2005.03.20

横木安良夫Blogトピクス

今までのBLOGからトピックス
3月3日から12日まで、アメリカウエストコースとに行った。
超広角レンズのゆがみを取る方法?
横木安良夫 ベトナム撮影ツアー募集今年に6月に、ベトナム撮影ツアーを計画している。
ロバート・キャパIN SAIGONリチャードウイーランの伝記では、キャパは、1954年4月、日本滞在後、バンコクからハノイに行っていると書かれているが、実際はサイゴンから、ベトナムに入っている。
■「ロバート・キャパ最期の日」のBLOG
キャパ・イン・カラー写真展開催中 その1はここをクリック
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ロバート・キャパ写真展「ロバート・キャパ・イン・カラー」 その1に行く
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●「僕のコダクローム 沢田研二」
「M7.3子供たちがみたもの」TOP 阪神大震災から10年、当時まだ幼く何も語らなかった彼等は今十代になり、震災について何を重いっているのだろうか。その本についてのブログ。
デジタルで撮れない大型カメラの世界 その1

2mフォトグラファー、小堀正一
ポラロイド195ランドカメラとネガつきポラロイドモノクロフィルムType665
怪獣映画「ゴジラ誕生50年だったな」
流行通信
40年以上も前のクリスマス
ベトナムのモデル1
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ベトナムNo.1の歌手、ミイ
タム

ベトナムのモデル2
ピンクレディ キンスマ
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2005.03.11

USA-6 脅威のHeastCatle 

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3月9日、ラスベガスを昼前にたち、15号線をロス方面に向かう、途中101号に乗り、目的地のサン・ルイズ・オビスポに行く。海辺の美しい町。朝6時に起きて、まだ日が昇らない周囲を撮影する。BestWesternとうモーテルに泊まった。かつてはモーテルといえば、50ドルぐらいで泊まれたが、いまや100ドルぐらいもする。それでもネットのディスカウントだ。ホテルはどこも、インターネットはランで使える。ここも無料だった。
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3月10日、今日の目的地は、19世紀中ごろから、20世紀中盤に活躍した、アメリカの新聞王(メディア王)ウイリアム・ランドルフ・ハースト(1863-1951)のお城の、HearstCastleを見ることだった。それはアメリカの夢だった。採掘技師だった父親は財をなし、教養のある母親に世界を教えられる。子供時代母親に、バッキンガム宮殿のなかになぜ入れないのかその理由を聞き、だったら買ってしまおうと言ったそうだ。母親は金では買えないものがあるとさとしたという。ハーストといえば、映画にもなった「市民ケーン」のモデル、イエロージャーナリズム、などと諸悪をつくしたメディア王という面が、歴史のなかで燦然と輝いている。そんな彼が56歳のとき、それまで親に止められていた、お城づくりを始める。世界中の美術品、工芸品を、かいあさり、こどものころからキャンプした、想い出の丘に壮大なお城、夢を作くりはじめたのだ。ハーストのこの土地は、東京都の半分ぐらいもあるという。ちょっとその広さは想像がつかない。女性建築家と2人3脚でつくったが、28年もかかったという。ハーストは美術品ばかりか、世界中から動物も集めたという。完成したときには、すでに84歳。88歳までいきたが、この宮殿で毎日のようにパーティをした。招待された客の部屋に衣装も用意され、サイズが合わないとお針子がすぐに来てなおしてくれたという。その服は当然持ち帰りだ。ハーストは多くの有名人を招待した。チャップリン、クラークゲーブル‥‥。映画会社も持ち、愛人であるマリオンデイビスのために50本近くの映画をつくったといわれている。ハースト・キャッスルに招待された客は、いろいろなルールがあったとう。酒は飲んでも酔ってはいけない。客は自分たちの部屋でパーティをしたそうだ。ただここには、10mx10mの四角の巨大スクリーンのある、映画劇場があり、普通の映画館の広さだ、義務としてそこで毎日映画を見なければならなかったらしい。上映される映画は、すべて愛人の主演する映画だとおう。長くここに泊まった客は、同じ映画ばかり見せられるので、せりふまで覚えてしまったという。しかし、劇場の座席はゆったりとしたビロード張りの大きな椅子で、みなしっかり昼寝ができたそうだ。そしてもう一つのルールは、夜のディナーには絶対に参加しなければならない。そのとき、酔っていてはいけない。少なくともシャンペングラスをきちんと持てなくてはならなかったようだ。当然皆部屋でパーティをやっていて、飲んでいるの口にコロンをふりかけ、臭いを消したという。ハーストのその毎夜のパーティも、高齢であるハーストにとっては、本当はどのくらい楽しかったのかはわからない。後に、この王宮を造っていたいときが、一番楽しかったと語っている。残された写真を見ても、顔ぶれは変わらず、きっと短い間のことだったのかもしれない。富と名声を得て、そして子供の頃からの夢だったお城づくり。でもそれを得た瞬間、そして招待した客のマナーの悪さに、いつもいらいらしていたようだ。ヨーロッパの歴史と伝統に憧れ、アメリカと言う土地に、本物と偽者を混ぜ合わせて作った、この建物は、どこか安手の臭いがする。同じお金をかけて、当時の現代アートを集め、そのときの現代建築をつくったならば、歴史上の素晴らしい遺産になったと思うが、まるでディズニーランドのような、フェイクそのままのたたずまいまいはどこかさびしげだった。
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ハースト家といえば、1974年、このお城作ったハーストの孫娘、パトリシア・ハースト誘拐事件だ。誘拐された娘がいつのまにか、誘拐側になり、強盗事件も起こしてしまう。結局逮捕され、裁判になって有罪になるのだが、マインドコントロールされたと主張した。
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この広大な土地と施設は、ランドルフ死後しばらくして、カリフォルニア州にその運営をまかせたという。使用権、運営、開発はカリフォルニア州だが、所有権はいまでもハースト家が持ち、今でもこの広大な土地のどこかに、ハースト家の別荘があるそうだ。

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2005.03.07

サクラメント アメリカ USA-4

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3月5日は、日本ではすでに6日。天気快晴。朝から晴れ渡る。気温は前日の10℃ぐらいからぐんぐんあがり、昼間は20度を越す。サクラメントの女子高校生を二人撮影する。
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明日からは、5号線を南下して移動しながらの撮影をする。

