2005.03.20

横木安良夫Blogトピクス

今までのBLOGからトピックス
3月3日から12日まで、アメリカウエストコースとに行った。
超広角レンズのゆがみを取る方法?
横木安良夫 ベトナム撮影ツアー募集今年に6月に、ベトナム撮影ツアーを計画している。
ロバート・キャパIN SAIGONリチャードウイーランの伝記では、キャパは、1954年4月、日本滞在後、バンコクからハノイに行っていると書かれているが、実際はサイゴンから、ベトナムに入っている。
■「ロバート・キャパ最期の日」のBLOG
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●「僕のコダクローム 沢田研二」
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デジタルで撮れない大型カメラの世界 その1

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2005.02.22

キャパとコダクローム他

今までのBLOGからトピックス

ロバート・キャパIN SAIGON伝記では、キャパは、日本滞在後、バンコクからハノイに行っているが、実際はサイゴンから、ベトナムに入っている。
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デジタルで撮れない大型カメラの世界 その1

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2005.02.20

キャパ写真展、最終日 キャパ・イン・カラーその5

キャパ・イン・カラー写真展開催中 その1はここをクリック
●コダクロームについてのblog「僕のコダクローム」
日本橋三越でのキャパ・イン・カラーの写真展を、近くまで行く用件があり、再び見に行った。
日曜日、最終日とあり、会場は、超満員。写真を見るというより、人の背を見に行ったようなものだ。
デパートだからしかたがないとしても、6日間は短すぎる。まあ、ロバート・キャパの写真をこんなに多くの人が見たいと思っているのはなぜだろう。今日は、6時まで、5時半入場終了だそうだ。
キャパのカラー写真は新鮮だ。久しぶりに新鮮な写真展を見た。
50年前のカラー写真が、現代のものとして発表されたことが、新鮮なのだろうか。
今までのキャパとは違う面を見ることができる。キャパの写真をよく知らなかった人でも楽しめたと思う。
ある意味デジタル時代の恩恵だ。かつてだったら、ポジの雰囲気に忠実なプリントは難しかった。それが、デジタル時代になり、コダクロームの発色がかなり忠実に再現されている。
残念ながら、図版に、逆版写真があり、販売が2日目以降中止になり、手にいれられなかった人が多かったろう。
追って発売するようだ。マグナムサイドとしては、大変だったとおもうが、これだけの客が入る,ロバート・キャパは、やはり貴重な存在だ。
デパートではなく、きちんとした美術館で見せてもらいものだ。そのうちきっと東京以外でも見ることができるだろう。見る価値のある写真展だった。

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2005.02.17

ロバート・キャパ写真展その4 コダクロームの感度

キャパ・イン・カラー写真展開催中 その1はここをクリック
●コダクロームについてのblog「僕のコダクローム」

ロバート・キャパが使用していた、初期コダクロームは、カタログによればISO10(当時ASA10)とあると、タカザワ氏のブログにあった。たしかに僕は、以前どこかに書いたときにISO10としていたが、英語のサイトを読んでいたら、そこにASA12とあり、そうなんだと思ったのだが、うーんやっぱりISO10なのかなと思えてくる。そのサイトはどこにあるのか不明だ。
まあ、10だろうが、12だろうが、3分の1絞り、大して変わらない。
僕が使っていた頃のコダクロームⅡは、ISO25だ。コダクロームXは、(IS064)だったろうか。
コダクローム64は、当然ISO64で、コダクローム25は、やはりISO25だ。
単純にISO25から一段あければ、ISO12になるので、こちらを採用したが、IS050ではなく、KRなどはISO64だ。単純に、一段刻みにはなっていない。ちなみに、8mm用コダクロームは、ISO40だった。
さて、感度は面白いもので、アナログメーター、単体露出計を見ればわかるが、3分の1刻みになっていて、
ISO 12 25 50 100 400という系列があるが、
かつてアメリカの感度表示ASAと、ドイツ式のDINというのがあった。ASA25は、DIN15だ。おなじように3分の1きざみなので、ASA50は、DIN18、ASA100は、DIN21になる。
ちなみに、ASA=ISOになっている。ASA,DINともきちんと調べてないでの何の略かわからない。(どこかに載っている)
ISO 16 32 64 125 
ISO 10 20 40 80 160
という系統もある。感度とは、デジタルと違って、なかなかそろえることが難しいのかもしれない。
ただ、25と32は、3分の1の差だ。50と64も3分の1。
かつて、同じエクタクロームでも、普通のEXは、64、しかしEPRエクタクロームプロフェッショナルは、50だった。
感度とは、なんとも微妙に思えるかもしれないが、実はもっと問題があって、フィルムには実効感度というものがあった。外式のコダクロームはかなり正確だったが、エクタクローム系のフィルムjは、どれも若干感度が低かった。とくにフジはかつては、かなり実効感度が低かったと思う。ベルビアが始めて発売されたころ、ISO50というふれこみだったが、明らかにコダックのフィルムと比べると暗く、明るめのポートレイトを撮るなら、ISO25と考えていたときもあった。最近は、(こんないいかたすると、スゲー昔はなしのようになるが)どこも現像が安定していてい、コダックもフジも関係なく現像できるが、かつては、現像所によって、感度はもちろん発色も違っていた。だから一度ひとつの現像所を使うと、なかなか違うラボをつかうことはなかった。
感度ついでに。さて、かつてモノクロフィルムはトライXを使っていた。感度400。100フィート長巻はASA320だったろうか。ブロニーのTXが320だったろうか。4x5のTXはISO320だ。忘れた。そして現像液はD76というのを使った。指定されたように原液で使うと、ASA400で、20度C、現像時間7分だったろうか。そんなふうに現像の仕様書には書いてあった。ところがそのとおりに現像すると、薄いネガになる。ものの本を読むと、ネガは薄いほうがよいとある。しかし実際薄いネガをプリントするのはとてもムヅカシイ。しかも硬調の印画紙をつかうことになる。ネガが薄いと、ごみや傷がめだつ。
そのうち試行錯誤して、やはりネガは少しのり気味にする。綺麗なプリントをあげる友人のネガを見るとずっと濃いからだ。それを、軟調な印画紙にプリントする。カタログデータと、実際はとても違うことだ。
アシスタントになったときに、プロたちがISO400のTRXを、ISO200で計っているのに驚いた。たっぷり露光、あっさり現像をしていることになる。そのほうがネガの調子がとてもよかった。実践的なプロと、データに振り回されていた自分の差を知った。
このことは、その後カメラ、フィルムに関するすべてに通じていた。数値化したカタログデータと実際は違う。数値はあるマージンを取っている。アマチュアだったらISO64も、プロ用には50になったりもする。
それより、自分でテストしてデータを取ること、それを信じることが大切だと学んだ。
デジタルの時代になっても同じだ。カタログデータは、カタログデータ。自分で実験してみないとなんにもならない。
さて、ロバート・キャパその4といいながら、写真の技術的なことばかり書いた。
ロバート・キャパの使った、コダクロームがISO10、(12でもいい、たいして変わらないからだ)。
ずいぶん低感度に思えるが、晴れた日の順光だったら、100分の1、f5.6で撮れる。なんの問題もない。しかも彼等の使っていたレンズは、ズームレンズではない。明るければF1.4、暗くてもF3.5ぐらいだ。
僕が使っていた、コダクロームⅡが、ISO25。特別低感度だとは思わなかった。きっと僕がレンズの開放撮影がすきなのは、かつては感度が低かったせいかもしれない。
それと、シャッター速度は、かつて、は
1秒 2分の1 5分の1 10分の1 20 50分の1 100分の1 200分の1だったのが、
いつのまにか、
1 2 4 8 15 30 60 125 250 500分の1秒と変わった。なんか適当で、フィルムの感度と同じだなと思えている。

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2005.02.16

キャパ・イン・カラー写真展開催中 その3

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キャパ・イン・カラーの写真展初日、神保町にある、マグナムのオフィスで、内輪のパーティが開かれた。ICPの館長ハーツ・ホーン氏、ディレクター、マーク・ルベル氏、写真家の細江さん、田沼さん、唯一の日本人マグナム会員の、久保田博氏がいた。三越の会場で、HARUKI、柊(この日のブログがある)、そして「ロバート・キャパ最期の日」の表4にある、キャパの書いた、カメラのイラスト、の持ち主である、編集者の小林秋生氏と、待ち合わせていた。小林氏には、ずっとキャパのサインと、50年前にキャパが訪れた、新宿ニコー(アルタ)裏にあった、みちくさという店を、日本の建築写真の巨匠、渡辺義雄先生が撮った写真を返却するのも目的だった。
capacamerarakugakihyou4
「ロバート・キャパ最期の日」
その後、我々4人で、マグナムでの内輪のパーティに乱入した。フロアーには、約30人ぐらい、ワインと、食べ物寿司が潤沢にならべてあった。
実は、昼食が軽くて、僕はすっかり腹が減っていた。いくらなんでも、僕一人ならいいが、3人も引き連れて、よそ様のパーティに行き、がつがつ食うのははばかれたので、僕等は、神保町で、牛丼をたべた。マグナムのパーティの食べ物がたくさんあったので、ハルキたちにいやみを言われた。でも、がつがつ食うのはよくないので、これでよいのだということになる。なんだかんだと、9時半ごろまでいて、新宿の、小林さんのおばあさんがやっていた、みちくさという文壇バーに行くことにした。今や客は60代、場所も西口に変わり、知らなければちょっと入りずらい雰囲気。
店は11:30まで、12時ぎりぎりまでいて、皆と別れ、ハルキと恵比寿に、山手線でゆく。居酒屋まで、なんやかやと3時までの飲んだ。
今日の朝、ブログを書いていていたらタカザワケンジ氏のトラックバックがあった。彼も昨日、キャパの展覧会にきていたという。
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ロバート・キャパ写真展開催中 その2

初日の、ロバート・キャパ写真展「Capa in Color」を見てきた。
日本橋三越は、昔母が好きでよく行ったものだ。三越の思いでは、エレベーターだった。40年ぐらいまえのことだろう。品のいい、エレベーターガールがいて、クランクのようなものを制御していた。
それは、ものものしく、まるで牢屋のような、ケージになっていた。
僕は、エレベーターに乗るのが楽しみでもあり、スリルだった。
それは、エレベーターに乗ると、階に停止する瞬間、体が持ち上がるような、浮き上がるような、そして胸がむかむかする、不思議な体験をすることだった。
三越のエレベーターの特徴(古かったのかな)だった。きっと、停止するスピードの調整が、今のエレベーターよりスムーズではなかったのだと思う。
そして三越大食堂でお子様ランチを食べるのが最高のイベントだった。

