一度一階部分をみただけで、もしかしたら当時はなかの見学コースがなかったのかもしれないが、今回初めてじっくり説明を受けながら見学した。表から見る印象より、ずっとモダンなインテリアだった。始めてくる人は是非見るとよい。その後、教会、郵便局、そして戦争博物館に行った。以前みたときとはすっかり変わって、展示物がかなり充実した。そこに、沢田教一、一ノ瀬泰造、石川文洋、そしてキャパの写真が展示してあった。あまり展示の状態は感心しないが、それでも一同にインドシナ戦争、ベトナム戦争の報道写真が並んでる様子は壮観だった。やはり、ベトナムのは雑貨をかいあさるだけではなく、ベトナムの歴史も知る必要あると思った。ベトナムは、中国の属国としての支配、独立、封建制、植民地、フランスの支配、日本支配、南北分裂、社会主義、自由主義、統一、開放制作、なんといっても戦争、戦争、とこんなにも激動の時代をくぐりぬけた国が他にあるだろうか。

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2004.12.06

節穴写真機

来年1月17日に発売される、「M7.3」子供たちの見たもの、阪神大震災10年の本の撮影のため、神戸に行っていた。神戸には大学の友人の北畠君と、そうださんがいる。写真は10年前の僕のものと、今回約30人、16歳から19歳までの少年、少女を載せる。インタビューは、そうださんや編集者がした。撮影するだけで彼らの話を聞くことはほとんどなかったので、完成した本にどんなインタビューがついているのか、楽しみだ。彼らは当時まだ、6歳から9歳まだ地震の本当の意味もわからなかったろう。言葉もなく大人から質問を受けることも少なかったろう。彼はまだ社会性のなかでもまれる前のできごとだ。彼らの五感は、どんなことを感じていたのだろう。そして今、あの出来事が、こどもから大人に変わる分岐点でどんなやくわり、影響をあたえているのだろう。いろいろな若者を撮影した。皆とてもきちんとしている。(なかには、どうしようもないのもいたけれど)当然紹介してもらう子にはずれはいない。やはりそればかりではつまらないと思い、三宮でキャッチをする。するのは、カメラマンでもあるY君。彼は外国生活もあり、将来はバックパッカーで旅をしながら世界を回りたいと話していた。彼は、バイトで水商売もしている。「さあ、やりますか!」「ついていっていい?」「え、ちょっとひとりで」。待つこと1時間は、やはり金曜日の午後3時に、高校生、16から19歳ぐらいは少ない。これぞと声をかけても、神戸出身ではない。三宮は観光地だ。途中ぼくと合流。次第に学生が増えてきた。僕の目の前で、Y君はてらいもなく、すぐに声をかける。かなりのプロだ。彼のやさしい話し方、でも、水商売のキャッチより難しいという。この際制服すがたでもかまわないことにした。その日の収穫8人。実際はもっと可能だが、インタビューの時間もあるので、これ以上は無理だった。でもやはり女の子はついついかわいい子になってしまう。夜、神戸の夜、食事と酒を満喫。神戸はいつ来ても、安くておいしいところがある。カジュアルで美味。
北畠君が、数日前に書いた、節穴からすりガラスに映った、ピンホールカメラ、カメラオブスキュラの話、自分も子供の時から知っていたという。台風の日、昼間から雨戸を閉めると、白いカーテンにその像が写る。それもカラーで。今でこそ、カラー写真はきれいだけれど、僕の子供のころ、カラー写真は特別なもので、目にする機会も少なかった。カーテンに写った総天然色の風景、その発色は今でも脳裏にやきついているという。やっぱり、針穴写真機の原理は、日常にありふれていたんだと思う。そこで、これから、針穴写真機、ピンホールカメラではなく、これからは節穴写真機なるもので写真を撮るのも面白いだろうということになった。
「M7.3子供たちが見たもの」