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サンフランシスコ USA-3

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3月5日のサンフランシスコは晴れだ。この日も友人の住むサクラメントから車で2時間弱かけて、サンフランシスコに向かう。サクラメントは霧に包まれていた。途中から霧は晴れ、快晴。サンフランシスコにもほとんど雲がないが、少しガスがかかっている。 
映画ダーティハリーのなかで印象的なシーン、ロンバード・ストリートという、くねくねの道から、コイトタワーに向かって撮影する。コイトタワーは、消防の放水ノズルに似た形の塔だ。サンフランシスコに来るたび、驚くことは、なぜこんなに丘だらけ、急坂だらけの土地に、碁盤の目の都市計画がされたのだろうかということだ。現代のくるまだからやっと上れる坂もある。ロンバートストリートも、かつてそんな急坂を下りられるクルマがなかったかららしいが、それにしても、この道路の作り方は異常だ。しかし、だからこそサンフランシスコ風景があるのだし、ケーブルカーが発達したのだろう。土地のでこぼこを徹底的に無視した、碁盤の都市計画のよいところは、どこにいても、すぐにいろいろなルートで目的地につくことができる。そのせいで、サンフランシスコの街の中に、渋滞が少ない。
サンフランシスコには、ホテルに関して二つの想い出がある。それはある車の広告のロケハンのときだ。ロスから、車の撮影地を決めるため、宿泊予定の決まらない気ままな旅をしていた。そのため、あぶなく夕食をたべそこないそうになったり、誰も客のいないモーテルに泊まったりと珍道中を続けていた。
そしてついにサンフランシスコに到着して、やっとまともなホテルに泊まれると皆で安堵したが、そんな旅のしかたのむくいか、理由はわからなかったが、サンフランシスコのどのホテルも満室だった。コーディネーターの読みの甘さもあるが、まだ携帯電話がない時代のことだ。まさかサンフランシスコのような都会に部屋がないとは誰も考えもしなかった。このまま郊外に戻らないと寝る場所がないと途方にくれた。それでもようやく見つけたのが、パークハイヤットだっただろうか、スイートと、まるで女中部屋のような小さな部屋の二部屋だった。結局定員だけチェックインして、あとはソファに雑魚寝した。僕はスイートのベッドに寝たので何の問題もなかったのだが。
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もうひとつの想い出は、その数年後、今はないが、「STYLING」とう、高級雑誌でサンフランシスコとニューヨークの取材をした。サンフランシスコでは、ヒルトンホテルの高層階にあるスイートの屋外ガーデンで撮影をした。
宿泊は、丘の上にある、重厚なホテル、ハンティントンに泊まった。当然そこでも撮影した。エレベーターガールが、その道何十年の老婆だったろうか。僕はライターの女性と二人でディナーを食べるために、すこしめかしこんでエレベーターに乗った。すると老人が話しかけてきた。僕がホテルのなかで撮影していたことを見ていたのだ。
老人は「私は今から家内と食事に行くが、帰ってきたら是非自分の部屋の写真を撮って欲しい」という。
「実は今日は、結婚記念日で、このホテルの○○号室には、新婚以来、毎年かかさず二人で泊まりにくる、想い出の部屋だ」という。
なんとロマンチックな話だろうか。そんな老夫婦の想い出ふかい部屋の写真を撮るなんて、光栄だし、こういう古いホテルにはそういう想い出がいっぱいにつまっているんだなと、感心したりしていた。もちろん僕は快諾した。
ただ奇妙なことに、僕がご夫婦二人でも一緒に撮りたいというと、いや、部屋だけを撮って欲しいという。
そして夜、約束した部屋に僕は4x5カメラを持ち込んだ。僕の泊まっている部屋より狭いが、それでもゆったりとした素敵な部屋だった。新婚の夫婦が泊まるには、十分な豪華な部屋だった。鏡の横には大きな花が花瓶に飾られていた。
老人はひとりで僕を待っていた。そして好きなように撮ってくれという。僕は数枚撮影した。本心は老夫婦のポートレイトも撮りたかったが、固辞された。
そして異様なことにも気付いていた。それはクローゼットを見ても、女性のものがなにもないからだ。どうみてもその老人一人でこの部屋に泊まっているようだった。
老人は始終にニコニコしていた。僕は担がれたのだと思った。ぼくは彼の真意を聞きたかった。しかし聞くことはできなかった。十分想像できたからだ。ただの頭の狂った老人ではない。きっと新婚以来この部屋に宿泊することは本当のことなのだろう。ホテルの従業員が彼に対する態度の優しさから、毎年この日に泊まりにくることが本当だと思えた。
その妻がすでに死んで、その想い出を、二人の約束を果たすため、こうやって一人になってもこの部屋に泊まりにくるのだと。
きっと今だったら、僕は、従業員にたちに聞き、その僕の妄想を確かめたと思う。しかしその頃の僕は、この素敵なエピソードにであっただけで、それを誰かにさらに詳しく聞いて、事実を補強する気持ちなどさらさらなかった。いや、ただの頭のおかしい老人なんだよと、笑われるのが怖かったのかもしれない。
そのとき撮った写真はどこにあるだろうか。当然、「STYLING」という本にはその写真は載らなかった。ハンティングトンホテルの写真はもっと豪華な違う部屋が雑誌には掲載された。

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2005.03.04

アメリカ入国 USA-1

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久しぶりのアメリカ入国。サンフランシスコのイミグレーションは、かつてはかなりの時間待たされた。システムがよくなったせいだろうか、さして並ぶこともなく審査になる。審査官は、ニコニコと態度がよい。
いくつかの質問、すると帽子とメガネを取ってくれと言う。素顔のチェックかなと思ったら、自在足がついた、小型カメラの前に立てという。それをパソコンに取り込んでいる。そして、両手の人差し指の指紋をスキャニングする。もうこのさい人権もなにもない。僕はアメリカ政府に顔と指紋を登録された。きっと犯罪を犯せばすぐに足がつくだろう。
成田の、手荷物検査は簡単だったけれど、サンフランシスコからサクラメントへの国内線利用の、手荷物検査はかなり徹底している。まず靴を脱いではだしになる。そしてジャケットを脱ぐ。ベルト、時計。パソコンは裸にしてトレイにのせる。そうやってX線検査を、はだしの僕は金属探知機のゲートを通る。無事通過。
サンフランシスコ天気はうす曇、気温は10度ちょっとだろうか。東京よりはずっとあたたかい。その後、サクラメントまで40分ほどのフライト。満席だった。隣に、かなりのデブが座わり、まったく動けない時間を過ごした。友人に出迎えてもらい、レンタカーを借りる。今日はその友人のところに泊めてもらうことにした。
サクラメントは、カリフォルニア州の、州都だ。ゴールドラッシュの頃栄えたまち。オールドサクラメントは、いまや観光スポットだが、ビクトリア風の建物がたくさんのこっていた。
時差ぼけのせいだろうか、それとも数日前にひいた風邪が悪化したのかもしれない、医者に処方された薬を飲んでいるが、だるくて眠い。今日は早く寝る。

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2005.03.03

撮影旅行 サンフランシスコ サクラメント

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3月3日から、約10日間、アメリカ西海岸、サンフランシスコ、サクラメントに撮影旅行にゆく。内容は秘密だけれど、10日間の撮影日記は、UPしてみるつもりだ。途中、くるまで、ロードムービーのように移動して撮影するかもしれない。撮影の準備をしながらも、昨年ベトナムに行って、少数民族を撮った写真を整理している。上の写真は、ベトナムの首都ハノイから列車で10時間、中国国境の町、ラオカイからクルマで4時間、バクハという、花モン族が多く住む土地だ。そこの学校の敷地、たしか日曜日だったと思う、その近く子供たちは校庭で遊んでいた。その中の少女に僕はひきつけられた。警戒する目。じっと見ているので、最初ノーファインダー撮影をしていたが、腰をかがめて、普通にポートレイト撮影。すると突然大声をあげて、カメラから逃げだした。

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2005.02.27

千代田区立中学校統廃合 その2

僕の母校である、千代田区神田にある、練成中学が廃校になる。
それに関する その1

千代田区は2005年4月に、神田地区の一橋、今川、練成の3中学を統合して「神田一橋中」とすることを決めた。区は2002年11月策定の「区の中等教育将来像」で中高一貫の6年制中等教育学校1校の設置と合わせ、従来の中学は麹町、神田の両地区に1校ずつにする方針を示していた。再編校の校舎は現在の一橋中の校舎を利用する。2006年4月に中等教育学校が開設されると、区内の従来の区立中は2校になる。
[2004年2月21日付 毎日新聞より要約]
関連BBS(同じ千代田区の麹町中学のBBS)
千代田区のこと

時代の流れ、都心部の過疎化は、しかたがないのだろうか。
例えばニューヨークのマンハッタンのように、あるごく狭い一角が、物価や住宅が高いとしても、しかたがないが、東京のように、都心の銀座、新宿、青山、六本木、渋谷など、その一部が特別なのはわかるとして、その周辺までもが住民が減っているのはなぜだろう。いやかえって、中心街のほうが、マンションのような住宅ができているのに、秋葉原のような場所は、減り続けている。
やっぱり、ヨーロッパのように、都心部にも多くの人が住めるようになるとよいのだが。