そんな三越で、ロバート・キャパの写真展が開催されている。
昨日のブログにも書いたが、世界で最初のカラーフィルム、コダクロームで、キャパが撮ったものだ。
会場は平日だというのに、なかり混みあい、ロバート・キャパの人気を再確認させられた。
そして、会場に並べらカラー写真を見て、僕が想像していた以上に、50年以上、いや60年以上前のカラー写真は、素晴らしかった。ロバート・キャパ本人は、カラーが苦手だったといいながら、それはきっと露出などが難しかったからだとおもうが、どれもかなりしっかりとしたものだった。ロバート・キャパの名作は、すべてモノクロだが、キャパの撮影スタイルは決して、モノクロだけではないような気がした。
キャパの写真はカラーでも同じようにキャパの写真だった。いや、戦時の写真でも、モノクロとは違う世界が写っている。それはきっとキャパが、写真のなかに美的なもの構図的なものを持ち込む気がなかったからだと思う。
多くのキャパの写真(いわゆるキャパの傑作と呼ばれるものを除く)と同じように、その撮り方は、かなり直感的だ。目の前に存在する、ほんのちょっとの好奇心、ほんのちょっと違和感、ほんのちょっとの魅力を感じなら、キャパはシャッターを切っている。撮っているときの気持を想像すると、とてもリラックスしている。
だからこそ、さまざまなものが、ロバート・キャパの前に、飛び込んでくる。
僕はその撮影スタイルが、その間合いの撮り方が、好きだ。
キャパの時代、カラー写真は、まだニュースの速報性のシステムには入っていなかった。
キャパがカラーを撮ったのも、ライフのような速報性を求められる雑誌の依頼ではなく、今でいえば女性誌、一般誌のような、レディース・ホーム・ジャーナル誌のために撮っている。
キャパが撮った多くのカラー写真は、その後あまり評価されることなく、保管されていたが、モノクロの世界ではないカラーの世界で捕らえた、「世界」は、きっと本当は、キャパには世界がこういう風に見えていたんだ、と思えてしまうし、きっと、モノクロよりこちらのほうが、本当だったのだと思う。
この写真展は、単なる企画展というより、世界をジャーナリスティックな目で、初めてカラーで捉えた、写真家の目だいえる。そして、モノクロになった戦争の写真は、過去のできごとのように感じらるが、カラーは、今の時代、今行われてる戦争と、そして戦場で彼等が見る世界は、モノクロームではなく、カラーで眼前に広がっているのだと思えた。
写真に興味がある人は、是非見てもらい。戦争中の写真ばかりではなく、へミングウエー親子の写真、地雷を踏んで死ぬ直前に滞在した、日本での写真、インドシナ、とそれまでモノクロで紹介されていたものと違う、世界がひろがっていて、さまざまなことを考えさせられる。
コダクロームフィルムの発色のよさ。美しい空の色。カラーの美しさに、戦争という「悲惨さ」は、こんな美しい空のしたで行われているのだと思うと、感慨ぶかい。
それは、かつて僕が、初めてサイパンに行ったとき、その空の美しさ、海の美しさ、砂浜の美しさをまのあたりにして、その海に多くの死体が打ち上げられていたと想像したときに、モノクロ写真に写る、重重しい悲惨さではなく、現実はもっと美しい光景のなかに、悲劇は存在するのだと思った。
キャパのカラー写真を見ていると、そんなことを感じた。カラー写真は、美しい。きっとジャーナリストたちは、このカラー写真の美しさに抵抗感があるのだと思う。
カラーで撮ると、戦争さえもハッピーに見える。現実とは、時間と音と、臭いと、物理的な存在(自分の生命を脅かされる)を除いて、映像で表面をだけを見ると、多くの悲惨なものが、美しく見えてしまうという作用がある。
キューブリックの「博士の異常な愛情」のラストシーン、次々と爆発する、原爆、水爆の場面。あの光景は、恐ろしさと同時に、人間の感覚のどこかに、美しさを感じる部分があることを発見する。そしてジレンマにおちいる。
それは、9.11の、ツインタワーが崩れる瞬間の映像。純粋に映像だけで遠くからみると、あの破壊された瞬間は、絶対に美しくみえてしまう。(テレビは、アップすることを拒否することによって悲惨さを、見る側から奪ってしまった)
それは、人間のDNAに組み込まれた感覚だ。
物事は、表面だけをみても本質はわからない。なにより、そのなかから、本質を読み取ろうとするイマジネーションが一番大切だ。表面的に悲惨より、表面的には平和に見えること、そこからさまざまなことを、想像させる写真が、きっと真に写真の力だと思う。
そういう意味で、報道写真家、ロバート・キャパが撮った、そして見た、カラーの世界は、ジャーナリストの世界に対するアプローチも考えさせられる。
今回のすべてのカラープリントは、デジタルプリントだ。かつて、カラーポジ写真をプリントすることは、かなり難しかった。特にコダクロームのような、特別なフィルムからのプリントは、再現性がそこなわれた。しかしデジタルプリントは
コダクロームをそのまま、読み取り、かなり再現できていると思う。
日本で撮った写真のなかに数点、逆版(左右が逆になる)があり、それが問題になっているようだが、そんな枝葉末節なことは関係なく、素晴らしい写真展なので、見る価値があるし、考えさせられると思う。
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写真展 その1に行く

●コダクロームについてのblog「僕のコダクローム」

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2005.02.15

ロバート・キャパ写真展開催中 その1

今日から、東京日本橋三越本店で、ロバート・キャパの写真展が開催されている。期間は短く、15日から20日(日)まで。タイトル「ロバート・キャパ写真展 キャパ・イン・カラー」だ。10:00-7:30(最終日6:00)
1935年に世界で始めて、コダックより、カラーフィルム、コダクロームが発売された。
映画などはそれまでいろいろな方式でカラーがあったが、フィルムとして完成したのは、それが初めてだ。
キャパは1938年には、コダクロームを持って日中戦争の取材をしている。残念ながらそのフィルムは、消失しているが、その後、2次大戦や、へミングウエー、日本、インドシナ戦争を撮ったカラーフィルムが、近年、マグナムの倉庫から発見された。
コダクロームフィルムは、外式といって、現在多く使われている内式のフィルムと違い、カラー発色剤が乳剤のなかにはなく、あとで染色するやりかただ。
ほんの10数年前までは、35mmフィルムは、コダック独占のそのコダクロームフィルムが代表的なフィルムだった。当然僕も使っていた。
そのルーツにあたる、コダクローム(ASA12=ISO12)をキャパは使った。もう50年以上も前のフィルムだ。
1936年にはアグファ社から、現在と同じタイプの内式のフィルムが発売された。コダックも1940年代に、エクタクロームを発売している。しかし、当時の内式のフィルムは、耐久性が劣り、50年たったいまでは、画像が喪失したものや極度の変色で、みるかげもない。
ところが、世界最初のカラーフィルム、コダクロームはその特性から、きわめて耐久性が高く、50年以上もたった今でも代わりのない発色をしている。
コダクロームについて、「僕のコダクローム」というBlog連載がある。
キャパの今回の写真は、キャパのカラー写真がうまいかどうかではなく、その時代にすばやく新しいものに挑戦するキャパの心意気と、多くの傑作写真を撮ったキャパの、しかし実は、空気を吸うように、常に何かにシャッターを切る、名作を作ろうというのではなく、キャパはキャパの周りの日常に引かれる何かを、常に記録していたのだ。
だからこそ、さまざまなものに出会い、それを素晴らしいポジションで撮影でき傑作をものにしたのだと思う。
今回のカラー写真はだから決してキャパの傑作写真ではない。
しかし、構えることなく常にほんの少しでも興味を持てばシャッターを切る、
キャパの現代的な撮影方法が垣間見れると思う。
今日、僕は夕方会場に行ってみるつもりだ。
●「ロバート・キャパ最期の日」Homepage

●世界最初のカラーフィルム、コダクロームについてのbLOG「僕のコダクローム」

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2005.02.13

デジタルカメラで正確な露出は測れる?

なぜ、カメラのオート露出は、逆光撮影の測光が苦手か?
、「なんで問題外な写真が撮れるの!?」っていうことです。お昼の逆光で、超アンダーや超白飛び等。。
しかもけっこうな頻度で・・・。
BBSで露出のことについて書かれています。ちょっと長いし、専門的ですが、なるべくやさしく説明します。

デジタルカメラになって、皆さんは多くの撮影をしながら、なぜ適正な露出が計れないのか疑問のようです。
実は、カメラのオート露出は、なにもデジタル時代以前、銀塩時代から当てになるものではありません。
いや、それはいいすぎでしょう。かなりの撮影条件では、そこそこ、および完璧な露出を計ってきました。
でも、プロは、カメラの露出計を完全には信じていません。
なぜならば、カメラは、撮影者の「意図」は、わからないからです。
かつて、アマチュアは、撮影してすぐにその露出を確かめる手段を持っていませんでした。
しかも失敗した写真を確認するのが、何日も後、そうとう時間がたってから見るのでは、撮影状況も忘れています。それに、「逆光だからダメ!」という言い方があったように、逆光撮影は昔から失敗する確率が高かったのです。
今や、すぐにその失敗がわかるため、カメラの内蔵露出計の能力を疑いだしているのでしょう。
さて、逆光撮影は、なぜ失敗するかの理由はあとで、書きます。

プロは、積極的に逆光撮影をします。美しく撮る、基本のひとつだからです。逆光の露出を計るのは、やはり難しいものでした。それぞれ皆、工夫して露出を計ったものです。
さて直接の答えではありませんが、まず、かつての露出計を使った、僕の経験的な露出計測法を紹介します。
まずそのまえに、
1 露出計なしの計りかた。天気のよい場合の、逆光露出の決め方を、頭にいれておくとよいでしょう。

世界中どこでも、ISO100だったら、
順光撮影は250分の1、F11です。(100分の1、F16=125分の1、f16)
これは、写真家、、渡部さとる氏)の、「感度分の16」で言われているとおりです。
フィルムの箱の露光指数にもそのようにかいてあります。
快晴の広い風景、雪景色は、250分の1、f16
晴天 250分の1、f11
明るい曇りは、250分の1、f8、
曇り、日陰は、250分の1f5.6
その通りに撮ってみると、きちんと写ります。
これが光の強さです。
ただこれはあくまで、順光で撮るときの露出です。
実際は、光の向き、サイド光、逆光と、さらに補正が必要です。
そして、順光状態の光は、風景などは、たいてい順光、逆光、サイド光と簡単ですが、
人物の撮影の場合の順光状態の撮影は、少ないものです。
なぜなら、太陽が自分物の顔に真正面から当たる時間は、朝と夕方しかないからです。
夏の昼間は、太陽がほぼTopにあります。これは人物撮影の場合、順光ではありません。
顔がシャドーになるようだったら、逆光状態の露出とかわらぬようになってしまいます。
そして、また、曇りの日も、くもり空全体が光源になり、TOP光になります。
人物撮影の場合は、顔の部分にどういう方向から、光が当たっているか、注意する必要があります。