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2004.11.29

サイゴン川

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ベトナム、ホーチミン市、旧サイゴンのサイゴン川。川幅数百メートルのこの川に大型の貨物船が航行する。この川幅を同じぐらいの船がすれ違う。マジェスティクホテルは、最近二重窓にしたのもこんな船が、深夜空気をとどろかす、汽笛をあげるせいもある。1995,6年ごろ、僕はマジェスティックホテルが定宿だった。しかし毎夜の騒音で根をあげ、それからというもの、ドンコイどおりにあるグランドホテルが気に入り定宿だ。今回の撮影で、やはりマジェスティクに宿泊することになったが、不思議と以前ほど騒々しくない。ドアや窓がすべて二重窓になっていた。やはり客からのクレームで問題になったのだろう。ロバート・キャパの時代はどのくらいうるさかったのだろうか。現在みたいにバイクや車が道路にあふれることはなかったろう。きっとのんびりしたものだったのではないだろうか。

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ロバート・キャパとサイゴン 1

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1925年建設された、サイゴン(現在のホーチミン市)の歴史的なホテル、マジェスティクホテルは、例えば日本人で言えば開高拳や、写真家の沢田教一など多くのジャーナリストや作家が宿泊し、屋上のバーに集った有名なホテルだ。
僕が初めてベトナムを訪れた1994年は改修中で泊まることができなかったが、翌年1995年には念願かなって宿泊した。館内で何度も撮影をしているが、年々、サイゴン川の大型船の往来や(特に深夜)、バイクや車の騒音で、何日も連泊すると、うるさくて眠れない状態が続き、最近は宿泊することがなくなっていた。
ところが、この有名なマジェスティクホテルに、ロバート・キャパも泊まっていたという事実を僕は突き止めた。
1954年4月、キャパは毎日新聞社、カメラ毎日創刊の招待イベントとして日本に滞在していた。日本各地を撮影するといったかなり自由な、そして歓待された旅だった。それは約6週間の充実した撮影旅行の予定だった。
ところが、旅の半ばの4月28日、アメリカのグラフ雑誌ライフより、同じ東洋の戦場、フランス植民地だったベトナムの取材を急遽依頼された。キャパは悩む。しかし結局インドシナ、ベトナムに5月1日旅立つことになる。
キャパはまずバンコクに向かう。この辺のくわしいことは、「ロバート・キャパ最期の日」を読んでもらうとして、僕はそれまでの定説だった、キャパの伝記に書かれている、東京からバンコクに向かい、そこでベトナム入国のビザを取るために1週間以上もバンコクで足止めをくらったと書いてあることにつねづね疑問を感じていた。バンコクから直接ハノイに、ディエンビエンフー陥落の翌日、5月9日にハノイに到着したと書かれているのだ。
たしかにキャパは、バンコクのオリエンタルホテルから母ユリアに手紙を書いている。そこから9日、ハノイに到着して、マグナムに連絡するまでの約10日間、いったいキャパは何をしていたのだろうかという疑問だった。ベトナム北部デルタ地帯や、ディエンビエンフーは戦闘状態だとしても、タイのバンコクからフランス内独立国カンボジア、そしてサイゴンまでならば陸路だって移動可能だ。それなのに一週間以上も、バンコクにキャパが滞在した根拠はなんなのだろうか。日本の滞在中のイベント満載のハードのスケジュールに疲れて、バンコクでのんびりとビザが発行されるのを待っていたとでもいうのだろうか。この一週間を僕はずっと幻のバンコク滞在と位置づけていた。どうかんがえたってミステリーだ。
しかしある日それが氷解した。「ロバート・キャパ最期の日」のゲラ校正をしているとき、インドシナにおける、キャパの約40本のコンタクトプリントを見る機会があったのだ。そしてそこに、一葉の特別なコンタクトプリントをみつけた。それは、絶対にハノイでは撮ることのできない景色、サイゴンを知っている人間だったら容易に発見することができる景色だ。そのコンタクトの約30コマの写真のなかに、あきらかにサイゴン川を高いビルの位置から撮影している写真があったからだ。さらにくわしくみると、ドンコイ通り(カティナ通り)から、遠くにコンチネンタルホテルが写っている写真を発見した。サイゴン川を撮るアングルには、マジェスティクホテルがある。ロバート・キャパは室内でも撮影している。床のタイルは、現在はまったく失われているが、かつてはマジェスティックの床の模様だ。
続きは、ロバート・キャパ最期の日、ブログ