学校制度

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秋葉原の隆盛と区立練成中学廃校 その1

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秋葉原に行った。かつての電気街は、今や町中がパソコン関係で埋め尽くされている。この隆盛は、すさまじく、そしてそこにあつまる人たちの一種異様な雰囲気は、オタクという言葉が特殊なものではなく、日常になりつつあるのだと思えてしまう。今や、8割は男性。年齢は10代後半から、20,30が圧倒的だ。どこも男、男、男。たまに女の子がいてもそれはたいていカップルか、アジア系の外国人。そして白人。この圧倒的な熱気はなんだろう。女性やカップルが渋谷に集まるのとは、対極?に、ここには無言の熱気がある。そしてこの街は、歩きタバコ禁止。でも、外国人が吸っていた。誰かが注意するのだろうか。何年前だろうか、秋葉原は閑散としていた。もう秋葉原じゃないのかなとくるたびに思っていた。日本中に量販店ができて、秋葉原の役目は終わったのかと思っていた。それが、今日のような土曜日は、渋谷に負けないぐらいにぎわっている。
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40年以上まえ、僕は毎日秋葉原を歩いていた。千代田区立練成中学がこの地にあるからだ。
当時はまだ、都立日比谷高校が、日本の高校の中でダントツの東大進学No.1だった。千代田区には、一ツ橋、九段、麹町、今川、練成と5つの中学があった。千葉生まれのぼくがなぜ、秋葉原にある練成中学に通っていたかといえば、越境入学をしていたからだ。千葉や埼玉から、優秀な生徒が、日比谷めざし、受験資格のある千代田区の中学に、住民票を移して、通っていたのだ。3分の1が、地元で、残りの3分の2は、越境通学というある意味異常な時代だった。そのかわり学力レベルは高かった。なにしろ、近郊の国、公立を目指す秀才が、通っていたからだ。
そんななかに、市川の、国府台にある小学校から僕は、バスを乗り、総武線に乗り、秋葉原でのりかえ御徒町でおりて、その練成中学に通っていた。
ただ、多くの越境通学する彼等と僕が違うのは、僕は、全然勉強ができなかったことだった。というより、通っていた小学校は、市川のなかでも一番のんびりとした田舎の小学校で、天気がよければ授業を中止してハイキングに行くような理想的?な小学校生活送っていた。なにしろ、勉強をすることを知らなかった。
全校生徒、約1000人以上、一学年300ぐらい(もっといたかな)、なにしろ団塊の世代、ベビーブームの時代だ。僕は始めて、勉強をすることを知ったが、まあレベルは関係なく、私立の優秀な受験校に、学力を無視して一緒に授業を受けているようなものだから、ちんぷんかんぷん、授業を受けていた一日は異常にながかった。このことは、以前の日記に書いたが、僕は、この暗黒の中学時代は、心のなかから抹殺していた。何も考えていなかったし、考えたくもなかった。そんな中学の3年間で僕は、24センチ身長が伸びた。途中2年の始まりに、病気をして1月休んだ。なにが原因かわからないが、もともと運動神経は悪いほうではなかったし、短距離はまま早いほう、長距離は学年で2番と強かったが、練成中学では僕はいつも短距離走がビリになった。どうして東京の連中って、走るのが速いんだろう。僕は学力ばかりか、運動能力も落ち、大きなコンプレックスを感じていた。得意の長距離は、それを証明する場はなかった。小学時代は、かなり積極的、楽天的だった性格は、うちにこもっていた。その小学校からは、初めての生徒だったので僕の情報はなにもなかった。運動会で長距離走が得意な者と、問われたとき、僕は自分から言い出すことはできなかった。それほど内にこもっていた。唯一、国語と理科が好きだった。国語のたいしたことはなかったが、理科は勉強しなくても、もともと子供の頃から、科学には興味があり、そういう本ばかり読んでいた。そして僕は「安良夫」という名前にもコンプレックスを持った。なぜなら、皆先生が読めないからだ。「横木君なんと読むの」「あらおです」というと教室はわらいに包まれた。なぜ。そんなとき、国語の担任、松田稔先生(後に国学院教授)が、一発で読んだ。やはり国語の先生は読めるんだとうれしくなった。授業はよく聞いていたが、残念ながら成績には結びつかなかった。周りができすぎた。
僕は孤立して、ひとりでいることが多かった。登校は、御徒町からだったが、下校は秋葉原駅に向かった。当時の秋葉原は、後の賑わい、現在の賑わいとはかけはなれた、部品の街だった。中学生にとって、それは迷路であり、さまざまな電気部品をみるだけで楽しかった。僕はひとりで歩き回った。そして秋葉原デパートを徘徊した。
まわりが、勉強しているので、僕も少しは勉強をしたが、成績はよくならなかった。皆僕の何倍も勉強していた。
結局、高校進学は、レベルの高い、一学区をあきらめて、学区を変えてある都立高校を受験したが、見事に落ちた。結局僕は私立の高校になんとか入り、ようやく落ち着いた。
すぐにブラスバンドに入った。中学ではブラスバンドができたばかりで、募集があったが、勉強ができるやつばかりなので、気後れして、入れなかった。だから高校に行ったら絶対にブラスバンドをやりたいと思った。
高校時代、のびのびとした学園生活を満喫した。勉強はしなかったが、360日は、学校にゆき、ブラスバンドの練習をした。そして運動会で短距離走を走ってみると、早いほうになったし、長距離はクラスで3番だった。(全国レベルの水泳特待生がクラスに二人いた。彼等は早かった)水泳は、25mを15秒台で泳いだ。(水泳部は12秒台だった)
あの暗黒の中学時代はなんだったのだろう。僕は中学時代の出来事を思い出すことはなかった。
一度だけ、カメラマンになってから、校門の前をクルマで通った。校舎が新築されていた。すでに、日比谷はNO.1ではなくなり、越境通学する生徒もほとんどいない時代だった。敷地いっぱいに校舎は立ち、屋上が全体がグランドになっていた。それを見たとき、僕は、もうこの学校とは関係ないんだと思った。
ところが、2年前、写真展をしているときに、1年の担任だった、小原俊平先生が会場にかけつけてくれた。
僕は、その先生があまり好きではなかった。真面目でタイトだったからだ。
会場に来ると電話があったときには困惑した。それでも酒を飲み話をして、先生が僕のことをよく覚えていてくれたことを知り、救われた。先生もそのとき、新任、新米教師だったこと。超受験のこの学校に来て、カルチャーショクだったこと。そして、僕のあること。いってみれば、僕がバカではなかったことなど。
そんなこと、最悪だった中学生の時に言ってくれたら、と思ったが、でも、こうやって、わざわざ、自分の教え子を気にして、そして自分の人生のプライドとして、会いに来てくれたことが嬉しかった。教師とは、こういう仕事なんだと僕は思った。そして僕は、こころに押し込めていた、中学時代を解きほぐすことができた。そう思うと、中学時代のさまざまなことを思い出した。図書館が好きで、自然科学ものの本ばかり読んでいた。などと、それまでの外交的だった僕が、その3年間は、自分の心の内側に向かったときで、きっと僕の人格のある部分を、その時代が作ったのだと思えてきた。
その後数度、小原先生と酒を飲んだ。それが先日、電話があり、実は練成中学が、統合、廃校になるという。それも
3月でおしまいだそうだ。3月12日にそのお別れがあるという。そして、2月26日に、OB会?(教師関係)の紫光の会があるので、そのときにスナップ写真を撮ってくれないかという。昼間の2時間ぐらい、歓談中にチョコッとでよいという。僕は快諾した。
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前列、左から2人目が松田先生、その右が生物の田中先生(カバと呼んでいた。後列一番左が小原先生。
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練成中学は、昭和23年、東京大空襲で焼け爛れたこの地に開校した。僕が生まれる前の年だ。始めは先生も少なく、いくつかの科目を兼任したという話だ。父兄や多くの人々の尽力により、多くの生徒がここで学んだ。
それがいまや全校生徒がたったの98名だ。1年15名、2年45名、3年38名。僕の時代は越境入学が多く、当時か等地の生徒は少なかったが、それでも300名以上はいたことになる。まるで山村、過疎の地の学校のようだ。生徒が減れば、統合し、廃校になるのはしかたがないかもしれない。しかし、そこを卒業した生徒の歴史がここで絶えることは事実だ。街にでれば、若者であふれているではないか。しかし、この街に住む人は少ない。秋葉原は子供を育てる土地ではないのだろうか。店舗あかりが立ち並び、ここには生活がない。どうしてこの街で、生活ができないのだろう。それは、国家の政策、都の政策、区の政策の欠場だろう。廃校になってから、若い人を集めるための住宅にするという案もあったらしいが、家賃がたかくなるとかで、見送られた。まあ、きっと何かの施設になるのだろう。東京の街は、中心部に大開発のマンションが建ち始めている。しかし秋葉原地区のような、商業地区には立つことはない。どうしてだろう。ヨーロッパのように、都会の中心部にも多くの集合住宅、アパート(日本的に言えばマンション)がある。どうして東京ではそういうことができないのだろうか。
都心部の空洞化は、政策の無策の結果でしかない。
ともかく、千代田区立練成中学校は、3月限りでなくなる。せっかく僕の心のなかでは、練成を認めたのに、なくなるとは、少し寂しい。