さて、僕は、かつてコダクロームⅡを使用しているとき(ISO25)、天気のよい日の人物の順光撮影はいつも、
125分の1、F8(25分の1、f16)で撮ってました。ちょっとこってり目の順光露出です。
サイド光は、そこから+1、もしくは、プラス1段半あけます。顔のハイライトとシャドーの分量で露出はかわります)

ISO25、逆光撮影は、「順光」から「約2段絞り」をあけますますので、125分の1、f4です。
常にこのぐらいの露出になることは、頭に入れていました。
ですから、露出計を使っていても、すでに露出はある程度めぼしがついているのです。

2 セコニック(入射光式露出計で測光するやりかた)

さて、実際は僕はセコニック、スタジオSという入射光式の露出計を使っていました。普通はスタジオデラックスですが、映画用のSが僕はとても使いやすく好きでした。
さて、セコニックで順光の露出を計るには、受光球を太陽(光源)にまっすぐむけることから始めます。
白い、受光球を眺め、そこに影ができないように太陽に向けます。すこしでも傾けると、影ができます。
または、光源が、受光球の中心に来るようにします。
その値が、光源の光の強さです。フート・キャンドル値は、Hightで250を指します。直読だと、F8指してます。
通常、ISO100で、250分の1、f11を示します。
不思議なところで、世界中どこではかっても、ヨーロッパ、アメリカ、日本、ハワイ、といった一見光の強さが違うところで、計っても、日中はほとんどかわりません。これは、モデルの顔が太陽にまっすぐ向いている時の露出です。

さて、逆光の露出の計りかたですが、
セコニックを、モデルの顔の前にかざし、受光球を、カメラ側に向けます。
そこで、再び、受光球をよく観察します。(もちろん実際は一瞬のこと)
そこに写っている風景を見るのです。
すると、空が大きく写りこんでいるでしょう。受光球は、半球体ですが、人間の顔は通常は凹凸があるものの、垂直です。顔の明るさは、顔に正面から当たる光によって照らされているのです。ですから、メーターの受光球の上部に手をかざして、空の部分をカットします。受光球にかざしている手が写っています。と同時に、露出が変わったことがわかるでしょう。たぶん+2分の1や、1段ぐらいの違いがあります。
その露出が、セコニックで計った逆光の露出です。たぶん、勘で決めた露出とさほど変わらないでしょう。
逆光の露出とは、太陽に照らされた、カメラの背後の光が、モデルに反射した光の強さです。
レフ版を使うと、+2分の1ぐらいあがります。
ちなみに、サイド光の露出も、やはり受光球をよく見ることです。
人間の顔のアップを撮る場合、ハイライトとシャドーのバランス、直接、太陽の直射が当たる部分と、影の部部の比率を、セコニックの受光球で再現します。
具体的には、顔の前にかざし、左右に微妙に回転させ、受光球に当たる、光の状態を、実際顔に当たる状態と同じにします。
入射光式のメーターを持っていない人は、ピンとこないかな。
セコニック・スタジオ・デラックス

3 スポットメーターを使う逆光の測光

一般的な、反射光式露出計は、被写体によって露出補正が必要です。
(カメラ内臓メーターも反射光式測光と同じような原理です、ですから露出補正がいります)
だから、正確な露出を測るのはなかなか難しいものです。
ただ、オート露出でも、望遠レンズの露出はけっこう正確に測れるものです。
おなじようにスポットメーターは、超望遠レンズで露出を計るようなものです。
僕はアサヒペンタックスのスポットメーターを使ってました。
画角1度。逆光撮影の測光に威力をはっきしました。
それは、逆光状態の被写体の一部、例えば顔のなかのほほの部分をいつも計るようにするのです。どこでもいいのですが、おでこは髪で隠れている人もいるし、ほほだったら平らで一番測りやすいからです。
なによりも、スポット測光は、逆光状態でも太陽の光が(光源)がめったに、入ることなく計れるからです。
結論としては、セコニックとスポットメーターの2台で、どんなものでも瞬時に露出を計っていました。

さて、なぜ逆光撮影時に、一眼レフタイプのデジタルカメラは露出がうまくゆかないのか。

1 
逆光とは、光源(太陽)に向かってレンズを向けるため、どうしても、レンズに光が入ってしまいます。
フードや、もしくはそのほかのもので、レンズに光源が直接入ることを阻止しなければなりません。
そうしなければ、正確な露出は測れません。
多くの場合、レンズに直接光が入っています。
レンズも、望遠レンズの場合は、まだ光源を切ることは簡単でも、標準から、ワイドは、光源をカットするのはとても難しい作業です。だからフードは絶対に必要です。実際はフードをつけても、レンズに光が入ってしまうことがあります。どうしたら切れるかは、黒紙などをテープでとめるかして、レンズの前部を影にすることです。

逆光撮影の問題点は、主題である被写体と、背景の露出の差が大きいことです。
背景の露出は、風景なので、ISO50で、250分の1の8の露出です。
しかし主題である、影になった部分は、250分の1、f2.8で撮らなければならないこともあります。
そうなると、人物と背景の露出さは、3段もしくは、顔の暗い部分は、4段ぐらいの差があります。
それでもアマチュアの使う、ネガフィルムだと、ラチチュードが大きいので、どっちにころんでも、たとえ調子が崩れたとしてもプリントできないことは、ありません。しかし、デジタルや、ポジフィルムは、こんなに輝度差のある被写体の場合、OKである幅がずっと少ないのです。
さて、カメラの露出計は考えます。しかも、4段も明るい背景と、主題である人物の露出。現代の露出計には、これまでの測光の歴史ノウハウがつめこまれています。しかし、中央重点測光(大体主題は中央にある)とか、そのほか各社いろいろな呼称で、いかにこの、輝度差のある被写体を計るのか工夫しています。
それが、背景と、主題の、画面にしめる割合が、明らかに主題によっているときは、無難なく計るでしょう。
しかし、同じぐらいのバランスだったらどうでしょうか。機械はそこが判断できません。だから迷ってとんでもない露出を表示、決定するのです。
ためしに、標準か、望遠レンズで、光源(太陽)が絶対に、レンズに入らないようにして、しかも、顔をアップに、背景がほとんど入らないようにして、測光すれば、どんなカメラでも満足行く露出を、それも常に一定な結果をだすでしょう。
ズームレンズならば、望遠で設定して、顔のアップを撮り、そして次第にワイドにして、背景の割合をふやし、露出の変る具合を見てください。
顔の露出だけを見れば、顔のアップも、風景のなかの顔も露出は同じはずです。
しかし、実際は違います。風景のなかで、人物を撮れば、顔は少し暗めでもOKです。
アップになれば、明るめのほうがよいでしょう。(特に女性の場合)そのように、レンズの画角によっても露出は違うのです。(狙いによって違いますが)
さて、
結論。
デジタルカメラは、すぐ結果が見られるのです。優秀な露出計だと考えてください。
がたがたいわずに、暗かったら、露出を+にして、明るければーにすればよいことです。
カメラの性能を馬鹿にするのではなく、カメラは、撮影者の気持ちはわからないということを肝に銘じて、撮影すればよいでしょう。本当は、光学的な、感覚的な理由があるのですが、そんなこと突き詰めていたら、写真は撮れません。
そんなこと、カメラメーカーにまかせて、バンバン撮り、撮影条件による、自分なりの方法をみいだすべきです。
銀塩時代、なぜプロはポラロイドを撮ったのか。それは、構図などをみるより、光の状態、何より露出を正確に見るためのものでした。のちにクライアントの確認の意味が大きくなりました。
当然ポラと、ポジフィルムは違います。いまでこそ、フォトラマとポジは、同じような発色ですが、かつてカラーポラロイドとポジは、まったく色が違っていて、多くのプロが、モノクロのポラロイドを使用していました。

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2005.02.09

M7.3 子供たちの見たもの その16

日本カメラで、M7.3子供たちの見たものの取材を受けた。
なぜ、僕は彼等を撮ったのか。阪神大震災のような大事件で、まだ幼く、ことばがなかった、彼等の声を聞きたかったからだ。そして今の彼等のポートレイトを撮る。生きた側のことば。でも、運が悪ければ彼等は、永遠に言葉を発する側にはならなかった。彼等は、同じように震災を体験して、しかし、幼く、しかも普通だったために、今まで何も語っていない。
僕は、撮影中インタビューに同席しなかった。本ができて、インタビューと写真が構成され本として完成して、そのとき初めて、彼等のことばを読んだ。僕の写真と、彼等のことば。
僕はこの本で、僕がみた神戸を伝えたいのではない。
僕は、僕の写真と、そして文を読んだ、僕を含めた、読者に、自分と阪神大震災は何なのか、を考える場でありたいと思ったのだ。
ふと、僕は気がついた。Girls in Motionで会った、彼等も、多くはマスコミ的には発言する場を持っていない。今、インターネットの時代になって、自ら発言することは可能かもしれない。いやそれでも、ほとんどの人はすすんで発言することはないだろう。ネットでの発言も、あくまで発言したい人が発言しているからだ。
インタビューとは、特別発言したいと思わない人からも、聞き出すことである。
神戸新聞
M7.3子供たちが見たものTop

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2005.02.06

2mPhotographer小堀正一写真集

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2mフォトグラファー、小堀正一さんが、写真集を送ってきた。それも僕が昨年上梓した、ハウツー本、「デジで本」で紹介した、ネット写真集、アスカネットのマイブックで、2冊つくっていた。