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2004.11.19

写真は真実を写すのか

合成写真から発した、写真についての考察―――写真は真実を写すか

北朝鮮の合成画像について、前回に書いたが、そこで指摘したとおり、写真は真実や事実を写しているわけではないということを書く。
写真は英語でPHOTOGRPHだ。直訳すれば、光の画だ。かつて写真を「光画」と読んでいたグループもあった。それがなぜ、写真、真を写すという言葉になったのか、勉強不足の僕は知らない。ところが写真については、日本語に「撮影」という言葉がある。これこそ、写真の本質をついている言葉だ。影を撮る。影を写す。例えばよく晴れた冬の日中、外にでて、足元を見れば、自分の影が地面に伸びている。さて、その影を見て、自分の事実が映っているなんて思うだろうか。あくまで自分の影が地面に映っているだけで、自分ではない。手を使えば、影絵で、狐にも、犬にも、鳥にもなれる。それはしょせん影なのである。写真は現実に存在するもの(そこのところは疑わない前提で)が、なんらかの光によって、照らされて反射されたものが、最終的にフィルムや印画紙に定着したものだ。例えば、地面に感度の低い大きな印画紙を広げ、自分の影をその印画紙に落とす。
そしてじっとすること数分、太陽の影以外の部分は、強く感光して色が変わる。いってみれば日光写真だ。そこには、影の部分は白く、そのまわりが変色している。それが写真の原理なのだ。その影をみて、自分が映っていると思う人はいないと思う。あくまでそれは「自分の影が定着している」にすぎない。写真の原理は影を感光させることにある。
さて、もう一つの写真の原理、カメラオブスキュラ、暗箱、ピンホールカメラがある。ピンホールカメラはご存知のように、レンズを使わず、針で開けた穴が結ぶ画像を、フィムルや印画紙に定着させたものだ。この原理を人類はかなり昔から知っていたと思う。なぜならぼくは、幼児のとき、誰にも教えてもらっていなのにすでに知っていたからだ。
かつて、戦後、我が家は安普請の県営住宅だった。6畳、4畳半、一坪の台所、半畳の便所、一坪の玄関しかない小さな木造住宅だった。土地は50坪あり、今の東京の住環境からはずっとよかった。(後に増築)。ある日の朝、日曜日だったかもしれない、家のものはまだ誰も起きていない。そとは天気がよかったのだろう。雨戸の隙間から光が漏れていた。ふと窓を見ると、僕はそのとき大発見をしていたのだ。
当時、間伐材を使っていたからだろうか、物資の少ない時代、家屋の材料である木材は節穴だらけだった。寝るとき天井を見ると、その節穴がさまざまなものに見えて、怖かった記憶がある。雨戸には無数の小さな穴があった。
その朝、真っ暗な部屋から、引き戸のすりガラスを見ると、そこに何かぼんやり写っている。それもひとつや二つではない。なかにはかなりはっきりと映っているものもあった。よく見るとそれは、さかさになった自分の家の庭ではないか。垣根のさきに、なにやら動いているものもある。それはフルカラーでとても美しいものだった。僕はその後、それを朝みるのが大好きだった。
しかしたいていは、母親のほうが早く起きてしまうので、見ることはできない。
僕は小学校2年生からカメラを持っていたが、その暗箱の原理を、写真と結びつけることはなかった。使っているカメラはブラックボックスで、同じものだとは思えなかった。だいたい写真もモノクロしかもたことがなく、その現象が写真そのものだと思ったのは、高学年になり、二軒隣の写真屋さんが持っていた、二眼レフカメラのファインダーをのぞいたとき、その像が同じものだと知ったのだ。(たぶん成長して科学的に考えられるようになっていた)。暗箱の、ピンホールの描く像の発見は、自慢ではなく、きっと太古から、人間はとっくに知っていたのだろう。条件さえあえば、どこでも再現される自然現象だからだ。僕の家にしても、生まれたときからそんなふうに天気がよければ毎日見えていたことになる。
さて、暗箱(暗室)カメラオブスキュラは、昔からあったとしても、やはり科学技術が発達した19世紀になってはじめて、写真は生まれた。感光剤の発明、発見だ。それまでの像が、感光剤を塗った、ガラスや紙に定着して初めて写真となったわけだ。しかし最初はモノクロだった。光の濃淡が定着できただけだ。その像は陰影だ。明るさ、暗さのグラデーションが定着した。
それがしだいに、鮮明にそして、カラーになり、現代の写真になった。しかし、根本は存在するもののから反射した光と影を、定着したものにすぎない。それはやはり「影」なのである。「影」は、決して現実とは違う。写真が現実を映しているわけではない、「現実の影を写している」のだといつも意識していなければならない。そうすれば、安易に、写真を信じすぎることも、信じないといった極端なこともないだろう。