2003年5月30日DayByDay日記より練成中のことが、重複しているが、書いてある。

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2005.02.22

キャパとコダクローム他

今までのBLOGからトピックス

ロバート・キャパIN SAIGON伝記では、キャパは、日本滞在後、バンコクからハノイに行っているが、実際はサイゴンから、ベトナムに入っている。
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デジタルで撮れない大型カメラの世界 その1

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ポラロイド195ランドカメラとネガつきポラロイドモノクロフィルムType665
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流行通信
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ベトナムNo.1の歌手、ミイ
タム

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2005.02.04

1999年のウラジオストク 今年も行こうと思う

vladivostok001
Eos5 EF24mm f2.8 RVP +1増感

1999年、20世紀最後の年に、極東ロシアの都市、ウラジオストクに行った。新潟から1時間半。日本から一番近いヨーロッパだ。今の季節は極寒でも、5月から9月いっぱいは、北海道のような素晴らしく気持のよい気候だ。ウラジオストクは、ソ連時代、軍港だったので、外国人は入ることができなかった。幻の土地だ。いったいどんなところか想像もできなかったので、その年行ってみる事にした。車で飛ばせば東京、新潟間は、4時間もかからなかった。
今、ウラジオストクニは多くの日本人も住んでいる。この6年間でどんなふうに変わったか興味がある。もっとも、6年前だって、ウラジオストクは都会だった。クラブがあったりして、おしゃれだった。そのときのウラジオストク・ナホトカ・レポートは、わりとちゃんとしているので見て欲しい。
ウラジオストクの情報は、「ウラジオストク通信」が充実しています。

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2005.01.17

阪神大震災10年 M7.3子供たちが見たもの-11

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1995年1月21日 AM7時 
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2005年1月17日AM5時46分 阪神高速崩壊現場
雨が降っている。意外なことに、報道機関はどこもきていない。個人的にここで写真を撮っているのは僕だけだ。皆東遊園地の、慰霊祭現場にいるのだろう。現在6時半、雨のせいか、まだあたりは真っ黒だ。10年前のこの日は、晴れていた。満月だったという。
ラジオからNHKラジオ体操の音楽が聞こえている。10年前のこの日、被災者もこの音楽を聞いたのだろうか。
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今回の震災取材とは直接関係ないが、ある局の取材を受けることになり、7時すぎまでこの場所で待つことになる。
雨が強く降り、なかなか明るくならなかった。7時過ぎると道路には、車があふれ、ラッシュアワーだ。きっと10年前も、7時過ぎていたらこんな状況になっていただろう。
そして、やはり不思議なことは、この現場に報道機関の誰も来ていない事だった。いやきっともっと違う時間に来るのだろう。それとも、ここの崩落現場は、僕個人の思い込みだろうか。
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M7.3-10阪神大震災10年 子供たちのみたもの

2005年1月17日午前5時35分 神戸市東灘区深江 国道43号線 阪神高速 雨 高速道路崩壊現場
あと10分で、阪神淡路大震災10年になる。まだあたりは真っ暗。この時間すでに交通量は多い。
この場所に、報道機関はどこも来ていない。これからここで写真を撮る。
関係記事
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M7.3 子供たちの見たものTop

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2005.01.15

「M7.3」-8子供たちのみたもの 阪神大震災10年

明後日、1月17日は、阪神淡路大震災から10年。
明日の夜神戸に行き、17日は、神戸の崩壊した高速道路の場所で、10年目を迎える予定。
そこからすぐに、このブログにアップしてみたい。実況というわけだ。
17日は一日、神戸で撮影する予定。
インタビュー集「M7.3、子供たちが見たもの」が完成した。日曜日には書店に並ぶと思う。是非ごらんください。
NEXT