小堀正一は、2mぐらいしか視覚では認識できない。彼は生まれつき虹彩がなく、強度の弱視だ。
その彼が、医者の警告を無視して、写真を撮り続けている。昨年の今頃だろうか。僕はその頃、見ないで撮影するといったことをテーマで写真を撮っていた。もともと僕も、被写体をあまり凝視しない。
そこに、本当に凝視をせずに写真を撮っている人からコンタクトがあった。それが小堀さんだった。
ホームページをみて驚いた。並みのアマチュアのカメラマンではなかったからだ。かつては、コンテストの常連だったという。その後、視覚障害者用のパソコンのシステム開発に力を注ぎ、写真からとうざかっていたという。それがデジタル一眼レフカメラがでたことにより、そしてシステム開発が軌道にのり、むくむくと写真を撮りたくなったとう。
そんな彼を僕は、ベトナムに誘った。ちょうど、ロバート・キャパ没50年の取材だった。彼はこれまで、一人で海外にいったことはないという。僕はベトナムのでの受け入れはだいじょうぶだと説得した。家族は大反対だったそうだ。
僕は彼の写真を見て、とても見えないで撮っているとは思えなかった。あれだけ撮れるならば、一緒に旅ができる
と思ったのだ。そして何より、いったい彼がどうやって写真を撮るのか興味があった。
先乗りしていた、僕は、ハノイ空港に彼を迎えた。もちろんそのときが初対面だ。サングラスをかけ、ごく普通にやってきた。関空についてからは何の問題もなかったという。きちんとサポートしてもらえたらしい。しかし、なにより、名古屋から、関空までが大変だったそうだ。なにしろ標識、表示板が見えない。周りのひとに訪ねると、あっちとか、表示板をさしたりするという。まずいことに、カメラなんてもっていたら、まったく馬鹿にるのかといった、態度を示されるときがあるという。だから、カメラは首からさげずに、バッグにしまっておくという。
彼は、家族の見送りを断っている。自分一人で、ハノイまでたどりつきたかったという。しかたがなく海外ローミングの携帯は持たされた。
最初、小堀さんは、ハノイの町を歩いて、戸惑ったという。なにしろ、ベトナムのバイクの排気音と、クラクションの音の氾濫だ。通常彼は音を頼りに、歩いている。
普段歩いているとき、前に人がいると歩きやすいという。それは、前の人の靴音で、状態がわかるからだ。コンクリートの音、そして階段を下りる音。
そんな彼がハノイの騒音で、方向感覚が狂ったという。しかし、数時間で彼はマスターした。激流のようなバイクの流れを横断する。朝、日が昇るやいなや、街にでて、一人でスナップをしていた。とても、目が不自由とは思えなかった。僕は彼を2mフォトグラファーと呼んだ。
日本に戻り、そのとき撮った写真で写真展を開催した。そのとき僕は、メッセージを書いた。

【 五感のハンター 】
 2mフォトグラファー小堀正一は、何を見つめて写真を撮っているのだろう。
 僕は彼と一緒に、ハノイの街を、カメラを持ちながら歩いた。
 彼は濃いサングラス越しに、きょろきょろと周囲をながめ、常に何かに耳を澄ましている。いや、気持ちを澄ましているのだ。彼は心を透明にして街の生命を感じ取っている。
 彼は、目で漠然と認識できる微妙な色や形やその動きや、周囲の喧騒や話し声、悪臭も含めたさまざまな匂い、そして汗をいっぱいかいた自分の肌に感じる空気の流れ、そればかりか遠くにある食品の味覚まで、五感をフル動員して感じようとしている。
 写真は目で撮ると信じられているが、小堀を見ていると、写真は五感で撮るものだと教えられる。
 五感で感じたものだからこそ、見る側の心に深く響くのかもしれない。

写真家 横木安良夫

ここに書いたことは本当だ。それはある意味、僕と同じようなやりかたで撮っている。僕は、目は見えるけど、視覚よりもっと、その場の空気感、匂い、いや、なんだかこの辺が面白そうだぞ、と感じられる。
ヘルムート・ニュートンが、犬のようにかぎまわるという表現をしていたが、僕もそんな感じだ。
小堀さんは、かつて、コンテスト荒らしだった。しかし僕は、彼に、コンテストはもう卒業して、自分の写真を撮って欲しいと言った。その最初の一歩がこの写真集になるとうれしい。
モノクロ20ページ、いままでの作品集は、3900円、Vetnamの写真集28ページは4500で販売している。
是非、彼のサイトの作品をごらんになってほしい

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2005.02.04

1999年のウラジオストク 今年も行こうと思う

vladivostok001
Eos5 EF24mm f2.8 RVP +1増感

1999年、20世紀最後の年に、極東ロシアの都市、ウラジオストクに行った。新潟から1時間半。日本から一番近いヨーロッパだ。今の季節は極寒でも、5月から9月いっぱいは、北海道のような素晴らしく気持のよい気候だ。ウラジオストクは、ソ連時代、軍港だったので、外国人は入ることができなかった。幻の土地だ。いったいどんなところか想像もできなかったので、その年行ってみる事にした。車で飛ばせば東京、新潟間は、4時間もかからなかった。
今、ウラジオストクニは多くの日本人も住んでいる。この6年間でどんなふうに変わったか興味がある。もっとも、6年前だって、ウラジオストクは都会だった。クラブがあったりして、おしゃれだった。そのときのウラジオストク・ナホトカ・レポートは、わりとちゃんとしているので見て欲しい。
ウラジオストクの情報は、「ウラジオストク通信」が充実しています。

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2005.01.26

カラーフィルム60年、「僕のコダクロームその4」

1935年、世界最初のカラーフィルム、コダクロームが発売されて、ことしはちょうど60年。
「Kodachrome」Poul Simon♪
ロバート・キャパは、1938年の中国取材ですぐにコダクロームを使った。そのフィルムは紛失したらしい。今回50年以上前に撮ったロバート・キャパのカラー写真の写真展が開催される。そのどれもがコダクロームで撮影されいている。50年以上たってもまだその画像は美しい。僕もずいぶんと撮影した。しかし今では支持するカメラマンも少ないようだ。このカラー写真の歴史に燦然と輝いたフィルムについて、語りあってみたいと思います。
コダクロームを使っていた、そんなカメラマンは年齢が高いかもしれない。今の若い、コダクロームという素晴らしいフィルムを知らない、人たちのためにも、話を聞かせてください。
コメント、トラックバック、もしくは、BBS、もしくは僕にメールでもよいので、その印象、思い出など教えてください。個人的な思い出でも結構です。
「僕のコダクロームその1」
コダクロームの、開発秘話のサイト「カラーフィルムとブラームス」ケンさんのホームページ
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「僕のコダクロームーその3」

1970年代前半、ポールサイモンの歌に「僕のコダクローム」という曲があった。来月2月15日から20日まで、日本橋三越で、「キャパ・イン・カラー」という写真展が開催される。50年以上前、キャパが撮影した、コダクロームというカラーフィルムで撮影した写真展だ。まったく退色していない、世界最初のカラーフィルム。コダクロームは、僕の世代のカメラマンにとって、格別なフィルムだ。そんな話題の3回目。1回目はここをクリック。
友人である、写真家の赤城耕一氏が、トラックバックが文字化けするとのことで、コダクロームについてメールをくれた。以下赤城さんのメールより。

コダクロームII(ISO/ASA25,1961)→KⅡ
コダクロームプロフェッショナルタイプA(タングステンISO/ASA40,1961)→KPA
コダクロームX(ISO/ASA64,1962)
発売となってました。当時の東洋現像所の現像受付開始が63年みたいですね。それまでは海外に郵送現像してたとか。
改良版が出たのが74年でコダクローム25と64が登場してます。76年にコダクローム40(タングステンタイプ)が出ました。
で後にプロフェッショナルタイプとして、コダクローム64プロ(1984)とコダクローム25プロ(1985)が出てます。
ブローニーが出たのは1987年で、当方も発表当時の記憶ではみなさんもう4×5はイラナイとか言ってましたね。でも使ってみたところ、発表会のサンプルみたいな色が出なくて、失望した記憶あります。ポジを探してみたんですが、捨
てちゃってました。
同じ年にコダクローム200プロも出ましたが。当方は『アサヒグラフ』なぞの撮影取材でけっこう使いましたが、高感度ながらもメリハリのあるシャープネスがあって、重宝しました。
それで最後に1988年にコダクローム200プロが出て、その後新製品はないです。
現在東京では堀内のみ現像可能で、増感(+1/2,+1,+2の3種類のみ)も可能みたいです。これはステップがおおまかなんで、ちょっと辛いですね。
横木さんもおっしゃってましたけど、当方はじめてコマーシャル用のコダクロームの原判を見たとき、(たしか小西海彦さんの)向こうが見えないような真っ黒(という印象でした)だったのでびっくりした記憶あります。印刷で無理やり上げるということですが、けっこう勇気あるなーと感じました。
キャパと横木さんの話を読んでいたらもものすごく久しぶりにコダクロームが
使いたくなりました。買いに行ってきます。
(赤城耕一)

以下横木
東洋現像所でコダクロームの現像ができるまえは、香港、もしくはハワイでの現像だったとおもう。当然僕の時代は、すでに東洋現像だ。最初のコダクローム(ASA10)が、1935年、少しずつ改良されたのでしょうが、1961年というと、東京オリンピック前。このときにコダクロームⅡ(ASA25)が発売されたわけです。
僕より上のカメラマンたちは、きっと僕なんかよりずっと、KⅡにたいしておも入れがあったと思うし、使い倒していたのでしょう。コダクロームXは、僕は使ったことがありませんし、あったのかなあ。(そういえば、KXというのがあったような記憶がわずかにあるけど‥‥)
タングステンタイプのKPAは、何度か使ったけれど、僕はあまり好きになれませんでした。
KPAが好きなのは、昔僕のアシスタントをしていた、小野麻早というカメラマンがいましたが、彼は今でもこのフィルムを使っていると言ってたような気がします。
1974年に、コダクローム25、KMと64のKRが発売ですか。やはり、変わり目のときだったのでしょう。
ということは、僕はアシスタント時代がKⅡで、独立してからは、KRとKMを使っていたことになります。
84年PKRが発売され、きっとそのフィルムを使っていたとのでしょうが、遠い昔のことで、忘れました。この頃僕は、メインがブロニーサイズで、35mmはKRを使ってました。
その後は、前のブログに書きましたが、ベルビア、プロビアに以降して、コダクロームは忘れてしまいました。今ではなんおフィルムがあるのか、しらないような状態です。
赤城さんが、書いてましたが、コダクロームの超アンダーな、原稿というのは、ほんとうに伝説的ですが、本当に僕も驚きました。というのも、たしかにコダクロームは、アンダー気味の綺麗なフィルムですが、広告の原稿に使われた一部のカメラマンの原稿は、本当にライトテーブルでは、ただ真っ暗としかいえないような写真でした。しかしスライドプロジェクターにかけると、そして暗闇でみると、その光の階調の美しさ、ドラマチックさは、見たことのないものです。
僕はそんな極端なアンダーはありませんでした。それというのも、当時、広告の全盛時代、雑誌や写真集の印刷と違い、一点一点、分解し製版して印刷するので、とても自由度があったということでしょう。きっと、失敗から始まったと僕は睨んでますが。そうだとしても、そのアンダーのなかに、潜在している絵は、やはりコダクロームのものだったのでしょう。
ブロニーのコダクロームも僕はテストしたし、仕事でも少し使って、すぐにやめた記憶があります。