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2004.11.17

うまい写真家、へたな写真家

昨日の夜、恵比寿で、写真関係者4人で飲んだ。僕Yと、40代写真家H氏、40代写真家A氏、30代写真評論家T氏。それぞれ活躍中の面々。僕は8時ごろから参加。すでに皆出来上がっている。H氏は、飲むとますます明るく辛らつ。A氏は、多くの著作のある独身。長年つきあいのある美しいガールフレンドがいる。きちんと合うのは2度目。ちゃんと話すのは初めて。そして、子供ができてからすっかり子供好きになった写真評論家。酔って、写真のうまい下手論争。主に私YとHで議論。最近の若いカメラマンは全員、へたくそだという結論。でもうまいからいって、うまくゆくわけじゃない。へたなほうがよかったりする。でもHは下手なカメラマンは嫌いだという。キャパがうまいかへたか。ブレッソンがうまいのか。土門拳はうまくて、木村伊兵衛は、へたか。Yは、キャパはけっして写真が下手だとおもわないという。ブレッソンよりもうまいと信じている。うまいとは美術的であるのか。いや違う。A氏はキャパよりブレッソンがうまい派。でもエルスケンはうまいと思う。皆好きだという。かんかんがくがく。
さて、ここからは僕の意見。今のカメラマンは、写真を一枚で見せることにさほど興味があるように思えない。一枚の写真で勝負するには、写真はうまい必要がある。しかし、何枚かの写真、多くの写真で見せて、表現するには、うまい写真なんてないほうが伝わる。キャパとブレッソン、ブレッソンはやはりうまいのかもしれない。でも美的で何かが伝わらない。おどろき、感嘆。でもキャパの写真は伝わる。うんそうだろうか。キャパは、撮っている期間が短いのでコンタクトプリントほどではないけれど、かなり多くの写真が発表されている。たしかにへたくそな写真もある。でもそのすべてがキャパだ。ブレッソンはコンタクトプリントを見せない。遺言でもいっていたらしい。傑作の前後の写真。それは教えない。自分が選んだ写真だけが、ブレッソンの写真だ。それにひきかえ、キャパは、だいたい、最近キャパの撮ったカラー写真が発掘され発表されたが、どれもつまらない。でもそれは、かたっぱしから見せるからそうみえるだけで、選んだ写真を見せれば、へたではない写真もあるだろう。いや、キャパは撮りまくる写真家なのかもしれない。
構図を待っていない。傑作をまっていない。主義主張もない。ただ、目の前の出来事に反応しているだけだ。シャッターを押す、一こま一こまは、指の体操かもしれない。ごく軽い刺激でシャッターを切る。だからこそそこに突発的に飛び込んできたもへ、反応できる。その写真を撮るための準備なのだ。‥‥。そうおもいながら、そんなのどのカメラマンもそうではないか。いや、大型カメラを使えば、そんなことはないなどと‥‥。どこで撮るかセットしなければならない。そこにはなかなか偶然性は飛び込んでこない。
さて最近の写真の傾向は、皆荒木さんの影響下にある。写真をみると、ついことばを重ねたくなる。そこがかつての写真家と違うところだ。たくさんの写真をみせるやりかたは、映像のようでもある。写真で映像をやっているみたいだ。
そこには、一枚一枚の写真は解体される。全体で言葉にならないなにかを表現している。
さて、僕のような一枚の写真に興味のある写真家は、多くの写真をならべても、ボリュームとしては何かことばにならないことをいっているようで、実は何も語っていない。いや語ることを拒否したくなる。みたまま、なんだかわからなくていいじゃないか、とさえ思えてくる。主題はない。主題は、僕が撮っているというだけのことである。いいすぎだろうか。