M7.3 子供たちが見たもの のTOP

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2005.01.11

コダクロームとブラームス

キャパが撮ったカラー写真の写真展が、2月15日(火)から20日の日曜日まで開催される。
展示されるカラーフィルムのすべてがコダクロームだ。
コダクロームフィルム誕生は、1935年の16mm動画用から始まる。スチール用35mmのコダクロームは翌年の1936年から発売された。現在映画はネガフィルムを使う。使用するときは、写真で言えば印画紙に焼き付けるように、フィルムにプリントとして大量に複製する。
しかし開発された16mmのコダクロームはポジフィルムだ。ポジフィルムは基本的にオリジナルのフィルム自体を、編集して映写機にかけて見ることしかできない。(ポジポジで複製することはできる)基本的にはアマチュア用のフィルムといえる。しかしその鮮鋭度は、美しさは、一度プリントして使用するネガフィルムとは一線を引くものだ。(オリジナルをそのまま鑑賞するせいもある)。後にムービー用のコダクローム、8mmのようなアマチュア向けのフィルムとなる。
しかし、スチール写真は違う。そのまま印刷原稿にもなるからだ。だからスチール用のカラーフィルムとしては画期的であり、現在のフィルムと比べても遜色ない。おりしも35mmカメラ全盛時代、そして後に開発される、カラーフィルムをはるかに凌駕した性能だった。その後、コダクロームⅡ(ASA25)、コダクローム64(KM,KR)と進化(とも言えない、合理化か?)する。しかしその発色は後退し、失望したカメラマンが多かった。(現像時間が短くなった)
僕が写真を学んでいた頃から、フリーになってしばらくの間まで、35mmは、高感度のフィルム以外僕はコダクロームⅡしか使用しなかった。粒状性、カラー濃度は抜群で(デジタルで言えば高画素だということだ)、発色は落ち着いていた。いや、落ち着いていたというのは違う、濃厚だった。日本の冬の発色は不満があったが、ハワイやアメリカ、光線の強い場所でのその色は、今のフィルムにはない素晴らしいものだった。面白いことに、ヨーロッパでは、あまりこのフィルムは人気がなかった。日本の冬と同じように、光が弱く、強烈な発色をしないせいだろう、ファッションカメラマンの多くは発色の派手な、エクタクローム(内式のE6現像は公開され、普通のプロラボで現像できた)を使用していた。
コダクロームは発色が地味だというのでは決してない。濃厚なのだ。
特にルーペで覗くと、エクタクロームとコダクロームは別世界だった。
当時僕は、サイズの大きいカメラ、6x6、6x7、4x5、8x10は、エックタ系の、EPR、エクタクロームプロフェッショナルを使用していた。K2は後にKM、KRと感度の高いものに変わってゆく。残念ながらコダクローム2を知っている僕にとって、ものたりないものだった。また、発色が安定せず、よい乳剤番号を手に入れるのが大変だった。35mmしかなかったコダクロームもブロニーサイズが発売され、増減感も可能になったが、結局成功しなかった。
そんなおり、幾たびか富士フィルムの挑戦が続き、ついに、コダクロームなみの粒状性を持った(E6現像)のベルビア、プロビアが発売された。そしてしだいに世界最初のカラーフィルム、コダクロームは衰退していった。それこそこの10年ぐらいの話だ。
ところで、コダクロームは外式といって、内式のエクタクローム系、ベルビアもプロビアも、現在のほとんどのポジカラーフィルムとは違う。簡単に言えば内式とは、発色乳剤がフィルムに塗られているものであり、コダクロームのような外式は、フィルム自体には、カラー発色乳剤が塗布されてはなく、後で染色するやりかただ。
ただ公開され設備の簡単な、内式の現像とは違い、外式の現像はコダックの特別な設備が必要だった。
ある意味コダクローム全盛時代は、コダックの寡占状態だったわけだ。かの東洋現像所でしかできなかった。時間もかかった。なによりも、印刷特性とマッチして、ある意味、完成されたフィルムだった。
ところで、このフィルムの発明には、なぜか音楽家ブラームスがかかわっているという、ItoKenji氏の「A Plaza of Cara Schumann」という素晴らしいウエッブサイトがある。是非それを読んで欲しい。なにしろ、コダクローム発明秘話がこんなに詳しく載っているサイトは見たことがない。脱帽。
※ItoKenjiさんにリンクした件を事後報告したところ、音楽と写真の巨大なサイトがありました。
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※映画の用のフィルムの記述は正確ではないかもしれない。
日本のカラーフィルム歴史はここをクリック
映画のフィルム

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2005.01.03

ベゴニアガーデン、寒桜 僕の花の撮りかた

伊豆、天城高原にある、ベゴニアガーデンに行った。伊東の街からクルマで15分とあったが、そこに東急のハーベストクラブという会員制ホテルがあり、ビジターも食事ができると聞き行くことにした。ところがレストランとは名ばかりで、なんと昼食のバイキングしかやっていない。正月だからだろうか。大人一人1600円+税。ソフトドリンクは180円?別。なんてことはない、よくスキー場や、夏のホテルの安バイキング。ちょっとおなかが減っていたが、食堂のようなその場所で、入るかどうかまよっていた。入り口で、他にレストランはないのかと聞くと、ないと言う。ケーキやコーヒーの軽食だけだ。
広いホールの様な場所のテーブルは賑わい、内容はビジネスホテルの朝のバイキングをぐっとよくしたかんじ、かといって、いわゆるホテルのバイキングからはほどとおい。1600円ではしかたがないか。実際は軽食でもよかったのだが、はるばるここまでやってきている。
伊東の街から15分と案内板があったが、かなり飛ばして天城高原の入り口までジャスト15分。そこから先日の雪が残る舗装された山道を、まるでスキー場に行くみたいな坂をあがる。この間の雪の日はどうしたのだろうかと思う。ホテルのある頂上付近は強風で、飛ばされそう。しかし今日はさほど寒くはなかったので、凍えるほどではない。娘と雪合戦。
ここに行ってみようといったのは、大室高原に住む、私の母、もう80歳を越えているが、一度行ってよかったという。
母は僕が、何、こんなところで食べるの?と文句を聞くと、ここで食べると、ベゴニアガーデン入場料1000円が無料になるという。
なんというシステム。きっと会員、もしくはパックツアーだったら、すべて込みで安くなっているのだろう。このやりかた、以前ハワイで、間違って、そのときは仕事ではなかったが、たまたますき焼きを食べたくて、入って驚いたことと同じだ。夕食一人40ドル。まあ、それはしかたがないだろうと、思ったが、内容がともなっていない。少し切れた、周りの日本人客、何しろ客は全員日本人だ、彼らは全員クーポン券を持っている。40ドルのすきやきは、クーポン券をもっている人間へのプレゼンテーション、あり地獄に落ちたように、真っ正直で払った僕らは単なる馬鹿だった。
バイキングの食事は予想通り、うまくない。はっきり言ってまずかった。でも値段が、値段か。
そんなわけで、あまり期待していないベゴニアガーデンだったが、正直、食事つき、温泉つき一人1600円は安いと思う。
それにベゴニアをこんなにちゃんと見たことはなかった。見る価値はある。しかし、ベゴニアガーデンだけを見るのは高い。食事、他に温泉つきだと思うとかなりやすい。

さて、まじめに。
撮影講座
僕は花を撮る時、あまり花の状態や形にとんちゃくしていない。それより、シズル感もしくは、光の状態をみている。特にここのベゴニアは、温室のなか。背景が温室に見えないように撮るのがコツだと思う。温室の花なんて、なんだかありがたくないからだ。今回のカメラはEos20D。レンズはタムロン28-75mmを、75mmでf2.8開放の状態で撮っている。ISOは400。Jpeg-Large Fine。
僕は構図を気にしない。それより、撮りたいと思った花を、明快にフレーミングする。幾つかの花弁がならんでいたら、どれをフレームに入れるか選択する。主題が決まったら、不要なものを排除する。たいていはアングルを変えることによって可能だ。
こういう場合背景はぼかすので、絞り開放にする。光は逆光状態の、もしくは斜め逆光を選ぶ。
まず自分の好きな光線状態にある花を探す。咲いている花は、動かせないのだから、最初から花で選ぶより、気に入った光のところを選んで、そこで気に入った花を探すといい。

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ベゴニアガーデンのあと、大室山山ろくの、桜の里によった。そこに寒桜が咲いていた。これもちょっと逆光で撮る。
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この花は、2003年の秋に新宿御苑で取った、菊、江戸菊だ。少しよれぎみ、雨の水滴がよかった。カメラはEosKiss、EF50mmf1.4を、f2.0で撮っている。
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2004.12.28