コダクロームについて、思い出があれば、個人的なことでもトラックバック、もしくはメールください。
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2005.01.23

CGと写真と遅い新年会

友人の、写真家HARUKIの家で、遅い新年会をする。大きなテーブルを囲み、約15人わけもなく騒ぐ。テーブルの上には、日本酒、ワイン、シェリー、焼酎、ビール、ジュース、他につまみ、焼き鳥、餃子、崎陽軒のシュウマイ、うに、ソーセージ、から揚げ、生ハムとチーズ、スペインのサラミ、サラダ等々、まだまだ食いきれない量。実はそのあと、なべでもしようと材料を買い込んでいたが、皆、つまみ等を持ち込んだので、なべまでたどりつけなかった。この様子は、「カメラまいにち」blogに紹介されると思うので、割愛。
そこで、HARUKIの先輩である、古賀信明氏に会う。彼は、日本のCG界の第一人者、特に映画や広告のスペシャルエフェクトを多く手がけている。最近の映画では、篠田正浩監督、スパイゾルゲの上海の昔の町並みを、CGで再現している。パンをしながら映し出され、そこに歩く人々が写っている。それこそ実写で撮ることは、不可能な場面だ。そういう彼の作品や、制作過程の紹介されたDVDを見せてもらった。
今や、ハリウッドの映画に限らず、再現できないものはない状況だ。しかし時間と金さえあればなんでもできわけではなく、たとえば水の表現は難しいという。
いろいろな話をしたが、お互い酔っていたので、話がかみ合ったかわからないが、話していて、GGの世界の問題点と、写真の問題点がどこか共通しているような気がした。
CGはすべてを外側から描く世界だ。同じ人間を描いても、例えば実写だったら、その役者の存在と演技で人に何かを訴える。しかしCGには、内面は存在していない。そこに命を吹き込むというか、アニメに心を吹き込む作業と同じように、人間の存在ではなく、存在しているように「見える」ことに力が注がれている。
そこには、日本のアニメーションの歴史と強く結びついている。例えば現在のディズニーのアニメは、実際の役者を素材にシミュレートして、表情などを写し取り、それをCGに再現する。ある意味とても、科学的な再現方法だ。
もちろんそのやり方は日本でも多く採用されているが、日本には違ったやりかたがある。それはアニメの手法だ。アニメはもっと動きを省略し、デフォルメしている。現実を克明に、写し取っても、リアルにはならない。そこには、デフォルメし省略ほうが、見る側にリアリティを感じさせる(というようなことを言っていたと思う)。日本のアニメ(例えばジブリ)とディズニーのアニメの大きな違いは、日本のアニメは伝統的な省略がある。観客は、動きのスムーズさに、感動するのではなく、表現された内容に感動するしリアリティを感じる。
そんな話を聞いていて、今の日本の写真界の主流である、あまりにも個人的な、内面主義の作品が幅を利かせるこの時代、半径数メートルの表現ばかりで、いいのかなと思えてくる。
日常の記録は重要だけれども、日常のなかから何を発見するかが、重要で、ただ日常や現実が表現されていても、だから何だと思う。
実際、荒木経惟氏の初期の写真、特に写真時代の頃の写真は、当時の広告や、多くの表現の主流だった、フィクションをテーマにするより、ずっと現実的な、なまなましいものを撮っていながら、それはまるでうそ臭い、偽者まるだしの写真に見えた。逆のアプローチだ。(広告写真とは、フィクションをいかに、本物らしく見せる作業だ。)
荒木は彼の日常を撮っていながら、決して、日常の再現をしていたわけじゃない。それは荒木経惟の見たものという、偽の現実を見せてくれたのだと思う。
ところが、今、荒木の子供たちの多くは、どこか、その日常を、その日常のまま提示して満足しているような気がする。
日常に暮らしたければ、日常に暮らせばいいだけの話だ。それを何も写真で再現する必要はないと思う。写真は日常を越えられるわけではない。それならば、なぜ日常をカメラで撮るのかといえば、肉眼では見えない、または経験することのない日常を、カメラという機械によって、異界としての日常を垣間見ることができるからだ。
‥‥見事なCGの偽世界を見せられて、この先さらにCGが進むと、果たし写真はどこにゆくのかと思う。現実を撮ることと、そこに再現された、映像、画像との差は、これからどんなふうになるのだろう。現に、合成された写真と、実写の差は、言われなければわからないようになってきた。北朝鮮の素朴の合成写真は、ただ稚拙なだけだ。
実は、もう境界線は限りなく薄くなっているし、重なりあっている。
そこには、実はという、「ことば」がなければ、わからないものになりつつあるのだろうか。
実際は荒木はそのために、かなりのことばを屈指した。荒木にことばがなければ、荒木の意図は伝わらなかったと思う。
さて、古賀の作品を見ていろいろ考えさせられたが、写真家である僕にとって、今考えられる、他のメディアとくらべて、唯一の写真の優位性は、一人でできて、しかも短時間でできるということしかないかもしれないということだ。
極端に言えば数万分の1秒でも完成させることができるということかもしれない。写真はスピードがすべてのメディアを凌駕するのだろう。もちろんテレビの生はもっと早いが、それは表現ではないからだ。たれ流しであり、選択をしていない。(それも表現のひとつともいえるが)
簡単に言えば、写真は、思いついたらすぐにできるということだろう。その断片を、重ねることによって、それが1年かかろうが、10年かかろうが、よいのだけれど、撮るという断片は、とてもカジュアルなメディアなのかもしれない。

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2005.01.15

「M7.3」-8子供たちのみたもの 阪神大震災10年

明後日、1月17日は、阪神淡路大震災から10年。
明日の夜神戸に行き、17日は、神戸の崩壊した高速道路の場所で、10年目を迎える予定。
そこからすぐに、このブログにアップしてみたい。実況というわけだ。
17日は一日、神戸で撮影する予定。
インタビュー集「M7.3、子供たちが見たもの」が完成した。日曜日には書店に並ぶと思う。是非ごらんください。
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M7.3 子供たちが見たもの のTOP

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2005.01.11

2005ロバート・キャパ写真展

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Robert Capa in Color 
「ロバート・キャパ写真展 ロバート・キャパインカラー」
1935年、世界で初めてのカラーフィルム、動画用(16mm)コダクロームが開発された。そして翌36年スチール用が発売される。ロバート・キャパは、その翌々年の1938年には中国取材で早速そのコダクロームフィルムを使用している。
当時の感度は、ISO(ASA)10ぐらい。しかしその性能は素晴らしかった。それは後に発売されるエクタクロームと違い外式という染料で、後から色をつけるものだった。耐久性に優れ、しかも50年以上も前に撮ったカラーフィルムだというのに、いまだに美しさが保たれている。そればかりか、その後に発売されるいかなるフィルムよりも素晴らしいものだった。後に現在普通に出回っている、内式のカラーフィルムが発売されたが、そのフィルムでもロバート・キャパは多くの写真を撮っている。しかし残念ながらほとんど画像が変色して使用に耐えなくなってしまった。
ロバート・キャパは、発売されてまもなくの、コダクロームフィルムで1938年の日中戦争を撮影した。その写真は、ライフに発表されたが、残念ながらポジは紛失している。
2002年、ロバート・キャパがコダクロームで撮った大量の写真が、ニューヨークマグナムから発見された。
そのキャパの撮った、初公開のカラー写真を軸に、今回展覧会が開催される。
内容は、発見された、イギリス、チュニジア、シシリーの戦争中の写真、そしてへミングウエイ親子、死の直前の日本滞在、それに最後の土地、インドシナで撮影したカラー写真が展示される。
他に15点のキャパの代表的なモノクロ写真も展示されるという。
そのほかキャパが撮影中着ていた従軍記者用軍服(?)も展示される予定だ。
当時、カラーフィルムは広告などでは多く使用されていたが、速報性の必要な報道写真(ルポルタージュ写真)では、メディアのカラー対応の遅れなどもあって、あまり発表されていなかった。それでもロバート・キャパは積極的にカラーフィルムを使用している。
ロバート・キャパ・イン・カラーのTopPageへ

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コダクロームとブラームス

キャパが撮ったカラー写真の写真展が、2月15日(火)から20日の日曜日まで開催される。
展示されるカラーフィルムのすべてがコダクロームだ。
コダクロームフィルム誕生は、1935年の16mm動画用から始まる。スチール用35mmのコダクロームは翌年の1936年から発売された。現在映画はネガフィルムを使う。使用するときは、写真で言えば印画紙に焼き付けるように、フィルムにプリントとして大量に複製する。
しかし開発された16mmのコダクロームはポジフィルムだ。ポジフィルムは基本的にオリジナルのフィルム自体を、編集して映写機にかけて見ることしかできない。(ポジポジで複製することはできる)基本的にはアマチュア用のフィルムといえる。しかしその鮮鋭度は、美しさは、一度プリントして使用するネガフィルムとは一線を引くものだ。(オリジナルをそのまま鑑賞するせいもある)。後にムービー用のコダクローム、8mmのようなアマチュア向けのフィルムとなる。
しかし、スチール写真は違う。そのまま印刷原稿にもなるからだ。だからスチール用のカラーフィルムとしては画期的であり、現在のフィルムと比べても遜色ない。おりしも35mmカメラ全盛時代、そして後に開発される、カラーフィルムをはるかに凌駕した性能だった。その後、コダクロームⅡ(ASA25)、コダクローム64(KM,KR)と進化(とも言えない、合理化か?)する。しかしその発色は後退し、失望したカメラマンが多かった。(現像時間が短くなった)
僕が写真を学んでいた頃から、フリーになってしばらくの間まで、35mmは、高感度のフィルム以外僕はコダクロームⅡしか使用しなかった。粒状性、カラー濃度は抜群で(デジタルで言えば高画素だということだ)、発色は落ち着いていた。いや、落ち着いていたというのは違う、濃厚だった。日本の冬の発色は不満があったが、ハワイやアメリカ、光線の強い場所でのその色は、今のフィルムにはない素晴らしいものだった。面白いことに、ヨーロッパでは、あまりこのフィルムは人気がなかった。日本の冬と同じように、光が弱く、強烈な発色をしないせいだろう、ファッションカメラマンの多くは発色の派手な、エクタクローム(内式のE6現像は公開され、普通のプロラボで現像できた)を使用していた。
コダクロームは発色が地味だというのでは決してない。濃厚なのだ。
特にルーペで覗くと、エクタクロームとコダクロームは別世界だった。
当時僕は、サイズの大きいカメラ、6x6、6x7、4x5、8x10は、エックタ系の、EPR、エクタクロームプロフェッショナルを使用していた。K2は後にKM、KRと感度の高いものに変わってゆく。残念ながらコダクローム2を知っている僕にとって、ものたりないものだった。また、発色が安定せず、よい乳剤番号を手に入れるのが大変だった。35mmしかなかったコダクロームもブロニーサイズが発売され、増減感も可能になったが、結局成功しなかった。
そんなおり、幾たびか富士フィルムの挑戦が続き、ついに、コダクロームなみの粒状性を持った(E6現像)のベルビア、プロビアが発売された。そしてしだいに世界最初のカラーフィルム、コダクロームは衰退していった。それこそこの10年ぐらいの話だ。
ところで、コダクロームは外式といって、内式のエクタクローム系、ベルビアもプロビアも、現在のほとんどのポジカラーフィルムとは違う。簡単に言えば内式とは、発色乳剤がフィルムに塗られているものであり、コダクロームのような外式は、フィルム自体には、カラー発色乳剤が塗布されてはなく、後で染色するやりかただ。
ただ公開され設備の簡単な、内式の現像とは違い、外式の現像はコダックの特別な設備が必要だった。
ある意味コダクローム全盛時代は、コダックの寡占状態だったわけだ。かの東洋現像所でしかできなかった。時間もかかった。なによりも、印刷特性とマッチして、ある意味、完成されたフィルムだった。
ところで、このフィルムの発明には、なぜか音楽家ブラームスがかかわっているという、ItoKenji氏の「A Plaza of Cara Schumann」という素晴らしいウエッブサイトがある。是非それを読んで欲しい。なにしろ、コダクローム発明秘話がこんなに詳しく載っているサイトは見たことがない。脱帽。
※ItoKenjiさんにリンクした件を事後報告したところ、音楽と写真の巨大なサイトがありました。
音楽のページのトップ
写真のページのトップ
※映画の用のフィルムの記述は正確ではないかもしれない。
日本のカラーフィルム歴史はここをクリック
映画のフィルム