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2004.11.15

七五三と襦袢

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写真をクリックすると、少し大きくなる。 NikonD70 Tamron28-75mmf2.8

日曜日、三島大社に行った。七五三をするためだ。実はまだ娘は5歳、といって5歳の祝いではない。
七歳の祝いだ。今年の12月で6歳、かぞえで7歳というこじつけだ。そんなに早くして意味があるのかわからないが、小学校に入らないうちに終えてしまうこともあるのだという。
僕は七五三をやって覚えがない。記憶がないだけかもしれないが、千歳飴をなめた記憶はあるし、あの袋を覚えているのでやったのかもしれない。たぶんやったとすれば5歳のときなので、もう50年近く昔のことだから忘れたのだろうか。境内は、晴れ着をきた女の子ばかりが目立っていた。男は一回しか祝わないし、服も特別変わった子はいなかったせいか、絶対的な人数がすくないからだろうか、境内は女のこばかりだった。
僕の時代、七五三は、男の子でも派手な子がいた記憶がある。近くの靴屋の息子は、全身皮でつくった、カーボーイの扮装をした。ちょっとうらやましかった。
娘は、家に帰り、窮屈な着物を脱いだが、襦袢が気に入り、脱がずに遊びまわっていた。こんな子供でも襦袢すがたはなまめかしい。

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2004.11.14

撮られる写真家、撮る写真家

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キャパの本を出してから、インタビューなどで写真を撮られることがふえた。たいていは僕よりずっと若いカメラマンでやはり、同業者を撮るのは緊張するらしい。なにか見透かされるような気がするのだろうか。ただ実は僕のほうが緊張しているので(少し)なしにしろ、写真を撮られるのは、あまり好きではないからだ。幼児のときには、カメラから逃げ回っていた。それがいつのまにか撮るという職業になっている。ところが、こうやって撮られる側になると、撮られるほうの気持がよくわかり、いいべんきょうでもある。料理のようにさっととって、うまく写ればよいけど、とおりいっぺんの撮り方だとつまらない。結果しつこくなる。被写体に気をつかう。一ぽう、僕はどう動けばよいのかわかっているけど、何か演じているようで照れくさい。このところ、何人のかのカメラマンを、撮影中、逆撮影している。カメラマンだから、カメラを持っているのが自然だからだ。僕がとる場合、ファインダーを覗かない。ノーファインダーだ。タムロンの28-75mmのズームを少し望遠よりにしたり、ワイドのままにしたりして撮る。撮る側を撮るって、かなり面白い。ちょっと機会があれば続けようと思っている。
Photographaer Shinjo by Alao Yokogi

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2004.11.12

デジで本

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デジで本(デジタルカメラで作る本格的な写真集)という、HOW TO 本の表紙ができました。
まだ、これは完成系ではありません。手直しが入ると思います。この本の、プログもつくります。発売は12月中旬の予定です。

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2004.11.10

The Eye Forgetについて

このブログの、「The Eye forget 」とは、ロバート・キャパが、1954年4月、日本に滞在したおり、日本は「ピクトリアル・パラダイスだ」(写真の天国)と叫び、「TheEyeForget」という、タイトルの写真集をつくりたいと言ったことから、取っている。

残念ながらキャパは、日本での取材の途中仏領インドシナ(現在のベトナム)に行き、1954年(昭和29年)5月25日、フランス軍に従軍して、ベトナム北部、ハノイ南東80キロ、ナムディンからタイビンに向かい、ドアイタンの要塞から、タンネ(現在のキエンスオン)の前哨基地に向かう途中、左に曲がった堤防にのぼり、地雷を踏んで死んでしまった。
結局、日本での写真集、「TheEyeForget」は作られることはなかった。

このプログは、いままであった横木安良夫のサイトのDigtalDaybyDayの続きとして移行する。
ただ、今までよりは少し内容を、考えて書くようにする。今のところコラムのようなものにしようと思っている。

「ロバート・キャパ最期の日」(東京書籍)について、のブログは別に作る。「ロバート・キャパ最期の日ブログ日記

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