M7.3阪神大震災10年 子供たちのみたもの

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Canon20D EF50mmF1.4 Iso200 ノーファインダー撮影 三宮駅前 二点の写真とも、本のなかでは使用していないアザーカットだ。
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Canon20D Tamron28-75f2.8 神戸アイランド
昨日、2005年、1月17日に宙(おおぞら)出版から出版される、M7.3阪神大震災10年 子供たちのみたものの、印刷の立会いをした。写真は50ページぐらいだし、版型も四六判と小さく、全部を見たわけではないので、あっけなく終わった。印刷の立会いは、写真集の場合はやることが多い。アードディレクター、編集者に任せてしまうことも多いが、やはり直接立ち会って、最後にすられる瞬間をみるのはためになる。
印刷は、特に写真集や書籍のような、大量に印刷されるものは、校正刷りと言って、デジタルやフィルムから版をつくり、校正刷りをだす。そこで初めて、データやフィルムや印画紙の情報が、最終的な紙(違う紙の場合もある)に刷られる。たいてい、二回でるのだが、それをデザイナーや編集が、全体的な調子、肌の調子などを、不具合を書き込む。今はコンピューターで調整しているが、かつては版を人間が手仕事で調整していた。
構成され、OKがでたら(それでも不満な点は最終的な印刷でちょうせいする)、本機での印刷だ。それまでの校正機とは違う機械、違う技術者がやることになる。大手になると外注で、校正ずりが唯一の共通の手がかりだ。
最終的な、印刷に立ち会うのは、校正がいくらよくても、本番がそのとおりに再現さるるとは限らないからだ。
そして印刷会社は、インクをあまりつかいたがらない。コストというより、インクをたっぷり使って印刷するとそれだけ
乾くの時間がかかるからだ。印刷はぎりぎりのスケジュールで進行している。
印刷に立ち会うのは、こちら側の意図を、最終的な技術者に伝える、最後の場であり、ある意味一番重要な場面だからだ。
本の見本が、正月あけにはできる。その時もう少し詳しく紹介する。
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中野のトキノン

fakeoff昨日の夕方、英知出版のキッスイ編集長、田中信一と神楽坂で焼肉を食いながら飲んだ。彼とは、彼がデラベッピン編集長時代、いやビデオボーイ編集長時代に(彼は28歳で編集長だった)仕事をした。一番の楽しい仕事はFakeOffという単発の別冊を一冊作ったことだった。その後、編集の山田くんと合流した。10時ごろ、田中編集長は、六本木へ、僕と山田君は、柊君の待つ中野にゆく。そこにカメラとんかつ屋、「tokinon 50 f1.4」があるという。写真雑誌Capaにも紹介されている。柊君は、某、労働組合の記者であり、カメラマンでもある。彼は全国を飛び回り、食べ物屋にかぎらず、何でも知っている。そこに元英知編集者、今は新婚でエディトリアルデザインをしている、中野在住の大駒君が合流。とんかつ、牡蠣フライ、餃子、さきイカを食べる。1時過ぎまでいて、解散。柊君が、カラオケに行こうといい、男二人で?と思ったが、3000円歩っきりのキャバクラみたいなカラオケで、へーと思ったが、満員で断念。中野、恐るべき町だ。楽しそう。昭和が生きている。

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2004.12.25

猟奇的な彼女 チョン・ジヒョン

チョン・ジヒョン主演の「猟奇的な彼女」を見た。今頃見たわけで、テレビの吹き替えだったので、でたり入ったりしながら見ただけなので、きちんと見たわけではない。ただ主演のチョン・ジヒョンの魅力ははっきりわかった。ものすごく美人というわけではないが、今の日本の女優にないエネルギッシュな感じが、それでいて「品」を感じた。それは今の韓国のタレントたちに共通する、「品」のよさだ。
日本のタレントは、テレビのキャスターが育ちのよさと、「品」を売っているが、韓国の女優たちはその「品」のよさがほのかに感じられる。それは日本の芸能界と、韓国の芸能界のちがいかもしれない。
話は飛ぶが、ベトナム人は韓国人があまりすきではない。現在のベトナムには韓国の影響が強い。ホーチミン市の一番のデパートは韓国資本だし、かつて日本の車が多かったが、今やほとんど韓国の車、バスやトラックも含めて多くなっている。工場も多い。そんなわけで、ベトナム人は韓国企業、会社の労働者という立場ということもあるが、韓国人の人使いの荒さに少し驚いているようだ。そして何より、韓国人は、すぐかっとして感情的だという。
そういうところは今はやっている韓国映画からは想像できない。僕も韓国人というと、血気盛んというイメージがある。もっとも、在日の韓国人、朝鮮人の知り合いは、皆インテリで、日本人よりかえってクールな気がするが。
「猟奇的な彼女」では、根本的な笑いが、日本人とほとんど変わらないことが面白かった。それほど、日本と韓国は似た文化だということだ。
ただ韓国の男子には徴兵があって、そいうどうしようもない国家に対しての「忠誠」というか、現実があり、韓国の男はどこか現実的に見える。かえって、徴兵のない日本の男のほうが、暴力に対して、憧れがあるのだろうか。映画のなかで、武器を持った兵士がでていても、当然不自然な気がしない。そういうところが、映画を作る側としては、無理やりリヤリティを狙わなくても、そんなもの日常だから自然に扱える。
映画はとても面白かった。きちんとみてないのに、無責任だが、しかも吹き替えだ、なのにとても面白いと感じた。今まで韓国の映画を僕はぜんぜんみていない、不勉強だった、と思った。ビデオでも見ていない。遅ればせながらこれから見てみようと思う。一時期、香港や、台湾、中国の映画は続けて見ていたが、韓国がこれほど、楽しめる映画を作れるとは、驚きだった。単純に映像が、綺麗すぎるところもあるが、素直で好きだ。悪ぶったところもなく、芸術ぶったところもなく、自然で好感が持てた。
なにより、チョン・ジヒョンの魅力いっぱいだ。いったい日本だったら、誰だろうと考えたがあてはまる女優はいなかった。昔の女優にいたかもしれないが、今の女優にはいない。
韓国はヨンさまばかりではないことを、もっともぼくはヨンさま、もよくしらない。冬のソナタをみていない。それでもテレビでちらっとみた、この「猟奇的な彼女」を見て、「僕の彼女を紹介します」を絶対みてみたいと思った。
さっきベトナム人にとっての韓国人について語ったが、韓国人はすぐ怒るということだったが、それでは日本人はどうなのと聞くと、たいていベトナム人は日本人はやさしいから好きだという。あまりおこらないと。それでもどこか日本人の嫌いなところがあるだろうと聞くこと、、日本語通訳の女の子は、日本人旅行者をガイドしているときは、とても楽しく、うまくやれたと思ったのに、数日後、日本の旅行社からクレームがきて大問題になるという。その場でいえよ、と思うが、日本人はその場は不満でも、あまりクレームはいわないらしい。いかにも日本人らしいエピソードだ。


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2004.12.23

ベトナムのモデル2 身長174センチ

身長174センチのモデルは、ベトナムではとても大きいほうだ。たいていベトナムのモデルは165センチから170センチぐらいしかない。
thanhanlsize
タイン・ハンの大きな写真

2002年4月27日
朝6時に起きて、6時半出発。先日ミトウに行ってもらった、タイン・ハンが行っている、総合大学の中にある大学受験のための予備校のようなところに行く。授業を受ける様子の撮影。終わったら友達二人も同行してくれることになる。バスでヘアメイクの店に、アオザイをピックアップ。その後、サイゴンでファッションデザインをやりながら、カフェバーも経営している沢村たかゆき氏の店で撮影。彼は一週間前ぐらいに開かれた、ベトナムファッショウイークに参加していた。新聞にも彼の記事が紹介されていた。そこでミトウに行ったときに来たアオザイをもう一度着てもらう。彼女はまだ撮影に慣れていない。どちらかというと、動き回っているほが綺麗だ。その後、韓国資本の、ダイヤモンドプラザにある、ダイヤモンドデパートで、やはり友達3人と一緒撮影した。ちょうど階上の映画館がオープンしたとあって、デパートの入り口はいつにもまして混雑していた。化粧品売り場には資生堂やコーセーも、入っていた。日本のデパートの1Fの化粧品売り場と同じような雰囲気だ。エスカレーターで6階のゲームセンターやボーリング場、プールバーがあるフロアで撮影。その後、皆でイーボーという台湾料理屋で食事をした。週末だからだろうか、いつもはない点心‥‥飲茶があった。外務省のTさんが全てオーダーしてくれた。全員で11人。ふかひれスープ、クンシンサイ、ナスとひき肉の炒め物、マーボー豆腐、大根もち、えーと名前を忘れた、軟らかい米の皮で巻いた海老、よく飲茶ででるやつだ、それのビーフ、それで全部かな、ビールとジュースと最後にデザート、合計約9000円。ずいぶん安いと思った。