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2005.01.01

ロバート・キャパ写真展2005

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マグナム・フォト東京支社 2005年、年賀状

2005年2月15日から20日まで、日本橋三越にてロバート・キャパの写真展「キャパ・イン・カラー」が開催される。キャパは、当時開発されたカラー写真を積極的に取り入れ撮影している。ブレッソンのようにカラー写真は撮らないということはなかった。キャパはカラー写真の可能性を知っていた。しかしキャパのカラー写真はあまり多く発表されていない。ニュース写真としては速報性がなく、まだ価値を認められなかったのかもしれないし、メディアがまだカラーに対応していなかったのかもしれない。いや、あまり現実的に移りすぎるので、モノクロより芸術性がないと思われていたという考えもある。特にキャパが死んでからは、ルポルタージュカメラマンという面だけではなく、芸術家のとしてもキャパを評価する上でカラーは、カラー写真は「キャパのレベル」に達していないと評価したのかもしれない。キャパの有名なカラー写真は、ベトナムで死ぬ直前に撮った、最後の写真だけだった。今回大量に発見された、未公開のカラー写真を展示するという。興味深い。

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2004.12.28

中野のトキノン

fakeoff昨日の夕方、英知出版のキッスイ編集長、田中信一と神楽坂で焼肉を食いながら飲んだ。彼とは、彼がデラベッピン編集長時代、いやビデオボーイ編集長時代に(彼は28歳で編集長だった)仕事をした。一番の楽しい仕事はFakeOffという単発の別冊を一冊作ったことだった。その後、編集の山田くんと合流した。10時ごろ、田中編集長は、六本木へ、僕と山田君は、柊君の待つ中野にゆく。そこにカメラとんかつ屋、「tokinon 50 f1.4」があるという。写真雑誌Capaにも紹介されている。柊君は、某、労働組合の記者であり、カメラマンでもある。彼は全国を飛び回り、食べ物屋にかぎらず、何でも知っている。そこに元英知編集者、今は新婚でエディトリアルデザインをしている、中野在住の大駒君が合流。とんかつ、牡蠣フライ、餃子、さきイカを食べる。1時過ぎまでいて、解散。柊君が、カラオケに行こうといい、男二人で?と思ったが、3000円歩っきりのキャバクラみたいなカラオケで、へーと思ったが、満員で断念。中野、恐るべき町だ。楽しそう。昭和が生きている。

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流行通信

ryukotsushin01
流行通信、2005年2月号、500号記念号で、僕が撮った写真が、小さいけど紹介されている。1977年1月撮影

1975年9月にフリーになり、翌年の春、週刊プレイボーイに載った、当時の女性ロックグループ、ランナウエーズの写真を見て、助手の頃、一緒にインドに行った、横尾忠則さんから、着物のカレンダーをやらないかと、誘われた。横尾さんが、三宅一生のテキスタイルデザインをやった時だった。
sayoko01
Canon F1 MF FD24mmF2.8 kodachrom2 ISO25 サンパック3400正確に言えばそれが最初の僕が撮ったファッション写真だ。その写真やグラビアで撮ったタレントの写真を携え、渋谷にあった流行通信の編集部に1976年の暮れ売り込みにいった。編集長?だった林さんがすぐに気にいってくれて、翌月号から使ってくれた。その最初の写真6pのなかのいちまいが三宅一生さんの服を撮った、一番上の写真だ。
sayoko02当時僕は、ファッションならば、日中シンクロだと思っていた。そのちょっとした非日常性と、服がはっきり映ることの両立だった。特別新しい手法ではないが、動きのあるものをブレないように撮るにはうってつけだった。しかし難点は、ちいさなストロボ、それも60分の1秒しかシンクロのついていない35mmカメラで撮るには朝や夕方しか撮れないことだ。500分の1秒までシンクロできる八セルブラッドは、大掛かりになる。なにしろ僕はCanonF1に、サンパックの積層ストロボをつけて、絞りもいいところ、f5.6ぐらいでオートで撮っていた。
流行通信の写真も、小夜子のカレンダーの写真も同じ手法だ。
昼間の日中シンクロには、バルカーのような大型ストロボが必要だ。初めての流行通信の撮影の時、雑誌は一日で4カットとる必要があり、しかたなく発電機とバルカーを持ち込み撮影した。背景は少し暗くなったが、あんまり僕は気に入らなかった。それより、ケイ便な35mmで撮った写真がやはり好みだった。
その頃のテクニックをおもいだしてみると、絞りはF4、レンズは24mmF2.8、コダクローム2、ISO25だったような気がする。サンパックのような携帯ストロボ、ガイドナンバーも25ぐらいだったろうか、積層でチャージタイム0で連射できた。ただコンパクトストロボの光は、青く、それに朝や夕方の撮影のため、CC10Rフィルターをかけていた。そのうえから、さらにシルクの黒いストッキング(紗)をかけた。そのころの僕は、なんでもかんでも黒いごくうすシルクのストッキングをかけて、取ることが多かった。それは、レンズの切れのよすぎがすきではなく、画像のトーンをそろえるためだった。しかしそのやりかた、広告をするようになって、紗をつかうことをやめた。雑誌と違い、広告では印刷コントロールでどうにでもなることを知ったからだ。
その後流行通信は、何年かやり、当時はファッション写真ばかり撮っていたが、しだいに広告に移り、そしてその後、ふたたびタレントの写真を多く撮るようになって、ファッションカメラマンとは言えなくなっていった。
僕は、Nude写真と、ファッション写真が好きだ。ファッション写真とはNUDE写真も含まれていると思っている。ファッションは裸の肉体を包み込むもの。どちらかにかたよってもつまらないからだ。それに写真が逃れることのできない「時代性」、「肉体という普遍性」、「モデル個人という一回性(存在としての個人)」が、一番写真にとってダイナミックな場所だからだ。


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2004.12.23

ベトナムのモデル2 身長174センチ

身長174センチのモデルは、ベトナムではとても大きいほうだ。たいていベトナムのモデルは165センチから170センチぐらいしかない。
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タイン・ハンの大きな写真

2002年4月27日
朝6時に起きて、6時半出発。先日ミトウに行ってもらった、タイン・ハンが行っている、総合大学の中にある大学受験のための予備校のようなところに行く。授業を受ける様子の撮影。終わったら友達二人も同行してくれることになる。バスでヘアメイクの店に、アオザイをピックアップ。その後、サイゴンでファッションデザインをやりながら、カフェバーも経営している沢村たかゆき氏の店で撮影。彼は一週間前ぐらいに開かれた、ベトナムファッショウイークに参加していた。新聞にも彼の記事が紹介されていた。そこでミトウに行ったときに来たアオザイをもう一度着てもらう。彼女はまだ撮影に慣れていない。どちらかというと、動き回っているほが綺麗だ。その後、韓国資本の、ダイヤモンドプラザにある、ダイヤモンドデパートで、やはり友達3人と一緒撮影した。ちょうど階上の映画館がオープンしたとあって、デパートの入り口はいつにもまして混雑していた。化粧品売り場には資生堂やコーセーも、入っていた。日本のデパートの1Fの化粧品売り場と同じような雰囲気だ。エスカレーターで6階のゲームセンターやボーリング場、プールバーがあるフロアで撮影。その後、皆でイーボーという台湾料理屋で食事をした。週末だからだろうか、いつもはない点心‥‥飲茶があった。外務省のTさんが全てオーダーしてくれた。全員で11人。ふかひれスープ、クンシンサイ、ナスとひき肉の炒め物、マーボー豆腐、大根もち、えーと名前を忘れた、軟らかい米の皮で巻いた海老、よく飲茶ででるやつだ、それのビーフ、それで全部かな、ビールとジュースと最後にデザート、合計約9000円。ずいぶん安いと思った。

食後一回ホテルに戻り、2時にタイン・ハンさんの家に行く。彼女は2001年、PhuNuという雑誌のモデルコンテストで優勝した。賞金は50,000,000ドン、日本円にして約45万円だ。価値としては600万から800万もあろうか
thanhhangshop

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ベトナム女優

ベトナムの映画監督、レ・ホアン監督の「ダンシングガール」に出ていた、女優。ちょっと名前紛失。そのうち見つける。この映画は、ミ・ズエンもでていた。
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モデルや女優を撮るとき、演出くさくならないように気をつけている。カメラの前というより、「視線の前」の瞬間を捕らえたいと思っている。ちょっとした偶然を取り入れることが、リアルさを呼び込む。
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2004.12.21