食後一回ホテルに戻り、2時にタイン・ハンさんの家に行く。彼女は2001年、PhuNuという雑誌のモデルコンテストで優勝した。賞金は50,000,000ドン、日本円にして約45万円だ。価値としては600万から800万もあろうか
thanhhangshop

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ベトナムNO.1歌手 ミイ・タム

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はがれたポスター、うらぶれた感じだが、実際は町中にミイタムのポスターが貼られた。雑誌の表紙もどれもがミイタムだった。田舎の男の子の部屋にもミイタムのポスターがある。彼女は男ばかりか、女の子にも人気がある。広告でも人気がある。
今やベトナムNO.1の歌手ミイ・タムは、先日見たテレビでは、まるで昔の美空ひばりのように貫禄があった。現代のベトナムのポップシーンをリードする、いってみれば、宇多田ひかる、あゆ、年齢は違うが、そのうちに似ると思うがあややをミックスして、でも貫禄がつき、美空ひぼりのようになったMyTamだ。ベトナムでは、CDは、初版プレスでおしまいになる。なぜならその後はすべて市場にコピーがでまわるからだ。だから歌手はレコードでは成功できない。そのため、彼らは日々ライブ活動をする。ワンステージ1000ドル以上、ベトナムの生活水準から考えたら、とんでもなくリッチだ。ライブする劇場やライブハウスは多く、特にライブハウスは、小屋のおおきさもちょうどよく楽しめる。通常10組ぐらいの前座があり、その後真打、ミイタムが登場して約1時間弱、歌い、踊りまくる。ベトナムは、メディアは発達しているないが、ライブはかなりいけている。ベトナムに行く機会があったら是非訪れて欲しい。熱気がすごい。

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これは、2002年に撮影したもの。サイゴン川のフェリー乗り場。スーパースターが突然あらわれて、周囲はいきをのんでいた。

ベトナムの今のスーパースター、ミイ・タムを撮影した。中心街にある、彼女がダナンから出てきたときに、間借りしていたおばさんが住むアパートに行った。アパートといっても、天井の高い多分仏領時代に建築されたであろう、ビルの4階にある広い間取りだ。今まで僕が見たサイゴンのアパートのなかで一番立派だった。エレベータが壊れていて階段を使った。彼女の家は今ニュータウンに建築中だということだった。撮影はそのアパートで始まった。ピアノやギターで弾き語りをしてくれた。現代的でシャープでかっこいい少女だった。取材中鼻歌のように歌を歌ったり、動き回ってとてもキュートだった。薄紫色の紗のような生地のちょっと変わったアオザイを着て、サイゴン川のフェリーに乗って撮影した。とっても気さくな気のつく素敵な子だった。お昼もおばさんと一緒に作ってくれた。食後、コンサートのダンスのレッスンに行った。歌ばかりか、とてもダンスも上手かった。練習というより振りのすり合わせてといったところで、3,40分で終わった。その後、ある作曲家の歌のレッスン。先日はライブハウスだったが、今度は劇場でのライブだ。楽しみだ。
MY TAMはベトナム中部の都市、ダナンの出身、八人兄弟。6歳からバレーを始め、10歳で賞をとる。そのころ劇団に入る。ギターをならい十代前半でかずかずの賞をもらう。16歳でオーディションで一番になり、有名な作曲家に師事する。
家族や親戚に歌関係の人間はいないので、本格的に勉強するために、親戚を頼ってホーチミン市にくる。その後歌の勉強を本格的に始める。最初はクラシックを学び、ポピュラーに転向する。その後数々の賞をもらう。2000年、新聞社主催の歌謡コンテストに優勝して、上海アジア歌謡祭で賞をもらいブレークした。作曲もする。4月26日ホアビン劇場でライブをする。そのライブの取材もする。
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2003年、二回目の撮影のときには、人ごみに囲まれるのはいやだと条件をだされた。そのため、ビルの屋上で撮ることにした。それでも日本のタレントだったらなかなかまわりが許しくれないような場所だった。

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2004.12.21

ベトナムのモデル

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ちょっとわけあり、かつてデジタルで撮った、ベトナムの写真を選んでいる。そこで、僕が一番ベトナムで気に入っているベトナムのモデルの写真がでてきた。名前はヴァン・クインちゃん16歳。(当時現在18歳)
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彼女は、まだ高校生モデルだ。あまりプロ意識があるとは思えない。かつてベトナムのモデルは、ミスコンテスト出身者がほとんどだった。だから美しいだけではなく、勉強もできるし、家柄もよかったりした。ところが、ニューウエーブ、ヴァンちゃんは、しっかり撮影に6時間遅れてきた。しかも、ホーチミン市からチャウドックまで、約バスで5時間かかるロケ地にゆくてはずだった。朝6時集合、7時になってもやってこない。電話してもつながらない。もちろん携帯の番号にもかけている。コーディネイターのチュンさんに、段取りの悪さをクレームする。二人のモデルを撮るつもりだったので一人だけ乗せて、出発。チュンさんには彼女に変わるモデルを探して連れてくる段取りを取ってもらう。10時ごろ、新しいモデルを見つけたと連絡が来たやさき、ヴァンちゃんと連絡が取れたという。寝坊。けろっとしているという。チュンさんはかんかんに怒っているが、柳に風。チュンさんは新しく段取りしたモデルにしたいというが、ヴァンちゃんは僕がファッション誌からみつけて気に入っていたので、彼女をやはりつれてきて欲しいと伝える。しぶしぶチュンさんは、段取りした新しいモデルをキャンセルして、夕方チャウドックに連れてきた。
あってもあやまるでもない。でも可愛くて憎めない。にこにこしている。彼女は携帯のメールを時間さえあればやっている。何をやってるのときくと、今チャウドクに来ていると友達に送ったという。明日の夜の約束。レストランで大勢で食事。あーまるで日本の子といっしょだ。チュンさんは、こういうモデルは使いたくないという。でも、いいんだよ。だからかわいいんだと、僕は言った。ヴェトナムのモデルはいい子が多いので、新人類(ふるいことば)は、新鮮だった。
でも感覚も、スタイルもよく、日本だったら人気がでるな、いやいやベトナムでもかなり人気らしいが、こんな調子だからいつもでモデルをやっているかわからない。もうやめてしまったろうか。
ちなみに彼女は、友達の紹介でモデルになったという。将来はの夢は。「うーんわからない」「今日のことしかかんがえていない」とは、さてさて、といったところか。


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2004.12.14

ベトナム、サイゴンにいる

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なぜか、ベトナム2泊4日の取材中、ホーチミン市にいる。今回のホテルはソフィテル・プラザ・サイゴンだ。旧大統領官邸とサイゴン動物園を結んだ途中、アメリカ大使館のはす向かいにある。このホテルに泊まるのは初めてだ。部屋は可もなく不可もなく。ただ中心街からは少し離れている。今回ベトナムを訪れて10年、初めて市内観光をした。なかでも大統領官邸は、始めてきた95年に一度一階部分をみただけで、もしかしたら当時はなかの見学コースがなかったのかもしれないが、今回初めてじっくり説明を受けながら見学した。表から見る印象より、ずっとモダンなインテリアだった。始めてくる人は是非見るとよい。その後、教会、郵便局、そして戦争博物館に行った。以前みたときとはすっかり変わって、展示物がかなり充実した。そこに、沢田教一、一ノ瀬泰造、石川文洋、そしてキャパの写真が展示してあった。あまり展示の状態は感心しないが、それでも一同にインドシナ戦争、ベトナム戦争の報道写真が並んでる様子は壮観だった。やはり、ベトナムのは雑貨をかいあさるだけではなく、ベトナムの歴史も知る必要あると思った。ベトナムは、中国の属国としての支配、独立、封建制、植民地、フランスの支配、日本支配、南北分裂、社会主義、自由主義、統一、開放制作、なんといっても戦争、戦争、とこんなにも激動の時代をくぐりぬけた国が他にあるだろうか。

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2004.11.29

サイゴン川

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ベトナム、ホーチミン市、旧サイゴンのサイゴン川。川幅数百メートルのこの川に大型の貨物船が航行する。この川幅を同じぐらいの船がすれ違う。マジェスティクホテルは、最近二重窓にしたのもこんな船が、深夜空気をとどろかす、汽笛をあげるせいもある。1995,6年ごろ、僕はマジェスティックホテルが定宿だった。しかし毎夜の騒音で根をあげ、それからというもの、ドンコイどおりにあるグランドホテルが気に入り定宿だ。今回の撮影で、やはりマジェスティクに宿泊することになったが、不思議と以前ほど騒々しくない。ドアや窓がすべて二重窓になっていた。やはり客からのクレームで問題になったのだろう。ロバート・キャパの時代はどのくらいうるさかったのだろうか。現在みたいにバイクや車が道路にあふれることはなかったろう。きっとのんびりしたものだったのではないだろうか。

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ロバート・キャパとサイゴン 1

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1925年建設された、サイゴン(現在のホーチミン市)の歴史的なホテル、マジェスティクホテルは、例えば日本人で言えば開高拳や、写真家の沢田教一など多くのジャーナリストや作家が宿泊し、屋上のバーに集った有名なホテルだ。
僕が初めてベトナムを訪れた1994年は改修中で泊まることができなかったが、翌年1995年には念願かなって宿泊した。館内で何度も撮影をしているが、年々、サイゴン川の大型船の往来や(特に深夜)、バイクや車の騒音で、何日も連泊すると、うるさくて眠れない状態が続き、最近は宿泊することがなくなっていた。
ところが、この有名なマジェスティクホテルに、ロバート・キャパも泊まっていたという事実を僕は突き止めた。
1954年4月、キャパは毎日新聞社、カメラ毎日創刊の招待イベントとして日本に滞在していた。日本各地を撮影するといったかなり自由な、そして歓待された旅だった。それは約6週間の充実した撮影旅行の予定だった。
ところが、旅の半ばの4月28日、アメリカのグラフ雑誌ライフより、同じ東洋の戦場、フランス植民地だったベトナムの取材を急遽依頼された。キャパは悩む。しかし結局インドシナ、ベトナムに5月1日旅立つことになる。
キャパはまずバンコクに向かう。この辺のくわしいことは、「ロバート・キャパ最期の日」を読んでもらうとして、僕はそれまでの定説だった、キャパの伝記に書かれている、東京からバンコクに向かい、そこでベトナム入国のビザを取るために1週間以上もバンコクで足止めをくらったと書いてあることにつねづね疑問を感じていた。バンコクから直接ハノイに、ディエンビエンフー陥落の翌日、5月9日にハノイに到着したと書かれているのだ。
たしかにキャパは、バンコクのオリエンタルホテルから母ユリアに手紙を書いている。そこから9日、ハノイに到着して、マグナムに連絡するまでの約10日間、いったいキャパは何をしていたのだろうかという疑問だった。ベトナム北部デルタ地帯や、ディエンビエンフーは戦闘状態だとしても、タイのバンコクからフランス内独立国カンボジア、そしてサイゴンまでならば陸路だって移動可能だ。それなのに一週間以上も、バンコクにキャパが滞在した根拠はなんなのだろうか。日本の滞在中のイベント満載のハードのスケジュールに疲れて、バンコクでのんびりとビザが発行されるのを待っていたとでもいうのだろうか。この一週間を僕はずっと幻のバンコク滞在と位置づけていた。どうかんがえたってミステリーだ。
しかしある日それが氷解した。「ロバート・キャパ最期の日」のゲラ校正をしているとき、インドシナにおける、キャパの約40本のコンタクトプリントを見る機会があったのだ。そしてそこに、一葉の特別なコンタクトプリントをみつけた。それは、絶対にハノイでは撮ることのできない景色、サイゴンを知っている人間だったら容易に発見することができる景色だ。そのコンタクトの約30コマの写真のなかに、あきらかにサイゴン川を高いビルの位置から撮影している写真があったからだ。さらにくわしくみると、ドンコイ通り(カティナ通り)から、遠くにコンチネンタルホテルが写っている写真を発見した。サイゴン川を撮るアングルには、マジェスティクホテルがある。ロバート・キャパは室内でも撮影している。床のタイルは、現在はまったく失われているが、かつてはマジェスティックの床の模様だ。
続きは、ロバート・キャパ最期の日、ブログ

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2004.11.20

神戸、阪神大震災

今、三島にいる。明日(正確には今日だ)の朝、こだまで名古屋までゆき、それからのぞみで新神戸に行く。これは1月17日までに、阪神淡路大震災の本を出版する、その取材のためだ。来年で震災10年、僕がそのときに撮った写真と、そのときまだ小学生になったばかりの子供たちは、今はやハイティーンになっている。今の彼らというより、今思い出してみて、あのとき震災とは彼らにとってどういうものだったのかを、インタビューしてみる。僕は、かつての写真と、今のハイティーンになった彼らのポートレイトを撮るつもり。まだその本のタイトルは決まっていないけれど、しかもまったく時間のない仕事。
来年1月には、震災10年をはさんで、ライブ写真展をするつもりだ。それは僕一人ではなく、8人ぐらいの神戸のカメラマンと一緒に神戸の、特に永田周辺の人々の写真を撮り、その写真を街にはりつけ、モデルになってくれたひとたちにプリントするつもりだ。10年たった今、いったい彼らはどんな表情をしているだろうか。おりしも新潟中部地震、地震はいつでも、どこにでも起こる。
「M7.3子供たちが見たもの」

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2004.11.12

デジで本

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デジで本(デジタルカメラで作る本格的な写真集)という、HOW TO 本の表紙ができました。
まだ、これは完成系ではありません。手直しが入ると思います。この本の、プログもつくります。発売は12月中旬の予定です。

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2004.11.10

The Eye Forgetについて

このブログの、「The Eye forget 」とは、ロバート・キャパが、1954年4月、日本に滞在したおり、日本は「ピクトリアル・パラダイスだ」(写真の天国)と叫び、「TheEyeForget」という、タイトルの写真集をつくりたいと言ったことから、取っている。

残念ながらキャパは、日本での取材の途中仏領インドシナ(現在のベトナム)に行き、1954年(昭和29年)5月25日、フランス軍に従軍して、ベトナム北部、ハノイ南東80キロ、ナムディンからタイビンに向かい、ドアイタンの要塞から、タンネ(現在のキエンスオン)の前哨基地に向かう途中、左に曲がった堤防にのぼり、地雷を踏んで死んでしまった。
結局、日本での写真集、「TheEyeForget」は作られることはなかった。

このプログは、いままであった横木安良夫のサイトのDigtalDaybyDayの続きとして移行する。
ただ、今までよりは少し内容を、考えて書くようにする。今のところコラムのようなものにしようと思っている。

「ロバート・キャパ最期の日」(東京書籍)について、のブログは別に作る。「ロバート・キャパ最期の日ブログ日記

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