ベトナムのモデル

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ちょっとわけあり、かつてデジタルで撮った、ベトナムの写真を選んでいる。そこで、僕が一番ベトナムで気に入っているベトナムのモデルの写真がでてきた。名前はヴァン・クインちゃん16歳。(当時現在18歳)
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彼女は、まだ高校生モデルだ。あまりプロ意識があるとは思えない。かつてベトナムのモデルは、ミスコンテスト出身者がほとんどだった。だから美しいだけではなく、勉強もできるし、家柄もよかったりした。ところが、ニューウエーブ、ヴァンちゃんは、しっかり撮影に6時間遅れてきた。しかも、ホーチミン市からチャウドックまで、約バスで5時間かかるロケ地にゆくてはずだった。朝6時集合、7時になってもやってこない。電話してもつながらない。もちろん携帯の番号にもかけている。コーディネイターのチュンさんに、段取りの悪さをクレームする。二人のモデルを撮るつもりだったので一人だけ乗せて、出発。チュンさんには彼女に変わるモデルを探して連れてくる段取りを取ってもらう。10時ごろ、新しいモデルを見つけたと連絡が来たやさき、ヴァンちゃんと連絡が取れたという。寝坊。けろっとしているという。チュンさんはかんかんに怒っているが、柳に風。チュンさんは新しく段取りしたモデルにしたいというが、ヴァンちゃんは僕がファッション誌からみつけて気に入っていたので、彼女をやはりつれてきて欲しいと伝える。しぶしぶチュンさんは、段取りした新しいモデルをキャンセルして、夕方チャウドックに連れてきた。
あってもあやまるでもない。でも可愛くて憎めない。にこにこしている。彼女は携帯のメールを時間さえあればやっている。何をやってるのときくと、今チャウドクに来ていると友達に送ったという。明日の夜の約束。レストランで大勢で食事。あーまるで日本の子といっしょだ。チュンさんは、こういうモデルは使いたくないという。でも、いいんだよ。だからかわいいんだと、僕は言った。ヴェトナムのモデルはいい子が多いので、新人類(ふるいことば)は、新鮮だった。
でも感覚も、スタイルもよく、日本だったら人気がでるな、いやいやベトナムでもかなり人気らしいが、こんな調子だからいつもでモデルをやっているかわからない。もうやめてしまったろうか。
ちなみに彼女は、友達の紹介でモデルになったという。将来はの夢は。「うーんわからない」「今日のことしかかんがえていない」とは、さてさて、といったところか。


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2004.12.17

一ノ瀬泰造戦場より愛をこめて!

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一ノ瀬泰造のお母さん、信子さんから新作、「一ノ瀬泰造戦場より愛を込めて!」が届いた。紫色の横長の分厚いコンパクトな写真集。泰造がカンボジアで行方不明になった1977年、日本の外務省からフィルムが梱包された荷物が届いた。白黒フィルム376本、カラーフィルム45本、キックボクシングを撮った6本、使用残のカラーフィルム54本。
――私はこの時の感激を一生忘れないだろう。当時の私の日記をみると、この日から3日間空白になっている。何しろ、それからというものはネガを光に透かしてながめて終日過ごしているのだから。――(一ノ瀬信子)
まだそのときは、泰造の死を信子さんは確認していない。そのときの興奮が、いっさつにまとまっているのが本書だ。モノクロのコンタクトプリンと再現した写真と、あらたに発表する、その隙間に存在していた多くの写真。
キャパのコンタクトプリントが興味深かったように、やはり一ノ瀬のコンタクトも、一枚の写真とは違ったメッセージがある。写真とはなんと不思議なものなのだろう。一ノ瀬の全部のコンタクトプリントをみてみたくなった。もちろん一ノ瀬は戦争カメラマンだけれども、戦闘ではない、平和の時間の一ノ瀬の写真もやはり魅力的だ。1973年3月3日のサイゴン動物園での白いアオザイ姿の女学生たちのスナップ。たしかカラーで撮った、ずぶぬれの、そして下着の透けた写真を一ノ瀬は撮っている。僕はあの写真が大好きだった。そして今回その前後の写真が発表されている。そして恋人だろうか、レ・フォンを撮った幾つかの写真。みているとなんか胸がジンとしてしまう。今彼女はどこにいるのだろうか。
サイゴン、戦争博物館に、ベトナム戦争で活躍した多くカメラマンの作品とポートレイトが展示してある。そこにひときは目立つ、銃弾の貫通したニコンFの写真がある。それこそ一ノ瀬泰造のカメラだ。本当に不思議だ。いとも美しくニコンはひしゃげている。そしてこのときは、一ノ瀬は死ななかった。
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2004.12.14

ベトナム、サイゴンにいる

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なぜか、ベトナム2泊4日の取材中、ホーチミン市にいる。今回のホテルはソフィテル・プラザ・サイゴンだ。旧大統領官邸とサイゴン動物園を結んだ途中、アメリカ大使館のはす向かいにある。このホテルに泊まるのは初めてだ。部屋は可もなく不可もなく。ただ中心街からは少し離れている。今回ベトナムを訪れて10年、初めて市内観光をした。なかでも大統領官邸は、始めてきた95年に一度一階部分をみただけで、もしかしたら当時はなかの見学コースがなかったのかもしれないが、今回初めてじっくり説明を受けながら見学した。表から見る印象より、ずっとモダンなインテリアだった。始めてくる人は是非見るとよい。その後、教会、郵便局、そして戦争博物館に行った。以前みたときとはすっかり変わって、展示物がかなり充実した。そこに、沢田教一、一ノ瀬泰造、石川文洋、そしてキャパの写真が展示してあった。あまり展示の状態は感心しないが、それでも一同にインドシナ戦争、ベトナム戦争の報道写真が並んでる様子は壮観だった。やはり、ベトナムのは雑貨をかいあさるだけではなく、ベトナムの歴史も知る必要あると思った。ベトナムは、中国の属国としての支配、独立、封建制、植民地、フランスの支配、日本支配、南北分裂、社会主義、自由主義、統一、開放制作、なんといっても戦争、戦争、とこんなにも激動の時代をくぐりぬけた国が他にあるだろうか。

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2004.12.07

Robert Capaのアングル

キャパの写真を見ていて、いつも感じることだが、そのアングルの低さだ。それはたぶんキャパの写真の多くが、ローライフレックスを使用していて、そのウエストレベルのアングルが基本だからだろう。キャパは子供を撮るときは当然として、少しでも余裕のあるときは、腰のアングルだ。ローライのような二眼レフカメラの、ウエストレベルアングルは自然でも、35mmカメラは通常、アイレベル(立った状態の目の高さ)になる。撮影中のキャパや、残された記事には、キャパがすばやく、片ひざをつくアングルになり、安定した状態で撮影することが多いと書いてある。それは、あたかも、銃を撃つときの、ニーイング、と同じだ。戦場カメラマンであるキャパは、銃を撃つそのスタイルを当然のように受け入れていたのだろうか。それとも戦場では呆然と立って、構えることは危険だから、普段から片膝で構えるのが普通なのだろうか。キャパはたいてい右ひざをついて構える。だからキャパのズボンは右のほうが膝がでていてよれている。キャパの写真がどこか、対象と同じ位置に立っているように見えるのは、キャパのアングルが低いせいだろう。同じスナップの名手ブレッソンは、自分の目の位置、アイレベルから多くの傑作を作り出していた。
カメラのアングルはそれぞれ意味がある。ように見える。35mmカメラを使えばたいてい、アイレベルだからその身長に規定される。背の高いカメラマンと低いカメラマンでは捕らえる世界が違う。車椅子のカメラマン、短躯、普通、長身、巨人。それぞれ捕らえる、世界の関係性が違っている。昔ある著名なカメラマンが、高さ10センチもあるロンドンブーツが流行し、それをはいたとき世界が変わったといった。それほどアングルとは、カメラマンの一つの思想でもあるのだ。政治家だったら見上げるように撮る。そうすると偉い人、信用に足るように写るからだ。女性を可愛く撮るには、上から撮る。女性はカメラを見上げるようになる。目は大きく開き、かわいらしく従順に写る。女性を撮るばあいファッション写真は下から撮ることが多い。女性が世界を支配するよう、フェミニズムな感じがする。子供撮ればわかりやすが、大人からの目、子供の目の位置、子供より低いアングル。そのどれもが同じ子供でも、違って捕らえることができる。
キャパが、低いアングルをいつもえらんでいるのは、きっと無意識ではないのだろう。キャパのコンタクトプリント、それも最後のモノクロの1ロールを見ると、なぜわざわざ低いアングルから撮ったのかの、わからいない写真がある。アイレベルで撮ってもかわらないと思えるのに、きっと何かしらの意図があるのだろう。いや、きっとキャパは通常は、片膝をついた、ウエストレベルのアングルが、ごく普通のアングルなのだろう。何も考えなければ、すぐに片膝ついてとるのかもしれない。
同じ文章をキャパのBlogにも書いた。

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2004.12.06

節穴写真機

来年1月17日に発売される、「M7.3」子供たちの見たもの、阪神大震災10年の本の撮影のため、神戸に行っていた。神戸には大学の友人の北畠君と、そうださんがいる。写真は10年前の僕のものと、今回約30人、16歳から19歳までの少年、少女を載せる。インタビューは、そうださんや編集者がした。撮影するだけで彼らの話を聞くことはほとんどなかったので、完成した本にどんなインタビューがついているのか、楽しみだ。彼らは当時まだ、6歳から9歳まだ地震の本当の意味もわからなかったろう。言葉もなく大人から質問を受けることも少なかったろう。彼はまだ社会性のなかでもまれる前のできごとだ。彼らの五感は、どんなことを感じていたのだろう。そして今、あの出来事が、こどもから大人に変わる分岐点でどんなやくわり、影響をあたえているのだろう。いろいろな若者を撮影した。皆とてもきちんとしている。(なかには、どうしようもないのもいたけれど)当然紹介してもらう子にはずれはいない。やはりそればかりではつまらないと思い、三宮でキャッチをする。するのは、カメラマンでもあるY君。彼は外国生活もあり、将来はバックパッカーで旅をしながら世界を回りたいと話していた。彼は、バイトで水商売もしている。「さあ、やりますか!」「ついていっていい?」「え、ちょっとひとりで」。待つこと1時間は、やはり金曜日の午後3時に、高校生、16から19歳ぐらいは少ない。これぞと声をかけても、神戸出身ではない。三宮は観光地だ。途中ぼくと合流。次第に学生が増えてきた。僕の目の前で、Y君はてらいもなく、すぐに声をかける。かなりのプロだ。彼のやさしい話し方、でも、水商売のキャッチより難しいという。この際制服すがたでもかまわないことにした。その日の収穫8人。実際はもっと可能だが、インタビューの時間もあるので、これ以上は無理だった。でもやはり女の子はついついかわいい子になってしまう。夜、神戸の夜、食事と酒を満喫。神戸はいつ来ても、安くておいしいところがある。カジュアルで美味。
北畠君が、数日前に書いた、節穴からすりガラスに映った、ピンホールカメラ、カメラオブスキュラの話、自分も子供の時から知っていたという。台風の日、昼間から雨戸を閉めると、白いカーテンにその像が写る。それもカラーで。今でこそ、カラー写真はきれいだけれど、僕の子供のころ、カラー写真は特別なもので、目にする機会も少なかった。カーテンに写った総天然色の風景、その発色は今でも脳裏にやきついているという。やっぱり、針穴写真機の原理は、日常にありふれていたんだと思う。そこで、これから、針穴写真機、ピンホールカメラではなく、これからは節穴写真機なるもので写真を撮るのも面白いだろうということになった。
「M7.3子供たちが見たもの」

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2004.11.29

ロバート・キャパとサイゴン 1

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1925年建設された、サイゴン(現在のホーチミン市)の歴史的なホテル、マジェスティクホテルは、例えば日本人で言えば開高拳や、写真家の沢田教一など多くのジャーナリストや作家が宿泊し、屋上のバーに集った有名なホテルだ。
僕が初めてベトナムを訪れた1994年は改修中で泊まることができなかったが、翌年1995年には念願かなって宿泊した。館内で何度も撮影をしているが、年々、サイゴン川の大型船の往来や(特に深夜)、バイクや車の騒音で、何日も連泊すると、うるさくて眠れない状態が続き、最近は宿泊することがなくなっていた。
ところが、この有名なマジェスティクホテルに、ロバート・キャパも泊まっていたという事実を僕は突き止めた。
1954年4月、キャパは毎日新聞社、カメラ毎日創刊の招待イベントとして日本に滞在していた。日本各地を撮影するといったかなり自由な、そして歓待された旅だった。それは約6週間の充実した撮影旅行の予定だった。
ところが、旅の半ばの4月28日、アメリカのグラフ雑誌ライフより、同じ東洋の戦場、フランス植民地だったベトナムの取材を急遽依頼された。キャパは悩む。しかし結局インドシナ、ベトナムに5月1日旅立つことになる。
キャパはまずバンコクに向かう。この辺のくわしいことは、「ロバート・キャパ最期の日」を読んでもらうとして、僕はそれまでの定説だった、キャパの伝記に書かれている、東京からバンコクに向かい、そこでベトナム入国のビザを取るために1週間以上もバンコクで足止めをくらったと書いてあることにつねづね疑問を感じていた。バンコクから直接ハノイに、ディエンビエンフー陥落の翌日、5月9日にハノイに到着したと書かれているのだ。
たしかにキャパは、バンコクのオリエンタルホテルから母ユリアに手紙を書いている。そこから9日、ハノイに到着して、マグナムに連絡するまでの約10日間、いったいキャパは何をしていたのだろうかという疑問だった。ベトナム北部デルタ地帯や、ディエンビエンフーは戦闘状態だとしても、タイのバンコクからフランス内独立国カンボジア、そしてサイゴンまでならば陸路だって移動可能だ。それなのに一週間以上も、バンコクにキャパが滞在した根拠はなんなのだろうか。日本の滞在中のイベント満載のハードのスケジュールに疲れて、バンコクでのんびりとビザが発行されるのを待っていたとでもいうのだろうか。この一週間を僕はずっと幻のバンコク滞在と位置づけていた。どうかんがえたってミステリーだ。
しかしある日それが氷解した。「ロバート・キャパ最期の日」のゲラ校正をしているとき、インドシナにおける、キャパの約40本のコンタクトプリントを見る機会があったのだ。そしてそこに、一葉の特別なコンタクトプリントをみつけた。それは、絶対にハノイでは撮ることのできない景色、サイゴンを知っている人間だったら容易に発見することができる景色だ。そのコンタクトの約30コマの写真のなかに、あきらかにサイゴン川を高いビルの位置から撮影している写真があったからだ。さらにくわしくみると、ドンコイ通り(カティナ通り)から、遠くにコンチネンタルホテルが写っている写真を発見した。サイゴン川を撮るアングルには、マジェスティクホテルがある。ロバート・キャパは室内でも撮影している。床のタイルは、現在はまったく失われているが、かつてはマジェスティックの床の模様だ。
続きは、ロバート・キャパ最期の日、ブログ

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2004.11.17

うまい写真家、へたな写真家

昨日の夜、恵比寿で、写真関係者4人で飲んだ。僕Yと、40代写真家H氏、40代写真家A氏、30代写真評論家T氏。それぞれ活躍中の面々。僕は8時ごろから参加。すでに皆出来上がっている。H氏は、飲むとますます明るく辛らつ。A氏は、多くの著作のある独身。長年つきあいのある美しいガールフレンドがいる。きちんと合うのは2度目。ちゃんと話すのは初めて。そして、子供ができてからすっかり子供好きになった写真評論家。酔って、写真のうまい下手論争。主に私YとHで議論。最近の若いカメラマンは全員、へたくそだという結論。でもうまいからいって、うまくゆくわけじゃない。へたなほうがよかったりする。でもHは下手なカメラマンは嫌いだという。キャパがうまいかへたか。ブレッソンがうまいのか。土門拳はうまくて、木村伊兵衛は、へたか。Yは、キャパはけっして写真が下手だとおもわないという。ブレッソンよりもうまいと信じている。うまいとは美術的であるのか。いや違う。A氏はキャパよりブレッソンがうまい派。でもエルスケンはうまいと思う。皆好きだという。かんかんがくがく。
さて、ここからは僕の意見。今のカメラマンは、写真を一枚で見せることにさほど興味があるように思えない。一枚の写真で勝負するには、写真はうまい必要がある。しかし、何枚かの写真、多くの写真で見せて、表現するには、うまい写真なんてないほうが伝わる。キャパとブレッソン、ブレッソンはやはりうまいのかもしれない。でも美的で何かが伝わらない。おどろき、感嘆。でもキャパの写真は伝わる。うんそうだろうか。キャパは、撮っている期間が短いのでコンタクトプリントほどではないけれど、かなり多くの写真が発表されている。たしかにへたくそな写真もある。でもそのすべてがキャパだ。ブレッソンはコンタクトプリントを見せない。遺言でもいっていたらしい。傑作の前後の写真。それは教えない。自分が選んだ写真だけが、ブレッソンの写真だ。それにひきかえ、キャパは、だいたい、最近キャパの撮ったカラー写真が発掘され発表されたが、どれもつまらない。でもそれは、かたっぱしから見せるからそうみえるだけで、選んだ写真を見せれば、へたではない写真もあるだろう。いや、キャパは撮りまくる写真家なのかもしれない。
構図を待っていない。傑作をまっていない。主義主張もない。ただ、目の前の出来事に反応しているだけだ。シャッターを押す、一こま一こまは、指の体操かもしれない。ごく軽い刺激でシャッターを切る。だからこそそこに突発的に飛び込んできたもへ、反応できる。その写真を撮るための準備なのだ。‥‥。そうおもいながら、そんなのどのカメラマンもそうではないか。いや、大型カメラを使えば、そんなことはないなどと‥‥。どこで撮るかセットしなければならない。そこにはなかなか偶然性は飛び込んでこない。
さて最近の写真の傾向は、皆荒木さんの影響下にある。写真をみると、ついことばを重ねたくなる。そこがかつての写真家と違うところだ。たくさんの写真をみせるやりかたは、映像のようでもある。写真で映像をやっているみたいだ。
そこには、一枚一枚の写真は解体される。全体で言葉にならないなにかを表現している。
さて、僕のような一枚の写真に興味のある写真家は、多くの写真をならべても、ボリュームとしては何かことばにならないことをいっているようで、実は何も語っていない。いや語ることを拒否したくなる。みたまま、なんだかわからなくていいじゃないか、とさえ思えてくる。主題はない。主題は、僕が撮っているというだけのことである。いいすぎだろうか。

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2004.11.14

撮られる写真家、撮る写真家

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キャパの本を出してから、インタビューなどで写真を撮られることがふえた。たいていは僕よりずっと若いカメラマンでやはり、同業者を撮るのは緊張するらしい。なにか見透かされるような気がするのだろうか。ただ実は僕のほうが緊張しているので(少し)なしにしろ、写真を撮られるのは、あまり好きではないからだ。幼児のときには、カメラから逃げ回っていた。それがいつのまにか撮るという職業になっている。ところが、こうやって撮られる側になると、撮られるほうの気持がよくわかり、いいべんきょうでもある。料理のようにさっととって、うまく写ればよいけど、とおりいっぺんの撮り方だとつまらない。結果しつこくなる。被写体に気をつかう。一ぽう、僕はどう動けばよいのかわかっているけど、何か演じているようで照れくさい。このところ、何人のかのカメラマンを、撮影中、逆撮影している。カメラマンだから、カメラを持っているのが自然だからだ。僕がとる場合、ファインダーを覗かない。ノーファインダーだ。タムロンの28-75mmのズームを少し望遠よりにしたり、ワイドのままにしたりして撮る。撮る側を撮るって、かなり面白い。ちょっと機会があれば続けようと思っている。
Photographaer Shinjo by Alao Yokogi

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2004.11.12

デジで本

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デジで本(デジタルカメラで作る本格的な写真集)という、HOW TO 本の表紙ができました。
まだ、これは完成系ではありません。手直しが入ると思います。この本の、プログもつくります。発売は12月中旬の予定です。

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2004.11.10

The Eye Forgetについて

このブログの、「The Eye forget 」とは、ロバート・キャパが、1954年4月、日本に滞在したおり、日本は「ピクトリアル・パラダイスだ」(写真の天国)と叫び、「TheEyeForget」という、タイトルの写真集をつくりたいと言ったことから、取っている。

残念ながらキャパは、日本での取材の途中仏領インドシナ(現在のベトナム)に行き、1954年(昭和29年)5月25日、フランス軍に従軍して、ベトナム北部、ハノイ南東80キロ、ナムディンからタイビンに向かい、ドアイタンの要塞から、タンネ(現在のキエンスオン)の前哨基地に向かう途中、左に曲がった堤防にのぼり、地雷を踏んで死んでしまった。
結局、日本での写真集、「TheEyeForget」は作られることはなかった。

このプログは、いままであった横木安良夫のサイトのDigtalDaybyDayの続きとして移行する。
ただ、今までよりは少し内容を、考えて書くようにする。今のところコラムのようなものにしようと思っている。

「ロバート・キャパ最期の日」(東京書籍)について、のブログは別に作る。「ロバート・キャパ最期の日ブログ日記

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